氷の姫は、恩人にお礼が言えない
もし、もう一度あなたに会えたなら。
今度こそ、あなたの望む幸せを守りたい。
たとえ、その幸せの隣に私がいなくても。
……そう願っているのは、本当だ。
けれど、もしあなたが他の誰かを愛したら、私は心から祝福できるのだろうか。
その人を羨み、憎み、あなたを奪い返したいと思ってしまうのではないだろうか。
そんな自分が、今でも怖い。
だから、神様。
どうか今度こそ、私が間違えないように。
もう二度と、愛する人の幸せを、私自身の手で壊してしまわないように。
*
かつて、七人の少女が一人の青年を愛していた。
七人は、それぞれ違う形で彼を愛していた。
誰よりも彼の幸せを理解していると信じる少女がいた。
彼が他の女性と話すだけで、胸を焦がすような嫉妬に苦しむ少女がいた。
彼を傷つける人間を決して許さず、激しい怒りを向ける少女もいれば、ただ彼と二人きりの世界に閉じこもっていたいと願う少女もいた。
彼の時間も、優しさも、未来も、すべて自分のものにしたい。
もっと愛してほしい。どれほど愛情を与えられても、まだ足りない。
誰よりも近くで彼に触れ、誰よりも深く愛されたい。
それぞれに異なる願いを抱きながら、七人にはたった一つの共通点があった。
彼を、自分だけのものにしたかったのだ。
最初は、ただ恋をしていただけだった。
彼の姿を見つければ嬉しくなり、名前を呼ばれれば一日中幸せで、ほんの少し会話ができただけで眠れなくなる。
そんな、どこにでもある恋だったはずなのに。
七人は互いを恋敵として認識し、少しでも彼の関心を引こうと競い合った。
やがて、その競争は歪み始める。
彼が誰かと出かければ、理由を問い詰めた。
連絡が遅れれば、何度も電話をかけた。
学校からの帰り道には誰かが待ち伏せし、休日には別の誰かが訪ねてくる。
一人が身を引いても、別の一人が彼を追いかけた。
七人が示す愛情は、いつしか青年から安らげる時間を奪っていた。
それでも少女たちは、自分がどれほど彼を追い詰めているのか理解できなかった。
彼を幸せにしたい。
彼に愛されたい。
その気持ちだけは、本物だったから。
ある雨の日。
疲れ果てた青年は、帰り道で七人の少女たちに囲まれた。
誰と一緒に帰るのか。なぜ自分の連絡を無視したのか。どうして他の女の子には笑いかけるのか。
次々と浴びせられる言葉に、彼はとうとう顔を歪めた。
「……もう、放っておいてくれ」
それは、彼が初めて口にした、はっきりとした拒絶だった。
少女たちは動揺した。
けれど、誰も彼を失いたくなかった。
立ち去る青年を、一人が追いかけた。
別の少女も、その後を追った。
彼は振り返った。
そして、降りしきる雨の中、少女たちから逃れようと道路へ飛び出した。
耳をつんざくような急ブレーキの音。
誰かの悲鳴。
路面を滑るタイヤ。
すべてが終わったとき、青年はもう二度と目を開けなかった。
七人の誰も、彼を殺そうとは思っていなかった。
ただ、愛していただけだった。
愛されたいと願い、彼を追いかけ続けただけだった。
しかし、その愛情が彼を疲弊させ、逃げ場を奪い、最後には命まで失わせた。
青年の死後、七人はそれぞれ異なる人生を歩んだ。
罪悪感に苦しみ続けた者もいた。
自分は悪くなかったと、必死に言い聞かせた者もいた。
長い年月を経て、ようやく彼がどれほど苦しんでいたのか理解した者もいた。
そして七人がそれぞれの生涯を終えた後、奇妙なことが起きた。
七つの魂が、神の手によって一つにされたのだ。
傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲。
七つの大罪を象徴する、七人の少女たち。
その記憶も、愛情も、執着も、後悔も、すべてが溶け合い、もはや切り離すことのできない一つの魂へと生まれ変わった。
七人の人格が、一つの身体に閉じ込められたのではない。
七人が交代で身体を動かしているわけでもない。
そこに生まれたのは、七人のすべてを受け継いだ、まったく新しい一人の少女だった。
