カルテ06 中山が思う 家族の話
「確かに、私も電子レンジは温め以外には使いませんね」
中山がそう答えると、山田も首を振る。
「私もそうです。でも、声を聴いてしまうと、どうして人は高機能を求めてしまうんだろうと思うこともあります」
「高機能であること自体が、悪いわけではないと思いますよ」
中山はそう言ってから、カルテに目を落とした。
「ただ、山田さん。声が聞こえることで、仕事や普段の生活に支障は出ていますか?」
「いえ、特には。ただ、気になってしまうことはありますね」
「その声に従わないといけないとか、声のせいで何かをしなければならない、ということは?」
「そこまではないです。聞こえたことに対して、返事をすることはありますけど」
「なるほど」
中山は頷きながらカルテに書き込んだ。
幻聴というものは、それ自体が必ずしも治療の対象になるわけではない。問題になるのは、それによって本人が苦しんでいるか、生活に支障が出ているか、あるいは声に強く影響されて行動を制限されてしまっているかだ。
山田の場合、今の所、そこまで深刻な状態には見えない。
「でしたら、無理に聞こえなくしようとするのではなく、今の自分の一部として受け止めてしまうのはどうでしょう?」
「自分の一部ですか?」
「ええ。声が聞こえることそのものを、すぐに良い悪いと判断する必要はありません。『家電の君たちはそう感じるんだな』くらいに受け止めて、その上で、自分がどうするかを決めるんです」
「なるほど……」
「聞こえることと、それにどう対応するかは別のことですから」
山田は少し考えてから頷いた。
「じゃあ、何か言われても、『今日は忙しいから、また今度』くらいでいいんですね」
「……まあ、そのくらいでいいと思います」
中山は苦笑した。
「大事なのは、声が聞こえたからといって、必ずそれに従わなければならないと思わないことです。もし今後、声が原因で眠れなくなったり、仕事ができなくなったり、何かをしろと命令されて困るようなことがあれば、その時は遠慮せずに話してください」
「分かりました」
山田は素直に頷いた。
中山は心療内科の医師として、今の助言が最善なのかは分からない。
それでも、症状をただ消そうとするのではなく、山田自身がそれとどう付き合っていくかを一緒に考えることも、治療の一つなのだろうと思った。
それからしばらく、2人は他愛のない話をした。店の近くに新しいコンビニができたことや、最近は家電の修理より買い替えを勧められることが多くなったこと、
昔の家電は妙に丈夫だったという話まで、診察というより世間話に近い時間が続いた。
その途中で、ふと山田が言った。
「先生も、昔からこの医院なんですよね」
「ええ。祖父がやっていた医院ですから」
「そうなんですか」
「はい。私が子供の頃から、ここにはずっと来ていました」
「じゃあ、先生にとっては実家みたいなものですね」
中山は一瞬だけ黙った。
「……まあ、そうですね」
何気ない一言だった。
山田はそれ以上追及することなく、別の話へ移った。だが、中山はその言葉が妙に引っかかった。
実家、そう言われれば、確かにそうなのかもしれない。
「ところで山田さん、今後についてですが」
中山は話を切り替えるようにカルテへ目を戻した。
「今のところ、日常生活に大きな支障は出ていないようですから、しばらくはこのまま様子を見ていきましょう。薬についても、今の段階では無理に使う必要はないと思います」
「分かりました」
「もし眠れなくなったり、仕事に支障が出るようになったりしたら、その時はまた相談してください」
「はい」
山田は素直に頷いた。
そして診察を終え、いつものように椅子から立ち上がったところで、ふと思い出したように振り返った。
「あの、先生」
「はい?」
「……私も先生と同じで――」
そこまで言って、山田は口を閉じた。
中山は山田の顔を見た。
山田も何か言いかけたまま、ほんの一瞬だけ中山を見ていた。
「……いえ。なんでもないです」
「そうですか」
中山はそれ以上聞かなかった。
患者が自分から話さないことを、こちらから無理に聞き出す必要はない。そういう判断だった。
「では、また来週に」
「はい。ありがとうございました」
山田は頭を下げ、診察室を出ていった。
扉が閉まり、待合室へ向かう足音が遠ざかっていく。
中山はしばらくそのまま椅子に座っていた。
さっきの山田の言葉が、なんとなく頭に残っている。
結局、何を言おうとしたのかは分からなかった。
