後篇 扉を吹っ飛ばした日
後篇もお楽しみください。
転機が訪れたのは、十歳の正式披露式まで半年を切った頃だった。
その日、物置へ届けられた夕食は珍しく豪華だった。
肉料理まで付いている。
侍女頭が最近の働きを褒めてくださったからだ、と運んできた使用人は言った。
だが、ユリは一口食べたところで吐き出した。
かすかな異臭――
いや、異臭だけではない。
舌先に残る痺れ方が不自然だった。
前世で医療支援に携わっていた頃、誤飲や中毒患者を診る機会は少なくなかった。
医師としての記憶と、この世界で食べ物を選ぶ余裕もなく残飯をあさって生きてきた経験の両方が警鐘を鳴らしていた。
腐っているわけではない。
香辛料でもない。
何か別のものが混ざっている。
そう判断したユリは、それ以上口にしなかった。
食べたふりをして処分する。
そして翌日から調べ始めた。
洗濯場では世間話に耳を傾けた。
前世で医師をしていた頃、患者から話を聞くことは日常だった。
人は質問の仕方一つで話す内容が変わる。
ユリアナはそれを知っている。
厨房では使用人たちの愚痴を聞いた。
茶会や夜会の準備中にも、それとなく会話を拾う。
裏方として働く者は目立たない。
だからこそ、人は油断して様々なことを口にする。
危うく見つかりそうになることもあったが、それでも調査を続けた。
やがて一つの事実へ辿り着く。
自分は下働きの孤児ではない。
アンジファー王国第十三王女――ユリアナ・ド・アンジファーだった。
さらに十歳になると正式披露式が行われることも知った。
宮廷管理省からは準備を進めるよう通達が出ているらしい。
そこまで分かれば話は早かった。
これまで自分に使われたことになっている予算を調べられれば、不正は発覚する。
長年にわたって生活費や教育費を着服してきた侍女頭にとって、それは避けなければならない事態だった。
だから消そうとした。
正式披露式の前に。
証拠そのものである自分を。
そこまで考えた時、すべてが一本に繋がった。
「……そういうことか」
ユリは小さく呟く。
「だから殺そうとしたんだ」
恐怖はあった。
だが納得もしていた。
理由も分からないまま命を狙われる方が、よほど恐ろしかったからである。
◇
昼食を終えたユリアナは、監査部門の執務棟へ向かっていた。
感情に任せて助けを求めても意味はない。
誰に話すか。
いつ話すか。
相手が話を聞ける状況か。
前世で医療支援に携わっていた頃、ユリアナは何度もそれを考えてきた。
医薬品の不足を訴える時も、避難民の受け入れを頼む時も、正しい相手へ正しいタイミングで話を持っていかなければ状況は動かない。
訴える内容だけでなく、誰に届けるかも同じくらい重要だった。
だから今回も、まずは相手を見極める必要があった。
茶会や夜会の仕事を続ける中で、王宮の人々の動きも少しずつ頭に入っていた。
その中で知ったのが、監査部長エドワード・フォン・ライゼンの習慣である。
昼食後、よほどの緊急事態でもなければ、十二時三十五分になると執務室を出て中庭へ向かう。
だからユリアナも、その時間に合わせてやって来た。
執務室の前に立つ護衛が、小さな来訪者に気付いて怪訝そうな顔をする。
だが声を掛けられるより先に、ユリアナは口を開いた。
「第十三王女ユリアナ・ド・アンジファーが、監査部長様へお目通りを願いたく参りました」
護衛の表情が固まった。
作業着姿の少女と王女という言葉が結び付かなかったのだろう。
ちょうどその時だった。
執務室の扉が静かに開く。
中から現れたエドワードと、ユリアナの目が合った。
ユリアナは姿勢を正し、一礼する。
「監査部長殿。お時間をいただきたく参りました」
エドワードがわずかに眉を上げた。
「私は第十三王女ユリアナ・ド・アンジファーです」
その場の空気が変わる。
護衛もエドワードも何も言わない。
ユリアナはその沈黙の中で続けた。
「私に計上されていた品格維持費に関する不正と、王家に対する背任についてご報告があります」
エドワードの目が鋭く細められた。
