第27話 森の狩人
……なんだ、人か?
影になっているせいでそう思ったが、すぐに違うと分かった。
遠目で見る限りだが、背丈は俺より高い。二メートルはあるだろう。全身を革製か何かの装備で身を固めているが、随分筋肉質な体をしているのが分かる。背中には槍、腰には鞘、それと小袋を提げていた。
そしてその顔は、まるで獣のように毛むくじゃらだった。
……コボルト? いや、そんな可愛いもんじゃないな。
何にせよモンスターであることには変わりない。
俺は武器を構え、腰を低くした。いつでも飛び出せるように。
奴は武器へ手を伸ばすこともなく、ただこちらを見ている。
獣のような鼻をひくりと動かし、耳をわずかにそば立たせ、俺達の拠点が気になるのかしきりにテントへ視線を向けていた。仕草がどことなく人間臭い。
「……」
睨み合いながら、俺はじりじりと距離を詰めていく。
奴とは湖を挟んで対岸に位置しているが、この程度なら一足で飛び越えられる。いざやるとなれば雪村さんと朱音も俺の動きに連動してくれるだろう。それだけの連携は二層でも三層でも重ねてきた。
拠点を背にしているのが気に入らないが、三対一。
状況は、圧倒的にこちらに有利だ。
「……――」
ふっと、奴の姿が朝霧に消えた。
……どこから来る。
襲撃を警戒し、呼吸の音一つにまで気を配る。
些細な音一つ見逃すまいと集中し続け、背中に汗が伝った。
どれくらい経っただろうか。体感では何十分も経過した頃だ。
雪村さんが、ナイフを収めた。
「……もう、大丈夫かと」
その言葉に、俺と朱音が同時に息を吐いた。
雪村さんが大丈夫だと言った以上、襲撃の危険は無いと思っていい。
俺達も武器を収め、額に伝った汗を腕で拭う。
「なんだ今のは。犬か。随分筋肉質な犬だったな」
「犬って。あんな犬がいてたまりますか。欠片も可愛くないです」
朱音が嫌そうに顔をしかめた。
「どっちかと言うと狼に近い気がしました。綾は何に見えた?」
「私も狼に見えました。とはいえ、知性を感じましたが」
「ならワーウルフだな」
「……」
朱音から呆れたような目を向けられる。相変わらず安直と思われてるのかもしれない。
スキル名に『ズドン』と名付けるような奴に何を思われても、痛くも痒くもないね。
「犬でも狼でもどっちでもいい。ただ、初めて見るモンスターだったな」
「そもそもモンスターなんですかね。いえ、人間ではないと思いますけど」
「というと?」
「獣人というやつかもしれません。話せば分かり合えたり?」
朱音の言葉に、思わず呆れそうになる。
ダンジョンにいる以上、仲間以外は全部敵だと思っている。そこにモンスターだの獣人だのといった区分はないし、それを言うならゴブリンだって人型だろう。でもあれとは絶対に分かり合えない。
俺の微妙な顔で察したのか、朱音が続けて口を開いた。
「何も仲間にしようだなんて言ってませんよ。ただ、敵対しないというなら無理に戦う必要はないと思っただけです。だってほら、逃げてったでしょう?」
「……逃げたのか、あれは」
「分かりません。仲間を呼びにいったのかもしれませんけど、どうでしょう。違うのなら、私はできるだけ放置したいです」
つまり、朱音はワーウルフと戦いたくないということか。
その気持ちは少し分かる。あれだけの装備を一体でこさえたとは考えづらいし、十中八九群れで行動しているだろう。敵にするには骨が折れる。
だからといって放置という選択は、すぐにはできないけどな。
「とりあえず、ワーウルフがいた場所を見てみるか。何か分かるかもしれない」
「もうその名称は確定なんですね……」
二人を連れて湖を回り込むと、すぐに痕跡は見つかった。
木の幹に、刃物で削ったような傷が残されている。
俺の胸ほどの高さに斜めの線が三本。樹皮を浅く剥いだだけの簡単なものだが、自然に付いた傷には見えない。切り口はまだ白く、滲んだ樹液も乾ききっていなかった。
「これですね」
雪村さんが傷の縁を指でなぞる。
周囲を見回すと、少し離れた別の木にも同じ印があった。
向きも高さもほとんど変わらない。
「道標でしょうか。それとも縄張りの印?」
「さぁな。他に痕跡はあるか」
「特には。綾はおかしなの見つけた?」
「……不自然なほどに、見当たらないかと」
雪村さんの言葉に俺は頷いた。
獣臭も感じなければ、雨上がりの土に足跡一つ残っていない。目に見えて分かるものといえばさっきの傷痕くらいだろう。
これだけ姿を隠せるモンスターが、わざわざ痕跡を残す理由は?
