カルテ07 山田が語る 不眠症の話
「どうしました、山田さん。何かあったのですか?」
診察室に入って来た山田のただならぬ様子を見て、中山は何かあったのだと察した。
つい2週間前の診察では、いつものように家電の話をしながら世間話をしたばかりだった。症状も安定しており、少なくとも中山が見る限り、悪化している様子はなかった。
それなのに、今の山田は明らかに様子がおかしい。
目の下にはうっすらとクマができ、少しやつれて見える。診察室の椅子に座ってからも、何かを言いたそうにしているのだが、なかなか口を開こうとしない。
「……」
中山は急かさず、山田の様子をしばらく見守った。
何かを話す準備ができていない相手に、いきなり核心を尋ねても、かえって話しづらくなることがある。
「まあ、まずは落ち着いて話しましょうか」
そう言って、中山はいつものようにカルテを開いた。
「最近、お仕事のほうはどうですか?」
いきなり症状を聞くのではなく、まずは他愛のない話から始める。
中山は山田の様子を注意深く観察しながら、少しずつ話を聞き出していくことにした。
「あの、最近いろいろあって、ちょっと眠れなくて……」
「そうですか。確かに、体調や季節の変わり目、それに生活環境の変化などで、調子を崩すことはよくありますからね」
山田の様子を見る限り、深刻な状態というより、何かを言いたそうにしているのだが、なかなか言い出せずにいるようだった。
中山は、そこである変化に気が付いた。
いつもなら診察の椅子に座ると、机の上にかわいらしい座布団を置き、その上に大事そうに携帯を置いてから話が始まる。それが山田と中山のいつもの診察風景になっていた。
もちろん、仕事帰りなどに診察へ来た時は携帯を持参していないこともあった。中山も「今日は置かないんですか?」と、尋ねたことがある。
だから、携帯がないこと自体は、それほど不自然なことではない。
ただ今日は、何かが違った。
中山はどうしようかと迷いながら山田を見ていると、その両手に何かを大事そうに包み込んでいることに気が付いた。
見覚えのあるスマートフォンだった。
山田も中山の視線に気が付いたらしい。
しばらく黙っていたが、やがて意を決したように、重い口を開いた。
「先生……眠れないんです」
「分かりました。眠れなくなったのは、いつ頃からでしょう?」
「あの、眠れないのはそうなんですが……原因が、ちょっと特殊でして」
「原因……? 何か心当たりがあるのですか?」
山田はしばらく黙っていたが、やがて両手に抱えていたものを、そっと机の上へ置いた。
「……この子です」
「……はい」
「……」
「山田さん、もしかして、ずっと声が聞こえていて、それで眠れないということですか?」
「……はい」
中山は静かに頷いた。
なるほど。
以前、恋愛相談までされてどうしたものかと思ったこともあったが、もしかすると幻聴の症状が悪化しているのかもしれない。
仕事や私生活で何か大きな変化があり、それがストレスとなっている可能性もある。あるいは、何らかの強い不安や脅迫観念が生じ、それが声として現れているのかもしれない。
いずれにしても、ここ最近の生活について、何か変わったことがあったはずだ。
中山はそう考えながら、山田の次の言葉を待った。
しかし、その予想は山田の告白によって、見事に打ち砕かれることになる。
「眠れないのは、わたしじゃなくて、この子なんです」
「……は?」
「この子が、夜になるとシクシク泣くんです」
「……あぁ……なるほど。それは心配ですよね」
中山はそう答えながら、机の上に置かれた携帯へ目を向けた。
「実は先日、SNSを見てしまったようでして。この子の評価が、その……とても低いということにショックを受けたようなんです」
「SNSで悪口を書かれたということですか?」
「はい、でもネット上でそんな評価をされているなんて、私自身も知りませんでした」
そう言うと、山田は机の上に置いた携帯を手に取り、そっと抱きしめた。まるで、泣いているわが子をあやすように。
「この子が泣いていると、どうしても放っておけなくて」
「そうですか」
中山はカルテに書き込みながら、静かに頷いた。
山田にとって、声が聞こえること自体は以前から続いている。今のところ、声に命令されて行動を制限されているわけでもない。
ただ、その声を気にするあまり、山田自身の睡眠が削られ始めている。そこは放置できない。
「でしたら、まずは夜の間は、声へ対応しないことが大切かもしれません」
「でも……」
