第30話 呼び声
それは、ワーウルフとは比較にならない巨体を誇っていた。
四足歩行の獣。それでいてなお五メートルは優に超える。
肩は岩のように盛り上がり、前脚は大木ほどもある太さ。
何より目を引くのは、その右前脚だった。
……鎌のように湾曲した巨大な爪。
黒とも灰ともつかない長い体毛に覆われ、その一歩ごとに低い地鳴りを響かせながら地面を揺らしている。長い爪が岩肌を擦るたび、硬い岩盤に三本の深い傷が刻まれていった。
――三本傷。
もはや疑いようもない。
奴が、ワーウルフが最も恐れていた相手だ。
「――――」
低く唸るだけで、空気そのものが震えた。
ワーウルフは頭を伏せ、震え、裁きを待つ罪人のようにその場に跪いている。獣は赤い瞳でそれらを睥睨していた。
そしてひどく緩慢な動作で丸太のような左脚を持ち上げると――蚊でも潰すように奴らの頭上へと叩き付けた。
脚をどけるまでもない。
じわりと染み出すように流れる血が、奴らの最期を物語っていた。
水を打ったように静まり返り、一拍。
堪えきれないとばかりに数多くのワーウルフが逃げ出した。
そして――蹂躙が始まった。
「……いきなり現れて、何なんですかあいつ」
「静かにしろ」
朱音の口を手で塞ぎ、少し強めに押さえる。
俺自身も岩陰へ身を沈め、息を殺した。
今、あいつの注意は逃げ惑うワーウルフへ向いている。
わざわざこちらの存在を教えてやる必要はない。
朱音が小さく頷いたのを確認してから、俺はゆっくりと手を離した。
「……いきなりじゃない。奴は最初からずっといた」
囁くような小声で、俺は続ける。
「恐らくだが、三本傷は奴の縄張り、または痕跡を発見した時に刻む目印なんだろう。確かに俺たちもワーウルフを追い立てていたが、実際は奴に追い詰められていたって方が正しいかもしれないな」
「……なるほど。だから私達が何もしていない時まで、急に耳を立てて逃げていたんですね」
「ああ。野営地を頻繁に移していた理由も、獲物を追うためだけじゃなかったのかもしれない」
獣は逃げ惑うワーウルフにいとも容易く追い付き、その巨大な爪で切り裂き、突き刺し、喰らっている。ワーウルフは反撃らしい反撃もできず一方的に捕食されていた。
あれだけ力の差があるのなら、拠点を持たずに逃げ続ける理由も納得しかない。
「……ボス、ですか」
雪村さんの呟きに、俺は頷いた。
「分かりません。けど、可能性はかなり高いと思います」
「……移動するボスとかありですか?」
「ありだろ。拠点を構えていなくちゃいけない理由はない」
それに一層のホブゴブリンも移動していた。
最初からそうなのだから、もうダンジョンでは何でもありだ。
「少なくとも、今まで見てきた三層の中では一番だろう。倒してみる価値はある」
「そうですね。私はてっきりワーウルフの長的存在がそうなのかと思ってましたけど、まさか獣人ではなくただの獣がボスとは。やはり暴力こそがダンジョンでは正義ですね」
そう言って、なぜか朱音が俺を見てくる。無視だ。
……ただの獣、か。
奴の容貌は狼に似ている。だがあれを狼と呼ぶのは狼に失礼だ。
顎は異様に長く裂け、口を閉じても牙が何本もはみ出している。獣という概念をそのまま巨大化させたような化け物、といった方が正確だろう。
「……魔狼、かな」
「なぜいきなり命名を……それに三本爪の方が象徴的では?」
「名前がないと不便だろ。三本爪は部位であって名前じゃない」
また簡単な名前をと思われてそうだが、異論は特にないらしい。
魔狼が名前なのかは置いておく。分かれば何でもいい。
……とりあえず、一旦出直した方がいいか。
魔狼はワーウルフを赤子の手をひねるように殺している。ろくに反撃も許していなければ、槍で突かれても大した痛手は負っていない。全て分厚い筋肉に阻まれている。
今やり合っても勝てるかどうか分からない。もう少しレベルを上げるか、弱点の一つでも見つけてから挑んだ方がいい。
やがて、魔狼が最後のワーウルフを三本爪で串刺しにし、そのまま口へ放り込んだ。
