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七人のヤンデレが融合して転生した結果、氷の姫になりましたが、愛する彼の前では恋愛ポンコツです  作者: 虹の箸


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2/9

氷の姫は、恩人をお茶に誘いたい

王都の中心に広大な敷地を構えるエーデルシュタイン伯爵邸。その一室では、朝の柔らかな日差しを浴びながら、ルナティアが鏡台の前で小さなため息をついていた。


銀糸のように滑らかな髪を梳く侍女の手つきは、今日も申し分ない。普段なら、髪を結い終えればそれで支度は済むはずだった。


ところが、今日は違った。


「……この銀細工の髪飾り、少し派手ではないかしら」


「いいえ、お嬢様。お美しい銀髪によくお似合いでございますよ」


「そう。では、こちらの青いリボンは?」


「そちらも素敵でございます。学園の制服にもよく映えるかと」


「……そうね」


ルナティアは鏡に映る自分をじっと見つめた。


銀細工の髪飾りは、伯爵令嬢らしい品格を引き立ててくれる。一方、青いリボンは少し控えめで、年相応の柔らかさがあった。


どちらがよいのだろう。


もし、あの方がご覧になったら。


(……どちらを、お好みになるのかしら)


そこまで考えて、ルナティアは自分の思考に気づいた。


そもそも、今日その人に会える保証など、どこにもないというのに。


「……やはり、青いリボンにするわ」


「かしこまりました」


侍女は手際よく髪飾りを付け替えながら、鏡越しに主人の様子を窺った。


普段のルナティアは、身だしなみ一つにも迷いを見せない。どのような場に出席する場合でも、相応しい装いを即座に選び、支度を済ませてしまう。


それが今日は、髪飾りを決めるだけで随分と時間がかかっている。


しかも、先ほどから何度も鏡を覗き込み、前髪の流れやリボンの位置を確かめているのだ。


理由は、ルナティア自身が一番よく分かっていた。


(もし、今日あの方にお会いできたら……)


数日前、王都の裏路地で起きた襲撃事件。


そのとき自分を助けてくれた、栗色の髪と琥珀色の瞳を持つ青年。


彼こそ、ルナティアが長い年月をかけて探し求めていた人だった。


かつて、七人の少女が一人の青年を愛し、その自由を奪おうとした。七人の行き過ぎた愛情に追い詰められた青年は、逃げようとして交通事故に遭い、命を落とした。


その後、それぞれの生涯を終えた七人の魂は、神によって一つに融合し、この世界へ転生した。


それが今のルナティアである。


七人の記憶も、愛情も、後悔も、すべてを自分自身のものとして受け継いだ彼女にとって、青年との再会は何にも代えがたい奇跡だった。


もっとも、その奇跡は、少々情けない結末を迎えている。


(……結局、お名前も伺えなかったのよね)


思い出すだけで、胸の奥がきゅっと縮こまった。


あれほど伝えたいことがあったのに、再会の衝撃と罪悪感で頭が真っ白になり、お礼の一言すら言えなかったのだ。


王都で「氷の姫」と呼ばれる自分が、たった一人の青年を前にしただけで、まともに口を開けなくなるとは。


(……次こそは、必ず)


ルナティアは鏡に映る自分に向かって、小さく頷いた。


事件後、彼女は衛兵を通じて恩人の身元を確認しようとした。


幸い、現場に居合わせた青年が事情聴取を受けたことは分かっている。しかし、襲撃事件は現在も捜査中であり、証言者の詳しい身元については、正式な照会の返答を待つことになっていた。


伯爵家の権威を使えば、もっと早く調べる方法もあるのかもしれない。


実際、その気になれば彼の名前も、住まいも、家族構成も、普段どこへ出かけるのかさえ調べられるだろう。


(……知りたい)


彼のことなら、何もかも。


今の彼がどんな家族に囲まれて育ち、何を好み、どんな未来を思い描いているのか。できることなら、朝起きてから夜眠るまで、どのような一日を過ごしているのかさえ知っておきたい。


そこまで考えて、ルナティアは膝の上で重ねた指をそっと握り直した。


(……いけないわ)


知りたいからといって、勝手に調べてよいわけではない。


ましてや、本人に黙って行動を監視するような真似は、かつての過ちを繰り返すことにほかならない。


彼は自分を助けてくれた恩人であって、伯爵家の所有物ではないのだ。


それに、負傷した護衛たちの治療や事件への対応など、令嬢として果たすべき責任もあった。幸い、護衛たちの容体は快方に向かっているが、襲撃事件の全容はまだ分かっていない。


そうしているうちに、今日という日を迎えてしまったのである。


(……王立学園)


同年代の貴族や、優秀な平民の子弟が集まる場所。


あの青年も、年頃から考えれば入学する可能性はある。


剣を扱う姿は、まだ経験こそ浅そうだったものの、基礎がしっかりしていた。それに、魔力干渉装置が使われている状況で、剣の腕だけを頼りに突撃しなかったところを見ると、判断力もあるのだろう。


もし、彼も新入生だったら。


もし、同じ学園に通うことになったら。


もし、同じ学級だったら。


(……そうしたら、毎日お顔を拝見できるのかしら)


朝の挨拶を交わして、授業の合間に少しお話をして、昼食を一緒にいただいて。放課後には図書室へ寄ったり、茶房でお茶を飲んだりするのも素敵かもしれない。


休日には王都を散策して、季節の花が咲く庭園を歩いて、それから――。


(……あら?)


いつの間にか、まだ会えてもいない相手との一日どころか、休日の予定まですっかり組み立ててしまっていた。


「お嬢様」


不意に侍女が声をかけてきた。


「本日は、いつにも増してお支度に熱心でいらっしゃいますね」


「……そうかしら」


「はい。もしかして、学園に気になる殿方でもいらっしゃるのですか?」


ルナティアの指先が止まった。


鏡越しに侍女と目を合わせ、いつもと変わらない声で答える。


「……そのような方が、通っていらっしゃるかは分からないわ」


「まあ、そうでございますか」


侍女はそれ以上追及しなかった。


しかし、ルナティアの内心は穏やかではない。


(気になる、などという程度ではありませんもの……!)


あの人は、前世の罪を背負って生まれ変わった今も、どうしても忘れられなかった相手なのだ。


できることなら、今すぐにでも会いたい。


会って、声を聞いて、笑顔を見て、それから――。


(……それから?)


ふと、自分に問いかける。


会えたとして、どうするつもりなのだろう。


前世の自分たちのように、彼の人生へ勝手に入り込むわけにはいかない。


まずは、きちんとお礼を伝える。


それから、もし許してもらえるなら、少しずつ彼のことを知っていきたい。


好きなものも、嫌いなものも、今の彼がどんな人生を歩んできたのかも。


何もかも知りたいという願いは、きっと簡単には消えてくれない。


だからこそ、一つずつ、彼自身の口から教えてもらおう。


そう考えたところで、侍女が最後のリボンを結び終えた。


「できました。とてもよくお似合いです、お嬢様」


「……ありがとう」


鏡の中には、いつもと変わらぬ銀髪蒼眼の伯爵令嬢がいた。


その胸の内に、少女らしい期待と不安、そして少々人には言えないほど重たい恋心が渦巻いていることなど、きっと誰にも分からないだろう。


ルナティアは立ち上がり、制服の襟元を整えた。


今日は王立学園の入学式。


新しい生活の始まりだ。


(……どうか)


ほんの少しだけ、祈る。


(もう一度、お会いできますように)


     *


王立学園の入学式は、ノエルが想像していた以上に華やかなものだった。


大理石の廊下には歴代の学園長の肖像画が飾られ、高い天井から吊るされた魔道具のシャンデリアが、昼間だというのに柔らかな光を放っている。


講堂には貴族の子息令嬢だけでなく、各地から選抜された優秀な平民の生徒たちも集まっていた。


(すごいな。こんなところで勉強できるのか)


ノエルは少しばかり胸を躍らせた。


実家のアレクランドライト男爵家も、決して貧しい家ではない。鉱山から得られる収入のおかげで、暮らしに不自由したことはほとんどなかった。


それでも、王立学園の規模と設備は別格だった。


とりわけ彼の目を引いたのは、講堂の天井に取り付けられた照明用の魔道具である。


(あの数の魔力結晶を、どうやって均等に制御しているんだろう。個別に術式を組んでいるのかな。それとも中央に制御装置が……)


気になり始めると、つい構造を考えてしまう。


もっとも、今日は入学式だ。さすがに天井を眺めてばかりいるわけにもいかない。


ノエルは慌てて視線を正面へ戻した。


騎士になるか、魔法研究院で魔道具の研究に携わるか。


まだ将来の道は決めきれていないが、どちらを目指すにしても、ここで学べることは多いはずだった。


父からは、家の財産に頼る道もあると言われている。


けれど、せっかく王都まで来たのだ。自分に何ができるのか、試してみたい。


式典を終え、新入生たちはそれぞれ指定された教室へと向かった。


この学園では、身分だけでなく学力や魔法適性などを考慮して学級が編成される。地方男爵家の三男であるノエルにとっては、ありがたい制度だった。


教室へ入り、指定された席に腰を下ろすと、近くの席の男子生徒が気さくに話しかけてきた。


「やあ。君、王都の出身じゃないよね?」


「分かる?」


「なんとなく。僕も地方から来たからさ。見慣れない顔がいると、ちょっと安心するんだ」


ノエルは思わず笑った。


「それなら同じだね。僕はアレクランドライト男爵家の三男、ノエルだよ」


「へえ、男爵家か。僕も地方貴族の家なんだ。よろしく、ノエル」


「こちらこそ」


差し出された手を握り返す。


それをきっかけに、近くの席の生徒たちも会話に加わってきた。


領地の話、学園の授業、これから始まる新生活への期待。話題は尽きず、ノエルも相手の話に耳を傾けながら、ときには冗談を交えて応じた。


知らない土地で、知らない人たちと出会う。


少し緊張していたはずなのに、気づけば自然と笑っていた。


そのときだった。


教室の入り口付近が、不意にざわめいた。


「……おい、あれ」


「エーデルシュタイン伯爵令嬢だ」


「噂の氷の姫……」


「本当に綺麗……」


囁き声に誘われるように顔を上げたノエルは、思わず目を丸くした。


教室の入り口に、一人の少女が立っていた。


腰まで流れる銀色の髪に、澄み切った蒼い瞳。控えめな青いリボンで髪を飾ったその少女は、周囲の喧騒から切り離されたような、凛とした佇まいをしていた。


(……あの子だ!)