「もちろん、聞こえることを無理に否定する必要はありません。ただ、聞こえたからといって、必ず応えてあげなければならないわけでもありませんから」
「眠る時間だけでも、少し距離を置いてみるのはどうでしょう。別の部屋に置いておくとか」
「それが……」
山田は困ったような顔をした。
「別の部屋に置くと、もっと泣くんです」
「……」
中山の手が止まった。
「そうですか……」
「はい」
「それは……困りましたね」
中山はそう言いながら、山田が大事そうに抱える携帯を見た。
心療内科の医師として考えれば、山田が十分な睡眠を取れる環境を作ることが先決だ。SNSから距離を置くことも、その一つだろう。
ただ、その対象が携帯そのものとなると、話は少し変わってくる。
「先生、こういった場合、ネットから離れるのが一番だと思うんですが……SIMカードを抜いてしまうのがいいのでしょうか?」
「……ん?」
中山は思わず顔を上げた。
さすがの中山にも、携帯電話の不眠症についての専門知識はない。SIMカードを抜いた場合に何がどう変わるのかも、詳しく考えたことはなかった。
「えーっと……山田さん。インターネットから離れるという考え方自体は、正しいと思います。ただ……」
中山は携帯を見つめた。
「携帯電話ですから、繋がらないというのは……その、大丈夫なのでしょうか?」
「やっぱり、そうですよね」
山田は真剣な顔で頷いた。
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「おさむ、わたくしの評価がおかしいの。これはいったいどういうことかしら?」
修はMDウォークマンの基板にテスターを当てながら、またお嬢様が変なことを言い始めたと、聞こえないふりを決め込んでいた。
「おさむ、聞いてますの? わたくしの評価がおかしいの」
「こんなにデザインが良くて、かわいらしいのに、3Gのパクリだとか、安定しないとか、何なのです?」
修は黙ったまま、コンデンサー容量を調べ、テスターの表示を確認する。
「文字が見えないとか、アプリが駄目とか、そんなのわたくしには関係ないことですわ」
「電池が持たないとか、高いとか、コスパが悪いとか……」
「イヤホンジャックが無いとか……」
「カメラが酷いとか……」
「動作が遅いとか……」
「熱くなるとか……」
「普通に使うだけなのにストレスが溜まるとか……」
「そもそも誰が買うんだとか……」
「存在意義が分からないとか……」
「発売されたこと自体が間違いだったとか……」
「……」
そこで、声が途切れた。
「……ぐすっ」
修の手が止まる。
「……ぐすっ」
「……」
「ひどい……」
「ひどいですわあぁぁぁぁぁん……!」
「うわっ!」
修は思わずテスターを取り落としそうになった。
「何事ですか、お嬢様! どうしたの!」
「わたくし……わたくし、頑張ってますのに……!」
「いや、何を頑張ってるのかは知らないけど……」
「みなさん、わたくしのことをそんなふうに思っていましたの……?」
「いや、まあ……」
「デザインが良いって言ってくださる方もいらっしゃるんでしょう?」
「いるんじゃない?」
「でも、評価が……評価が……」
「……」
修はテスターを机の上に置いた。
どうやら、今日はMDウォークマンの修理どころではなさそうだった。
その後もお嬢様は、SNSで見つけた新しい悪口を一つ発見するたびに泣き出した。
もちろん山田には何も見えない。
「こんな値段なら他のスマホを買うですって……」
「まあ、そういう人もいるんじゃない?」
「『買って後悔した』ですって……」
「……」
「『話題になっただけのスマホ』……」
「……」
「『見た目だけはいい』……」
「それ、褒めてるんじゃない?」
「褒めてませんわぁぁぁぁぁん!」
結局、朝になるまでバル嬢は泣き続けた。
修はほとんど眠れないまま、へとへとになっていた。
そして翌朝、修はバル嬢を大事そうに抱え、そのまま中山医院へ駆け込むことになったのだった。
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「ううぅーーーん……」
中山は非常に困っていた。
山田の症状を改善することを考えれば、まずは十分な睡眠を取れる環境を作るべきだろう。
夜になっても携帯の声に付き合い続けているのであれば、いったん距離を置くよう勧めるのが普通だ。
しかし、山田はいたって真面目に、この携帯電話のことを心配している。
「この子が泣いているのに、放っておくわけにはいかない」と言われれば、頭ごなしに「そんなものは聞こえていません」と否定するのも簡単ではない。