神は、その少女に罰を与えた。
愛することを禁じたのではない。
嫉妬することも、欲望を抱くことも、怒ることも許されている。
ただし、その感情に従って他人の自由を奪い、意思を踏みにじろうとしたとき、その行動だけが封じられる。
どれほど強く願っても、身体が動かず、言葉が出なくなる。
神の与えた、七つの罪の枷。
それは、かつて七人の少女たちが犯した過ちを、二度と繰り返させないための罰だった。
もっとも、その枷があるからといって、彼女の心から独占欲が消えたわけではない。
むしろ、七人分の愛情を受け継いだ少女の恋心は、本人でさえ持て余すほどに重かった。
その少女の名は、ルナティア・フォン・エーデルシュタイン。
王都に名を馳せる伯爵家の一人娘。
銀色の髪と蒼い瞳を持ち、類いまれな魔法の才能と、年齢に似合わぬ冷静さを備えた令嬢。
人々は彼女を、畏敬を込めてこう呼ぶ。
――氷の姫。
けれど、誰も知らない。
その美しい少女が、七人分のあまりにも重たい恋心を胸に秘めていることを。
そして今もなお、かつて死なせてしまった青年を想い続けていることを。
*
王都の空気は、ノエルが生まれ育った地方の領地とは比べ物にならないほど、喧騒と活気に満ちていた。
広々とした石畳の大通りには、魔力結晶を利用した街灯が等間隔に並び、色鮮やかな看板を掲げた商店からは客を呼び込む声が絶えない。貴族の紋章を飾った馬車が行き交う傍らでは、荷物を満載した商人の荷車が軋みを上げ、露店から漂う焼き菓子の甘い香りが風に乗って流れてくる。
「へえ……これが王都か。聞いていた以上に賑やかだな」
思わず感嘆の声を漏らしたのは、栗色の髪に琥珀色の瞳を持つ、一人の青年だった。
ノエル・フォン・アレクランドライト。
地方男爵家の三男として生まれ、数日後には王立学園への入学を控えている。
彼の実家は、宝石と魔力結晶を産出する鉱山を見つけた功績により叙爵し、そのまま鉱山の管理を命じられ、男爵家としては破格の財力を持っていた。
ノエル自身も幼い頃から鉱山や加工工房に出入りし、職人たちと親しく接して育っている。魔道具についてもそれなりの知識があり、王都の街灯を見上げれば、つい使われている魔力結晶の種類や加工方法を考えてしまう程度には興味があった。
「これだけの数を維持するとなると、魔力結晶の交換費用だけでも相当なものだろうな……」
そんなことを考えてしまうのは、鉱山を営む家に生まれた者の性だろう。
もっとも、だからといって王都の華やかさに感動しないわけではない。
領地では見かけない魔道具もあれば、初めて目にする異国の品もある。何より、これほど大勢の人間が、それぞれの目的を持って行き交う光景そのものが新鮮だった。
「学園が始まったら、ゆっくり見て回る時間もなくなるかもしれないしな」
ノエルは通りの向こうに見える時計塔を見上げ、少しだけ名残惜しそうに笑った。
男爵家の三男である以上、家督を継ぐことはない。
騎士になるか、魔法研究院で魔道具の研究に携わるか。どちらにも興味はあったが、今はまだ決めきれていなかった。
幸い、両親も兄たちも、彼の希望を尊重してくれている。
実家の財力を頼れば、どちらの道もある程度は開けるだろう。それでもノエルは、自分の人生くらいは自分自身で選び、できることなら自分の力で切り開きたいと思っていた。
そんな彼に、王都へ出発する前、母は一つだけ忠告をした。
『富に近寄ってくる人と、あなた自身に近寄ってくる人を見分けるのは難しいものよ。だからといって、最初から人を疑ってはいけません。相手の言葉だけでなく、行動もよく見ることね』
母らしい、現実的な助言だった。
ノエルもそのつもりでいる。
せっかく新しい土地で暮らすのだから、いろいろな人と知り合い、できれば気の合う友人を作りたい。
「さて、そろそろ戻るか」
入学に必要な手続きは済ませたし、王都での滞在先への道も覚えた。
あとは明日に備えて休むだけだ。
そう考えて大通りを引き返そうとした、そのときだった。
――ガシャンッ!