数日前、王都の裏路地で襲われていた少女。


あのときは賊に囲まれながらも冷静に状況を見極め、魔法で窮地を切り抜けた。


随分と立派な家の令嬢なのだろうとは思っていたが、まさか有名な伯爵家の一人娘だったとは。


(そうか。無事に学園へ来られたんだな)


ノエルの胸に、安堵が広がった。


あの日、最後に見た彼女は、ひどく動揺しているようだった。無事に帰れただろうかと、少し気になっていたのだ。


一方、教室に足を踏み入れたルナティアもまた、談笑しているノエルの姿を見つけていた。


(…………え?)


足が止まった。


栗色の髪に、琥珀色の瞳。少しだけ幼さの残る、穏やかな横顔。


(……ええ?)


見間違えるはずがない。


長い年月、探し続けていた人。


ようやく見つけたと思ったら、名前も聞けずに別れてしまった人。


その彼が、なぜか今、目の前にいる。


しかも、同じ教室に。


(……どうして、ここに?)


もちろん、学園で再会できるかもしれないとは考えていた。


考えてはいたけれど。


(ほ、本当にいらっしゃるなんて……!)


朝、髪飾りを選びながら思い描いた光景が、そのまま現実になってしまった。


夢ではないだろうか。


そう思ったとき、近くの男子生徒が彼に声をかけた。


「ノエル、あの人知ってる?」


「え? ああ、ちょっとね」


(……ノエル)


その名前が、ルナティアの胸に静かに落ちた。


ノエル。


ノエル。


(……ノエル様)


心の中で、そっと呼んでみる。


名前を知っただけなのに、世界が少し違って見えた。


これまで、どれほど彼を想っても、今世の名前で呼ぶことすらできなかった。


その名前が、今、こんなにも近くにある。


(……ノエル様)


もう一度、胸の内で呼びかける。


できれば、いつか。


彼自身の許しを得て、直接その名前を呼んでみたい。


そう思った瞬間、ノエルがこちらを振り返った。


そして、ふわりと微笑む。


「また会えましたね」


(…………っ!)


ルナティアは息を呑んだ。


会えた。


また、会えた。


しかも、彼の方から声をかけてくれた。


(ああ……!)


今すぐ駆け寄りたい。


名前を呼びたい。


肩の怪我は治ったのか、痛みは残っていないのか、あれから無事に過ごせていたのか。


聞きたいことが、次々と浮かんでくる。


けれど、ここは学園の教室だ。


周囲には大勢の新入生がいる。


そして何より、今度こそ彼と普通に話したい。


(落ち着きなさい、ルナティア)


あの日の失敗を繰り返すわけにはいかない。


彼女は一度だけ呼吸を整え、胸の奥に湧き上がる喜びを、そっと包み込むように抑えた。


「……ええ。ごきげんよう」


完璧な挨拶だった。


声の高さも、姿勢も、礼儀作法も。


ただし、少々冷たすぎた。


(……あら?)


もっと親しみを込めたかったのに。


久しぶりに会えた喜びを伝えたかったのに。


口から出てきたのは、社交の場で何度となく使ってきた、当たり障りのない挨拶だけだった。


ノエルは少し不思議そうに瞬きをしたものの、すぐに笑顔で頷いた。


「お元気そうでよかったです」


(……っ!)


まただ。


また、そんなふうに笑ってくれる。


ルナティアは、思わず視線を逸らした。


「……お気遣い、ありがとうございます」


周囲では、生徒たちが小声で囁き合っていた。


「氷の姫が、男爵家の子息と知り合いなのか?」


「それにしても、相変わらずお綺麗ね」


「でも、ちょっと怖そう……」


誰も知らない。


その「怖そうな伯爵令嬢」が今、人生で一番と言ってよいほど浮かれていることを。


ましてや、たった今知った青年の名前を、心の中ですでに何十回も呼んでいることなど。


(……ノエル様)


ルナティアはもう一度だけ彼の名を胸の内で唱え、静かに自分の席へ向かった。


その足取りは、いつもと変わらず優雅だった。


もっとも、心の中では、すでに祝賀会が始まっていた。


     *


午前の説明がひと区切りつき、担任教師が教室を出ていくと、新入生たちは再び思い思いに会話を始めた。


ノエルの周囲にも、自然と数人の生徒が集まっている。


ルナティアは自分の席に座ったまま、その様子を眺めていた。


(……楽しそう)


ノエルが笑っている。


それだけで、胸の奥が温かくなる。


あの日、彼が無事に生きていると知ったときの喜びが、静かに蘇ってくるようだった。


そして、何より。


彼は今、新しい友人たちと楽しそうに話している。


かつて七人の少女たちに追い回され、安らぐ時間さえ奪われていた青年とは違う。


今世の彼には、自分の知らない人生がある。


友人も、家族も、これから叶えたい夢もあるのだろう。


その当たり前の事実が、ルナティアには何より嬉しかった。


けれど。


「ノエル様は、剣術もお得意なのですか?」


一人の女子生徒が、彼に話しかけた。


「得意と言えるほどじゃないよ。領地で少し習っていただけだから」


「まあ、ご謙遜を」


「いや、本当だって。実戦では全然余裕がなかったし」


ノエルが苦笑すると、女子生徒も楽しそうに笑った。


その光景を見た瞬間、ルナティアの胸の奥が、ちくりと痛んだ。


(……あら)


別に、おかしなことではない。


学園に入学したばかりなのだから、誰だって新しい友人を作りたいだろう。ノエルが女子生徒と話すことも、ごく自然なことだ。


分かっている。


分かっているのに。


(……あんなふうに笑い合えるのね)


羨ましかった。


彼の隣で、何の遠慮もなく話しかけている少女が。


自分も、あんなふうに笑ってもらいたい。


できれば、他の誰よりも。


そして、できることなら。


(……あの笑顔を、私だけに向けてくださったら)


ルナティアの視線が、女子生徒へと移った。


明るい栗色の髪を肩の辺りで切り揃えた、愛嬌のある少女だった。制服の胸元には、小さな花を模した飾りが留められている。


どこの家の令嬢だろう。


名前は。


領地はどこにあるのかしら。


ノエル様とは、いつからお話ししているのだろう。


(……調べれば、すぐに分かるわね)


伯爵家の伝手を使えば、同級生の身元を確認することなど難しくない。


彼女の家族構成も、交友関係も、ノエルに近づいた理由も。


いっそ詳しく調べて、もし彼に不相応な相手だったなら――。


(……いえ)


ルナティアは膝の上で重ねた指に、そっと力を込めた。


自分は今、何を考えていたのだろう。


彼と話しているというだけで、見ず知らずの少女の素性を調べ、必要なら遠ざけようとしていた。


それでは、前世と何も変わらないではないか。


しかも、困ったことに。


(……それでも、知っておきたいと思ってしまうのよね)


彼女がノエルにどんな気持ちを抱いているのか。


単なる友人として接しているのか、それとも。


(……それとも、私と同じように)


そこまで考えて、ルナティアは唇を引き結んだ。


神の枷は、嫉妬することまで禁じてはいない。


恋のライバルが現れたとしても、正々堂々と競うことはできる。けれど、身分や権力を使って相手の交友関係を壊そうとすれば、枷がその行動を封じるだろう。


ただし、今のルナティアには、その必要すらなかった。


(……彼が誰と話すかは、彼自身が決めること)


誰と友人になり、誰を好きになり、どんな人生を歩むのか。


それは、彼自身のものだ。


自分が勝手に決めてよいことではない。


前世の自分たちは、その当たり前のことを理解できなかった。


彼を愛しているのだから、彼も自分たちを愛するべきだと。


彼の幸せは、自分たちのそばにあるはずだと。


そうして、彼が何を望んでいるのかを聞こうともしなかった。


最後には、彼が逃げ出そうとするほど追い詰めてしまった。


その結末を、彼女は忘れていない。


(……今度こそ)


