第3話 生きるために
ゴブリンを殺してからしばらく気絶していたらしく、俺は喉の渇きを覚えて目が覚めた。機嫌はもちろん最悪だ。
ゴブリンを殺したという不快感もあるが、それ以上に体中の至る所が悲鳴を上げている。何より吐いたし、なんか臭くて気持ち悪い。
頭がぼーっとしている。寝起きだからではない。
多分、脱水症状に近い。
中学時代のサッカーで何度か似たような状況になったことがある。汗もいつの間にか出なくなってるし、これは放置すると不味い。
……腹は減ってないな。当たり前か。
むしろ胃がキリキリしている。何も食べられる気がしない。
吐いた直後だからそう思うだけで、何か摂らないといけないのは分かっている。だが今は後回しだ。
俺は水を求めてゆっくりと立ち上がり……そこから一歩も動けなかった。
怖い。
またゴブリンに会うのが途轍もなく恐ろしい。
俺は手にずっと握っていた石斧を見て、祈るように目を閉じた。
……近場で済ませよう。
水場を求めて無作為に歩き回るなんて馬鹿だ。どこにあるかも分からないのに正気の沙汰ではない。ここには俺を殺そうとしたゴブリンがいるんだぞ。
この石斧は護身用。肌身離さず持っておくくらいで丁度いい。
……ゴブリンが出てきたら、これを投げ付けて逃げてやろう。
そう思った途端、自然と足が動いてくれた。
とりあえず水をとらないと死んでしまう。いや水でなくても最悪いい。水っぽければそれで水分がきっととれる。苔って確か水分あったよね。
俺は光る苔を口に含み、ちゅーと吸って吐き出した。
毒があるかもとは思ったが、このまま脱水で死ぬより多分マシ。
……うん、少しは飲める。
苔を吸って生き長らえてから、どれだけ経ったのか分からない。
苔の水分だけでは当然足りず、俺は聞きかじった知識で運よく生えていた木の根もかじった。こっちの方が美味しい気がする。やはり知識は偉大なり。
苔、木の根、とローテーションして、2回くらい眠っただろうか。
眠ったというより緊張に耐えきれず気絶したという方が正しいが、ともあれそれだけ休むと少しは体力も回復してくる。そうなると別の問題も出てきてしまった。
……腹減った。
空腹だ。当たり前と言えよう。
もっと前から空腹感は出ていたが、木の根をかじることで紛らわせていた。これはめちゃくちゃ噛めば食べられるし、ぶっちゃけ主食みたいな扱いだったが……もうそんなものでは騙されてくれないほどお腹が空いていた。
……餓死って、こうやって始まるのかもしれない。
腹が内側から捩じ切られるような飢餓感に、頭がおかしくなりそうだ。これはもっとマシなものを食べないとヤバい気もするけど、それでも俺は動くことができなかった。
……怖い。死にたくないんだ。
それにこれは、遭難のようなものだと思う。
遭難した時はその場から動かず、じっと救助を待つのが正解だ。
実際日本人はいたんだから、救助が来てもおかしくない。
それに動いた後に誰かが来てくれる可能性を考えると、どうにも動く気になれない。そのせいで助けてもらえなかったことを考えただけで頭がおかしくなる。
……馬鹿だな、俺。
分かっている。助けなんて来ないことくらい。
これは普通の遭難じゃない。どこともしれない場所に誰が助けに来るというのだ。そもそも俺は日本で生きている扱いになっているのか?
助けはこない。
これはもう、間違いない。
そんなことをつらつらと、ずっと考えている。
いい加減にするべきだろう。
俺が選べる選択肢は二つしかない。
……助けを待って餓死するか、ゴブリンと戦って死ぬかの二択だ。
いや、それだと何だか餓死を選びそうだから、違う。
餓死か、生きるために戦うか、だ。
「……」
行こう。生きるために頑張ろう。
俺は重すぎる脚で立ち上がり、壁に手を付きながら歩き出した。
出口を探すのではない。
とりあえず、食べ物を探すだけだ。
……こんなのでもないよりマシか。
俺は通学カバンから取り出したノートを千切り、分岐ごとに地面に置いておく。古典的な手法だが、風も吹かない洞窟には効果的だろう。これで迷うことはない。
あとは願わくば、紙という人工物を誰かが見て、助けに来てくれると嬉しいという願望もある。期待薄だがゼロではないのだから、まぁ気休めにはなるだろう。
もっとも、小数点レベルでゼロに近いだろうが。
……何もない洞窟だと思ってたけど、意外とあるな。
最初は岩しかないと思っていたが、前言撤回する。
光る苔の周囲には白い芋虫のようなものが群がっているし、壁には黒い甲虫のようなものもいた。どれも指ほどの大きさで、時折ぴくりと動く。正直気持ち悪い。
光る苔は当たり前のようにあるとして、雑草のようなものも隅っこにひっそり生えたりするし、木の根に生えるキノコもあった。他には蜘蛛のようなものに、ネズミのようなものまでいる。
生き物はいる。思ったよりずっと多い。
いちいち「ような」と付けているのは、どれも地球の生き物と同じものなのか、それともよく似た別物なのか、俺には見分けがつかないからだ。
水を飲んだことで、少しは冷静になれたのだろうか。
意識してみれば、少しは視野が広がった気がする。
……とりあえず、この中で食べられそうなのはネズミか。
待て。本当にネズミか?
