第八章 支配者02
天空を漂うぺんぎんへ、ヒラーヌが息を吹きかけると、それまで不規則な回転を見せていたぺんぎんの腹が割れ、ぽっかりと穴が開く。
「参るぞ」
そう言うと、ヒラーヌは私を腕の中へすっぽり包み込んだまま、穴の中へと身を投じたのだった。
強い力で後ろへと引っ張られ、躰がバラバラになってしまいそうなくらい、全身が痛んだ。
必死で、私はヒラーヌの胸へしがみ付く。
「着いたぞ」
「ここはどこなんです」
「黄泉の世界だ」
「どうして、こんなところへ」
暗くし湿った気持ち悪い場所だった。
ヒラーヌは、先を見据えたまま、答える。
「会わねばならぬ者がおる」
「誰です」
「来れば分かる」
ぬかるみに足を取られながら、私は見えない先へと進む。
「これはこれは珍しいこともあるもんだ」
突然、目玉をぎょろぎょろさせた老婆が目の前に現れ、私は悲鳴を上げてしまう。
「どういった風の吹き回しだい。ここには、天使は入って来られぬ場所のはずじゃが」
甲高い笑い声をあげる老婆を人払いしたヒラーヌは、先を急ぐように私を促す。
生臭く、ひどく気分が悪くなった私は歩くのもようやっとだった。
半分意識を失いかけている私の頬を、ヒラーヌに叩かれ、何とか歩いていくと、ぼうっとした白く浮き立った場所へと辿り着く。
「ここは」
ヒラーヌが指を口の前で立て、私を黙らせると、私の姿を隠すように翼で包み込む。
水滴が落ちる音が聞こえ、ヒラーヌの声が響く。
「ペルセナ、お主に頼みがあって参った」
翼の陰から、私はそっと盗み見る。
赤い花が立ち並ぶ真ん中に、一人の少女が佇むようにこちらを見返る。
「まぁヒラーヌ様、何て事をなさったの?」
言葉とは裏腹に、少女の顔は明らかに喜んでいた。
「悪魔と契約なさったのね」
「ああそうだ。こっちの世界がどんなものか知りたくてね」
「ええ良いですわ。大歓迎よ。お客様なんて3429億年ぶり。でも、元、天使さんは初めてよ」
飛び跳ねて喜んでいるベルセナの隙を狙って、ヒラーヌが私へ話しかけてくる。
「私がひきつけているうちに、あそこで咲いている花を摘み取って来て欲しい」
大輪の花を指していることは、すぐに分かった。
「何か言った?」
急に顔を近づけられ、私は思わず悲鳴をあげそうになるのを、慌てて口をふさぎ堪える。
まじまじとヒラーヌの顔を見たベルセナが、顔を老婆に変えすごんだ声で尋ねる。
「なんだか生臭い匂いがするね。私の好物だよ。人の生き血は私を若返らせてくれるからね。あんたの手土産かい? 随分気が利いているねぇ」
ぎょろっとした目が、忙しく動くのが見え、私はすぐにも逃げ出したい気分に見舞われる。
がしかし、ヒラーヌの翼が固く隙間を塞ぐように私の躰を締め付ける。
「すまぬ。ここへ来る前、ひとの子を一人、殺めてきた。多分、その時の匂いだろう」
「またどうして天使ごときが、そんな真似を」
「地獄に行くには、悪さを少々するもんだって、悪魔から聞かされたもんで。気に入ってくださったかな」
首を竦めたヒラーヌへの疑心は残るものの、ベルセナは踵を返し、先を歩き出す。
「最初は、死の泉がいいかね」
振り返りながら言うベルセナに、ヒラーヌは軽い投げキッスをすると途端に、少女の姿へと戻りはにかみ、再び背を向ける。
その隙に、そっとの翼から抜け出し、私は身を岩陰へと隠すが、うっかり触れてしまった、洋服のすそがみるみる解け、思わず小さな悲鳴を上げてしまった。