……呆気ない終わりだったな。
せめて傷の一つでも負わせてくれれば、少しは参考になったんだが。これでは何の手掛かりにもならない。
魔狼はこちらまで聞こえてきそうなほどボリボリと音を立て、ワーウルフを噛み砕いている。俺はそれを注視しながら、朱音と雪村さんに撤退の合図をしようと手を上げ――
……魔狼の赤い瞳と、目が合った。
「――離れろッ!」
叫び、岩陰を飛び越えるように躍り出ると、魔狼が凄まじい速度で距離を詰めてきた。
遠目にいたのに、一秒後には既に目の前。
振り下ろされた三本爪に合わせ、俺は大斧を振り上げて受け止めた。
……突進の勢いもあってか、一瞬だけ意識が飛びそうになった。
「お、お、おおおおおッ!」
じりじりと押し込まれる大斧を気合だけで支える。気を抜けば、その瞬間に俺は死ぬ。
――力は拮抗。いや俺が明確に負けている。
ほんの少し体重を乗せれば、それだけで俺は潰れるはずだ。なのにどうして俺は生きている。
魔狼の瞳には俺が映っていた。奴は俺しか見ていない。
その目が明らかに、珍しい玩具を見るように歪んでいた。
……このクソ野郎がッ。
「先輩ッ!」
「――ッ」
横合いから放たれた朱音の矢を、魔狼が跳ねるように身を躱す。着地の隙を狙って雪村さんが追いかけるが、それを上回る速さで再度跳んだ。
高い岩の上へ悠然と降り立ち、俺たちを虫けらのように見下ろしてくる。
「――ォォオオーーーーンッ!」
……歓喜にも似た、魔狼の遠吠え。
まるで一種の魔力でも帯びていそうなその声に、思わず萎縮し、跪いてしまいそうになる。なるほどワーウルフの怯えようが少しは分かった気がするが、今はどうでもいい。
……状況だけなら、強さを除いて五分五分と言っていい。
しかし、奴と同じ条件で戦うことがそもそも間違っている。
少なくとも、魔狼は俺より力が強く、雪村さんより脚が速い。正面衝突は最後の手段とするべきだ。
魔狼は最初から俺たちに気付いていた。その上で後回しにされていた。
恐らくあのまま帰っていれば、その日のうちに追ってきただろうと確信できる。あれはそういう、どこまでも追ってくる獣の目だ。
だが、一度撒いてしまえば逃げ切ることはできるはず。それが可能であることはワーウルフが証明している。俺たちにもやってできないことはないはずだ。
……問題はどう逃げるかだが――決まった。
先に動いたのは俺だった。
地面を蹴り砕くほどの衝撃で一歩目を踏み込む。すぐに魔狼が反応した。
互いにスピードの乗った一撃を合わせる。そのまま押し込まれそうになった爪を大斧で流すように避け、返す刀で連撃を放った。
振り上げ、振り下ろし、横薙ぎ、回転横薙ぎ。
最後の攻撃で魔狼が後方に大きく下がる。それ以外は流された。
「俺が囮になる! 二人は離脱しろ!」
……誰かが引き留めなければ、逃げ切れる相手じゃない。
その役目が担えるのは、俺以外いないだろう。
すぐに意図を察してくれたのか、二人が言葉もなく背中を見せる。だが魔狼は一人も逃がす気はないらしい。凄まじい速度で二人へ追いすがった。
それくらい予想している。
魔狼が反応するより早く俺はその進路へ飛び込み、二人との間に立ちはだかった。
「行かせるわけないだろ」
「グルルルルル……」
魔狼が苛立ちを露わにし、初めて眦を釣り上げた。
怒りを叩きつけるように左前脚を振り下ろしてくる。紙一重で左へ逃れると、続けざまに三本爪が横薙ぎに迫った。爪と爪の間を潜り抜け、肩を掠めさせながら回避する。
……攻撃はいらない。時間を稼げればいい。
避けれる攻撃は避け、不可避の攻撃は大斧で受け止める。魔狼の爪は想像以上に鋭く、掠っただけで俺の身体が紙切れのように裂かれていった。魔狼の爪を受け止め続けた大斧に至っては、すでに刃が半ばまで欠けている。
だが耐えられる。二人が逃げる時間は十分に。
そう思った瞬間、魔狼が厭らしく口を歪めた。
