カルテ02 山田が語る 引退希望
診察室の時計が、午後の4時を指した。
中山はカルテを整理しながら、ふと窓の外を見た。
今日は比較的静かな一日だった。
その時、待合室から聞き覚えのある声がした。
「こんにちは」
中山は顔を上げた。
受付の方を見ると、山田が立っている。
「……山田さん?」
「どうも」
「その後の調子はどうでしょう?」
山田は申し訳なさそうに頭を下げた。
「薬、飲んでみました」
「そうですか」
中山は少し安心した。
前回、処方した薬を強制するつもりはなかったが、試してみてほしいとは伝えていた。
「何か変化はありました?」
「声そのものは、聞こえます」
「……そうですか」
「ただ、先生と話せたおかげか、前より少し楽になりました」
「それは良かった」
中山はカルテを開いた。
「では、今日はそのあたりを詳しく――」
「先生」
山田が遮った。
「今日は、薬の話じゃないんです」
「はい?」
「最近あった話なのですが」
中山はペンを持ったまま止まった。
「……家電ですか」
「はい」
山田は少し考えてから語り始めた。
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修は、店に持ち込まれた修理品を調べていた。
今日の依頼品は、業者が持ち込んだ掃除機だった。
「使っている途中で、突然スイッチが入らなくなった」
話を聞く限り、特に珍しい故障ではない。
修が本体を持ち上げると、原因はすぐに分かった。
「トリガーか……」
このタイプの掃除機では、よくある故障だった。
持ち込んだ業者も、それは分かっているらしい。
「かなり酷使してるからな。ここのスイッチとバッテリーがよく壊れるんだよ」
「なるほど」
「新品の部品じゃなくてもいい。中古で程度のいいやつがあれば、それで安く直してくれ」
普段なら、修は断っている。
修理業者として、客から預かった製品に中古部品を使うのは、いろいろと面倒がある。
しかし、この業者は店の社長の知り合いだったので、修も断りづらかった。
「分かりました。ちょっと探してみます」
修は店の奥にある部品置き場を漁った。
しばらくして、廃棄予定の箱の中から同型の掃除機を見つけた。
「これなら使えそうだな」
1年ほど前に廃棄されたものだった。
本体は駄目になっているが、トリガー部分はまだ使えそうだ。
修は掃除機を作業台に載せ、分解を始めた。
カバーを外し、内部の配線を確認する。
その時だった。
<なぁ……頼むよ>
修の手が止まった。
<俺、引退したいんだよ>
「…………」
修は聞かなかったことにして、作業を続けた。
<もう、吸うのは嫌なんだよ>
「…………」
<なぁ、頼むって。直してくれるのはありがたいんだけどさ、直したらまたあそこに戻されるんだろ? 俺、もう嫌なんだよ。あそこで使われるくらいなら、このまま壊れたことにしてかくまってくれよ>
修は黙っていた。
家電の声が聞こえるようになってから、こういうことには慣れている。
声が聞こえても、できるだけ返事はしない。
自分の精神を守るためでもある。
それに、家電から聞こえてくる話は、たいていロクなものではない。
「…………」
<頼むからさ、俺のこと引退させてくれよ。退職届を書いてくれとは言わないからさ。せめて、もうあの現場には戻さないでくれ>
引退。
修は眉を寄せた。
これは初めてだった。
今まで聞いたことがあるのは、
「捨てないでくれ」
「もっと丁寧に使ってくれ」
「こいつ、使い方が酷すぎる」
といった愚痴ばかりだった。
だが、引退したいという家電は初めてだ。
「…………」
<なぁ、聞いてるんだろ?>
「おれは、直すのが仕事だ」
修はとうとう口を開いた。
「それ以外のことはしない」
<そこをなんとかならないか?>
掃除機は、すがるような声を出した。
<なんなら、ここで働かせてくれよ。こう見えても、そこそこ強力に吸えるぜ。普通の家の掃除くらいなら、まだまだ現役でいける。髪の毛でもホコリでも、何でも吸う。でも、あそこはダメだ、帰りたくないんだよ>
「客から預かった物を取り上げるなんてできるわけないだろ」
<でもよぉ……>
「お前がどんなところで使われたのかは知らないが、俺には関係ない」
<もう嫌なんだよ>
掃除機の声が震える。
<お前には分からないんだよ。俺がどれだけ辛いかなんて、お前には分からない。家庭用の掃除機として、きれいな家で使われると思ってたんだよ。見た目だってそうだろ? 俺だって、それなりに格好いい掃除機なんだよ>
修は、無言で本体を見る。
確かに傷だらけだった。
ところどころ擦り傷があり、表面もかなりくたびれている。
本来なら、家庭で使われることを想定した、おしゃれな高級掃除機だ。
それが今では、見るからに酷使されている。
<うぇっ……うっ……うえぇぇぇ>
修の手が止まった。
とうとう掃除機が泣き始める。
よほど辛いのだろうか。
そうしているうちに、掃除機は静かに語り始めた。
その過酷な環境について。
<おれの働き場所はさ、害虫駆除の現場だったんだよ>
<買ってもらって箱から出された時、新築の家で、若い夫婦がおしゃれなフローリングの床を掃除するのを想像するじゃん>
<でも、いきなりだぞ。保護フィルムも取っていない状態で、半分生きたままのアレを吸わされたんだ>
<思ってみろよ。油でギトギトの中華料理屋で、ホウ酸ダンゴ食って大量に死んだアレの群れの中に、ノズルを突っ込まれる気分を>