「誰だい。誰かいるのかい?」
しゃがれたベルセナの声が、闇へ響く。
突然ヒラーヌが翼を広げ、ペルセナを目隠しをする。
「ベルセナ。私はせっかちな性分でね、さぁぐずぐずしないで案内を」
「ええい。どかんか。この私を騙せると思ったのか。若い生娘の匂いじゃ。土産として持ってきたのであろう」
広げられた翼をベルセナが触れた途端、腐敗が始まり、その痛みに耐えかねたヒラーヌが怯んだ隙に、私を目がけベルセナが飛んでくる。
花の前から離れた途端、少女だったはずのベルセナの皮膚がどろどろと溶け出し、老婆の顔へと変貌した顔が目の前に現れ、私は身動きが出来なくなっていた。
「うまそうじゃないか。これで当分の間は若さが保てる」
ベルセナが大きく息を吸い込みながら、私の生気を飲み始める。
シュルシュルと嫌な音が耳を衝き、その場に立っていることが出来なくなった私を庇うように、ヒラーヌを抱きとめる。
「ヒラーヌ」
「私は大丈夫。早くあれを」
ヒラーヌの叫びに促され、駆け込んだ私は花をもぎ取ろうとし、焦る。
どうやってもびくともしないのだ。
「これを使え」
ぺんぎんが剣の形に代わり、私の手中へと飛び込んで来る。
「ならぬならぬ。それはお主には摘めぬ」
ベルセナを矢で打ち抜いたヒラーヌが、根元から、勢いよく切り取った私を捕まえ、飛び立つ。
「逃げられぬ。生きた者が、ここから出られぬことは、お主も知っておろう」
皺だらけの老婆の顔が絡みついて来るのを必死で払いのけ、わずかな光が指す方へと向かって急ぐ。
間一髪のところで飛び出した私たちは、水面へと躰を擦り当てながら、なんとか地表へと辿り着く。
改めてヒラーヌの姿を見た私は、言葉を失ってしまう。
神々しかった翼はボロボロになり、至る所の羽根が抜け落ちてしまっていた。
天使のことはよくわからない私でも、これがどういうことなのか、何となく分かる。
「何とかなったな」
翼をしまったヒラーヌがホッとしたように呟き、不思議な光を掌に灯し私へ見せる。
「これのおかげで、戻って来られた」
「これは?」
「触れてみるがよい」
恐々と人差し指をそっとあてた私の目の前に、友暉の姿が現れる。
「ヒロ君?」
「良かった。僕のささやかな力が、役に立てたんだね」
「どういうこと?」
ぐったりとしているヒラーヌが、水をひと掬いし、口へと運ぶ。
「お主の友には感謝する。あの者の命の灯がなければ、戻って来れなかったであろう」
目を見開く私へ、友暉は優しく微笑む。
「ヒロ君、何をしたの?」
「さゆちゃん、僕は君が好きだったんだ」
「でも私は」
「知っているよ。君には待ち人がいた。待ってもどうしようもない相手。それでも良かった。君のそばにいられるだけで、僕は幸せだったんだ。だから僕の命を、君のために使うことを決めた。僕の願いは君の役に立ちたいだったからね。これで良かったんだ」
「でもでも、そんなことをしてもらっても、私、応えてあげられない」
「大丈夫。心配しないで。今度はさゆちゃんが、願い事を叶える番だよ。しっかり考えて、決めるんだよ」
ふんわりと髪の毛を風が揺らし、友暉の姿が消えて行く数秒間、私は息もできずにいた。
「あの者の誠に、敬意を尽くそう。さ、娘、先を急ぐぞ」
後ろ髪を引かれる思いだった。
大きな翼に覆いつくされ、私の視界が奪われる。
それとともに、記憶が糸が切れたように途切れる。
あるのは、真っ白い世界と、優しい風の音だけだった。