ルナティアはゆっくりと息を吐いた。


彼が笑っているのなら、それを喜ぼう。


たとえ、その笑顔を向けられている相手が自分ではなくても。


……できれば、自分にも向けてほしいけれど。


(…………)


もう一度、ノエルへ視線を向ける。


彼はまだ女子生徒と楽しそうに話していた。


胸の痛みは、少しも消えていない。


(……困ったわ)


正しいことを理解したからといって、嫉妬まで消えてくれるわけではないらしい。


七人分の恋心を受け継いだ自分にとって、これはなかなか手強い問題だった。


けれど。


(……それなら)


彼が誰かと話していることを、止める必要はない。


自分も、彼と話せばよいのだ。


もちろん、彼が望んでくれるなら。


(……そうだわ)


ルナティアは顔を上げた。


あの日、まだお礼を伝えられていない。


命の恩人に感謝を伝えるのは、貴族令嬢として当然の礼儀だ。


それならば、お茶に誘うことだって不自然ではない。


(そうよ。私はただ、きちんとお礼を申し上げたいだけ)


それから、少しお話をして。


好きな食べ物や、趣味や、将来の夢についても聞いてみたい。


もし気が合えば、また一緒にお茶を飲んで。


いつかは休日にもお会いできたら。


そして、いつの日か。


彼の方から、自分に会いたいと言ってくれたら。


(…………)


ルナティアは、そっと視線を落とした。


(……私、少し欲張りすぎかしら)


それでも、何もしなければ何も始まらない。


少なくとも、彼に話しかけることはできる。


彼が友人たちとの会話を終えたら、声をかけてみよう。


そう決めた途端、胸の鼓動が少しだけ速くなった。


王都で氷の姫と呼ばれる伯爵令嬢は、これまで幾度となく難しい交渉の場に立ってきた。


それなのに、たった一人の青年に声をかける機会を待つだけで、こんなにも緊張してしまう。


(……恋というのは、本当に厄介なものね)


そう思いながらも、その厄介さを少しだけ愛おしく感じていた。


     *


やがてノエルの周囲にいた生徒たちが、それぞれの席へ戻り始めた。


ルナティアはその様子を確かめると、静かに立ち上がった。


彼の席へ向かって歩き出すと、教室の空気がわずかに変わる。


先ほどまで賑やかだった生徒たちが、彼女の行く先を目で追い始めたのだ。


「……氷の姫が?」


「誰かに用事かしら」


「まさか、あの男爵家の子息に……?」


好奇と驚きの視線が集まる。


けれど、ルナティアは歩調を乱さなかった。


伯爵令嬢として、人前で緊張を見せないことには慣れている。


もっとも、内心はまったく別だった。


(大丈夫。お礼を申し上げるだけよ。それから、もしよろしければ、お茶にお誘いするだけ……)


そう自分に言い聞かせながら、彼の席の前に立つ。


「アレクランドライト様」


ノエルが顔を上げた。


「あ、エーデルシュタイン様。どうしました?」


(……私の名前を)


ルナティアは、一瞬だけ言葉を忘れた。


彼が自分の名前を呼んでくれた。


もちろん、先ほど周囲の生徒たちが話していたのだから、知っていて当然だろう。


それでも嬉しかった。


彼の声で、自分の名前が紡がれたことが。


(……いけない。今は、お礼を)


ルナティアは姿勢を正した。


「先日は、危ないところを助けていただき、本当にありがとうございました」


そして、丁寧に頭を下げた。


あの日から、ずっと伝えたかった言葉だった。


ノエルは少し驚いたように目を丸くしたあと、慌てて首を振った。


「そんな、頭を上げてください。僕も大したことはしていませんから」


「いいえ。あなたが来てくださらなければ、もっと多くの者が傷ついていたかもしれません」


「でも、最後に魔道具を壊してくれたのはエーデルシュタイン様でしょう? 僕一人だったら、どうにもできませんでしたよ」


その言葉に、ルナティアは顔を上げた。


彼は、自分の手柄を誇ろうとしない。


むしろ、あの場で彼女が果たした役割を、きちんと認めてくれている。


(……優しい方)


そう思ったあと、胸の奥にもう一つの感情が芽生えた。


彼を助けたかった。


あの日、賊に斬りかかられた彼を守れなかったことが、今でも心に引っかかっている。


けれど彼は、そのことを責めるどころか、共に窮地を切り抜けた相手として自分を見てくれていた。


「それより、肩のお怪我は……?」


「ああ、もう大丈夫ですよ。治療所で診てもらいましたし、傷もほとんど塞がっています」


ノエルはそう言って、軽く肩を動かしてみせた。


今度は、痛みに顔をしかめることもない。


ルナティアはようやく胸を撫で下ろした。


「……それなら、よかったです」


「心配してくれていたんですか?」


「もちろんです」


思わず即答していた。


ノエルが瞬きをする。


ルナティアも、自分の返事の早さに気づいた。


(……あ)


少し、必死すぎただろうか。


しかし、ノエルは気にした様子もなく微笑んだ。


「ありがとうございます。エーデルシュタイン様も、お怪我がなくてよかった」


(…………っ)


また、そんなことを。


そんなふうに優しくされたら、ますます好きになってしまうではないか。


……いや、すでにどうしようもなく好きなのだけれど。


ルナティアは制服の袖口をそっと握った。


せっかく普通に話せているのだから、今度こそ感情に振り回されてはいけない。


「それで、その……」


彼女は小さく息を吸った。


ここからが本題だ。


(お茶に誘うのよ)


難しいことではない。


これまで領地経営に関する報告や、伯爵家の代理としての折衝など、もっと複雑な話をいくつもこなしてきた。


ただ一人の青年を、お茶に誘うだけ。


何を緊張する必要があるのだろう。


そう思ったのだが。


「今回のご厚意に対する謝意を、適切な形式でお示ししたいと考えております」


ノエルが瞬きをした。


「……はい?」


「つきましては、後日、双方の都合を調整したうえで、謝礼の場を設けさせていただきたく……」


(違う!)


ルナティアは、内心で頭を抱えた。


(私が言いたいのは、そういうことではなくて……!)


これではまるで、伯爵家が主催する正式な会談ではないか。


いや、相手は男爵家なのだから、かえって気を遣わせてしまうかもしれない。


そもそも、自分が望んでいるのは、そんな大げさなことではない。


ただ、彼と少し話したいだけなのに。


ノエルは困ったように笑った。


「そんなに改まらなくても大丈夫ですよ。僕もあの場では助けてもらいましたし」


「ですが……」


「それに、伯爵家から正式なお礼なんて言われたら、僕の方が緊張してしまいます」


「……そう、ですか」


ルナティアの胸が沈んだ。


断られてしまった。


いや、まだお茶に誘ったわけではない。


けれど、このままでは、せっかくの機会を逃してしまう。


どうしよう。


何と言えばよいのだろう。


そんな彼女の様子を見て、ノエルが少しだけ声を和らげた。


「でも、気持ちは嬉しいです。ありがとうございます」


ルナティアは顔を上げた。


彼は穏やかに微笑んでいた。


「それに、せっかく同じ学級になったんですから、これから話す機会もあるでしょうし」


(……同じ学級)


その言葉が、胸の奥に小さな灯をともした。


そうだ。


今度は、すぐに別れてしまうわけではない。


明日も、明後日も、同じ学園に通うのだ。


焦る必要はない。


けれど。


(……それでも、今日お話ししたいわ)


ルナティアは意を決した。


今度は、伯爵令嬢としてではなく。


一人の少女として。


「……では」


一度、深く息を吸う。


「もしよろしければ、学園の茶房で、少しだけお話ししませんか?」


ようやく言えた。


余計な飾りも、難しい言い回しもない。


ただ、自分の願いを伝えただけの言葉。


そして、答えは彼に委ねた。


ノエルは少し驚いたように、彼女を見上げた。


     *


ノエルは、目の前の少女を改めて見つめた。


エーデルシュタイン伯爵令嬢。


王都では「氷の姫」と呼ばれるほど有名な少女らしい。


確かに、整った顔立ちにはあまり感情が浮かばず、背筋を伸ばした立ち姿も、どこか近寄りがたい印象を与える。


けれど。


(……なんだろう)


ノエルは、彼女の指先に目を留めた。


胸の前で重ねた手に、ほんの少しだけ力が入っている。


それに、先ほどから何度か、言葉を選ぶような間があった。


(……もしかして、緊張しているのかな)


そう思うと、彼女の印象が少し変わった。


あの日、賊に囲まれても冷静だった少女。


負傷した護衛を気遣い、危険な状況でも的確に行動していた少女。


そんな彼女が今、自分をお茶に誘うために、ずいぶん勇気を振り絞っているように見える。


もちろん、なぜそこまで緊張するのかは分からない。


伯爵家の令嬢なのだから、身分の違う相手と気軽に話すことに慣れていないのかもしれない。


それでも、彼女がただ冷たいだけの人ではないことは、もう知っていた。


(……そういえば)


ノエルは、ふと思い出した。


襲撃のあと、彼女は自分の肩の傷を、ひどく心配そうに見つめていた。


あのときは何も話してくれなかったから、何を考えているのか分からなかった。


けれど今なら、少しだけ分かる気がする。


きっと、優しい人なのだ。


ただ、それを言葉にするのが少し苦手なのかもしれない。


それに、ノエル自身も、彼女に聞いてみたいことがあった。


あのときの氷の魔法は、どうやって魔道具の妨害を突破したのだろう。


王都で「氷の姫」と呼ばれるほどの魔法の才能を持つ少女は、普段どんな勉強をしているのだろう。


あの騒動の最中にも、護衛のことを気遣っていた彼女は、どんな人なのだろう。


考えてみれば、命がけで協力した相手なのに、互いの名前を知ったのは今日が初めてだ。


ならば、少しくらい話をしてみたいと思うのは自然なことだった。


「ええ、ぜひ」


ノエルは微笑んで答えた。


「僕も、エーデルシュタイン様ともう少し話してみたいと思っていましたから」


その言葉を聞いた瞬間、ルナティアの胸の奥で、何かが弾けた。


(…………え?)