通りから少し離れた裏路地の奥で、何かが激しく砕ける音がした。
続いて、男の怒鳴り声が響く。
「余計な真似をするな! 大人しくしていろ!」
ノエルは足を止めた。
周囲を歩く人々は、喧騒に紛れたその声に気づいていないらしい。あるいは、気づいていても関わりたくないのかもしれない。
王都の治安は良いと聞いているが、これほど大きな街なのだから、犯罪がまったく起こらないはずもない。
ノエルは腰に提げた剣に目を落とした。
父から贈られた、実用一点張りの片手剣だ。
領地の騎士たちから基礎を教わり、稽古も積んできた。とはいえ、実戦経験はほとんどない。
不用意に首を突っ込めば、自分まで危険な目に遭うだろう。
それくらいの分別は持っていた。
「……まずは衛兵を呼んでもらおう」
ノエルは近くの商店へ駆け寄り、店先にいた男に声をかけた。
「すみません。あちらの路地で争いが起きているようです。衛兵を呼んでいただけませんか?」
怪訝そうな顔をした男も、奥から響いた二度目の物音を聞くと表情を変え、すぐに店の奥へ声をかけた。
それを確認してから、ノエルは路地へ向かった。
自分一人で何とかしようなどとは思っていない。ただ、衛兵が到着するまでに、何かできることがあるかもしれない。
そう考えて角からそっと様子を窺った彼は、思わず息を呑んだ。
数人の屈強な男たちが、一人の少女を取り囲んでいた。
少女の足元には、護衛らしい装備を身につけた男たちが倒れている。血を流している者もおり、少なくとも単なる喧嘩ではないことは明らかだった。
そして、その中心に立つ少女。
腰まで流れる銀色の髪に、白磁を思わせる肌。澄み切った冬空のような蒼い瞳は、周囲の男たちを静かに見据えていた。
年頃はノエルとそう変わらないだろう。
しかし、その佇まいには、思わず背筋を伸ばしたくなるような気品があった。
何より驚いたのは、少女が少しも取り乱していないことだった。
「あなた方の要求に応じるつもりはありません」
少女は、目の前の賊へ静かに告げた。
「それより、倒れている者たちの手当てをさせなさい。彼らはもう抵抗できないでしょう」
「随分と余裕だな。自分の心配をしたらどうだ?」
「私を連れ去ることが目的なら、ここで殺すつもりはないのでしょう?」
男の笑みが、わずかに強張った。
少女はその反応を見逃さなかった。
「それに、騒ぎを長引かせれば衛兵が来ます。あなた方にとっても得策ではないはずよ」
「……小娘が、知ったような口を」
賊が苛立たしげに剣を握り直す。
ノエルは素早く周囲を見回した。
相手は少なくとも五人。正面から斬り込んでも勝てる見込みはない。
少女自身は魔法が使えそうな雰囲気だったが、なぜか反撃していない。
その理由はすぐに分かった。
賊の一人が掲げたランタン状の魔道具から、濁った紫色の光が漏れていたのだ。
(魔力干渉装置……? いや、あの形状なら発動阻害型か)
魔法理論の教本で、似たような道具を見たことがある。
一定範囲の魔力を乱し、術式の構築を妨害する魔道具だ。
少女が魔法を使えることを知ったうえで、対策を用意してきたのだろう。
少なくとも、行き当たりばったりの犯行ではなさそうだった。
(あの魔道具さえ何とかなれば、状況が変わるかもしれない)
とはいえ、装置を持っている男に近づけるほど、ノエルは腕に自信がない。
何かないかと周囲を探すと、路地の脇に、商店の裏口から運び出されたらしい木箱が積まれていた。
しかも、かなり不安定な積み方をしている。
(……あれなら)
ノエルは一度だけ深く息を吸った。
怖くないわけではない。
むしろ、剣の柄を握る手にはじっとりと汗が滲んでいた。
相手は本物の賊だ。稽古相手のように、こちらの安全を考えて剣を振るってはくれないだろう。
それでも、目の前で少女が連れ去られようとしている。
衛兵が来るまで、あとどれくらいかかるだろう。その間に彼女が連れ去られてしまったら、きっと後悔する。
そう考えたときには、もう声を張り上げていた。
「おい! 何をしている!」
賊たちが一斉に振り返る。
「なんだ、てめえは!」
「その子から離れろ!」
そう叫びながら、ノエルは剣を抜くより先に、積み上げられた木箱へ肩から体当たりした。
乾いた音を立てて木箱が崩れ、賊たちの足元へ雪崩れ込む。
「うおっ!?」