<生きてる奴もいるんだぞ。卵みたいなのまで吸わされたことがある。俺の中に入ってくるんだぞ。カサカサ動いてるんだぞ。それを俺は、どうしろっていうんだよ>
掃除機の声が、少しずつ震えていく。
<それがサイクロンの中で高速でぐるんぐるん回る。マジで吐きそうになったんだぜ>
修は、とうとうドライバーを置いた。
「掃除機が吐きそうって……」
修は思わず呟いた。
<笑うなよ!>
その声は、本気で泣いていた。
<こんなはずじゃなかった。こんなのは間違ってる。そう、間違ってるんだ。掃除機にもいろいろあるし、それにふさわしい働き口があっていいはずだろ……>
修は傷だらけの本体を見つめた。
どうやら、この掃除機は本当に限界らしい。
そして、修理を始めたことで、その過酷な仕事に戻される未来まで見えてしまったのだろう。
<だから頼むよ……>
掃除機は静かに続けた。
<直してくれ。でも、あそこには戻さないでくれ>
<俺、まだ捨てられたくないんだよ。勘弁してくれよ>
修は、気の毒に思いながらも、作業を続けた。
「まあ……気持ちは分からんでもないけどな」
そう呟きながら、壊れたトリガーを交換する。
ほどなくして、スイッチは正常に動くようになった。
「よし。直ったぞ」
<……そうか>
掃除機の声が、明らかに落ち込んでいる。
<これで……また戻らなきゃいけないんだな>
「悪いな」
修は掃除機を見つめた。
ここで預かった物を勝手に隠しておくわけにはいかない。
それでも、少しくらいならできることはある。
「ここでかくまってやることはできない。でも、業者に返す時に言っておくよ」
「これは家庭用の掃除機だ。過酷な現場で使うようにはできてない。できるだけ普通のゴミを吸うようにってな」
しばらく沈黙があった。
<……本当か?>
「ああ。ちゃんと伝える」
<ありがとう……恩に着るよ。ありがとう。本当にありがとう……>
掃除機の声が、少しだけ明るくなった。
「気にするな」
修はそう言って、修理を終えた掃除機を作業机の上に置いた。
その直後だった。
「ちょっとーっ!」
店舗から、社長の奥さんが慌てた様子で駆け込んできた。
「おさむちゃん、殺虫剤どこ!?」
「え? 殺虫剤ですか?それならそこの棚の――」
修が場所を教えるより早く、奥さんは棚から殺虫剤を取り出した。
奥さんは殺虫剤を片手に持ち、もう片方の手で修理が終わったばかりの掃除機を掴んだ。
「ちょっと借りるわね!」
「え?ちょっと待っ――」
そのまま、店舗の方へ走っていく。
「……」
修は呆然とその後ろ姿を見送った。
そして――。
キュイィィィィィィィ――――ンンンンン!
店の奥から、力強いサイクロン掃除機の音が響き渡った。
<裏切ったなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!>
<約束しただろうがぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!>
<やめろろろろろぉぉぉーーーうあぁぁぁぁーー嫌だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!>
修は、ゆっくりと天井を見上げた。
「……世の中、うまくいかないな」
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「……というわけで、本当に悪いことしてしまったなと、罪悪感が……」
山田は淡々と話を続けていた。
中山は、黙って下を向いていた。
虫は嫌いだった。
特に、あの黒くて素早い奴だけは苦手だ。
できれば今すぐ、その話をやめてほしい。
しかし、患者の話を途中で遮るわけにもいかない。
「……そうですか」
なんとか平静を装いながら、中山は相槌を打った。
「先生、大丈夫ですか?」
「ええ。大丈夫ですよ」
中山は顔を上げた。
「ただ……私も、なんとなくですが、そんな職場は勘弁願いたいと思いました」
「掃除機も、いろいろ苦労してるんですね」
「そうなんですよ」
山田は少し考えてから、続けた。
「でも、マキタはそんなことないんです」
「マキタ?」
「はい。マキタの掃除機です」
山田によれば、マキタの掃除機は少し違うらしい。
<俺たちは職人だからな>
<ゴキブリだろうが、何だろうが関係ねぇ。それが与えられた仕事なら、吸う。それが俺たちの仕事だ>
「……なるほど」
中山は少し感心した。
「職人っぽいですね」
「そうなんです」
山田は頷いた。
「ただ……」
「ただ?」
「どうしても、互換バッテリーだけは許せないそうです」
中山は首を傾げた。
バッテリーなんて、どれも似たようなものではないのか。
「そんなに違うものなんですか?」
「本人は、ものすごく嫌がってました」
山田は淡々と、マキタの言葉を語り始めた。
<バッテリーなんて、どれでも一緒だと思ってる奴がいるだろ?>
<純正品と同じように使えるって書いてあるからって、安い互換品を買ってくるんだよ>
<あれだけは許せねぇ>
中山は聞き直す
「なぜです?」
山田は少し間を置いて答えた。
「看板に期待してキャバクラに入ったら、バケモンしかいなかった気分だと」
「…………」
中山はしばらく黙っていた。
そして、静かに一言。
「……例えが最低ですね」