後ろ脚を振り上げ、強く地面に叩き付ける。地面が激しく揺れて地割れが起きたが、それだけだ。何の攻撃にもなっていない。俺の体勢すら崩せちゃいなかった。
しかし……ビキッ、と。
とてつもなく嫌な音がして、横目で後ろを確かめる。
俺はいつの間にか――崖際まで追い込まれていた。
「――なっ!?」
まずい。
そう思った時には――もう遅かった。
魔狼の衝撃に岩盤が耐えきれず、轟音と共に大きく崩れ落ちる。
咄嗟に跳ぼうとするが、踏み込むはずだった足場そのものが消えていた。崩れた岩と土砂に巻き込まれ、身体が宙へ投げ出される。
「くそっ――!」
大斧を岩壁へ叩き込む。刃が火花を散らし、速度が少し落ちた。
だが、止まらない。
崩落に引きずられるように身体が下へと落ちていく。
見上げた先では、崖際に立つ魔狼が赤い瞳で俺を見下ろしていた。
……気が付くと、俺は赤錆色の浅瀬に身体を沈めていた。
意識が戻ると同時に落下までの記憶が一気に蘇った。すぐさま身体を跳ね上げる。
赤茶けた岩盤地帯とは打って変わって、辺りは薄暗く、湿った岩壁が両側に高くそびえていた。
耳を澄ませると、遠く頭上から断続的な轟音が響いてきた。
岩の砕ける音と、何かがぶつかり合う音。
間違いない。二人はまだ魔狼と戦っている。
俺が崖に落ちたせいで追い付かれ、なし崩しに戦っているんだ。
逃げながら戦っているのか、響いてくる音は連続していない。
だが、追いつかれるのも時間の問題だろう。
……クソ、どれくらい気絶していた。完全にやられたっ。
いや、今はそれより早く戻らないと。だがどうやって。
頭上を見上げると、切り立った崖が空を細く切り取っている。
高い。高すぎる。とても登れるような崖じゃない。
「おぉおおおおーーーッ!」
手をメガホンのように寄せ、頭上に向かって大声を上げる。
俺は生きている。二人ではなく俺の所に襲いに来い。
しかし、声は空しく散っていった。反応は、ない。
……まずい。どうする。どうすれば上に行ける。何が一番早い。
崖は登れない。回り込むとしたらどれだけ掛かるか分からない。というか上に行く道はあるのか。
そもそも俺の武器はどこだ。最悪斧をピック代わりにして――
……なぜか、視界に骨の山が映った。
「……なんだ、これ」
骨は骨だろう。だが多すぎる。もはや小山のようになっていた。
それに臭い。さっきから異臭はしていたが、元を見ると尚更臭いが漂ってきそうだ。大半は白く乾ききっておらず、所々に肉片までこびりついている。
骨の大きさはまばらで、小さなものもあれば俺の背丈ほどのものもある。中にはどこかで見たような、恐らく巨人のものと思われる骨も見つかった。
「……とりあえず、こいつを武器代わりにしとくか」
大斧が見つからない以上仕方ない。
俺は骨の中でも一際丈夫そうで大きなものを選ぶと、そのまま肩に担いだ。握りも重さも悪くない。即席にしては思った以上に手に馴染む。
朱音も骨を武器にしていたし、大丈夫だろ。それより早く戻らないと。
急いで踵を返そうとして、止まった。
……待て。なんで骨の山がこんなところにある。
骨というのは自然に積み上がるものか? 馬鹿な。あり得ない。
おまけに臭いも酷い。最近捨てられたばかりなのだろう。
誰かが獲物を食い、その残骸をここへ捨てている。
……誰かとは誰だ。
これだけの獲物を運び込み、巨人まで食い散らかせる存在。
思い当たるのは、一体しかいない。
――魔狼だ。
「……奴の住処が、ここにあるのか?」
骨山の脇にある岩壁へ目を向ける。
そこには三本の深い傷が刻まれていた。まだ新しい。
浅瀬の奥にも同じ傷がある。
さらに先にも。
まるで道を示すように、一定の間隔で続いていた。
……戦闘音はまだ続いている。二人はきっと無事だ。
どうせ上には登れないのだから、立ち止まっていても仕方ない。
俺は骨を担ぎ直し、三本傷を辿って崖下を進んだ。
一つ、また一つ。
奥へ進むほど傷の数は増え、獣の毛や乾いた血まで残り始めた。
歩調が速くなる。
やがて駆け足になり、最後には全力で走っていた。
