第6話「選べない距離」
その日の帰り道、凛の頭の中はずっと蒼のことでいっぱいだった。
輪郭が揺らいだあの瞬間。あれは見間違いなんかじゃない。蒼自身も、それを否定しなかった。
——“長くいられない”
その言葉が、何度も胸の中で反響する。
次に雨が降るまでの数日が、やけに長く感じられた。
そしてようやく訪れた雨の日。
凛は半ば走るようにバス停へ向かった。
「……来たんだ」
そこには、いつもと変わらないように見える蒼がいた。
けれど、凛の目にはもう“同じ”には映らない。
「昨日の話、続き」
息を整えながら言う。
「ちゃんと聞かせて」
蒼は少し困ったように笑う。
「凛、強くなったね」
「はぐらかさないで」
間髪入れずに返す。その声はまっすぐだった。
蒼はしばらく黙っていたが、やがて観念したように口を開いた。
「俺はね、この“雨の時間”にしか存在できないんだ」
「……存在?」
「晴れたら消える。正確には、“ここにはいられなくなる”」
凛は言葉を失う。
頭では理解しようとしているのに、感情が追いつかない。
「じゃあ……今までも?」
「うん。雨が降るたびに、ここに来てた」
まるで当たり前のことのように言う蒼。
「凛と会う前から、ずっと」
その言葉に、胸が少しだけ痛む。
「……なんで」
かすれた声で問う。
「なんでそんなことになるの」
「それは——」
蒼は一瞬だけ言葉を止める。
けれど結局、首を横に振った。
「まだ、全部は話せない」
「またそれ……」
苛立ちが滲む。
知りたいのに、届かない。
「でも一つだけ、はっきり言える」
蒼が真剣な目で凛を見る。
「この時間は、ずっと続かない」
その言葉は、容赦なく突き刺さった。
凛の指先が、ぎゅっと握りしめられる。
「じゃあ……どうすればいいの」
思わず零れた言葉。
蒼は少しだけ驚いたように目を見開く。
「どうすればって?」
「だって、このままじゃ——」
そこまで言って、凛は息を飲む。
自分が何を言おうとしているのか、理解してしまったから。
——離れたくない。
その気持ちが、はっきりと形を持ち始めていた。
蒼はゆっくりと視線を逸らす。
「……選べないんだよ」
「え?」
「俺にも、凛にも」
静かな声。
けれど、その中には諦めが混じっていた。
「雨が降るかどうかも、いつ終わるかも——全部、俺たちの外にある」
どうしようもない現実。
凛は唇を噛む。
「そんなの……」
納得できるはずがない。
そのとき、ふと気づく。
蒼の手が、うっすらと透けていることに。
「……蒼」
震える声で呼ぶ。
蒼もそれに気づいて、苦く笑った。
「ほらね、こうなる」
雨は、少し弱くなっていた。
それだけで、存在が揺らぐ。
凛の胸が締めつけられる。
「やだ……」
無意識に、一歩近づく。
触れられるかもわからない距離まで。
「消えないで」
初めて、はっきりと口にした願い。
蒼は一瞬だけ目を見開いて——
そして、優しく笑った。
「……困るな、それ」
その笑顔が、あまりにも切なくて。
凛は、初めて知る。
——この想いは、もう引き返せないところまで来ているのだと。