……分からないが、用心するに越したことはないか。
「少なくとも、ここから離れた方がいいか。移動しよう」
「え。拠点、変えちゃうんですか」
朱音がいかにも名残惜しそうにテントを振り返った。
その気持ちはよく分かる。俺も何度も通った道だ。特に快適であればあるほど勿体ないと思ってしまう。
住めば都ともいうし、慣れ親しんだ拠点を放棄するのはかなり抵抗が強い。
「敵対するかはともかくとして、拠点の位置を把握された以上長居はできない。悪いが諦めてくれ」
「そうですね……」
残念がる朱音と共に、俺達は拠点の後片付けを始めた。
昨日の雨が痕跡の大半を洗い流してくれていたが、それでも全てが跡形もなく消えたわけではない。
濡れた焚き火の跡は地面を掘って埋め、テントを畳んでリュックへ押し込む。幸い、ハコブネのおかげで荷物にはまだ余裕があった。湖の水まで汲んで持ち運べる。
「加工途中のお肉はどうします?」
「臭いが強すぎる、置いていこう。追跡された時に厄介だ」
ワーウルフ……狼というなら鼻も効くだろう。俺達自身の臭いで追跡される恐れもあるが、その時はその時だ。対策できないものは仕方がないとして、できるものはやっておくべきだろう。
幸いにして、次の拠点の目星はここ数日の間に見つけている。
いくつかある候補の中から、それぞれ重要だと思うものを挙げて拠点を決めた。
……俺としては、本当に仲間を呼んできたのか待ちたかったけどな。
今は駄目だ、二人がいる。危険には晒せない。
ただ、一人なら間違いなくそうしていただろう。少なくとも狙われているかどうかくらいは、危険を冒してでもはっきりさせたい性質だ。
だって、俺を殺そうとしてる奴は殺さないと、夜も安心して眠れないだろ。
……こればかりは、俺は前から何も変わってない。
新しい拠点は、巨大な倒木と岩場の隙間に決まった。
倒木から張り出した太い根と、背丈を超える岩が三方を囲んでいる。湖畔ほど広くはないが、テントを張るだけの場所はどうにか確保できた。正面以外から近づくには岩や根を越える必要があり、奇襲を受けにくいのも悪くない。
その代わり、足元は最悪だった。大小の石が転がり、地面から突き出した根が歩くたびに足へ引っかかる。テントを張る場所も完全には平らにならず、横になると僅かに体が傾きそうだ。
水場までも少し距離がある。ハコブネに入れた空のボトルに汲み置きできるとはいえ、なくなるたびに往復しなければならない。
「……前の場所、良かったですね」
荷物を下ろした朱音が、早くも未練がましく呟いた。
「我慢しろ。あそこまで恵まれてるのが稀なんだよ」
湖畔は地面が平らで、水が近く、見晴らしも良かった。水浴びまで好きな時にできたのだから、拠点としては破格の環境だったのだろう。
ここは安全性を優先した結果だ。条件が悪くなるのは仕方ない。
朱音と二人でテントの設営をしていると、周囲に異常がないか確認していた雪村さんが戻ってきた。
「三橋様。少しよろしいでしょうか」
「どうしました、雪村さん」
元々あまり表情の変化がない人だが、今はいつにも増して険しい気がする。
……少なくとも、良い報告じゃなさそうだ。
朱音を一人で残していくわけにもいかず、俺達は揃って雪村さんの後を付いていった。
拠点から十分ほど歩いたところで、雪村さんが一本の大樹を指し示す。
そこには、先ほどとは少し違う傷痕が残されていた。
幹の表面を四角く削り取り、その中央から右上へ一本の長い線を伸ばしている。
先ほどの三本傷よりも手が込んでいた。自然にできたものではないどころか、明らかに何らかの意味を持たせた印だ。
「私の記憶では、前回確認した際には無かったものと思われます」
「そうですね。俺の記憶でも無かったと思いますよ」
「前と見た目が違うのも気になりますね。どうします、先輩」
……いや、どうしようか。
この印の意味は分からないが、ワーウルフのものとみて間違いないだろう。つまりいつの間にか、奴らがこの辺りにいるということの証明でもある。