どうやって食べるんだ。生か。生で食うのか。
無理だろ。生ネズミなんて食べられる気がしない。よしんば食べられても絶対腹壊すだろ。苔や木の根で壊してないのがもう奇跡だけど。
焼けば食べられるが、どうやって焼くんだ。火なんてここにはないし、石だけで着火させる方法も俺は知らない。他に燃やす方法も当然俺には分からなかった。
……詰んだ。
「……ん?」
丁度目の前をうろちょろしていたネズミが、苔に群がっていた芋虫に向かって一直線に駆け出していた。そして、鋭い前足を繰り出して一匹捕らえると、俺の目の前で食べ始める。
ネズミは食後の残骸を放置して、また元気にどこかへと走り出した。
「……」
食えるのか。あの芋虫は食えるのか。
ネズミは人間と色々近いらしい。
ネズミが平気なら、少なくとも即死するような毒ではないかもしれない。
もちろん、ここのネズミが地球のネズミと同じ生き物である保証はない。
ネズミにとっては食料でも、人間にとっては猛毒というのも十分にあり得る。
ただ、芋虫を食べる文化は地球にもあるのだ。それも生で。
「っ」
腹が鳴った。空腹が限界だと訴えている。
テレビで見た限りだが、芋虫は高タンパクで栄養豊富らしい。
いける。今ならいける。
今しかいけない。
この日から、俺のルーティンに芋虫集めが加わった。
……味は結構、いける。
芋虫を食べる生活を始めてから、三回ほど眠った。
時間の感覚は全くないので、三回寝たからといって三日経ったというわけではない。そこは全く分からない。
ただ、芋虫を食べ、気絶ではない形で三回寝た事実はかなり大きい。
具体的に言うと、体に活力が戻ってきている。
飢餓感が無くなったわけではない。あくまで少しはマシになったという程度だ。
だが、壁伝いではなく自分の足でちゃんと歩けるし、わけも分からず呼吸が乱れるということもない。小便も黄色に戻った。前はちょっと茶色かったのに。
元気、と言っていいだろう。
となれば、そろそろ次の行動に移すべきだ。
……出口、か。
あるのかすら分からない。
そもそもここに来た経緯が特殊過ぎる。なんだ地割れに落ちたらゴブリンがいる洞窟って。死んでないだけマシかもしれないけど。
……そもそも、出口があったとしてそこは地球なのか。
ゴブリンが出るファンタジーな洞窟なのだ。地球はともかく日本である可能性はもうゼロだ。俺が知らないだけかもしれないが、変な希望は持たない方がいいし、もう希望なんて持てない。
助けも来ないし、殺されかけるし、ずっと一人だ。
自分でどうにかするしかないのだと、骨身に染みている。
……動ける内に動くべきだろう。
この場にいても芋虫しかないし、その芋虫だって無限にいるわけではないだろうから。
俺は長く滞在した仮拠点を見回し、目を細めた。
ずっと放置していたゴブリンの死体と、女性の死体を眺める。
俺は足を止めないように、すぐに視線を逸らした。
代わりにずっと持ち続けている石斧を見る。
……よし、行こう。
どうせ動き回ることになるのだからと、俺は芋虫を乱獲しながら歩を進めていた。バッグの中にうねうねいる。
大事な食料だからちょっとずつ食べないといけない。共食いとかしないといいな。
そんな心配をしながら歩いていると、前とは少し景色が違っている場所に出た。
何が違うとはハッキリ言えないが、何となく湿気がより強くなったように思える。苔の量も増えているし、岩肌も心なしか艷やかだ。
それだけではない。分岐道ごとに骨が置いてある。そこだけ地面が湿っていた。
なんの骨か分からないが、臭い。最近嗅いだことのある臭いだ。
ゴブリンだろこれ。
……進んでみるか。
嫌な予感がするが、どうせ避けては通れないのだ。
虎穴に入らずんば虎子を得ず、ではないが、いざとなったら逃げればいい。
……逃げれるだろうか。逃げれるはずだ。一番最初は逃げ切ったんだから。
大丈夫。大丈夫だ。