「何しやがる!」
男たちが反射的に身を引き、少女を囲んでいた輪に隙間が生まれた。
「今です! こちらへ!」
ノエルは少女に呼びかけた。
少女は一瞬だけ彼を見たあと、すぐに崩れた木箱の向こうへ視線を走らせた。
しかし、賊の一人が素早く立ち直り、抜き身の剣を振り上げる。
「邪魔すんじゃねえ!」
鋭い一撃が襲いかかった。
ノエルは咄嗟に剣を合わせた。
重い。
稽古で受けてきた剣とは、まるで違う。
相手は自分を殺すつもりで斬りつけている。その事実が、刃を通して嫌というほど伝わってきた。
ノエルは基本に忠実な動きで剣を受け流そうとしたが、わずかに間に合わなかった。
肩口に熱い痛みが走る。
「くっ……!」
服が裂け、血が滲んだ。
痛みに顔を歪めながらも、ノエルは後退して間合いを取る。
勝とうとしてはいけない。
必要なのは、時間を稼ぐことだ。
そう自分に言い聞かせ、相手の剣先から目を離さない。
そのときだった。
「……そこね」
少女が、静かに呟いた。
彼女はノエルが作り出した混乱の中で、賊の持つ魔道具へ視線を定めていた。
そして、片手を掲げる。
魔力干渉装置の影響で、術式の構築は著しく妨げられている。
それでも少女は、残されたわずかな魔力を指先へ集中させた。
空気中の水分が凝縮し、針のように細い氷が生まれる。
「――穿て」
鋭い氷針が放たれた。
それは男の手元にあるランタンの金具を正確に打ち抜き、魔力結晶を固定していた留め具を砕いた。
「なっ!?」
結晶が外れ、石畳へ転がり落ちる。
濁った光が消えた。
次の瞬間、少女の周囲に冷気が満ちた。
地面を這うように白い霜が広がり、賊たちの足元を凍りつかせる。
「動かないで」
静かな声だった。
だが、そこには逆らうことを許さない迫力があった。
「それ以上抵抗するなら、次は足元だけでは済まないわ」
賊たちの顔から血の気が引く。
そのとき、路地の入り口から怒号が響いた。
「王都衛兵隊だ! 武器を捨てろ!」
駆けつけた衛兵たちが、抜剣して路地へ雪崩れ込んできた。
賊の一人が逃げ出そうとしたが、凍りついた足元に阻まれて転倒する。
別の男は剣を捨てて降伏し、残る数人は裏手の狭い通路へ逃走した。
衛兵たちが追跡を始める。
ようやく危険が去ったと理解した瞬間、ノエルの膝から力が抜けた。
「……はあ」
剣を下ろし、壁に背中を預ける。
肩がずきずきと痛んだ。
(参ったな。父上に知られたら、無茶をするなって叱られそうだ)
いや、母にも叱られるだろう。下手をすれば兄たちまで加わって、延々と説教されるかもしれない。
そんな光景が容易に想像できて、思わず苦笑した。
それでも、銀髪の少女が無事であることを確認すると、胸の奥に温かな安堵が広がった。
助けることができて、よかった。
本当に、よかった。
*
ルナティア・フォン・エーデルシュタインは、冷静に状況を確認していた。
救護施設への訪問を終えた帰路で起きた、明らかに計画的な襲撃。
護衛の配置を崩され、自分の魔法を封じるための道具まで用意されていた。
誰かが事前に情報を得ていた可能性はある。しかし、それがどこから漏れたのか、そもそも何者の仕業なのかは、まだ分からない。
まずは負傷した護衛たちの治療を急がなければならない。
幸い、今のところ死者は出ていないようだが、予断は許されなかった。
伯爵家の一人娘として、取り乱している暇などない。
そう思っていた。
――その青年が、こちらを振り返るまでは。
「……大丈夫ですか?」
柔らかな声がした。
栗色の髪。
陽の光を溶かし込んだような琥珀色の瞳。
少し幼さの残る、穏やかな顔立ち。
知らない顔だった。
知らない声だった。
自分の記憶のどこを探しても、目の前の青年と同じ姿をした人間はいない。
それなのに。
(…………え?)
ルナティアの呼吸が止まった。
青年が何かを言っている。
肩の傷を気にしながら、それでもこちらを心配そうに見つめている。
その瞳を正面から見た瞬間、彼女は理解してしまった。
(……あなた?)
顔は違う。声も、髪も、瞳の色も、何もかも違う。
けれど、魂だけは。
(……嘘)
間違えるはずがなかった。
何の根拠があるのかと問われても、説明できない。ただ、目の前にいるのが誰なのか、ルナティアには疑いようもなかった。
(本当に……あなた、なの?)