患者が感じていることを否定するのではなく、まずはその苦しさを受け止める。それも心療内科では大切なことだ。
では、この場合はどうすればいいのだろう。
携帯電話に向かって「大丈夫ですよ」と言えばいいのか。
いや、それでは自分まで山田の世界に入り込んでしまう。
かといって、「それは山田さんの幻聴です」と断定してしまえば、山田は二度とこの話をしてくれなくなるかもしれない。
中山はしばらく考えた。
携帯電話に不安を取り除く薬を飲めと言っても、飲めるものではない。
そして、ひとまず一番大切なことだけを確認することにした。
「山田さん、少し確認したいのですが、その携帯電話を、山田さんはどうして買ったんですか?」
「……買った理由ですか?」
「ええ。以前、高性能な携帯を売って、そちらの携帯を選んだとお聞きしました。そもそも山田さん自身は、その携帯電話をどう評価しているのかなと思いまして」
「僕ですか?」
「はい」
中山は頷いた。
「どうして、その……お嬢様と呼ぶようになったんですか? そもそも、なぜその携帯電話を選んだのか、その理由を聞かせてもらえますか」
「はい。ちょうど安く売っていたので」
「値段だけで決めたんですか?」
「それもありますけど……」
山田は手の中のBALMUDA Phoneを見た。
「最初に見た時、かわいいと思ったんですよ」
「かわいい?」
「はい。小さくて、丸っこくて。前の携帯よりずっとシンプルでしたし」
「つまり、性能よりも?」
「……こっちの方がいいと思ったんです」
中山は黙って山田の言葉を聞いていた。
「山田さん、もし、その携帯電話がSNSで言われているように、本当に使い物にならなかったとしたら、どうしていました?」
「……手放します」
「ですよね」
中山は少しだけ笑った。
「では、今まで使い続けているのは?」
「……気に入ってるから、でしょうね」
「その携帯電話には、専用の座布団まで用意しておられますよね」
山田は少し恥ずかしそうにした。
「それは……お嬢様が硬いところに置くなって言うので」
「でも、用意したのは山田さんですよね?」
「……はい」
中山はカルテに目を落とした。
「では、世間の評価と、山田さん自身の評価。どちらがその携帯電話にとって大切だと思いますか?」
「……自分の評価、ですかね」
「そうだと思います」
中山は静かに言った。
「山田さんは、その携帯電話を性能だけで選んだわけではないんですよね」
「……はい」
「だったら、他の人がどう評価しているかは、山田さんがその携帯電話を大切に思うこととは別の話なのではないでしょうか」
山田は手の中の携帯電話を見つめた。
「……そうかもしれません」
「それに」
中山は少しだけ考えてから続けた。
「私はこれまで、いろいろな患者さんを診てきましたが、自分の携帯電話に、ここまで座り心地のいい場所を用意してあげる人は、居ないと思いますよ」
「……」
山田は携帯電話を見つめた。
「……何?」
中山には聞こえない声に、山田が小さく返事をする。
「うん、まあ……たぶん」
そして、少しだけ困ったように笑った。
「また、泣くなよ」
「そうだよ」
中山には何も聞こえない。
それでも、山田の受け答えを聞いているうちに、何が聞こえているのか、なんとなく想像できるような気がした。
山田の表情が、少しだけ緩む。
しばらくして、山田が晴れやかな顔でこちらを向いた。
「先生……確かに先生の言う通りです。買った理由は偶然ですが、僕はこの子のことを気に入っていたんですね」
「私は、そう思いますよ」
山田はしばらく携帯電話を眺めていた。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……そうだよ。他人が何と言おうと、僕が気に入っていれば、それでいいじゃないか」
中山は頷いた。
「ただし、眠れないほど気にしてしまうのであれば、SNSからは少し離れた方がいいでしょう。評価を見る必要がなければ、見ない。それでも声が聞こえて眠れないなら、その時はまた一緒に考えましょう」
「分かりました」
山田はようやく納得したように頷いた。
「ありがとうございます」
よく分からないが、携帯との付き合い方に、山田なりのケジメが付いたのだろう。
診察室から出ていく山田を見送った後、中山はカルテに今日の診察内容を書き込む。
症状についての記録を書き終え、最後に小さく一言だけ付け加えた。
――チョロミューダフォン。