監査部長という立場上、その言葉を聞き流すことはできないのだろう。
だが、ユリアナも視線を逸らさなかった。
ここで退けば終わりである。
逃げるという選択肢は最初からなかった。
数秒後、エドワードは護衛へ視線を向ける。
「その子を中へ」
短い指示だった。
それだけで十分だった。
ユリアナは静かに息を吐き、執務室へ足を踏み入れた。
◇
エドワードは最後までユリアナの話を遮らなかった。
物置で暮らしてきたこと。
第十三王女であると知った経緯。
生活魔法を使えるようになったこと。
その力を利用して情報を集めたこと。
十歳の正式披露式を前に、担当侍女頭が焦っていること。
そして、毒が混入したと思われる食事を出されたこと。
すべてを聞き終えると、エドワードは確認するように問い掛けた。
「その食事は食べなかったのですね」
「はい」
「理由を伺っても?」
「味と匂いです」
ユリアナは答える。
「肉にはない苦みと匂いを感じました」
「それで?」
「一口食べて吐き出し、残りは物置にいたネズミへ与えました」
「結果は」
「翌朝には死んでいました」
エドワードは黙り込んだ。
机の上で指を組み、何かを考えている。
ユリアナも急かさなかった。
ここまで来た以上、あとは相手の判断を待つしかない。
やがてエドワードが口を開く。
「ユリアナ王女殿下」
それが初めてだった。
エドワードが王女として呼んだのは。
「あなたが第十三王女であるという話は、現時点では確認が必要です」
「はい」
ユリアナは即座に頷いた。
異論はない。
むしろ当然だと思っていた。
九年間、誰にも王女だと認識されてこなかったのである。
突然現れた少女の言葉だけで信じろという方が無理な話だった。
エドワードは改めてユリアナへ目を向ける。
服は何度も繕われていた。
靴も擦り切れている。
九歳だというが、身体は年齢相応には見えない。
少なくとも王女として養育されてきた子供の姿ではなかった。
だが、それでもエドワードには無視できない理由があった。
「分かりました」
そう言って立ち上がる。
「監査部門として調査を開始します」
ユリアナは黙って次の言葉を待った。
そしてエドワードは続ける。
「調査が終わるまで、あなたの身柄は私が預かります」
その言葉を聞いた瞬間、ユリアナは胸の奥に張り詰めていたものが少しだけ緩むのを感じた。
ようやく、生き残るための足場を手に入れたのだった。
◇
その日の夕方。
ユリアナはライゼン家の屋敷へ移された。
出迎えたのはクラリッサ・フォン・ライゼンだった。
「ようこそ」
柔らかな笑みを浮かべる女性だった。
クラリッサはユリアナの姿を見て、一瞬だけ言葉を失う。
夫から事情は聞いていた。
だが、実際に目にしたユリアナは想像以上だった。
九歳だというのに身体は小さく、着ている服も何度も繕われている。王女ではなく、貧民街の子供だと言われても疑わない姿だった。
胸の奥が痛んだ。
それでもクラリッサは何も言わない。
代わりに、そっとユリアナの手を取った。
「まずはお風呂にしましょう」
その声は優しかった。
◇
夕食の後。
暖炉の火が静かに揺れる居間で、ユリアナはクラリッサと向かい合って座っていた。
温かい紅茶の香りが漂う。
しばらく雑談をした後、クラリッサがふと思い出したように言った。
「そういえば、お母様のお話は聞いたことがある?」
ユリアナは首を横に振った。
「ありません」
「そう……」
クラリッサは少し寂しそうに微笑んだ。
「実は私、貴女のお母様とは遠い親戚なの」
ユリアナが顔を上げる。
「親戚?」
「ええ。子供の頃は家同士の付き合いもあったから、よく一緒に遊んでいたのよ」
それは初めて聞く話だった。
母について知っている人に会ったことなど一度もない。
ユリアナは思わず身を乗り出した。
「どんな人だったんですか?」
クラリッサは懐かしそうに目を細めた。
「優しい人だったわ。でもね、優しいだけじゃなかったの」
そう言って小さく笑う。
「私が木から落ちたことがあったのよ」