何度も夢に見た。
知らない街ですれ違う誰かが、突然振り返ってくれる夢。
見知らぬ声で名前を呼ばれ、それでも彼だと分かる夢。
けれど、目が覚めれば、いつも一人だった。
この世界に彼がいるのかどうかさえ分からない。
もう二度と会えないのではないか。
その恐怖は、どれほど年月を重ねても消えてくれなかった。
けれど、今。
(……いた)
胸の奥が、どうしようもなく熱い。
(いた……! 本当に、いた……!)
彼が、生きている。
自分の知らない姿で、自分の知らない人生を歩んで。
そして、また。
見ず知らずの自分を、助けてくれた。
嬉しい。
嬉しくて、苦しい。
抱きしめたい。
名前を呼びたい。
ごめんなさいと謝りたい。
何よりも、もう一度会えたことを喜びたい。
けれど、そんな資格が自分にあるのだろうか。
彼は、かつて七人の少女たちが追い詰め、死に至らしめた人なのだ。
そして今の自分は、その七人の記憶も罪も、すべてを背負っている。
その彼が、今度は自分を助けるために傷を負った。
(どうして……)
視界が滲む。
(どうして、あなたは……また、そんなふうに笑ってくれるの……?)
今すぐ抱きしめたい。
この腕の中に閉じ込めて、もう二度と離したくない。
誰の目にも触れない場所で、大切に、大切に守ってあげたい。
そんな願いが胸の奥から湧き上がり、ルナティアは思わず一歩踏み出しかけた。
――その瞬間。
指先が、かすかに強張った。
神の枷。
七つの罪を背負う自分に与えられた、逃れようのない戒めだった。
(……あ)
ルナティアは足を止めた。
今、自分は何を考えた?
もう二度と離したくない。
誰にも会わせたくない。
ずっと、自分のそばに置いておきたい。
それは、かつて七人の少女たちが願い続けたことと、何が違うのだろう。
(……違う)
ルナティアは胸の前で、そっと手を握った。
(今度は、違わなければいけないの)
彼は、誰かの所有物ではない。
自分の意思で生き、自分の望む未来を選ぶ、一人の人間だ。
その未来に自分が入り込む資格があるかどうかさえ、まだ分からない。
だから、まずは。
「……あの、大丈夫ですか?」
青年が心配そうに顔を覗き込んできた。
その距離の近さに、ルナティアの思考が一瞬止まった。
(近い……!)
彼の顔が、すぐそこにある。
琥珀色の瞳が、自分を見つめている。
(あああっ、そんなに近くで見つめないでください! いえ、見てください! もっと見ていてください! でも今は駄目なんです! 私、まだ心の準備が……!)
当然、そんな心の叫びが外へ届くことはない。
ルナティアは必死に口を開こうとした。
まずは、お礼を。
それから名前を尋ねて、怪我の具合を聞いて、できれば、もう少しだけ話をして。
言いたいことは山ほどあった。
ところが。
「…………」
声が、出なかった。
正確には、何を言えばよいのか分からなかった。
目の前にいるのは、ずっと会いたかった人。
同時に、かつて自分たちが死に追いやった人。
嬉しさと罪悪感が胸の中で絡まり合い、どれほど言葉を探しても、最初の一言さえ見つからない。
(……え? ちょっと待って)
ルナティアは愕然とした。
(私、どうして何も言えないの……!?)
神の枷ではない。
感謝の言葉を伝えることも、名前を尋ねることも、何ひとつ禁じられていない。
単純に、彼を前にして緊張しすぎているのだ。
王都で氷の姫と呼ばれ、どんな社交の場でも冷静に振る舞ってきた自分が。
たった一人の青年を前にしただけで。
(こ、こんなことって……!)
青年は彼女の沈黙をどう受け取ったのか、少し困ったように眉を下げた。
「……怖かったですよね。無理に話さなくていいですから」
違う。
怖いのではない。
嬉しいのだ。
あなたに会えたことが、どうしようもなく嬉しいのだ。
ルナティアは必死に首を振ったが、今度は青年の肩口に滲む赤い染みが目に入った。
(……血)
自分を助けるために負った傷だ。
その事実に、胸が締めつけられた。
「たいした傷じゃありませんよ」
視線に気づいたのか、青年は照れくさそうに笑った。
「ちょっとかすっただけです。ほら、ちゃんと動きますし」
そう言って腕を上げかけ、痛みが走ったのか、わずかに顔をしかめる。
(たいした傷じゃないわけがないでしょう……!)
