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第三十話 本当の名前

シオンが体調不良で倒れたと皆が心配していたが、次に目を覚ましたのは雰囲気が違う誰かだった。

 あたりが静まり返る。誰もが言葉を失っていた。


 記憶を失った?


 あるいは……。


 だがどちらにしても関連がなさすぎる。近くにいたノロはなおさら困惑していた。


「シオ……ン?」


 ノロがそう尋ねると、シオンは首を傾げた。まるで、何のことかわかっていないように。ブルーとアヤメは互いに顔を見合わせて言葉を漏らした。


「まってください、シオン様の魂って……。」


「ああ、そのはずだ。だが、何だこれは?」


 シオンの本当の魂かもしれない存在は、今もなお記憶の図書館で彼らの帰りを待っている。追憶蝶アスターがシオンの体の持ち主かもしれないというものだ。

 しかし、シオン――いや、シオンだったというべきか。その青年は穏やかな笑みを浮かべて、みんなの様子を確認していた。先ほどまでの体調不良も忘れて。みんながなんで困惑しているかを考えるように。


「ところで、シオンとは誰のことかな。」


 黒い髪を揺らしながら、首をかしげる彼。本当に理解していないようだ。ノロは眉をひそめながら尋ねる。


「自分のこと、覚えているか?」


 ノロの低く、透き通った声が休憩室に響く。青年は目を丸くした。


「何言っているんだノロ。覚えているも何も……。」


 青年は困った様に、名前を口にした。


「僕の名前は”ソウマ・サルビア”。君こそ忘れたの?」


 その名前は、偽名のシオンとは似ても似つかぬ違う人の名前だった。ノロは知っている。シラもリンも知っていた。その名前が呪いに近いほど、胸の中にこびりついている。


 ソウマ・サルビア。


 それが、シオンがなくした記憶の持ち主の名前だ。

 シラは瞳と、声を震わせながら足元がおぼつかない中立ち上がる。

「ソウマくん……記憶が?」


「シラさんまで、それとこちらの方々は?」


 ソウマは尋ねるように、ブルーとアヤメに向き合った。二人とも、言葉を失っている。まさか、こんなあっさり名前を知るとは思わなかったのだから。


「お、おれはブルーです。」


「私はアヤメだ。よろしく頼む。」


 ソウマはにこっと優しく微笑むと、「よろしくお願いしますね。」と挨拶をした。初めて会ったかのように。淡々と。みんなはますます混乱した。当の本人も何が何だか、理解できていないようだ。


「ええと、状況説明を頼めないかな。」


 ソウマの言葉にみんなはほぼ同時にうなずいた。まるで、互いに一人の主、人間をいたわるように。




 状況を把握したソウマは小さく笑った。


「はは、死んだと思ったのに何で生きているんだと思ったら、そんなからくりが。」


 まるで他人事のように言うソウマ。ただ、少しだけ笑みが消えている。眉をひそめて、手を開いたり、閉じたりした。


「光殺し事件はいまだ解決していない、そして僕は一度記憶喪失になり……今なぜか知らないけど目を覚ましている。」


 ノロは腕を組みながら尋ねた。


「記憶の管理者の時の記憶は一切ないんだな?」


「うん。一切。」


 過去の記憶をソウマが持っているのなら、未来の記憶をシオンが所持しているという、摩訶不思議な事象がここに怒っている。それに、気がかりが二つ。


「アスター様は無事なのか、そうでないのか。」


「ああ、私も気になった。ソウマ殿。魂の概念を理解しているか?」


 アヤメがそう尋ねると、ソウマはこくりとうなずく。顎に手を当てて考えながら答えた。


「人には魂がある。それは、肉体が死んでもなお追憶蝶、つまり記憶の書として現世に残り続ける。そして、だれからも忘れ去られてしまった記憶の書は、静かに消える。……であっているかな?」


「ああ、正解だ。だから、あなたの魂は不安定な状態のため記憶の書付近で存在していた。なのに、今ここにいる。ノロ殿。ちなみに魂はどうなっている?」


 もし、一つなら。ここ三年間の記憶を失った代わりにソウマは記憶を取り戻したということになる。


 だが、二つなら。シオンもソウマも一人になれず漂う魂と化してしまうだろう。


 ノロは目を細めてソウマの体をじっと見る。悪魔の目は普通の目とは違う。魂の形を見たり感じたりすることができるのだ。それを互いに理解しているのか、ソウマはリラックス状態でそこに座っている。いろいろ話したいこともあるだろうに。


 そしてノロは首を振る。


「二つだ。」


「そうか、ちなみに二つというのはきれいな二つか?それとも不完全な状態?」


「片方は新品同然。だが、もう片方は消えかかっている。」


 ソウマは「そう、ありがと」というと、こめかみに手を添えた。状況は把握できたが、どういうタイミング、きっかけでそうなったかをこの場にいる誰もが知らない。一人は知っているかもしれないがだまっている。


「シオンはどこに行ったんだろうね。僕の中にいるのかな。」


 ソウマはそっと胸に手を置く。トクトクと心臓が鳴る振動が手に伝わってくる。生きている。記憶が一度消えたとしても、魂が二つあったとしても。


 本来なら、今日までに光殺し事件に対しての準備を終える予定だったが、計画が狂ってしまった。この狂いが、何を意味しているか。きっと、神様すら把握できていないだろう。

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