第8話「雨の終わり」
その日の雨は、どこか違っていた。
朝から降り続いていたはずなのに、空の色が少しずつ明るくなっている。雲の隙間から、わずかに光が滲み始めていた。
凛は、その変化に気づかないふりをしていた。
気づいてしまえば、この時間が終わると認めることになるから。
「……ねえ、凛」
蒼の声は、いつもより静かだった。
「そろそろ、だね」
その一言で、もう誤魔化せなくなる。
凛は何も答えず、ただ俯いた。
視界の端で、地面に落ちる雨粒の数が減っていくのがわかる。
「本当はさ」
蒼がゆっくりと言葉を紡ぐ。
「もっと早く、離れたほうがよかったんだ」
「……なんで」
かすれた声で返す。
「凛が苦しむから」
あまりにもまっすぐな答えだった。
凛は唇を噛む。
「でも、できなかった」
蒼は小さく笑う。
「会うたびに、楽しくてさ」
その言葉に、胸が強く締めつけられる。
「凛と話す時間が、どんどん特別になっていった」
雨音は、もうほとんど聞こえない。
代わりに、遠くで鳥の鳴き声が響き始めている。
「だから、ごめん」
蒼の姿は、はっきりと薄くなっていた。
向こう側の景色が透けて見えるほどに。
「勝手に、凛の中に残るようなことして」
「やめて」
凛は顔を上げる。
涙がこぼれるのも構わず、一歩踏み出す。
「謝らないで」
震える声で言う。
「残っていいに決まってる」
もう距離なんて関係なかった。
「消えるとか、いなくなるとか——」
言葉が詰まる。
それでも、絞り出す。
「そんなの、納得できるわけない」
蒼は静かに凛を見つめる。
その目は、驚くほど穏やかだった。
「……うん」
小さく頷く。
「でもね、凛」
最後の言葉を選ぶように、ゆっくりと続ける。
「終わるからこそ、大事なんだと思う」
凛は首を振る。
「そんなの……綺麗ごとだよ」
「そうかもね」
蒼は否定しない。
ただ、少しだけ寂しそうに笑う。
その瞬間、最後の雨粒が地面に落ちた。
空が、完全に晴れる。
光が差し込む。
「——あ」
凛の声が震える。
蒼の輪郭が、大きく揺らいだ。
「蒼……!」
手を伸ばす。
届くはずの距離。
けれど——
指先は、何にも触れなかった。
まるで空気を掴むみたいに、すり抜ける。
「凛」
蒼の声だけが、まだそこにある。
「ありがとう」
その言葉と同時に、姿がさらに薄れていく。
「やだ……」
涙が止まらない。
「まだ、ちゃんと……」
伝えたいことが、たくさんあった。
言い足りない言葉が、胸の中に溢れている。
けれど——
「またね」
蒼は、最後にそう言って笑った。
次の瞬間、その姿は完全に消えた。
あとには、晴れた空と、静かなバス停だけが残る。
雨の匂いだけが、かすかに漂っていた。
凛は、その場に立ち尽くす。
伸ばした手を、ゆっくりと下ろしながら。
——雨は、もう降っていなかった。