ルナティアは思わず一歩踏み出した。
治療しなければ。
すぐにでも治癒術師を呼んで、きちんと診てもらわなければ。
必要なら伯爵家の専属術師を呼んでもいい。いや、いっそ屋敷に連れ帰って、傷が完全に治るまで手厚く看護を――。
(……あら?)
そこまで考えたところで、ルナティアはぴたりと思考を止めた。
屋敷に連れ帰る?
傷が治るまで、ずっとそばに?
それは確かに、治療のためではある。
けれど、心のどこかで、彼を帰したくないと思っていなかっただろうか。
(…………)
ルナティアは静かに視線を伏せた。
危ない。
再会してから、まだろくに言葉も交わしていないというのに。
すでに彼を自宅に迎え入れる算段を始めている。
(お、落ち着きなさい、ルナティア。まずはご本人の意思を確認するのよ。そう、確認。確認が大切なのです……!)
自分に言い聞かせていると、青年が不思議そうに首を傾げた。
「……本当に大丈夫ですか? 顔色が悪いような」
(あなたのせいです!)
危うく口にしそうになり、慌てて飲み込む。
もちろん、悪い意味ではない。
むしろ、あまりにも嬉しすぎて、どうしてよいか分からないだけなのだ。
しかし、そんな事情を何も知らない青年に説明できるはずもなかった。
青年はしばらく彼女を見つめていたが、やがて安心させるように微笑んだ。
「……もう大丈夫ですよ。衛兵も来ましたし、危ない人たちはいなくなりましたから」
そして、そっと手を差し出してくる。
「足元が凍っていますから。こちらへ」
ルナティアは、その手を見つめた。
大きくはない。
けれど、剣を握り続けてきたことが分かる、少し硬い掌だった。
前世とは違う手。
自分の知らない年月を生きてきた、今世の彼の手。
(……触れても、いいの?)
差し出された手に、恐る恐る指先を重ねる。
温かかった。
その温もりが掌から伝わった瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが、静かに溢れ出した。
(……生きている)
当たり前のことだった。
けれど、彼女にとっては、何よりも尊い事実だった。
彼は生きている。
息をしている。
自分の足で立ち、自分の意思で歩き、誰かのために剣を抜いている。
もう二度と会えないと思っていた人が、今、目の前にいる。
それだけで、涙が出そうだった。
(……ありがとう)
声にならない言葉を、心の中で何度も繰り返した。
*
その後、路地は駆けつけた衛兵や伯爵家の関係者たちで騒然となった。
倒れていた護衛は次々と救護され、捕らえられた賊は拘束されていく。
ノエルも衛兵から事情を尋ねられ、見聞きしたことをできる限り正確に説明した。
もっとも、彼自身も襲撃の事情など知るはずがない。
たまたま通りかかり、少女が襲われているのを見て助けに入った。
話せることは、それだけだった。
「君も怪我をしているな。治療所へ案内しよう」
衛兵の一人に声をかけられ、ノエルはようやく自分の肩が思った以上に痛んでいることを思い出した。
「ああ……そうですね。すみません、お願いします」
そして、少し離れた場所に立つ銀髪の少女を振り返った。
彼女の周囲には、すでに侍女や護衛らしい人々が集まっている。
どうやら、もう心配はいらないようだ。
ノエルは安堵して、小さく笑った。
「それじゃあ、失礼します。どうかお大事に」
少女の蒼い瞳が、じっとこちらを見つめていた。
しかし、返事はない。
(……まだ、ショックが残っているのかな)
無理もない。
あれほど恐ろしい目に遭ったのだ。
それに、賊を一瞬で制圧した魔法の腕前も気になる。あれほど正確に魔力を制御できる人間は、そう多くないだろう。
できれば、少し話を聞いてみたかった。
けれど、今は彼女を休ませる方が先だ。
ノエルはもう一度軽く頭を下げ、衛兵に付き添われて路地をあとにした。
一方、ルナティアはその背中を呆然と見送っていた。
(……え?)
彼が歩いていく。
少しずつ遠ざかっていく。
(待って)
名前を聞いていない。
どこの誰なのかも知らない。
それどころか、助けてもらったお礼さえ言えていない。
(待って、待ってください……!)