そして、切り立った岩壁の先に、洞窟のような穴倉を見つけた。
……どうやら魔狼には、収集癖でもあるらしい。
穴倉にはよく分からないガラクタが、山のように積まれていた。
錆びた剣。折れた槍。ひしゃげた兜。巨大な獣の角や牙に、色褪せた布切れ、形の崩れた金属器まで。中には鞄らしきものや、宝石のように光る石まで混じっている。
価値がある物を選んで集めたようには見えない。
光る物、硬い物、匂いの強い物。
気に入った物を、片っ端から持ち帰ってきたのだろう。
俺にはこれらが、全てゴミに見えた。
そう――ガラクタの上に寝そべる、二体の魔狼も含めて。
「グルルルルル……ッ」
一体はあの三本爪を持たない魔狼。
もう一体は三本爪こそあるが、明らかに小柄だった。
大きい方は小柄な個体を背に庇い、こちらへ牙を剥いている。
もしかしたら番と子供かもしれない。
だとしたら、あの化け物にも守るべきものがある。
……好都合だ。
「ヴォォオオッ!」
母狼が子を守るように飛び出し、俺に喰らいつこうとした。
迎え撃つように大骨を構え、合わせるように横っ面を叩く。
アレより遅く、軽い。
力ですら、俺の方が上回っている。
諦め悪く振り上げてきた前脚を大骨で弾き、体勢を崩させる。
空いた脇腹に中段蹴りで横倒しにすると、動けない程度に前脚を大骨の先で突き刺した。勢いよく抜いてから、今度は子狼に向かって大骨を振り上げる。
「グルルルルッ!」
横薙ぎの一撃を子狼が三本爪で受け止める。
だが、それだけで爪に亀裂が走った。
……大骨が予想以上に頑丈だな。前より強いか?
色々試してみたいが、そんな余計なことをする時間は一秒たりとも存在しない。
「おおおおおッ!」
「ヴォッ!?」
俺は子狼の前脚を掴むと、その身体を力任せに引き倒す。仰向けに倒れた子狼の首元に大骨を当てると、そのまま窒息させようと強く押した。
大骨を介して硬い感触が返ってきた。頸椎に届いている。
痛みと苦しみで無茶苦茶に暴れる子狼。身体を裂いてくる爪は致命傷さえ防げばどうでもいい。俺に力で劣る子狼に逃れる術は一つもない。
押し込めば折れる。確実に。
だが、今はまだそうするわけにはいかない。
俺は焦りで勢い余る思いを必死に自制し、ただひたすらにこの状態を維持し続けた。
そして――
「――ウォオオオーーーーンッ!」
母狼が悲鳴にも似た咆哮を上げる。
穴倉を振動させるほどの遠吠えには、鬼気迫るものがあった。
俺はそれを一瞥すると、更に大骨に力を加える。子狼が苦悶の叫びを上げるごとに、遠吠えは強く、高く、激しくなっていく。
……鳴くなら鳴け。もっと鳴け。早くあいつを呼び寄せろ。
今も朱音と雪村さんは戦っている。耐えている。そうであって欲しい。
一刻も早く、一秒でも早く、魔狼を二人から離さなければ。
その為ならば、この二体を痛めつけることさえ、俺は何とも思わない。
子狼から耳を塞ぎたくなるような叫び声が上がる。ミシ、と鳴ってはいけない音がした。
直後――遠く頭上から地鳴りのような咆哮が返ってくる。
――きた。
連続して聞こえてくる低い咆哮。
それに答えるように、また母狼と子狼が鳴いた。
……間違いない。
来る。魔狼が、ここに。
なら、もうこいつらに用はない。
躊躇う理由は一つもなかった。
俺は子狼を抑えていた大骨を、一思いに押し込んだ。
遠くから響く足音は瞬く間に轟音へと変わり、崖下全体を揺さぶった。
次の瞬間、巨大な影が岩壁の間を突き破る勢いで現れる。減速する素振りさえ見せず、そのまま穴倉へとなだれ込んできた。
魔狼は赤い瞳を忙しなく動かし、二体の死体をその目に収める。
何を思っていたのだろうか。
魔狼はその一瞬、確かにきつく目をしばった。
そして――ガラクタの上に立った俺を睨む。
「よく来たな。俺の仲間は殺してないだろ?」
俺はお前の連れを殺したが。
言葉は分からずとも、言いたいことは伝わったらしい。
魔狼は短く唸り、長く高い、空気を震わすほどの咆哮を上げた。