今、何と。


もう少し、話してみたい。


彼の方も。


自分と。


(…………!)


嬉しかった。


前世の記憶にある彼ではない。


今、目の前にいる、この世界で生きてきた青年が。


自分の意思で、彼女と話したいと言ってくれたのだ。


かつて、どれほど強く願っても、無理やり手に入れようとしても、決して得られなかったもの。


それが今、こんなにも自然に差し出されている。


「……ありがとうございます」


どうにか返事をする。


声は、奇跡的に震えなかった。


けれど、胸の前で重ねた指先は、少しだけ落ち着きを失っていた。


ノエルはそれに気づいたようだったが、特に何も言わなかった。


「それじゃあ、今日の放課後はどうですか?」


「……はい」


(……今日?)


「茶房の場所も、まだよく分かっていなくて。よかったら案内してもらえると嬉しいんですが」


「……ええ。もちろんです」


(今日ですの!?)


ルナティアは、頭の中で悲鳴を上げた。


てっきり、数日後になると思っていた。


その間に話題を考えて、彼の好きそうなお菓子を調べて、当日までにもう少し自然な笑顔を練習して。


……笑顔?


そこで、ふと思い至る。


(そういえば、私、ちゃんと笑えるかしら)


普段から感情を表に出すことが少なく、周囲からは氷の姫と呼ばれている。


もちろん、笑えないわけではない。


けれど、好きな人を前にして自然な笑顔を浮かべるとなると、話は別だ。


(……鏡の前で練習しておけばよかったわ)


今さら後悔しても遅い。


それに、今日は入学初日だ。


午後にはまだ説明や授業があるものの、放課後の予定は空いている。


伯爵家へ戻ってから確認する書類はあるけれど、急ぎではない。


護衛たちの容体も、今朝の報告では順調だった。


問題ない。


何も問題はないはずだ。


それなのに、頭の中で何度も予定を確認してしまう。


もし急な用事が入ったら。


もし伯爵家から迎えが来たら。


もし、学園の茶房が満席だったら。


(……いっそ、茶房を貸し切ってしまえば)


そこまで考えて、ルナティアは我に返った。


(……駄目よ。何を考えているの、私)


初めてのお茶会で、いきなり茶房を貸し切る伯爵令嬢。


どう考えても、普通ではない。


そもそも、彼は気軽に話そうと言ってくれているのだ。


自分の都合で周囲を動かしては、意味がない。


(……普通に、普通のお茶会をするのよ)


ここでルナティアは、人生で初めて「普通のお茶会」というものの難しさを思い知り始めていた。


相手は貴族の要人ではない。


伯爵家の取引相手でもない。


自分が心から好きな、たった一人の青年なのだ。


どれほど礼儀作法を学んできても、好きな人とのお茶会を成功させる方法までは教わっていない。


そんなことを考え始めた彼女に、ノエルが声をかけた。


「楽しみにしていますね」


ルナティアは顔を上げた。


琥珀色の瞳が、まっすぐ自分を見つめている。


(…………っ)


ああ、もう。


どうしてこの人は、こんなにも無防備なのだろう。


そんなふうに笑われたら、こちらがどれほど嬉しくなるか、少しも分かっていない。


「……私も、楽しみにしております」


それだけを言うのが、精一杯だった。


「じゃあ、放課後に」


「……はい」


ルナティアは丁寧に一礼すると、静かに踵を返した。


その足取りは、いつもと変わらず優雅だった。


少なくとも、周囲からはそう見えた。


もっとも、本人の頭の中では、すでに大変なことになっていた。


     *


(……お茶)


席へ戻ったルナティアは、そっと胸に手を当てた。


(ノエル様と、二人で……)


まだ信じられない。


今日の放課後、彼と一緒にお茶を飲む。


ただ、それだけ。


それだけのことなのに、嬉しくて落ち着かない。


今すぐ誰かに話したいような気もするし、誰にも知られたくないような気もする。


けれど、少なくとも一つだけ確かなことがあった。


彼は、自分と話したいと言ってくれた。


義務でも、命令でもない。


彼自身が、そう望んでくれたのだ。


ルナティアは、そっと目を伏せた。


その温かさを、しばらく胸の奥で大切に味わっていた。


そして。


(……ところで)


ふと、重大な問題に気づいた。


(お茶をするときは、どのくらい近くに座ってもよいのかしら?)


普通は向かい合わせだろうか。


それとも、親しい間柄なら隣に座ることもあるのだろうか。


隣に座ったら、肩が触れてしまうかもしれない。


もし、彼の手が自分の手に触れたら。


もし、彼の方から手を握ってくれたら。


(…………)


ルナティアは、静かに両手で顔を覆った。


(……いけないわ)


まだ、お茶を飲む約束をしただけなのに。


そもそも、彼は自分の名前を知ったばかりなのだ。


それなのに、手を握ることまで考えてしまうなんて。


(……私ったら、何を考えているのかしら)


しかし、一度浮かんだ想像は、そう簡単には消えてくれない。


彼と向かい合ってお茶を飲む。


好きなものを尋ねる。


趣味の話をする。


それから、もし話が弾んだら。


次の休日も、一緒に過ごせるだろうか。


その次の休日も。


さらに、その次も。


(……いっそ、毎日お会いできたら)


朝は教室で挨拶をして、昼は一緒に食事をして、放課後にはお茶を飲む。


休日には王都を散策して、長期休暇にはお互いの領地を訪ねて。


やがて、学園を卒業したら。


(…………)


そこまで考えたところで、ルナティアは慌てて首を振った。


いけない。


まだ初めてのお茶会すら始まっていないのに、卒業後の予定まで考えてどうするのだろう。


しかも、彼が将来どんな道を選ぶのかさえ知らない。


まずは今日、彼のことを一つでも知ること。


それだけで十分なはずだった。


……十分なはず、なのだけれど。


(……もし、ノエル様の方から、明日も一緒にお茶を飲みたいと言ってくださったら)


その想像だけで、頬が緩みそうになる。


慌てて口元を引き締めたところで、近くの席から小さな囁き声が聞こえてきた。


「……ねえ、氷の姫、さっきからずっと難しい顔をしていない?」


「何か考え事かしら。伯爵家のお仕事とか……」


「やっぱり、私たちとは違うのね」


ルナティアは、そっと視線を落とした。


誰も知らない。


王都で氷の姫と呼ばれる伯爵令嬢が、今、人生最大の難題に直面していることを。


――好きな男の子との、初めてのお茶会。


その約束一つで、彼女の頭の中には、すでに数年分の未来が広がっていた。


(……落ち着きなさい、ルナティア)


まずは、今日のお茶会。


彼の好きなものを聞いて、自分のことも少し知ってもらう。


そして、できることなら。


(……また、私とお話ししたいと思っていただけますように)


ルナティアは胸の前でそっと手を重ねた。


かつて、七人の少女たちは、彼の気持ちを確かめることもなく、自分たちの愛情を押しつけ続けた。


けれど今、彼女が願っているのは違う。


彼自身が、もう一度会いたいと思ってくれること。


自分の隣にいる時間を、楽しいと感じてくれること。


それだけでも、今のルナティアにとっては十分すぎるほど幸せだった。


……少なくとも、そう思いたかった。


(……でも、もし明日も誘ってくださったら)


胸の奥で、甘く危うい願いが囁く。


(……明後日も、その次の日も、ずっとお誘いいただきたいわ)


その願いが、いつか彼の負担にならないように。


自分の愛情が、二度と彼の自由を奪うことのないように。


そう思いながらも、ルナティアは放課後までの時間が待ち遠しくてたまらなかった。


王都で氷の姫と呼ばれる少女は、まだ知らない。


これから始まる初めてのお茶会が、彼女にとって、七人分の恋心を抱えることよりもはるかに難しい試練になることを。


### 第2話の編集評価


今回の原稿は、物語の方向性にかなり合っています。特に、普段は完璧な伯爵令嬢が、好きな男の子をお茶に誘うだけで大騒ぎしてしまうという構図は、この作品の大きな武器です。