ルナティアは慌てて後を追おうとした。
だが、その前に侍女が駆け寄ってくる。
「お嬢様! ああ、よくぞご無事で……!」
「……ええ」
「お怪我はございませんか!? お顔が真っ青です!」
「私は大丈夫よ。それより、負傷した護衛たちの容体は?」
自分でも驚くほど、普段どおりの声が出た。
侍女は涙ぐみながら、護衛たちが治療を受けていることを説明する。
ルナティアはそれを聞きながら、遠ざかっていく青年の背中を目で追った。
(……声、出るじゃない)
侍女には、何の問題もなく話せている。
それなのに、彼を前にすると、まともにお礼も言えなかった。
(……どうして、よりによって……!)
伯爵令嬢としての礼儀作法には自信がある。
社交の場で失態を演じたことも、ほとんどない。
どんな相手にも冷静に対応できると、自分でも思っていた。
それなのに。
(私、ありがとうの一言も言えていないじゃない……!)
長い年月、探し続けた人なのに。
もう二度と会えないかもしれないという絶望に耐えながら、それでも諦めきれなかった人なのに。
その彼が、目の前に現れたというのに。
(……馬鹿、馬鹿っ! 私の馬鹿……!)
ルナティアは無意識に、胸の前で両手を握りしめた。
今なら、まだ間に合うかもしれない。
護衛に頼んで、彼を呼び戻してもらえばいい。
伯爵家の恩人なのだから、礼をするために少し時間をもらうくらい、決して不自然ではないだろう。
そう考えた直後だった。
(……いえ、いっそ帰してしまわなければ)
もう二度と見失いたくない。
彼がどこの誰で、今どこに暮らしているのか、すべて知っておきたい。
必要なら護衛をつけて、常に居場所を把握できるようにして――。
「……っ」
ルナティアの喉が、わずかに強張った。
その命令を口にしようとした瞬間、言葉が途切れたのだ。
今度は、緊張のせいではない。
神の枷だった。
本人の意思を無視して行動を監視し、自由を制限しようとする命令は、決して口にできない。
(……そう、だったわね)
ルナティアはゆっくりと目を閉じた。
また、同じことを考えてしまった。
彼を失いたくない。
その一心で、彼の自由を奪おうとしてしまった。
かつて七人の少女たちが犯した過ちを、今の自分も繰り返そうとしている。
(……ごめんなさい)
胸の奥に、鈍い痛みが広がった。
神の枷がなければ、今の自分は本当に彼を監視させていたのだろうか。
その問いには、まだ自信を持って答えられなかった。
「……お嬢様?」
侍女の声に、ルナティアは顔を上げた。
「どうかなさいましたか?」
「……いいえ、何でもないわ」
彼女はもう一度、青年が去っていった方角を見つめた。
すでに、その姿は見えなくなっている。
けれど、今度は違う。
彼は死んだわけではない。
この世界のどこかで、生きている。
自分の知らない名前を持ち、自分の知らない人生を歩んでいる。
ならば、再び会える可能性はある。
「……先ほど、私を助けてくださった方なのだけれど」
ルナティアは侍女に向き直った。
「はい?」
「衛兵の方に、身元を確認していただけるかしら。きちんとお礼をしたいの」
口にしてみれば、何の抵抗もなかった。
神の枷は発動しない。
恩人に感謝を伝えたいと願い、そのために正式な手続きを通じて連絡を取ることは、誰の自由も侵害しないからだ。
「もちろんでございます! お嬢様を救ってくださった方ですもの。旦那様にもご報告しなければなりませんね」
「ええ。お願いするわ」
侍女が頷き、衛兵のもとへ向かう。
ルナティアはその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
(……まずは、お礼から)
彼の生活を勝手に調べ上げたり、望まない接触を強いたりしてはいけない。
もし再会できたら、きちんと感謝を伝えて、名前を尋ねよう。
そして、できることなら。
(……また、お会いしてもいいですかって、聞いてみたい)
そんなことを考えて、ルナティアは少しだけ頬を緩めた。
前世の自分なら、そんなことを考えただろうか。
彼が望むかどうかなど確かめず、当然のようにそばにいようとしたのではないだろうか。
(……もし、嫌だと言われたら?)