「木から?」
「ええ。登るなって言われていたのに、面白そうだからって登ってしまって」
ユリアナは少し呆れた顔になった。
クラリッサがくすりと笑う。
「案の定、落ちたわ」
「それは落ちます」
「そうね。今なら私もそう思うわ」
クラリッサは肩をすくめた。
「その時、お母様が私を背負って屋敷まで運んでくれたの」
「お母様が?」
「ええ。私の方が年上だったのだけれどね」
当時を思い出したのか、クラリッサは楽しそうに続ける。
「私は泣いてばかりいたのに、お母様は『二人で怒られるなら怖くないでしょう』って笑っていたわ」
ユリアナは思わず想像した。
顔も知らない母が、泣いている友人を励ましながら歩いている姿を。
それからも話は続いた。
側室として王宮へ上がる前の話ばかりだった。
一緒に花冠を作ったこと。
池へ落ちた子犬を助けようとして、自分まで池へ落ちたこと。
迷子になった子供を見つけるために、半日かけて森を探し回ったこと。
「いつもそうだったの」
クラリッサは懐かしそうに言う。
「困っている人を見ると放っておけない人だったわ」
ユリアナは黙って聞いていた。
母の顔は知らない。
声も知らない。
抱きしめられた記憶もない。
それでも話を聞いているうちに、少しずつ人物像が形になっていく。
優しくて。
少し無茶をして。
誰かのために動いてしまう人。
そんな母の姿が、ぼんやりと胸の中に浮かんだ。
やがてクラリッサが優しく言う。
「あなたはね」
ユリアナが顔を上げる。
「笑った時が、お母様によく似ているの」
ユリアナは少し困った。
自分では分からない。
けれど、その言葉は嬉しかった。
母を知らないまま生きてきた。
だから今日初めて、自分にも確かに母がいたのだと思えた。
クラリッサはそんなユリアナを見つめ、静かに席を立つ。
「今日はもう休みましょう」
「はい」
「部屋は用意してあるわ」
ユリアナは一瞬だけ言葉を失った。
「私の……部屋ですか?」
「もちろん」
クラリッサは微笑む。
「今日からは、あなたの部屋よ」
物置ではない。
寝床を誰かと取り合うこともない。
雨漏りを心配する必要もない。
ユリアナは小さく頷いた。
「ありがとうございます」
その声は、ほんの少しだけ震えていた。
◇
保護された後も、ユリアナは王宮へ通い続けていた。
もちろん以前のように物置へ戻るためではない。
監査部門の許可を得て、洗浄係として仕事を続けていたのである。
エドワードもクラリッサも賛成ではなかった。
だが、ユリアナにはどうしても続ける理由があった。
春の宮廷夜会である。
王族や有力貴族が集まるその場へ入るには、それ相応の理由が必要だった。
たとえ監査部門の保護下にあったとしても、当日だけ突然現れて会場へ入れてもらえるほど甘くはない。
だから実績を積んだ。
洗浄係として呼ばれ続けるだけの信用を得た。
茶会へ呼ばれれば仕事をこなし、小規模な夜会へ呼ばれれば誰よりも丁寧に汚れを落とした。
地味な仕事だったが、それでよかった。
目立つ必要はない。
必要なのは、宮廷夜会の日に「いつもの洗浄係」として会場へ入ることだった。
その積み重ねは確実に実を結びつつあった。
王宮の使用人たちの間では、洗浄魔法が使える便利な子として顔を覚えられ始めている。
呼ばれる機会も徐々に増えていた。
そして、その過程で様々な話も耳に入る。
第四王子と第五王女の評判もその一つだった。
正式な社交界デビューを控えた二人は、自分たちが夜会の主役になると信じているらしい。
だが実際には、王宮内でその話題を口にする者はほとんどいなかった。
人々の関心は別のところにある。
それを知らないのは、どうやら本人たちだけのようだった。
◇
春の宮廷夜会当日。
王宮の大広間には大勢の貴族が集まっていた。
第四王子と第五王女も、今日ばかりは年相応に着飾っている。
二人にとっては社交界デビューの日だった。
もっとも、本人たちが期待していたほど周囲の関心は集まっていない。
アンジファー王国の王家は子だくさんである。