ただし、商業作品を目指す編集者として、以下の点は修正したいと考えます。


| 修正箇所 | 編集方針 |

| ------- | ------------------------------------- |

| 旧設定の残存 | 四人の魂、紅眼化に関する記述を七人の魂と新しい神の枷に合わせる |

| 改行と文章 | 短文の連続や意味の薄い空行を減らし、情景・心理・動作を滑らかにつなぐ |

| 心理描写の重複 | 「独占したい→反省する」の繰り返しを整理し、場面ごとに違う感情を描く |

| ノエルの人物像 | 優しいだけでなく、好奇心や判断力を持ち、自分から交流を楽しむ青年として描く |

| 恋愛の進展 | お茶の約束は成立させるが、ノエルの恋愛感情はまだ芽生えたと断定しない |

| 神の枷 | 普通の嫉妬では発動させず、本人が不当な行動を選びかけたときにだけ意識させる |


とりわけ重要なのは、ルナティアの成長を急がないことです。


第1話で彼女は、再会したノエルを監視させようとして神の枷に止められました。第2話では、他の女子生徒に嫉妬しても、神に止められる前に自分の意思で踏みとどまる場面を設けます。


この小さな変化が、後の恋愛成長につながります。


以下、これまでの設定と時系列を維持した全面編集版です。


# 第2話 氷の姫は、恩人をお茶に誘いたい【全面編集版】


王都の中心に広大な敷地を構えるエーデルシュタイン伯爵邸。その一室では、朝の柔らかな日差しを浴びながら、ルナティアが鏡台の前で小さなため息をついていた。


銀糸のように滑らかな髪を梳く侍女の手つきは、今日も申し分ない。普段なら、髪を結い終えればそれで支度は済むはずだった。


ところが、今日は違った。


「……この銀細工の髪飾り、少し派手ではないかしら」


「いいえ、お嬢様。お美しい銀髪によくお似合いでございますよ」


「そう。では、こちらの青いリボンは?」


「そちらも素敵でございます。学園の制服にもよく映えるかと」


「……そうね」


ルナティアは鏡に映る自分をじっと見つめた。


銀細工の髪飾りは、伯爵令嬢らしい品格を引き立ててくれる。一方、青いリボンは少し控えめで、年相応の柔らかさがあった。


どちらがよいのだろう。


もし、あの方がご覧になったら。


(……どちらを、お好みになるのかしら)


そこまで考えて、ルナティアは自分の思考に気づいた。


そもそも、今日その人に会える保証など、どこにもないというのに。


「……やはり、青いリボンにするわ」


「かしこまりました」


侍女は手際よく髪飾りを付け替えながら、鏡越しに主人の様子を窺った。


普段のルナティアは、身だしなみ一つにも迷いを見せない。どのような場に出席する場合でも、相応しい装いを即座に選び、支度を済ませてしまう。


それが今日は、髪飾りを決めるだけで随分と時間がかかっている。


しかも、先ほどから何度も鏡を覗き込み、前髪の流れやリボンの位置を確かめているのだ。


理由は、ルナティア自身が一番よく分かっていた。


(もし、今日あの方にお会いできたら……)


数日前、王都の裏路地で起きた襲撃事件。


そのとき自分を助けてくれた、栗色の髪と琥珀色の瞳を持つ青年。


彼こそ、ルナティアが長い年月をかけて探し求めていた人だった。


かつて、七人の少女が一人の青年を愛し、その自由を奪おうとした。七人の行き過ぎた愛情に追い詰められた青年は、逃げようとして交通事故に遭い、命を落とした。


その後、それぞれの生涯を終えた七人の魂は、神によって一つに融合し、この世界へ転生した。


それが今のルナティアである。


七人の記憶も、愛情も、後悔も、すべてを自分自身のものとして受け継いだ彼女にとって、青年との再会は何にも代えがたい奇跡だった。


もっとも、その奇跡は、少々情けない結末を迎えている。


(……結局、お名前も伺えなかったのよね)


思い出すだけで、胸の奥がきゅっと縮こまった。


あれほど伝えたいことがあったのに、再会の衝撃と罪悪感で頭が真っ白になり、お礼の一言すら言えなかったのだ。


王都で「氷の姫」と呼ばれる自分が、たった一人の青年を前にしただけで、まともに口を開けなくなるとは。


(……次こそは、必ず)


ルナティアは鏡に映る自分に向かって、小さく頷いた。


事件後、彼女は衛兵を通じて恩人の身元を確認しようとした。


幸い、現場に居合わせた青年が事情聴取を受けたことは分かっている。しかし、襲撃事件は現在も捜査中であり、証言者の詳しい身元については、正式な照会の返答を待つことになっていた。


伯爵家の権威を使えば、もっと早く調べる方法もあるのかもしれない。


実際、その気になれば彼の名前も、住まいも、家族構成も、普段どこへ出かけるのかさえ調べられるだろう。


(……知りたい)


彼のことなら、何もかも。


今の彼がどんな家族に囲まれて育ち、何を好み、どんな未来を思い描いているのか。できることなら、朝起きてから夜眠るまで、どのような一日を過ごしているのかさえ知っておきたい。


そこまで考えて、ルナティアは膝の上で重ねた指をそっと握り直した。


(……いけないわ)


知りたいからといって、勝手に調べてよいわけではない。


ましてや、本人に黙って行動を監視するような真似は、かつての過ちを繰り返すことにほかならない。


彼は自分を助けてくれた恩人であって、伯爵家の所有物ではないのだ。


それに、負傷した護衛たちの治療や事件への対応など、令嬢として果たすべき責任もあった。幸い、護衛たちの容体は快方に向かっているが、襲撃事件の全容はまだ分かっていない。


そうしているうちに、今日という日を迎えてしまったのである。


(……王立学園)


同年代の貴族や、優秀な平民の子弟が集まる場所。


あの青年も、年頃から考えれば入学する可能性はある。


剣を扱う姿は、まだ経験こそ浅そうだったものの、基礎がしっかりしていた。それに、魔力干渉装置が使われている状況で、剣の腕だけを頼りに突撃しなかったところを見ると、判断力もあるのだろう。


もし、彼も新入生だったら。


もし、同じ学園に通うことになったら。


もし、同じ学級だったら。


(……そうしたら、毎日お顔を拝見できるのかしら)


朝の挨拶を交わして、授業の合間に少しお話をして、昼食を一緒にいただいて。放課後には図書室へ寄ったり、茶房でお茶を飲んだりするのも素敵かもしれない。


休日には王都を散策して、季節の花が咲く庭園を歩いて、それから――。


(……あら?)


いつの間にか、まだ会えてもいない相手との一日どころか、休日の予定まですっかり組み立ててしまっていた。


「お嬢様」


不意に侍女が声をかけてきた。


「本日は、いつにも増してお支度に熱心でいらっしゃいますね」


「……そうかしら」


「はい。もしかして、学園に気になる殿方でもいらっしゃるのですか?」


ルナティアの指先が止まった。


鏡越しに侍女と目を合わせ、いつもと変わらない声で答える。


「……そのような方が、通っていらっしゃるかは分からないわ」


「まあ、そうでございますか」


侍女はそれ以上追及しなかった。


しかし、ルナティアの内心は穏やかではない。


(気になる、などという程度ではありませんもの……!)


あの人は、前世の罪を背負って生まれ変わった今も、どうしても忘れられなかった相手なのだ。


できることなら、今すぐにでも会いたい。


会って、声を聞いて、笑顔を見て、それから――。


(……それから?)


ふと、自分に問いかける。


会えたとして、どうするつもりなのだろう。


前世の自分たちのように、彼の人生へ勝手に入り込むわけにはいかない。


まずは、きちんとお礼を伝える。


それから、もし許してもらえるなら、少しずつ彼のことを知っていきたい。


好きなものも、嫌いなものも、今の彼がどんな人生を歩んできたのかも。


何もかも知りたいという願いは、きっと簡単には消えてくれない。


だからこそ、一つずつ、彼自身の口から教えてもらおう。


そう考えたところで、侍女が最後のリボンを結び終えた。


「できました。とてもよくお似合いです、お嬢様」


「……ありがとう」


鏡の中には、いつもと変わらぬ銀髪蒼眼の伯爵令嬢がいた。


その胸の内に、少女らしい期待と不安、そして少々人には言えないほど重たい恋心が渦巻いていることなど、きっと誰にも分からないだろう。


ルナティアは立ち上がり、制服の襟元を整えた。


今日は王立学園の入学式。


新しい生活の始まりだ。


(……どうか)


ほんの少しだけ、祈る。


(もう一度、お会いできますように)


     *


王立学園の入学式は、ノエルが想像していた以上に華やかなものだった。


大理石の廊下には歴代の学園長の肖像画が飾られ、高い天井から吊るされた魔道具のシャンデリアが、昼間だというのに柔らかな光を放っている。


講堂には貴族の子息令嬢だけでなく、各地から選抜された優秀な平民の生徒たちも集まっていた。


(すごいな。こんなところで勉強できるのか)


ノエルは少しばかり胸を躍らせた。


実家のアレクランドライト男爵家も、決して貧しい家ではない。鉱山から得られる収入のおかげで、暮らしに不自由したことはほとんどなかった。


それでも、王立学園の規模と設備は別格だった。


とりわけ彼の目を引いたのは、講堂の天井に取り付けられた照明用の魔道具である。


(あの数の魔力結晶を、どうやって均等に制御しているんだろう。個別に術式を組んでいるのかな。それとも中央に制御装置が……)


