前篇 閉ざされた扉の前で
皆様の応援のおかげさまで、
[日間]異世界転生/転移〔文芸・SF・その他〕 - 完結済
部門で1位
[日間]ヒューマンドラマ〔文芸〕 - 完結済
部門で2位
をいただきました。ありがとうございます。
これからも、楽しい作品をお届けできるよう頑張ります。
「……たす、けて……」
かすれた声は、自分でも聞き取れないほど弱かった。
ユリは冷たい床の上に横たわったまま、なんとか体を起こそうとした。
しかし、少し肩を動かしただけで激しい痛みが走り、思わず息を呑む。
胸の奥がずきずきと痛み、呼吸をするだけでも苦しい。
口の中には血の味が残っていた。
どれだけ時間が経ったのか分からない。
窓のない物置は薄暗く、人の気配もない。
助けを呼びたかった。
けれど、大声を出せるだけの力が残っていなかった。
このままでは死んでしまう――
九歳の少女にも、そのことだけは分かった。
だからといって、どうすることもできない。
ユリは重くなる瞼を必死に開きながら、ぼんやりと天井を見つめた。
◇
アンジファー王国。
豊かな平野と穏やかな気候に恵まれた王国である。
周辺諸国との関係も安定しており、長らく大きな戦争は起きていない。魔物による被害も少なく、騎士団が総動員されるような事態は何年も発生していなかった。
王都には各地から商人が集まり、人々は明日の暮らしを心配することなく日々を送っている。
王家もまた同様だった。
危機に追われることなく繁栄を続けた結果、王宮は平和に慣れきっていた。王や重臣たちは政務に追われてはいるものの、国家の命運を左右するような難題に直面する機会は少ない。
それは幸せなことだったが、一方で目の届きにくい場所への関心を薄れさせる原因にもなっていた。
そして、その王宮では多くの使用人が働いている。
広大な王宮を維持するためには、人手が欠かせないからだ。
料理人は毎日の食事を用意し、庭師は庭園を整える。掃除係は廊下や部屋を磨き上げ、洗濯係は山のような衣類を洗う。
華やかな王宮を支えているのは、そうした人々の日々の働きだった。
ユリも、その一人だった。
「ユリ、その桶を厨房まで持っていって!」
「はい!」
呼ばれると、ユリは即座に返事をした。
井戸から汲み上げた水が入った桶は決して軽くない。それでも両手でしっかりと抱え、何度も厨房まで運んでいく。
水を届け終えると、今度は洗濯場へ向かった。
干し終えた布を回収し、次に何をするべきかを確認する。
仕事はいくらでもあった。
だが、ユリはそれを不満には思っていない。
働かなければ食べていけない。
幼い頃からそう教えられ、実際にそうして生きてきたからである。
物心ついた頃には、使用人部屋の近くにある物置で暮らしていた。
食事は粗末で、十分に与えられないことも珍しくなかった。
そのため栄養状態は良いとは言えず、九歳になった今でも五、六歳ほどにしか見えない。
母親は幼い頃に亡くなったと聞いている。
父親については何も知らない。
文字の読み書きもほとんどできなかった。
だが、それを不思議だと思ったことはなかった。
周囲の使用人にも孤児や貧しい家庭の出身者は多い。自分もその一人なのだろうと、疑うことなく受け入れていたのである。
もちろん、それは事実ではない――
ユリの本当の名前は、ユリアナ・ド・アンジファー。
彼女はアンジファー王国の第十三王女だった。
本来なら王族として教育を受け、宮廷作法や学問を学びながら育つはずの立場である。
しかし、母である第七側室はユリアナを産んだ後に亡くなった。
さらに養育を任された侍女頭が教育費や生活費を横領した結果、ユリアナは王女として育てられる機会を失ったのである。
王宮の記録から名前が消えたわけではない。
ただ誰も確認せず、誰も気に留めなかった。
その結果、ユリアナは王宮の片隅で下働きの少女として成長していた。
そして本人だけが、自分の本当の身分を知らないまま九歳になっていたのである。
◇
昼過ぎのことだった。
与えられていた仕事をひと通り終えたユリは、中庭近くの廊下を歩いていた。
次の呼び出しまで少し時間がある。
厨房へ行けば、捨てられるはずだったカビたパンの切れ端くらいはもらえるかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、前方から数人の人影が近づいてきた。