……先回りされた? いや、さすがにそれはないか。
だが、結果として印はある。本当にどうすべきか。
……また拠点を探すとなると、夜になるな。
夜間の移動は、極力避けたい。
「ひとまず様子を見るしかないか。今夜だけ、見張りは二人体制でいこう」
「向こうの出方が分からない以上、仕方ないですね」
「はい。異論はありません」
二人の同意を得て、俺達は新しく作った拠点で一夜を過ごした。
索敵に長けた雪村さん、次点で俺は必ず警戒に当たることにした。次点といっても朱音と誤差程度だから、自分も平等に扱えと言ってくる朱音がちょっと鬱陶しい。
結論からいって、その夜は何も起きなかった。
森から異音や異臭がすることもなく、全くもって平常である。
いつも通りに朝日を浴びながら、俺は適当な丸太に座った。
「……何も無かったわけだが、どうする」
「先輩の判断に従いますよ。意見を言わせてもらえるなら、多分問題ないと思います」
「はい。お嬢様の言う通り、あまり警戒を長引かせても体力を消耗するだけかと」
二人の意見を聞いて、俺は深く息を吐いた。
これでも、一応リーダーとしての立場は意識している。
だからこそ慎重に動いていたが、少し度が過ぎていたかもしれない。
「……そうだな。わかった」
いつまでも延々と警戒しても仕方がないし、狙いも分からない敵に怯える方がより悪い。ここは合理性を重視して、探索やレベル上げを優先すべきだろう。
方針を固め、朝食を食べたあとは探索を続けることに決めた。
……ただ、なぜか胸に引っかかった違和感は、拭えなかった。
警戒を解いた俺達は、予定通り三層の探索を再開した。
新しい拠点から北東へ向かい、これまで埋められていなかった範囲を進んでいく。探索はこれまで通り順調だったが、一時間ほど進んだ頃、周囲から生き物の気配が綺麗に消えた。
最初に違和感を覚えたのは、折れた木だった。
幹の中ほどから無理やりへし折られている。
その先には、同じような木が何本も続いていた。
「先輩、これ」
朱音が指差した地面に、巨大な窪みがあった。
五本の指を持つ、人間の足によく似た跡……。
縁が崩れておらず、窪みの底にはまだ水すら溜まっていない。
――新しい。
「撤退だ。今すぐ拠点に戻、」
「――ガウッ!」
瞬間、頭上の枝葉を突き破って、ワーウルフが飛び出してきた。
「なっ!?」
反射的に武器を構える。ワーウルフと目が合った。
だが奴はすぐに俺から視線を切ると、地面を滑るように着地する。そのまま武器も抜かずに森の奥へと駆けていった。
振り返りもしない。俺たちに全く興味がないかのようだった。
なんだ、今のは。
まさか――逃げている?
なにから?
……その答えは、すぐ後ろから示された。
「ヴォオオオオオッ!」
低く重い声が森を揺らした。
直後、背後で何本もの木がまとめてへし折れる。
「下がれ!」
二人を押し退けるように前へ出る。
次の瞬間、木々を薙ぎ倒しながら巨体が飛び出してきた。
……十メートルを優に超える、人型の化け物だった。
腰には獣の皮を巻き、片手には大木を握っている。
顔つきは人間に近い。
近いだけだ。
潰れた鼻。突き出た顎。乱れた髪の隙間から覗く、小さな目。
そいつは俺たちを見て、足を止めた。
一瞬だけ、逃げたワーウルフの背中へ視線を向ける。
それから――近くにいた俺たちへ大木を振り下ろした。
「ちくしょうこっちに来るのかよ!」
俺は大斧で受け止め――受け止めきれない。
そう瞬時に判断すると、全力の横っ跳びで回避した。
「三橋様!」
大木を振り下ろされた衝撃が地面をめくり上げる。横っ跳びの勢いで地面を転がった俺は、身動きが取れずに飛散物から顔を庇った。すると雪村さんが俺を抱きかかえるように後方へと下がらせる。
……下がれと言っておいて情けないな、おい。
「先輩、あいつが例の巨人ぽいですね」
「だろうな。あの狼、俺たちに押し付けたのか?」
「今は考えても仕方ないかと。どうされますか」
巨人は巻き上がった土煙で俺たちを見失ったらしい。唸り声を上げながら大木を辺りへ無差別に叩きつけている。