気になり始めると、つい構造を考えてしまう。


もっとも、今日は入学式だ。さすがに天井を眺めてばかりいるわけにもいかない。


ノエルは慌てて視線を正面へ戻した。


騎士になるか、魔法研究院で魔道具の研究に携わるか。


まだ将来の道は決めきれていないが、どちらを目指すにしても、ここで学べることは多いはずだった。


父からは、家の財産に頼る道もあると言われている。


けれど、せっかく王都まで来たのだ。自分に何ができるのか、試してみたい。


式典を終え、新入生たちはそれぞれ指定された教室へと向かった。


この学園では、身分だけでなく学力や魔法適性などを考慮して学級が編成される。地方男爵家の三男であるノエルにとっては、ありがたい制度だった。


教室へ入り、指定された席に腰を下ろすと、近くの席の男子生徒が気さくに話しかけてきた。


「やあ。君、王都の出身じゃないよね?」


「分かる?」


「なんとなく。僕も地方から来たからさ。見慣れない顔がいると、ちょっと安心するんだ」


ノエルは思わず笑った。


「それなら同じだね。僕はアレクランドライト男爵家の三男、ノエルだよ」


「へえ、男爵家か。僕も地方貴族の家なんだ。よろしく、ノエル」


「こちらこそ」


差し出された手を握り返す。


それをきっかけに、近くの席の生徒たちも会話に加わってきた。


領地の話、学園の授業、これから始まる新生活への期待。話題は尽きず、ノエルも相手の話に耳を傾けながら、ときには冗談を交えて応じた。


知らない土地で、知らない人たちと出会う。


少し緊張していたはずなのに、気づけば自然と笑っていた。


そのときだった。


教室の入り口付近が、不意にざわめいた。


「……おい、あれ」


「エーデルシュタイン伯爵令嬢だ」


「噂の氷の姫……」


「本当に綺麗……」


囁き声に誘われるように顔を上げたノエルは、思わず目を丸くした。


教室の入り口に、一人の少女が立っていた。


腰まで流れる銀色の髪に、澄み切った蒼い瞳。控えめな青いリボンで髪を飾ったその少女は、周囲の喧騒から切り離されたような、凛とした佇まいをしていた。


(……あの子だ!)


数日前、王都の裏路地で襲われていた少女。


あのときは賊に囲まれながらも冷静に状況を見極め、魔法で窮地を切り抜けた。


随分と立派な家の令嬢なのだろうとは思っていたが、まさか有名な伯爵家の一人娘だったとは。


(そうか。無事に学園へ来られたんだな)


ノエルの胸に、安堵が広がった。


あの日、最後に見た彼女は、ひどく動揺しているようだった。無事に帰れただろうかと、少し気になっていたのだ。


一方、教室に足を踏み入れたルナティアもまた、談笑しているノエルの姿を見つけていた。


(…………え?)


足が止まった。


栗色の髪に、琥珀色の瞳。少しだけ幼さの残る、穏やかな横顔。


(……ええ?)


見間違えるはずがない。


長い年月、探し続けていた人。


ようやく見つけたと思ったら、名前も聞けずに別れてしまった人。


その彼が、なぜか今、目の前にいる。


しかも、同じ教室に。


(……どうして、ここに?)


もちろん、学園で再会できるかもしれないとは考えていた。


考えてはいたけれど。


(ほ、本当にいらっしゃるなんて……!)


朝、髪飾りを選びながら思い描いた光景が、そのまま現実になってしまった。


夢ではないだろうか。


そう思ったとき、近くの男子生徒が彼に声をかけた。


「ノエル、あの人知ってる?」


「え? ああ、ちょっとね」


(……ノエル)


その名前が、ルナティアの胸に静かに落ちた。


ノエル。


ノエル。


(……ノエル様)


心の中で、そっと呼んでみる。


名前を知っただけなのに、世界が少し違って見えた。


これまで、どれほど彼を想っても、今世の名前で呼ぶことすらできなかった。


その名前が、今、こんなにも近くにある。


(……ノエル様)


もう一度、胸の内で呼びかける。


できれば、いつか。


彼自身の許しを得て、直接その名前を呼んでみたい。


そう思った瞬間、ノエルがこちらを振り返った。


そして、ふわりと微笑む。


「また会えましたね」


(…………っ!)


ルナティアは息を呑んだ。


会えた。


また、会えた。


しかも、彼の方から声をかけてくれた。


(ああ……!)


今すぐ駆け寄りたい。


名前を呼びたい。


肩の怪我は治ったのか、痛みは残っていないのか、あれから無事に過ごせていたのか。


聞きたいことが、次々と浮かんでくる。


けれど、ここは学園の教室だ。


周囲には大勢の新入生がいる。


そして何より、今度こそ彼と普通に話したい。


(落ち着きなさい、ルナティア)


あの日の失敗を繰り返すわけにはいかない。


彼女は一度だけ呼吸を整え、胸の奥に湧き上がる喜びを、そっと包み込むように抑えた。


「……ええ。ごきげんよう」


完璧な挨拶だった。


声の高さも、姿勢も、礼儀作法も。


ただし、少々冷たすぎた。


(……あら?)


もっと親しみを込めたかったのに。


久しぶりに会えた喜びを伝えたかったのに。


口から出てきたのは、社交の場で何度となく使ってきた、当たり障りのない挨拶だけだった。


ノエルは少し不思議そうに瞬きをしたものの、すぐに笑顔で頷いた。


「お元気そうでよかったです」


(……っ!)


まただ。


また、そんなふうに笑ってくれる。


ルナティアは、思わず視線を逸らした。


「……お気遣い、ありがとうございます」


周囲では、生徒たちが小声で囁き合っていた。


「氷の姫が、男爵家の子息と知り合いなのか?」


「それにしても、相変わらずお綺麗ね」


「でも、ちょっと怖そう……」


誰も知らない。


その「怖そうな伯爵令嬢」が今、人生で一番と言ってよいほど浮かれていることを。


ましてや、たった今知った青年の名前を、心の中ですでに何十回も呼んでいることなど。


(……ノエル様)


ルナティアはもう一度だけ彼の名を胸の内で唱え、静かに自分の席へ向かった。


その足取りは、いつもと変わらず優雅だった。


もっとも、心の中では、すでに祝賀会が始まっていた。


     *


午前の説明がひと区切りつき、担任教師が教室を出ていくと、新入生たちは再び思い思いに会話を始めた。


ノエルの周囲にも、自然と数人の生徒が集まっている。


ルナティアは自分の席に座ったまま、その様子を眺めていた。


(……楽しそう)


ノエルが笑っている。


それだけで、胸の奥が温かくなる。


あの日、彼が無事に生きていると知ったときの喜びが、静かに蘇ってくるようだった。


そして、何より。


彼は今、新しい友人たちと楽しそうに話している。


かつて七人の少女たちに追い回され、安らぐ時間さえ奪われていた青年とは違う。


今世の彼には、自分の知らない人生がある。


友人も、家族も、これから叶えたい夢もあるのだろう。


その当たり前の事実が、ルナティアには何より嬉しかった。


けれど。


「ノエル様は、剣術もお得意なのですか?」


一人の女子生徒が、彼に話しかけた。


「得意と言えるほどじゃないよ。領地で少し習っていただけだから」


「まあ、ご謙遜を」


「いや、本当だって。実戦では全然余裕がなかったし」


ノエルが苦笑すると、女子生徒も楽しそうに笑った。


その光景を見た瞬間、ルナティアの胸の奥が、ちくりと痛んだ。


(……あら)


別に、おかしなことではない。


学園に入学したばかりなのだから、誰だって新しい友人を作りたいだろう。ノエルが女子生徒と話すことも、ごく自然なことだ。


分かっている。


分かっているのに。


(……あんなふうに笑い合えるのね)


羨ましかった。


彼の隣で、何の遠慮もなく話しかけている少女が。


自分も、あんなふうに笑ってもらいたい。


できれば、他の誰よりも。


そして、できることなら。


(……あの笑顔を、私だけに向けてくださったら)


ルナティアの視線が、女子生徒へと移った。


明るい栗色の髪を肩の辺りで切り揃えた、愛嬌のある少女だった。制服の胸元には、小さな花を模した飾りが留められている。


どこの家の令嬢だろう。


名前は。


領地はどこにあるのかしら。


ノエル様とは、いつからお話ししているのだろう。


(……調べれば、すぐに分かるわね)


伯爵家の伝手を使えば、同級生の身元を確認することなど難しくない。


彼女の家族構成も、交友関係も、ノエルに近づいた理由も。


いっそ詳しく調べて、もし彼に不相応な相手だったなら――。


(……いえ)


ルナティアは膝の上で重ねた指に、そっと力を込めた。


自分は今、何を考えていたのだろう。


彼と話しているというだけで、見ず知らずの少女の素性を調べ、必要なら遠ざけようとしていた。


それでは、前世と何も変わらないではないか。


しかも、困ったことに。


(……それでも、知っておきたいと思ってしまうのよね)


彼女がノエルにどんな気持ちを抱いているのか。


単なる友人として接しているのか、それとも。


(……それとも、私と同じように)


そこまで考えて、ルナティアは唇を引き結んだ。


神の枷は、嫉妬することまで禁じてはいない。


恋のライバルが現れたとしても、正々堂々と競うことはできる。けれど、身分や権力を使って相手の交友関係を壊そうとすれば、枷がその行動を封じるだろう。


ただし、今のルナティアには、その必要すらなかった。


(……彼が誰と話すかは、彼自身が決めること)