豪華な衣装に身を包んだ少年と少女。
その後ろには護衛や侍女が付き従っている。
高位貴族であることは一目で分かった。
ユリは慌てて廊下の端へ寄り、ひざまずいた。
余計な存在として目に留まらないようにするためである。
だが、足音はそのまま通り過ぎてはくれなかった。
「ねえ――」
少女の声が響く。
ユリは顔を上げない。
相手が誰であれ、自分から視線を向けてよい立場ではなかったからだ。
「その子、見ない格好だけれど――」
「下働きの者ではないでしょうか」
侍女が答えた。
「少なくとも、私は名前を存じません」
第五王女はその返事を聞きながら、黙ってユリを見下ろした。
着ている作業着は何度も繕われている。
身体つきは年齢より幼く見え、頬も痩せていた。
王宮の雑用を担う子供としては、決して珍しい姿ではなかった。
だが、その日の第五王女は機嫌が悪かった。
隣に立つ第四王子も同様である。
春の宮廷夜会を目前に控え、二人は連日のように教育係から作法や振る舞いについて指導を受けていた。
社交界デビューへの期待はあったが、そのための地道な訓練は退屈でしかない。
積み重なった不満は行き場を失っていた。
そして、その矛先がたまたまユリへ向いただけだった。
「顔を上げなさい」
命じられ、ユリは恐る恐る顔を上げた。
第四王子が鼻を鳴らす。
「なんだ、その顔は」
ユリには意味が分からなかった。
呼ばれたから従っただけである。
「……申し訳ありません」
どう返せばよいのか分からず、とりあえず謝罪する。
しかし、それが気に入らなかったらしい。
「誰も謝れとは言っていないだろう」
第四王子は眉をひそめた。
ユリは慌てて口を閉ざす。
何が正解なのか分からなかった。
だが、そのおどおどした様子すら、今の二人には癇に障った。
「見なさいよ、その顔」
第五王女が呆れたように言う。
「何かされたみたいじゃない」
「本当だな」
第四王子が鼻で笑った。
「こちらが悪者みたいだ」
ユリはますます困惑した。
何か失礼なことをしてしまったのだろうか。
考える間もなかった。
第四王子の足が腹部へ突き刺さる。
「っ――!」
息が詰まり、小さな身体が床へ転がった。
「殿下――」
護衛が声を上げる。
だが第四王子は気にしなかった。
「立て――」
命じられ、ユリは震える腕で身体を起こそうとする。
その肩を今度は第五王女が蹴り飛ばした。
身体が横へ弾かれる。
受け身も取れないまま石床へ頭を打ち付けた。
鈍い音が響く。
「殿下、もうおやめください」
今度は侍女も口を挟んだ。
ユリの額からは血が流れている。
顔色も急速に悪くなっていた。
第五王女はその様子を見て顔をしかめた。
「服に血が付いたわ。汚らしい」
興味を失ったような声だった。
「もう行くか――」
第四王子も頷く。
二人はそのまま踵を返した。
護衛と侍女たちは顔を見合わせたが、結局は主人の後を追う。
廊下にはユリだけが残された。
小さな身体は床に倒れたまま動かない。
石床へ広がる血だけが、ゆっくりとその場に残っていた。
◇
結局、ユリは物置へ運び込まれた。
額の傷を拭かれ、布を巻かれただけである。
医務室へ連れて行けば騒ぎになる。
誰も責任を負いたくなかった。
だから人目につかない場所へ運ばれた。
それだけだった。
物置の扉が閉まる。
外から聞こえていた足音は次第に遠ざかり、やがて完全に消えた。
その後、誰かが様子を見に来ることはなかった。
ユリは何度か身体を起こそうとした。
だが、そのたびに全身へ鋭い痛みが走る。
息を吸うだけで胸が痛い。
頭もひどく重かった。
もともと丈夫な身体ではない。
痩せた身体に、この怪我は重すぎた。
時間が経つほどに意識はぼんやりしていく。
日が沈み、物置の中は暗闇に包まれた。
寒い……
身体の震えが止まらない。
指先の感覚も少しずつ鈍くなっていく。
助けを呼ぼうにも声が出ない。
このまま朝まで生きていられるだろうか。
そんな考えが頭をよぎった。
その時だった――
割れるような頭痛が走る。
目の前が白く染まり、今まで見たこともないはずの光景が脳裏へ流れ込んできたのである。
最初は夢だと思った。
しかし違う――