そんなことをすれば更に俺たちが見つけづらくなるのに、何やってんだ。まさかそれすら気付かないほど知能が低いのか。
……見た目からして十分あり得るな。
腰布を巻き、大木を振り回しているだけだ。少なくとも高い知能があるようには見えない。
……巨人が出る度に逃げに走るのは、あまり良いとは言えないか。
「勝てない相手じゃなさそうだ。やるぞ」
「そうこなくては」
朱音の返事を聞くが早いか、俺は巨人に向かって駆け出した。
まだこちらの存在に気づいてもいないその脛に、俺は大斧を横薙ぎに振るう。
大斧は肉を裂き、ガンッという硬い音を響かせて止まった。
「グォォオオッ!?」
どうやら、俺の全力でも骨までは砕けないらしい。
脚を潰せれば早かったが、そうは楽に倒されてはくれないか。
だが――長期戦にするつもりはない。
「グォォアッ!」
「うぉっ!」
巨人が俺ごと脚を振り上げる。俺は流れに逆らわず斧ごと奴に追従すると、勢いが落ちた頃を見計らって脚を蹴り、そのまま宙に躍り出た。
知能は低そうだが、それでも目の前に飛び出した獲物を見逃すほど鈍くはないらしい。
巨人は大木を手離し、それこそ蚊でも潰すかのように両手で俺を挟み込もうとした。
「……ッ!」
その瞬間、雪村さんが巨人の懐へ滑り込んだ。
高い敏捷力を活かして一足で跳び上がると、巨人の顔まで一気に迫る。そして俺に集中して無防備となった奴の目に、両手で握ったナイフを翻した。
「ォォオオオオオオッ!?」
「おおおおっ!?」
苦悶の声を上げながらも、巨人の両手は止まらなかった。
それでも勢いは弱まっている。俺は大斧をつっかえ棒のように使って一瞬だけ動きを止めると、手の平を蹴っ飛ばして両手の間から飛び退いた。
……あ、危ねぇ。力だけは厄介だな。
今ので少し大斧が軋んだ気がする。これ以上まともに受けるわけにはいかない。
「朱音!」
「わかってますよ!」
朱音が弓を構え、弦を引き絞る。
ここまで硬く、大きい相手に矢は効きづらい。それこそ急所にでも当たらなければ蚊に刺された程度にしかならないだろう。だが、既にある傷口に当たればどうだ。
もっといえば、普通の矢ではなく、スキルによって桁違いの破壊力を得た矢であれば?
答えは――貫ける。
「『ズドン』ッ!」
「グォォオオオオオオッ!?」
朱音の矢が、右脛の傷口へ突き刺さる。
分厚い肉に遮られず、直通で達した一矢が骨を貫いた。
巨人の右脚が大きく折れ曲がり、巨体が片膝から崩れ落ちる。
こうなればもう、後は流れ作業だった。
俺が大斧を頭蓋へ叩き込み、そこへ朱音がもう一度『ズドン』を撃ち込む。頭を貫かれた巨体は一度だけ大きく跳ねると、そのまま力なく地面へ沈んだ。
「やった、勝ったね綾っ!」
「はい。ですが、ほとんど三橋様とお嬢様の戦果かと」
「ふふん、今回は私のスキルが大活躍でしたね。あ、もちろん先輩のおかげでもありますよ。やりましたね」
「……ああ、そうだな」
「なんか元気ありませんね。どこか怪我でもしました?」
俺は朱音に問題ないと手を振った。そういうのじゃない。
戦闘中は余裕がなくて気付かなかったが、巨人の死体を見ていると色々わかってくるものがある。
……傷が多いな。それも新しい。
一つ一つは大きなものではないが、その種類は様々だった。
切り傷、刺し傷、裂傷。鋭い爪で引き裂かれたようなものもあれば、鈍器で叩き潰されたような打撲痕もある。
三層には色々なモンスターがいるのだから、さほど珍しくもないのかもしれない。だが、巨人が現れた直前の出来事から見て、原因は一つに思えてならなかった。
そう考えた直後――雪村さんがナイフを構えた。
「グルルルゥ……」
茂みの奥から、低い唸り声が響く。一つではない。
右から。左から。背後から。
呼応するように、いくつもの唸り声が重なっていった。
「……囲まれてます」
雪村さんの言葉とほぼ同時に、木々の隙間から影が姿を現した。
狼の頭部を持つ人型……先ほど逃げていった個体と同じ、ワーウルフ。