誰と友人になり、誰を好きになり、どんな人生を歩むのか。


それは、彼自身のものだ。


自分が勝手に決めてよいことではない。


前世の自分たちは、その当たり前のことを理解できなかった。


彼を愛しているのだから、彼も自分たちを愛するべきだと。


彼の幸せは、自分たちのそばにあるはずだと。


そうして、彼が何を望んでいるのかを聞こうともしなかった。


最後には、彼が逃げ出そうとするほど追い詰めてしまった。


その結末を、彼女は忘れていない。


(……今度こそ)


ルナティアはゆっくりと息を吐いた。


彼が笑っているのなら、それを喜ぼう。


たとえ、その笑顔を向けられている相手が自分ではなくても。


……できれば、自分にも向けてほしいけれど。


(…………)


もう一度、ノエルへ視線を向ける。


彼はまだ女子生徒と楽しそうに話していた。


胸の痛みは、少しも消えていない。


(……困ったわ)


正しいことを理解したからといって、嫉妬まで消えてくれるわけではないらしい。


七人分の恋心を受け継いだ自分にとって、これはなかなか手強い問題だった。


けれど。


(……それなら)


彼が誰かと話していることを、止める必要はない。


自分も、彼と話せばよいのだ。


もちろん、彼が望んでくれるなら。


(……そうだわ)


ルナティアは顔を上げた。


あの日、まだお礼を伝えられていない。


命の恩人に感謝を伝えるのは、貴族令嬢として当然の礼儀だ。


それならば、お茶に誘うことだって不自然ではない。


(そうよ。私はただ、きちんとお礼を申し上げたいだけ)


それから、少しお話をして。


好きな食べ物や、趣味や、将来の夢についても聞いてみたい。


もし気が合えば、また一緒にお茶を飲んで。


いつかは休日にもお会いできたら。


そして、いつの日か。


彼の方から、自分に会いたいと言ってくれたら。


(…………)


ルナティアは、そっと視線を落とした。


(……私、少し欲張りすぎかしら)


それでも、何もしなければ何も始まらない。


少なくとも、彼に話しかけることはできる。


彼が友人たちとの会話を終えたら、声をかけてみよう。


そう決めた途端、胸の鼓動が少しだけ速くなった。


王都で氷の姫と呼ばれる伯爵令嬢は、これまで幾度となく難しい交渉の場に立ってきた。


それなのに、たった一人の青年に声をかける機会を待つだけで、こんなにも緊張してしまう。


(……恋というのは、本当に厄介なものね)


そう思いながらも、その厄介さを少しだけ愛おしく感じていた。


     *


やがてノエルの周囲にいた生徒たちが、それぞれの席へ戻り始めた。


ルナティアはその様子を確かめると、静かに立ち上がった。


彼の席へ向かって歩き出すと、教室の空気がわずかに変わる。


先ほどまで賑やかだった生徒たちが、彼女の行く先を目で追い始めたのだ。


「……氷の姫が?」


「誰かに用事かしら」


「まさか、あの男爵家の子息に……?」


好奇と驚きの視線が集まる。


けれど、ルナティアは歩調を乱さなかった。


伯爵令嬢として、人前で緊張を見せないことには慣れている。


もっとも、内心はまったく別だった。


(大丈夫。お礼を申し上げるだけよ。それから、もしよろしければ、お茶にお誘いするだけ……)


そう自分に言い聞かせながら、彼の席の前に立つ。


「アレクランドライト様」


ノエルが顔を上げた。


「あ、エーデルシュタイン様。どうしました?」


(……私の名前を)


ルナティアは、一瞬だけ言葉を忘れた。


彼が自分の名前を呼んでくれた。


もちろん、先ほど周囲の生徒たちが話していたのだから、知っていて当然だろう。


それでも嬉しかった。


彼の声で、自分の名前が紡がれたことが。


(……いけない。今は、お礼を)


ルナティアは姿勢を正した。


「先日は、危ないところを助けていただき、本当にありがとうございました」


そして、丁寧に頭を下げた。


あの日から、ずっと伝えたかった言葉だった。


ノエルは少し驚いたように目を丸くしたあと、慌てて首を振った。


「そんな、頭を上げてください。僕も大したことはしていませんから」


「いいえ。あなたが来てくださらなければ、もっと多くの者が傷ついていたかもしれません」


「でも、最後に魔道具を壊してくれたのはエーデルシュタイン様でしょう? 僕一人だったら、どうにもできませんでしたよ」


その言葉に、ルナティアは顔を上げた。


彼は、自分の手柄を誇ろうとしない。


むしろ、あの場で彼女が果たした役割を、きちんと認めてくれている。


(……優しい方)


そう思ったあと、胸の奥にもう一つの感情が芽生えた。


彼を助けたかった。


あの日、賊に斬りかかられた彼を守れなかったことが、今でも心に引っかかっている。


けれど彼は、そのことを責めるどころか、共に窮地を切り抜けた相手として自分を見てくれていた。


「それより、肩のお怪我は……?」


「ああ、もう大丈夫ですよ。治療所で診てもらいましたし、傷もほとんど塞がっています」


ノエルはそう言って、軽く肩を動かしてみせた。


今度は、痛みに顔をしかめることもない。


ルナティアはようやく胸を撫で下ろした。


「……それなら、よかったです」


「心配してくれていたんですか?」


「もちろんです」


思わず即答していた。


ノエルが瞬きをする。


ルナティアも、自分の返事の早さに気づいた。


(……あ)


少し、必死すぎただろうか。


しかし、ノエルは気にした様子もなく微笑んだ。


「ありがとうございます。エーデルシュタイン様も、お怪我がなくてよかった」


(…………っ)


また、そんなことを。


そんなふうに優しくされたら、ますます好きになってしまうではないか。


……いや、すでにどうしようもなく好きなのだけれど。


ルナティアは制服の袖口をそっと握った。


せっかく普通に話せているのだから、今度こそ感情に振り回されてはいけない。


「それで、その……」


彼女は小さく息を吸った。


ここからが本題だ。


(お茶に誘うのよ)


難しいことではない。


これまで領地経営に関する報告や、伯爵家の代理としての折衝など、もっと複雑な話をいくつもこなしてきた。


ただ一人の青年を、お茶に誘うだけ。


何を緊張する必要があるのだろう。


そう思ったのだが。


「今回のご厚意に対する謝意を、適切な形式でお示ししたいと考えております」


ノエルが瞬きをした。


「……はい?」


「つきましては、後日、双方の都合を調整したうえで、謝礼の場を設けさせていただきたく……」


(違う!)


ルナティアは、内心で頭を抱えた。


(私が言いたいのは、そういうことではなくて……!)


これではまるで、伯爵家が主催する正式な会談ではないか。


いや、相手は男爵家なのだから、かえって気を遣わせてしまうかもしれない。


そもそも、自分が望んでいるのは、そんな大げさなことではない。


ただ、彼と少し話したいだけなのに。


ノエルは困ったように笑った。


「そんなに改まらなくても大丈夫ですよ。僕もあの場では助けてもらいましたし」


「ですが……」


「それに、伯爵家から正式なお礼なんて言われたら、僕の方が緊張してしまいます」


「……そう、ですか」


ルナティアの胸が沈んだ。


断られてしまった。


いや、まだお茶に誘ったわけではない。


けれど、このままでは、せっかくの機会を逃してしまう。


どうしよう。


何と言えばよいのだろう。


そんな彼女の様子を見て、ノエルが少しだけ声を和らげた。


「でも、気持ちは嬉しいです。ありがとうございます」


ルナティアは顔を上げた。


彼は穏やかに微笑んでいた。


「それに、せっかく同じ学級になったんですから、これから話す機会もあるでしょうし」


(……同じ学級)


その言葉が、胸の奥に小さな灯をともした。


そうだ。


今度は、すぐに別れてしまうわけではない。


明日も、明後日も、同じ学園に通うのだ。


焦る必要はない。


けれど。


(……それでも、今日お話ししたいわ)


ルナティアは意を決した。


今度は、伯爵令嬢としてではなく。


一人の少女として。


「……では」


一度、深く息を吸う。


「もしよろしければ、学園の茶房で、少しだけお話ししませんか?」


ようやく言えた。


余計な飾りも、難しい言い回しもない。


ただ、自分の願いを伝えただけの言葉。


そして、答えは彼に委ねた。


ノエルは少し驚いたように、彼女を見上げた。


     *


ノエルは、目の前の少女を改めて見つめた。


エーデルシュタイン伯爵令嬢。


王都では「氷の姫」と呼ばれるほど有名な少女らしい。


確かに、整った顔立ちにはあまり感情が浮かばず、背筋を伸ばした立ち姿も、どこか近寄りがたい印象を与える。


けれど。


(……なんだろう)


ノエルは、彼女の指先に目を留めた。


胸の前で重ねた手に、ほんの少しだけ力が入っている。


それに、先ほどから何度か、言葉を選ぶような間があった。


(……もしかして、緊張しているのかな)


そう思うと、彼女の印象が少し変わった。


あの日、賊に囲まれても冷静だった少女。


負傷した護衛を気遣い、危険な状況でも的確に行動していた少女。


そんな彼女が今、自分をお茶に誘うために、ずいぶん勇気を振り絞っているように見える。


もちろん、なぜそこまで緊張するのかは分からない。


伯爵家の令嬢なのだから、身分の違う相手と気軽に話すことに慣れていないのかもしれない。


それでも、彼女がただ冷たいだけの人ではないことは、もう知っていた。


(……そういえば)