王子や王女の正式披露など、貴族たちにとっては珍しい出来事ではなかった。
もちろん挨拶はする。
祝いの言葉も述べる。
だが、それ以上ではない。
第四王子と第五王女を囲んで称賛の輪ができることもなければ、二人の一挙手一投足に注目が集まることもなかった。
むしろ貴族たちの関心は別のところに向いている。
最近になって王宮内で噂になっている不正疑惑である。
何人もの貴族が小声で情報を交換し、探るような視線を交わしていた。
その様子は、第四王子にも第五王女にも見えていた。
そして気に入らなかった。
本来なら今日の主役は自分たちのはずだったからだ。
時間が経つにつれ、二人の機嫌は目に見えて悪くなっていった。
そんな中、第五王女の視線がふと会場の隅へ向く。
軽食コーナーの近くで、給仕や使用人たちに混じって待機している小柄な少女がいた。
汚れ一つない作業着。
必要とあればすぐ動けるように控えている洗浄係である。
第五王女は眉をひそめた。
「……あの子」
どこかで見た覚えがあった。
ほんの数か月前の出来事だというのに、その顔を思い出すまでには少し時間がかかった。
だが思い出した瞬間、不快そうに顔をしかめる。
「あの時の子じゃない」
その言葉に、第四王子も視線を向けた。
「おい――」
苛立ちを隠そうともしない声だった。
思うように注目を集められず、機嫌は最悪らしい。
ユリアナは静かに一礼する。
「何か御用でしょうか」
「その態度が気に入らないんだよ」
理不尽だった。
だが第四王子にとって理由など何でもよかった。
ただ鬱憤を晴らしたかったのである。
拳が振り上げられる。
その瞬間、ユリアナは半歩だけ身を引いた。
同時に、風の魔法を足元へ流す。
わずかな補助だった。
だが勢いよく踏み込んでいた第四王子には十分だった。
「なっ――」
身体が前へ流れる。
踏ん張ろうとしても間に合わない。
次の瞬間、豪華な料理が並んだテーブルへ突っ込んだ。
皿が跳ね上がる。
肉料理のソースが飛び散る。
果実酒の入ったグラスが割れた。
悲鳴が上がった。
そして、その被害をまともに受けたのは近くにいた第五王女だった。
「きゃあっ!?」
果実酒がドレスへ降りかかる。
クリームやソースも容赦なく付着した。
社交界デビューのために用意された衣装は一瞬で台無しになる。
第四王子も第五王女も料理まみれだった。
会場が静まり返る。
誰もが何が起きたのか理解できずにいた。
やがて第五王女が叫ぶ。
「あなたのせいよ!」
完全な八つ当たりだった。
だが本人は激昂しており、理屈など残っていない。
ユリアナへ向かって歩み寄る。
「よくも私のドレスを!」
ユリアナは小さく目を瞬かせた。
そして洗浄係らしく答える。
「それはいけません」
穏やかな口調だった。
「すぐに綺麗にいたします」
水魔法が発動する。
空中に集まった水が一気に膨れ上がった。
「え……?」
第五王女の表情が固まる。
次の瞬間、大量の水が頭上から降り注いだ。
「なっ――ぶはっ!?」
ドレスに付着していた汚れは一瞬で洗い流される。
だが同時に、第五王女自身も頭から足先までずぶ濡れになった。
第四王子も例外ではない。
周囲から思わず息を呑む音が漏れる。
「貴様ぁ!」
第四王子が顔を真っ赤にした。
第五王女も濡れたドレスを掴みながら睨み付ける。
「許さない!」
二人とも完全に我を失っていた。
ユリアナは慌てない。
「乾かしましょう」
そう言って風魔法を重ねる。
本来は洗浄後の水気を飛ばすための魔法だった。
だが今回は少しだけ出力が大きい。
突風が吹き抜けた。
「うわっ!?」
「きゃあっ!」
掴みかかろうとしていた二人の身体がまとめて押し流される。
貴族たちが慌てて道を開けた。
二人はそのまま大広間を横切り、ダンスホール中央まで滑っていく。
最も人目を集める場所だった。
盛大な音を立てて転がる王子と王女。
音楽が止まる。
会場中の視線が集まった。
誰よりも注目を浴びたかった二人は、望んだ以上の注目を手に入れることになった。
「何事だ――」
上座から王の声が響く。