一体、二体。
数える間にも増えていく。
茂みを押し分け、木の陰から身を乗り出し、倒木の上へ音もなく降り立つ。手にしている武器も様々だった。斧、槍、短剣。中には何も持たず、鋭い爪を剥き出しにしている者もいる。
十体を超えたところで、数えるのをやめた。
……分が悪すぎる。今までどこに隠れてたんだ。
というか、これだけいたのなら巨人相手に逃げる必要もなかったんじゃないか。仲間がいたのなら囲んでしまえば――。
途端、一体のワーウルフが俺たちの前へ飛び出した。
「ガゥガゥッ! ガウ!」
ワーウルフは巨人を指差し、そして自らの槍を掲げる。
何度も巨人に向かって槍を突き出す動作をしたあと、今度はもう一度槍を掲げる。そしてまた吠えて、手の平を前に差し出してきた。
……今度は獣人語かよ。
いや、一層二層はゴブリン語だったのだから、今度はワーウルフ語というやつかもしれない。せっかく世間にダンジョンが浸透してきたのだし、モンスター言語を研究する人とかそのうち出てきそうだ。
とはいえ、今回は少しだけ分かりやすい。
相変わらずモンスターが何を言っているのか俺にはさっぱり分からないが、ジェスチャーからは巨人を寄越せと言ってるような気がする。
そこで、ようやく奴らの狙いが読み取れた。
「狩り、か。さっきの奴は巨人を誘き寄せる囮……」
「そう……かもしれませんね。交渉次第では、敵対せずに済みそうですけど」
朱音の言葉に頷いて、俺はゆっくりと大斧の刃を下げた。
柄から手を離したわけではない。いつでも振り上げられるよう、全身の力も抜いていない。それでも先に攻撃するつもりがないことだけは伝わったのか、ワーウルフの一部も同様に武器を下ろした。
一部だけだ。
奴らの警戒態勢が完全に抜けないのは、武器を下ろしたのが俺だけだからだろうか。どちらにせよこれ以上は譲歩してやれないが、それでも要求を呑むことはできる。
「死体なんか要らないから、くれてやるか」
「……そうですね。追い詰めたのは向こうでも倒したのは私達なので、魔石くらいは欲しいところですけど」
そう言って、朱音が残念そうにハコブネに触れた。
魔石を抉り出せば死体は消える。向こうの解体が終わるまで待つわけにもいかないのだから、それは聞けないお願いだ。
俺が苦笑して死体を譲る意思を示そうとした瞬間、なぜか周囲のワーウルフが一斉に騒ぎ出した。
「ガウアッ!」「ギャウ!」「グルルルァッ!」
一度は武器を下ろしたワーウルフも、また武器を握っている。
今にも襲い掛かってきそうな雰囲気に、俺たちは一瞬固まった。
「なんだ、何に反応した!?」
「わ、わかりませんっ」
……さっきまで収まりそうな雰囲気だっただろ。
一転した異様な気配に、俺も武器を構え直すか迷う。
だが、そうすれば本格的に戦闘が始まりそうだった。俺だけならまだいいが、せっかく掴みかけた平和的な解決をこちらから手放していいのか。
「ガゥガゥッ! ガウア!」
そう迷っていると、またしても目の前のワーウルフが何事かを喚いて指差した。
今度は、朱音が持っているハコブネに向かって。
「な!? こ、これはさすがに渡せませんよっ!」
朱音は腰に提げたハコブネを慌ててポーチの中に入れ、絶対に渡さないとばかりにその上から両手で押さえる。
――それが、開戦の合図となった。
「グルルルァッ!」
正面の一体ではなく、俺たちを包囲していたワーウルフが一斉に動いた。
想像以上の速さに、武器を構え直す手間で一歩遅れる。
それでも狙いが俺だったならまだ良かった。だが違った。
奴らは全員、示し合わせたように朱音に槍を突き出した。
「――っ!?」
雪村さんがカバーに回るが、全てを受けきれるわけもない。
咄嗟に盾にした朱音の弓が、木の枝のように容易く折れる。
そして――朱音の脇腹を深々と槍が貫いた。
「お嬢様っ!」
……雪村さんの叫びが、やけに遠く聞こえた。
朱音の脇腹から突き出た槍。
その根元を伝い、赤い血が服を濡らしていく。
一瞬で――目の前が真っ赤に染まった。
「ギャウッ!?」