そこには確かな実感があった。
白い壁に囲まれた病室。
消毒薬の匂い。
見慣れない医療器具。
自分は白衣を着ていた。
怪我人の手当をしている。
次の瞬間には、砂埃が舞う乾いた大地が見えた。
簡素な医療テントの中では、次々に患者が運び込まれてくる。
慌ただしく外国語が飛び交い、多くの人々が治療のために動き回っていた。
そして――巨大な獣。
二本の角を持つ獣が暴走し、人々へ向かって突進してくる。
自分は反射的に患者を庇った。
激しい衝撃を受け、身体が吹き飛ばされる。
そこで記憶は途切れた。
「……私……?」
掠れた声が漏れた。
理解が追いつかない。
だが、一つだけ確かなことがあった。
あれは夢ではない――
自分自身の記憶だ。
ユリは前世を思い出したのである。
前世の自分は医師だった。
海外医療支援団体に所属し、危険地域を巡りながら患者の治療にあたっていた。
医師になるために学んだ知識も、病院で働いた日々も、多くの患者と向き合った経験も、すべてが自分の人生として蘇ってくる。
救うことができた命もあった。
力が及ばず、救えなかった命もあった。
その時に感じた喜びや悔しさまでもが鮮明に思い出されていく。
あまりに膨大な記憶の流入に、ユリは自分がどこにいるのか分からなくなりそうになった。
だが、その混乱の中でさらに別の記憶が浮かび上がる。
幼い頃に夢中になって読んでいた物語だった。
剣と魔法の世界を舞台にした空想小説。
冒険者が魔物と戦い、魔法使いが不思議な力を操る。
そして傷付いた仲間を治癒魔法で救う。
そんな物語を何冊も読んだ記憶が蘇った。
そしてユリは、ふとある考えに至る。
もし本当に物語のような世界に自分がいるのなら、魔法で怪我を治せるのではないだろうか、と。
まともな考えではない――
死にかけた人間の妄想かもしれない。
だが、試すだけなら損はなかった。
どうせ何もしなければ死ぬのである。
ユリは残された意識を総動員し、自分の身体へ意識を向けた。
すると、不思議な感覚があった。
血液の流れとも違う。
身体の奥を巡る熱のような何かが感じ取れる。
これまで意識したことはなかったが、それは確かに存在していた。
「これ……?」
ユリはその感覚を追う。
すると身体の奥を流れていた何かが、意識に反応するように動き始めた。
やり方など知らない。
理屈も分からない。
それでも治ってほしいと願った。
生き延びたい――と願った。
その一心で、流れを傷付いた箇所へ向ける。
すると身体の奥から温かな感覚が広がっていった。
額の痛みが和らいでいく。
苦しかった呼吸も少しずつ楽になった。
失われた体力までは戻らないようだ。
だが、死の淵からは確かに引き戻されていた。
ユリは荒い息を吐きながら天井を見上げる。
少なくとも今夜は生き延びられる――
そう確信した途端、張り詰めていた意識が限界を迎えた。
ユリはそのまま深い眠りへ落ちていった。
翌朝、ユリは生きていた。
身体中に痛みは残っている。
だが、昨夜感じていた死の気配はもうなかった。
おそらく、あの不思議な力が働いたのだろう。
傷は残っているし、身体も重い。
起き上がるだけで足元はふらついた。
それでも、昨夜のまま放置されていたなら命を落としていたはずだ。
そう考えれば十分な変化だった。
ユリは物置の隅で身体を丸め、少しでも体力を回復させようとした。
誰かが様子を見に来ることはない。
食事を持ってきてくれる者もいない。
結局、自分でどうにかするしかなかった。
そのまま物置の隅で一日をやり過ごし、体力の回復を図った。
夕刻を過ぎた頃には物置の外も静かになっていた。
夜の帳が下り、人の気配が少なくなったのを確認すると、ユリはそっと扉を開ける。
身体を引きずるようにして向かった先は食堂だった。
すでに食事の時間は終わっている。
残された桶や籠を探り、捨てられるはずだった食べ物を口へ運ぶ。
行儀の良い話ではない。
だが、ユリにとってはいつものことだった。
空腹を満たしたことで、ようやく少しだけ落ち着くことができた。
物置へ戻ったユリは、これからどうするべきかを考える。
昨夜までは生き延びるだけで精一杯だった。
しかし今は違う――
幸いなことに、前世の記憶は失われていなかった。