呆然と床に座り込んでいた第四王子が慌てて立ち上がった。
「父上! あの娘が――」
「――陛下」
その言葉を遮るように声が上がった。
監査部長エドワード・フォン・ライゼンである。
王が眉をひそめた。
「恐れながら、この場をお借りしたく存じます」
会場がざわめく。
監査部門の長が夜会の最中に進み出るなど異例だった。
王もただ事ではないと察したのだろう。
「申してみよ」
エドワードは一礼する。
「現在調査中の不正について、皆様の前で報告すべき段階に至ったと判断いたしました」
その言葉だけで、広間の空気が変わった。
貴族たちの視線が集まる。
エドワードは振り返った。
「こちらへ」
促され、ユリアナが前へ出る。
貴族たちの間から戸惑いの声が漏れた。
少女のことを見覚えている者は少なくない。
茶会や夜会で時折見かける洗浄係の子供だったからだ。
だが、なぜその少女が監査部長の隣に立っているのか分からない。
しかも、エドワード自身が前へ呼び出している。
貴族たちは怪訝そうに顔を見合わせた。
エドワードが静かに告げる。
「彼女は第十三王女ユリアナ・ド・アンジファー殿下です」
広間からどよめきが上がった。
第十三王女――
その名に覚えのない者がほとんどである。
王は目を見開いた――
そんな娘がいただろうか。
そう考えた瞬間、自らの表情が強張る。
いたか、いなかったか。
即答できないこと自体が問題だった。
貴族たちも顔を見合わせる。
ただ事ではない。
それだけは誰にも分かった。
エドワードは続ける。
「担当侍女頭による長年の横領、および毒殺未遂の疑いが確認されております」
今度こそ広間が騒然となった。
王の表情も厳しくなる。
「証拠はあるのか」
「十分にございます」
エドワードは即答した――
その声音には一切の迷いがない。
王もそれ以上は問いたださなかった。
監査部長がこの場で断言した以上、裏付けを得ていると判断したのだろう。
エドワードは一歩退く。
そしてユリアナへ視線を向けた。
広間中の視線が少女へ集まる。
だがユリアナは逃げなかった。
今日のためにここまで来たのだ。
恐れて黙るつもりはない。
「皆様――」
九歳の少女の声とは思えないほど、はっきりとした声だった。
「私は第十三王女ユリアナ・ド・アンジファーです」
広間は静まり返っている。
「ですが今日まで、そのように扱われたことはありませんでした」
ユリアナはゆっくりと言葉を続けた。
「つい先日まで、物置で暮らしていました」
「王女であることさえ知りませんでした」
貴族たちの表情が変わる――
目の前の少女の姿を見れば、それが作り話ではないことくらい分かった。
「私は処罰を求めるためにここへ立ったのではありません」
王へ視線を向ける。
「私が今日ここへ立った理由は、別にあります」
一度息を吸う。
「私は先日、死にかけました」
会場がざわつく。
「第四王子殿下と第五王女殿下に暴力を振るわれたからです」
視線が二人へ向かう。
第四王子は顔を赤くし、第五王女は唇を噛み締めた。
ユリアナは続ける。
「私は下働きとして育ちました――」
「だからでしょうか。あの時のお二人には、私が人として見えていないように思えました」
責め立てる口調ではない。
だが、その言葉は広間によく響いた。
「私は怖かったのです」
王へ視線を向ける。
「そのような方々が、何事もなかったかのように王族として認められていくことが」
静まり返った会場に声が落ちる。
「そして、もっと怖かったのは――」
ユリアナは一度息を吸った。
「私自身が、再び消されてしまうことでした」
毒を盛られた日のことを思い出す。
あの食事を口にしていたらどうなっていただろう。
誰も気付かなかったかもしれない。
王女が死んだとは思われず、下働きの少女が一人いなくなった。
それだけで終わっていた可能性もある。
「だから皆様の前へ出ました」
ユリアナは会場を見渡した。
「証人になっていただきたかったのです」
その言葉に、多くの貴族が言葉を失う。