ノエルは、ふと思い出した。


襲撃のあと、彼女は自分の肩の傷を、ひどく心配そうに見つめていた。


あのときは何も話してくれなかったから、何を考えているのか分からなかった。


けれど今なら、少しだけ分かる気がする。


きっと、優しい人なのだ。


ただ、それを言葉にするのが少し苦手なのかもしれない。


それに、ノエル自身も、彼女に聞いてみたいことがあった。


あのときの氷の魔法は、どうやって魔道具の妨害を突破したのだろう。


王都で「氷の姫」と呼ばれるほどの魔法の才能を持つ少女は、普段どんな勉強をしているのだろう。


あの騒動の最中にも、護衛のことを気遣っていた彼女は、どんな人なのだろう。


考えてみれば、命がけで協力した相手なのに、互いの名前を知ったのは今日が初めてだ。


ならば、少しくらい話をしてみたいと思うのは自然なことだった。


「ええ、ぜひ」


ノエルは微笑んで答えた。


「僕も、エーデルシュタイン様ともう少し話してみたいと思っていましたから」


その言葉を聞いた瞬間、ルナティアの胸の奥で、何かが弾けた。


(…………え?)


今、何と。


もう少し、話してみたい。


彼の方も。


自分と。


(…………!)


嬉しかった。


前世の記憶にある彼ではない。


今、目の前にいる、この世界で生きてきた青年が。


自分の意思で、彼女と話したいと言ってくれたのだ。


かつて、どれほど強く願っても、無理やり手に入れようとしても、決して得られなかったもの。


それが今、こんなにも自然に差し出されている。


「……ありがとうございます」


どうにか返事をする。


声は、奇跡的に震えなかった。


けれど、胸の前で重ねた指先は、少しだけ落ち着きを失っていた。


ノエルはそれに気づいたようだったが、特に何も言わなかった。


「それじゃあ、今日の放課後はどうですか?」


「……はい」


(……今日?)


「茶房の場所も、まだよく分かっていなくて。よかったら案内してもらえると嬉しいんですが」


「……ええ。もちろんです」


(今日ですの!?)


ルナティアは、頭の中で悲鳴を上げた。


てっきり、数日後になると思っていた。


その間に話題を考えて、彼の好きそうなお菓子を調べて、当日までにもう少し自然な笑顔を練習して。


……笑顔?


そこで、ふと思い至る。


(そういえば、私、ちゃんと笑えるかしら)


普段から感情を表に出すことが少なく、周囲からは氷の姫と呼ばれている。


もちろん、笑えないわけではない。


けれど、好きな人を前にして自然な笑顔を浮かべるとなると、話は別だ。


(……鏡の前で練習しておけばよかったわ)


今さら後悔しても遅い。


それに、今日は入学初日だ。


午後にはまだ説明や授業があるものの、放課後の予定は空いている。


伯爵家へ戻ってから確認する書類はあるけれど、急ぎではない。


護衛たちの容体も、今朝の報告では順調だった。


問題ない。


何も問題はないはずだ。


それなのに、頭の中で何度も予定を確認してしまう。


もし急な用事が入ったら。


もし伯爵家から迎えが来たら。


もし、学園の茶房が満席だったら。


(……いっそ、茶房を貸し切ってしまえば)


そこまで考えて、ルナティアは我に返った。


(……駄目よ。何を考えているの、私)


初めてのお茶会で、いきなり茶房を貸し切る伯爵令嬢。


どう考えても、普通ではない。


そもそも、彼は気軽に話そうと言ってくれているのだ。


自分の都合で周囲を動かしては、意味がない。


(……普通に、普通のお茶会をするのよ)


ここでルナティアは、人生で初めて「普通のお茶会」というものの難しさを思い知り始めていた。


相手は貴族の要人ではない。


伯爵家の取引相手でもない。


自分が心から好きな、たった一人の青年なのだ。


どれほど礼儀作法を学んできても、好きな人とのお茶会を成功させる方法までは教わっていない。


そんなことを考え始めた彼女に、ノエルが声をかけた。


「楽しみにしていますね」


ルナティアは顔を上げた。


琥珀色の瞳が、まっすぐ自分を見つめている。


(…………っ)


ああ、もう。


どうしてこの人は、こんなにも無防備なのだろう。


そんなふうに笑われたら、こちらがどれほど嬉しくなるか、少しも分かっていない。


「……私も、楽しみにしております」


それだけを言うのが、精一杯だった。


「じゃあ、放課後に」


「……はい」


ルナティアは丁寧に一礼すると、静かに踵を返した。


その足取りは、いつもと変わらず優雅だった。


少なくとも、周囲からはそう見えた。


もっとも、本人の頭の中では、すでに大変なことになっていた。


     *


(……お茶)


席へ戻ったルナティアは、そっと胸に手を当てた。


(ノエル様と、二人で……)


まだ信じられない。


今日の放課後、彼と一緒にお茶を飲む。


ただ、それだけ。


それだけのことなのに、嬉しくて落ち着かない。


今すぐ誰かに話したいような気もするし、誰にも知られたくないような気もする。


けれど、少なくとも一つだけ確かなことがあった。


彼は、自分と話したいと言ってくれた。


義務でも、命令でもない。


彼自身が、そう望んでくれたのだ。


ルナティアは、そっと目を伏せた。


その温かさを、しばらく胸の奥で大切に味わっていた。


そして。


(……ところで)


ふと、重大な問題に気づいた。


(お茶をするときは、どのくらい近くに座ってもよいのかしら?)


普通は向かい合わせだろうか。


それとも、親しい間柄なら隣に座ることもあるのだろうか。


隣に座ったら、肩が触れてしまうかもしれない。


もし、彼の手が自分の手に触れたら。


もし、彼の方から手を握ってくれたら。


(…………)


ルナティアは、静かに両手で顔を覆った。


(……いけないわ)


まだ、お茶を飲む約束をしただけなのに。


そもそも、彼は自分の名前を知ったばかりなのだ。


それなのに、手を握ることまで考えてしまうなんて。


(……私ったら、何を考えているのかしら)


しかし、一度浮かんだ想像は、そう簡単には消えてくれない。


彼と向かい合ってお茶を飲む。


好きなものを尋ねる。


趣味の話をする。


それから、もし話が弾んだら。


次の休日も、一緒に過ごせるだろうか。


その次の休日も。


さらに、その次も。


(……いっそ、毎日お会いできたら)


朝は教室で挨拶をして、昼は一緒に食事をして、放課後にはお茶を飲む。


休日には王都を散策して、長期休暇にはお互いの領地を訪ねて。


やがて、学園を卒業したら。


(…………)


そこまで考えたところで、ルナティアは慌てて首を振った。


いけない。


まだ初めてのお茶会すら始まっていないのに、卒業後の予定まで考えてどうするのだろう。


しかも、彼が将来どんな道を選ぶのかさえ知らない。


まずは今日、彼のことを一つでも知ること。


それだけで十分なはずだった。


……十分なはず、なのだけれど。


(……もし、ノエル様の方から、明日も一緒にお茶を飲みたいと言ってくださったら)


その想像だけで、頬が緩みそうになる。


慌てて口元を引き締めたところで、近くの席から小さな囁き声が聞こえてきた。


「……ねえ、氷の姫、さっきからずっと難しい顔をしていない?」


「何か考え事かしら。伯爵家のお仕事とか……」


「やっぱり、私たちとは違うのね」


ルナティアは、そっと視線を落とした。


誰も知らない。


王都で氷の姫と呼ばれる伯爵令嬢が、今、人生最大の難題に直面していることを。


――好きな男の子との、初めてのお茶会。


その約束一つで、彼女の頭の中には、すでに数年分の未来が広がっていた。


(……落ち着きなさい、ルナティア)


まずは、今日のお茶会。


彼の好きなものを聞いて、自分のことも少し知ってもらう。


そして、できることなら。


(……また、私とお話ししたいと思っていただけますように)


ルナティアは胸の前でそっと手を重ねた。


かつて、七人の少女たちは、彼の気持ちを確かめることもなく、自分たちの愛情を押しつけ続けた。


けれど今、彼女が願っているのは違う。


彼自身が、もう一度会いたいと思ってくれること。


自分の隣にいる時間を、楽しいと感じてくれること。


それだけでも、今のルナティアにとっては十分すぎるほど幸せだった。


……少なくとも、そう思いたかった。


(……でも、もし明日も誘ってくださったら)


胸の奥で、甘く危うい願いが囁く。


(……明後日も、その次の日も、ずっとお誘いいただきたいわ)


その願いが、いつか彼の負担にならないように。


自分の愛情が、二度と彼の自由を奪うことのないように。


そう思いながらも、ルナティアは放課後までの時間が待ち遠しくてたまらなかった。


王都で氷の姫と呼ばれる少女は、まだ知らない。


これから始まる初めてのお茶会が、彼女にとって、七人分の恋心を抱えることよりもはるかに難しい試練になることを。


お読みいただきありがとうございました。

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次回もどうぞよろしくお願いいたします。

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