俺はいつでも走れるように、浅めに腰を下ろして道なりに進んだ。
「……っ」
進んだ先には大空間があった。目を疑う。
いや、大空間と言ってもここの洞窟にしては、という言葉が頭にあるが、それでもこれまでで一番広い場所だった。
それだけならここまで驚いたりはしない。
俺が驚いたのは、あまりにも環境に恵まれていたからだ。
岩壁から水が流れていた。
滝と呼ぶには細いが、絶え間なく流れ続ける水は岩を伝いながら浅い池を作っている。木の根も太い。地面には雑草のような植物が群生し、その周囲には白い芋虫や甲虫がうじゃうじゃ集まっていた。
ネズミもいる。一匹や二匹ではない。
生き物が集まっている。
それだけで、この場所が特別だと分かった。
……だが、余計なものがいる。
俺は息を殺し、緊張に身を強張らせながら岩陰から覗き見た。
……ゴブリン。
奴は我が物顔でこの空間に居座り、あまつさえ俺が望んで止まない肉を食らっていた。何の肉か分からないが、生ではない。干し肉のようにも見えた。アレなら俺でも食える。
何にせよ、これで納得がいった。
分岐ごとに置いてあった骨や臭いは、ゴブリンの縄張りであるという証だったのだ。今度からは縄張りを避けるという方針が立てられるから、それだけでも収穫と言えるだろう。
そう思った。
思い込もうとした、が。
……豊富な食料に、無限とも思える水源。
そしてうまくいけば、肉にありつけるかもしれないという欲。
欲しい。邪魔だな。
……殺すか。
あっさりそう決めた自分に自分で驚く。
だが、よく考えてみればそうおかしなことではない。
俺は死ぬのが怖いだけだ。死なない為にゴブリンを殺すことくらいはできる気がするし、殺し方は、俺が安全ならなおさら問題ない。
俺は静かに決意を固めると、慎重にこの場を後にした。
そうと決まれば、まずは観察から始まった。
一匹なのか。どこで寝るのか。どの時間に動くのか。
相手を殺すということは、俺も殺されるかもしれないということになる。ならばそれを避けるために、最低それくらいは知っておかなければならない。
なに、焦る必要はどこにもない。
奴は毎日そこにいたのだから。
何度目かの観察で、俺はようやく確信した。
このゴブリンは、馬鹿で間抜けで警戒心がとにかく低い。
俺が殺しておいたネズミの死体に喜んで飛びつき、その場で食べ始めるという無防備ぶり。俺が背後から近づいても気付かないのには流石に呆れてしまった。
寝所も酷い。
奴はあの空間そのものを根城にし、寝る場所もそこである。その辺に生えている草を敷き詰め、簡易的なベッドにしていた時は賢いもんだと感心したが、すぐに認識を改めた。
寝方が大の字。
俺が足元まで近づいても全く気付かない。
その時俺は、こいつは本当に馬鹿なんだなと確信した。
……そう、まさに今だ。
俺はそのまま、ゴブリンの頭まで移動している。
ゴブリンは変わらず、目を瞑ったまま動かない。
この洞窟における捕食者という立場が、今みたいに無防備にさせるのかもしれない。恐怖があれば、俺のように必ず途中で飛び起きるのだから。
殺せる。
確実に。
いとも簡単に。
……死ね。
石斧を振り被り、一思いに頭を狙った。
悲鳴らしい悲鳴はなかったが、カエルが潰れた時のような音は漏れた。
俺は二度、三度と何度か振り被り、途中で首を狙って骨を折る。
それでも甘いと、更に心臓に向かって振り下ろす。
そこで俺は、ようやく石斧を下げて息を吐いた。
……なんでこんなことしてんだろうな。
後味は悪い。非常に悪い。手には嫌な感触がまだ残っている。
それどころか手も足も、いや、全身が小刻みに震えていた。
何日か観察してわかったが、ゴブリンもここで生きている。俺にとっては憎い敵だが、人の形をした生き物を殺すというのはそれとは関係なく心が痛い。
だが、殺せた。
これでこの場所は俺のものだ。
……今はただ、それだけを喜ぼう。