気付けば、一体のワーウルフが胴から上下に分かれていた。
手応えすら覚えていない。ただの反射のように大斧を振るい、機械的に目の前の一体を切り伏せる。ダンジョンで何度も繰り返してきた経験が、思考を置き去りにして俺を勝手に動かした。
身体は次に、何をすべきか知っていた。
「殿は任せます!」
雪村さんが朱音を抱きかかえ、包囲から突破しようと走り出す。
あくまでも狙いは朱音なのか、ワーウルフがそのあとを追った。
……許すはずがない。
地面を蹴る。
最後尾の一体へ追いつき、振り向く暇も与えず背中から大斧を振るった。
「ギャッ――」
叩き潰すように振り抜くと、声ごと奴の体が潰れて消えた。
その横を抜けようとした一体に足を突き出し、地面に転ばせる。派手に転がったワーウルフに追い付くと、俺は一切の躊躇なく大斧を振り下ろした。
「……グルルルゥッ」
立て続けに二体が倒れ、ようやく奴らの足が止まった。
朱音を追っていたワーウルフたちが、一斉にこちらを振り返る。
その隙に、雪村さんの背中が木々の向こうへ消えていった。
……良かった。
だが、こっちの状況は何も変わっていない。
それどころか仲間を三体も殺された恨みからか、ワーウルフの俺を見る目は非常に険しい。低い唸り声を上げて俺を威嚇し、その鋭い犬歯を剥き出しにしている。
……それがどうした。ふざけるなよ。
「怒ってるのは、こっちもなんだよ……ッ」
一斉に飛び掛かってくるワーウルフに、大斧を横薙ぎに振るう。
槍や短剣を盾に防御されたが、構わず勢いのまま吹き飛ばす。大振りの隙を突かれ、脚を槍で貫かれた。勝手に脚から力が抜けて、腰がガクンと地面に落ちかける。
そいつの口元が、勝ち誇ったように歪んだ。
だが、そんなものは知ったことではない。
「ガ――ギャウ!?」
俺は突き刺さった槍ごと、そいつを思い切り蹴り上げた。
刺さった槍を勢いよく抜くと、大量の血が噴水のように噴き出してくる。返しが付いていたのかあり得ない痛みが襲ってくるが、それには構わず槍を近くの個体に投擲した。
「ヴォオオッ……!」
奇しくも、朱音と同じ脇腹に突き刺さった。
その間に、脚の出血がリジェネで治まる。
立てないはずの脚で踏み込むと、ワーウルフたちの顔が目に見えて動揺した。
「おおおおおおッ!」
最も近いワーウルフに突っ込むと、即座に槍が繰り出された。
俺はあえてその攻撃を肩に受け、そのまま直進する。武器を手放すべきか迷っているうちに距離を詰めると、薪割りのように大斧を振り上げ、ワーウルフの頭をかち割った。
「ガウッ、ガァッ!」
指示が飛ばされたのか、ワーウルフが俺を取り囲んだ。
回避は不可能――。
爪を肩で受け、そいつの頭を斧で潰す。胸を狙った槍は腕で防御した。
受けていい攻撃と、避けるべき攻撃。判断するのはそれだけでいい。
至るところを槍で貫かれながら、俺は大斧を大振りに振るった。
「ガァッ!?」
力任せに振るった斧が、ワーウルフを一斉に弾き飛ばす。だが威勢だけではどうにもならず、ほとんどのワーウルフが生きていた。殺し切れたのは恐らく最初に当たった数体だけ。
しかも無茶をしすぎたツケが、今更体に表れてきた。
傷の治りが明らかに遅くなっている。体中のあちこちに空いた穴を塞ぐには、どうやらリジェネだけでは難しかったらしい。恐らくあと少しでМPが切れるだろうし、そうなった瞬間俺は終わりだ。
ワーウルフの数は、目に見えるだけでもあまり減っていない。
だがここで俺が倒れれば、朱音が――。
そう考えた瞬間、ワーウルフたちの耳が一斉に跳ねた。
俺には何も聞こえない。
だが、奴らは揃って森の奥へと顔を向けた。
「ガウッ!」
短い一声が上がる。
直後、先ほどまでの殺気が嘘のように、ワーウルフたちは負傷者を引きずって後退し始めた。
……なん、だ?
いや、知るか。奴らのことはどうでもいい。
傷が塞がるのも待たず、俺は急いで拠点に戻った。
そしてテントの中に慌てて駆け込み、息を呑む。
そこには、朱音が苦悶の表情で横たわっていた。