医師として学んだ知識も、社会の中で生きてきた大人としての経験も残っている。
そして何より、自分の置かれている状況が決して正常ではないことを理解できるようになっていた。
まず必要なのは生きるための基盤だった。
今のユリには金もなければ後ろ盾もない。
だからこそ、自分に使える技術を探す必要があった。
前世の医師としての知識はある。
だが、薬も器具もないこの環境では、その大半をすぐに活用できるわけではない。
そこでユリが目を向けたのは、この世界ならではの力――魔法だった。
前世の物語に登場するような派手な魔法は、この世界ではほとんど見られない。
王宮お抱えの魔法使いであっても、その力は生活や研究の延長線上にあるものが大半だった。
その一方で、昨夜自分が使った治癒魔法は明らかに異質だった。
重傷から一晩で命を取り留めるような力は、少なくとも表立って使うべきものではない。
ユリはそう判断し、そのことは誰にも話さないことに決める。
代わりに、人目を引かずに価値を生み出せる魔法を探した。
そこで候補に挙がったのが洗浄魔法だった。
こちらは比較的ありふれた生活魔法らしい。
一度感覚を掴むと扱うこと自体は難しくなかった。
試しに汚れた布へ使ってみる。
すると、染み込んでいた汚れがみるみる落ちていった。
「これは……使える」
洗浄魔法を覚えた後、ユリアナは何度も試行錯誤を繰り返した。
ただ汚れを落とすだけではない。
前世で医師として働いていた頃、衛生管理の重要性は嫌というほど学んでいる。
食器の洗い残し。
布に染み込んだ汚れ。
目に見えない汚染。
それらを意識しながら魔法を使うと、汚れの落ち方が明らかに変わった。
王宮では毎日大量の洗い物が出る。
掃除に使う布も数え切れない。
ならば、この力を必要とする者はいるはずだった。
◇
ユリが売り込み先に選んだのは厨房だった。
王宮の中でも特に人手と水を使う場所である。
洗浄魔法の価値を示すには都合が良かった。
翌日、ユリは台所頭のマルタを訪ねた。
「洗浄魔法?」
マルタは胡散臭そうな顔をした。
「はい」
「お前が?」
「試してもいいです」
マルタは半信半疑だった。
だが、断る理由もない。
どうせ下働きの子供の思いつきだろうと思っていた。
ところが結果は予想外だった。
洗い終えたはずの食器へ魔法をかけると、わずかに残っていた汚れまで綺麗に落ちる。
テーブルクロスの染みも見る間に消えていった。
さらに大きかったのは水の使用量である。
汚れ落ちが良くなれば、その分だけ水を使う量も減らせる。
井戸からの水汲みは下働きにとって重労働だ。
その負担が軽くなる価値は決して小さくなかった。
マルタは腕を組み、しばらく考え込む。
やがて短く言った。
「……明日からも来なさい」
その一言で仕事が決まった。
以後、ユリは厨房の洗浄係として重宝されるようになる。
◇
やがて小規模な茶会や夜会にも呼ばれるようになった。
会場の隅で待機し、必要に応じてテーブルクロスや衣服についた汚れを落とす係である。
貴族たちの視界へ入らないことが求められるため、呼ばれれば素早く駆け付け、仕事を終えればすぐに下がる。
そんな立場だった。
ユリにとっては好都合である。
目立つつもりなどなかったし、仕事をして報酬代わりの余り物を得られるなら十分だった。
その一方で、裏方として会場を行き来するうちに、王宮内の人間関係も少しずつ見えるようになっていく。
誰に人が集まり、誰の一言で周囲の空気が変わるのか。
誰が信頼され、誰が警戒されているのか。
前世の経験もあり、ユリはそうした観察を得意としていた。
そんな中で何度か耳にしたのが、元老院直属監査部門の長であるエドワード・フォン・ライゼンの名前だった。
規則に厳しく、不正を見逃さない人物として知られているらしい。
王宮で働く者たちが口を揃えてそう言うのだから、少なくとも評判だけは本物なのだろう。
ユリはその名前を覚えておいた。
もっとも、その時はまだ、その人物が自分の運命を大きく変えることになるとは知らなかった。
お読みいただきありがとうございました。
後篇も引き続きお楽しみください。
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作者の励みになります。