その考えが浮かんだ途端、心臓を冷たい指で掴まれたような気がした。
会いたくない。
もう近づかないでほしい。
もし彼にそう言われたら、自分はどうするのだろう。
素直に頷けるだろうか。
彼の幸せを願って、笑顔で身を引けるだろうか。
答えは、まだ出なかった。
それでも、彼の笑顔を思い出すと、どうしようもなく嬉しかった。
*
夕暮れの王都を走る馬車の中で、ルナティアは窓の外を見つめていた。
石畳を染める茜色の光。行き交う人々の笑い声。遠くから聞こえてくる鐘の音。
昨日まで、何も感じなかった景色だった。
それが今は、どうしようもなく美しい。
「……お嬢様?」
向かいに座った侍女が、不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「何か、よいことでもございましたか?」
「……どうして、そう思うの?」
「いえ、その……」
侍女は少し迷ったあと、柔らかく微笑んだ。
「先ほどから、何度も胸に手を当てていらっしゃるので。それに、いつもより少しだけ、お顔が柔らかく見えまして」
ルナティアは目を瞬かせた。
長い間、誰にもそんなことを言われた覚えがなかった。
王都で氷の姫と呼ばれるようになってからは、なおさらだ。
けれど、今は。
(……そう)
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
(私、嬉しいのね)
自分でも驚くほど、素直にそう思えた。
名前も知らない。
どこにいるのかも分からない。
それでも、もう一度会えるかもしれない。
その希望があるだけで、世界はこんなにも違って見える。
(……見つけたわ)
ルナティアは胸の前で、そっと両手を重ねた。
(ようやく、あなたを見つけた)
そして、心の中で小さく付け加える。
(だから、お願い。今度は……私に、あなたを好きになってもらう機会をください)
もちろん、まずは名前を聞くところからだ。
それから、お礼を伝えて、できれば少しだけお話をして。
もし仲良くなれたなら、一緒にお茶を飲んだり、街を歩いたりするのもいいかもしれない。
彼の好きな料理を覚えて、誕生日には贈り物を用意して、いつかは毎朝一緒に食卓を囲んで……。
(…………あら?)
気づけば、ずいぶん先のことまで考えていた。
まだ名前も知らない青年との結婚生活を、頭の中で組み立て始めている。
しかも、なかなか具体的だ。
朝食は一緒に取りたい。
できれば夕食も。
休日には二人で出かけて、帰ってきたら暖炉の前でお茶を飲んで、それから――。
(い、いけないわ! まだお名前も知らないのに、もう結婚後の生活を考えてどうするのですか!?)
ルナティアは慌てて頬を押さえた。
幸い、侍女は窓の外を眺めており、彼女の変化には気づいていないようだった。
(……そもそも、結婚してくださるとは限らないでしょう)
もちろん、そのとおりである。
しかし、七人分の重たい恋心を抱えた彼女の想像力は、そんな正論だけで止まってくれるほど素直ではなかった。
もし彼が、自分のことを好きになってくれたら。
もし、彼の方から一緒にいたいと言ってくれたら。
そのときは、どれほど幸せだろう。
(……できれば、ずっと)
一生、そばにいたい。
朝も昼も夜も、目が覚めたときも眠るときも、できることなら片時も離れずに――。
(……駄目だわ。また、同じことを考えている)
ルナティアは小さく首を振った。
彼の未来は、彼自身のものなのだから。
自分が望むからといって、彼の人生を勝手に決めることはできない。
たとえ神の枷がなかったとしても、今度こそ、それだけは守りたい。
そう自分に言い聞かせながらも、胸の奥では甘い想像が次々と花開いていく。
どうやら恋心というものは、理屈だけではどうにもならないらしい。
ましてや、彼女が抱えているのは、七人の少女の魂が一つになってもなお消えなかった、あまりにも重たい愛情なのだから。
「……ふふっ」
小さな笑い声が漏れた。
自分でも驚いて、ルナティアは口元を押さえた。
何年ぶりだろう。
こんなにも自然に笑えたのは。
「お嬢様?」
侍女が振り返る。
「……何でもないわ」
ルナティアは、いつもの澄ました表情に戻って答えた。
しかし、口元にはまだ、ほんのわずかに笑みが残っていた。
王都で氷の姫と呼ばれる伯爵令嬢は、その日、久しぶりに自分の恋心を持て余していた。
そして数日後。
王立学園の教室で、彼女は再びその青年と顔を合わせることになる。
今度こそ、きちんとお礼を言えるだろうか。
……その前に、せめて彼の名前くらいは聞かなければ。
ルナティアはそんなことを考えながら、馬車の窓の外へ目を向けた。
夕暮れの王都は、相変わらず賑やかだった。
けれど彼女には、その喧騒さえ、どこか祝福のように聞こえていた。
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