「第十三王女ユリアナ・ド・アンジファーが、確かに存在していたと」
それがユリアナの願いだった。
静まり返った広間の中、王がゆっくりと立ち上がる。
その表情は重かった。
「ライゼン卿――」
「はっ」
「調査報告の詳細を提出せよ」
「承知いたしました」
「関係者への沙汰は、その結果を待って決定する」
王は一度言葉を切り、広間を見渡した。
「本件については余が責任を持って対処する」
短い宣言だった――
だが、この場にいた誰もが理解した。
もはや有耶無耶にはできない。
この夜、王宮に集まった貴族たちは全員見ている。
忘れ去られていた第十三王女が、自らの足で人々の前へ立った瞬間を。
第十三王女ユリアナ・ド・アンジファーは確かに存在していた。
そして、その事実をもう誰も消すことはできなかった。
◇
春の宮廷夜会から一か月後――
王宮では静かな混乱が続いていた。
監査部門の調査により、侍女頭による横領は事実と認定され、関与していた者たちも次々と処分を受けている。
第十三王女へ支給されるはずだった費用が長年にわたり不正に流用されていたことも明らかになった。
回収された資金は整理のうえ、将来の持参金として信託管理されることが決定した。
また、王宮全体の管理体制についても見直しが始まった。
第四王子と第五王女については、夜会での騒動も含めて再調査が行われ、王命による徹底的な再教育措置が命じられている。
夜会の日以降、表立った騒動は起きていない。
だが、王宮は確実に変わり始めていた。
◇
夜会から数日後。
ユリアナは正式にエドワード・フォン・ライゼンの屋敷へ移った。
監査部門による保護は続いている。
だが実際には、それ以上の意味を持っていた。
エドワードとクラリッサはユリアナを家族として迎え入れ、ユリアナもそれを受け入れていたのである。
屋敷での暮らしは穏やかだった。
食事の時間になれば食堂へ呼ばれ、勉強に必要な本も用意される。
夜になれば自分の部屋へ戻り、翌日の仕事を心配することなく眠ることができた。
貴族として見れば当たり前の生活なのだろう。
だが、物置で暮らしていたユリアナにとっては、その一つ一つが新しい経験だった。
「慣れたかしら?」
ある日の午後、クラリッサが紅茶を置きながら尋ねた。
「はい――」
ユリアナは頷く。
そして少し考えた後、素直な気持ちを口にした。
「明日のことを考えられるようになりました」
クラリッサは目を丸くし、それから優しく微笑んだ。
「それは素敵なことね」
ユリアナも小さく笑う。
母の話も少しずつ聞いていた。
ある時は、屋敷の庭で咲いていた花を見て名前を尋ねて回り、庭師を困らせた話。
またある時は、使用人の子供が泣いているのを見つけ、予定を放り出してあやしていた話。
ユリアナにとって母とは、「幼い頃に亡くなった人」という以上の存在ではなかった。
けれどクラリッサの話を聞くたびに、会ったことのない母が少しずつ身近になっていく。
◇
その日、ユリアナは屋敷の庭に出ていた。
読み書きの練習はまだ途中だ。
覚えることも山ほどある。
貴族として学ばなければならないことも残っている。
だが、それでいい。
九年間を取り戻そうとは思わなかった。
取り戻せるものでもない。
ならばこれから積み重ねていけばいいだけだ。
物置で暮らしていた少女はもういない。
下働きとして生きてきた時間も消えない。
けれど、それらはユリアナの一部だった。
風が吹く――
ユリアナは空を見上げた。
かつては名前すら知らなかった自分の未来が、そこにはあった。
誰かが与えてくれるものではない。
自分で選び、自分で進む未来だ。
ユリアナは一歩前へ踏み出す。
忘れられていた第十三王女は、自ら未来への扉をこじ開けた。
そして、その先へ歩き始める。
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作者の励みになります。
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