中山はカルテを閉じ、机の端に置いた。
そして、ふと壁に掛けられた古い写真へ目を向ける。
そこには、幼い頃の自分と祖父が写っていた。
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中山医師は、5歳の時に両親を災害で失っている。
当時のことを思い出そうとしても、今となってはほとんど記憶に残っていない。ただ、ひどく暗かったことだけは覚えている。
何が起きたのか、両親がどこにいたのか、その時にどんな言葉を交わしたのか。幼かった自分には、あまりにも大きな出来事で、心が受け止めきれなかったのかもしれない。
覚えているはずのことまで、暗闇の向こう側に置き去りにされてしまったように、何も思い出すことができない。
両親を失った後、中山は祖父に引き取られた。
祖父は、この小さな医院を一人で切り盛りしていた。
中山にとって、この医院は物心ついた頃から身近にある場所だった。
待合室の古い椅子も、診察室の机も、壁に掛けられた時計も、子供の頃から何一つ変わっていない。
学校から帰れば医院に顔を出し、祖父が診察している隣の部屋で宿題をしたこともある。
患者が帰った後、祖父と二人で夕食を食べることも珍しくなかった。
両親との思い出がほとんど残っていない中山にとって、祖父と過ごした時間こそが、家族というものを知るための唯一の記憶だった。
大学まで行かせてもらったのも祖父だった。
医師になると決めた時も、祖父は特別なことを言わなかった。
ただ、「そうか」とだけ言って、いつものように笑っていた。
今になって考えれば、随分と頼りない返事だったと思う。
それでも、あの時の中山には、それで十分だった。
医師免許を取得し、社会人として働き始めた頃、祖父はその姿を見届けるように亡くなった。
最後まで、この医院のことを気にしていた。
「全部、お前に任せる」
それが祖父から中山に残された、最後の言葉だった。
その後、中山は祖父からこの医院を受け継いだ。
あれから何年も経った今でも、診察室に座っていると、時々祖父の姿を思い出すことがある。
患者の話を聞き、カルテを書き、必要なら薬を出す。
やっていることは違っていても、この場所で毎日患者と向き合っているということだけは、昔の祖父と変わらない。
考えてみれば、自分の人生には「家族」と呼べるものがほとんど残っていない。
父も母もいない。
祖父もいない。
それでも、家族がいなかったとは思っていない。自分を育ててくれた祖父がいて、その祖父と過ごしたこの医院がある。中山にとっては、それだけで十分だった。
中山は診察室を見回した。
古びた机も、壁の時計も、昔から変わらない。
中山は小さく息を吐いた。
「……ちゃんとやってるよ」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
もちろん、返事はない。
それでも中山は、少しだけ笑った。
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帰宅した山田には、「ただいま」という習慣がない。
一人暮らしだから、言う相手がいない。
それは今に始まったことではなかった。山田もまた、家族を阪神・淡路大震災で失っていた。
当時のことは、今でもはっきりと覚えている。
まだ外は暗く、山田は布団の中にいた。突然、家全体が大きく揺れた。何が起きたのか分からなかった。
ただ、これまで経験したことのない揺れに、幼い山田は布団の中で身を固くしていた。
血だらけになりながら倒壊した自宅から這い出したこと、必死に家族の名前を叫んだこと、今でも鮮明に覚えている。
そして、あの日を境に「ただいま」と言える相手がいなくなった。
玄関で靴を脱ぎ、いつものように部屋へ入る。
静かな部屋の中で、山田はテーブルの上に置かれたBALMUDA Phoneを見た。
すると、いつもの声が聞こえてきた。
「まあ! お帰りになりましたのね!」
山田は、少しだけ笑った。
「ただいま、お嬢様」
その言葉が、自分の口から出たことに、山田自身が少し驚いていた。
「今日も言えませんでしたの?」
「僕は患者で、先生は医者だよ。先生の家族のことを、あれこれ言ったり干渉したりするのはどうかと思うよ」
山田はそう言ってから、少し考えてからボソリとつぶやく。
「……あの子の言いたいことも分かるけどね」
山田の頭には、診察室で聞いた、あの古いプリンターの声が残っていた。




