第七章 救世主03
どうしてそうしようと思ったのか、自分でもよく分からなかった。ぺんぎんを手にした瞬間、懐かしさと切なさが込み上げて来て、一人の青年が目に浮かんだ。
とても悲しい目。
そんなこと、今までなかった。そうここへ来るまでは。宗像と出会い、私の中で何か買蠢きだしている。それは間違いなかった。何かが変わろうとしている。私の中に眠っていた記憶が、徐々に目を覚ましているのも、その一つなのかもしれない。
私は駆り立てられるように、このマンションまでやって来ていた。
確証はない。
ただ会いたいのだ。会いたくて会いたくて、胸が締め付けられてしまうのだ。一度しか会ったことがない相手。もしかしたら、想像もつかない化け物かもしれない。それでも、私はこの気持ちをどうしても抑えることが出来なかった。
私は空を貫くようにそびえたつマンションを一度見上げると、そのままエントランスへと向かう。
気持ちがはやった。
インターフォンを鳴らそうとすると、無言のまま入口が開く。
徐々に数字を上げて行くエレベーター。
私はぺんぎんをギュッと握りしめる。
扉が開き、私は思わず息を飲み込む。
インターフォンを押す指が震えていた。
間もなく開いたドアから宗像が顔を覗かせる。
すっかり変わってしまっている様相に、私は目を瞠る。
黒々としていた髪は白く、目が血走っていた。
「待っていたぜ」
歪められた笑みを見せる宗像に、私は一瞬躊躇してしまう。
立っているのもやっとの様子で、宗像はおもむろに手を伸ばしてくる。
「それを、早く俺に、寄越せ。それさえあれば俺は」
ぺんぎんの亀裂が大きくなり、私は首を振り後ずさる。
白い光が漏れ出し、そこ鼻となく青い瞳の青年が振り返るのが見えた。
「小生だけを信じてくれますか?」
誰?
髪が風に揺れ、優しい眼差しがくすぐったい。
「ねぇ一つ聞いてもいい?」
「何ですか?」
「どうしていつも着流しなの?」
「日本男子の服装って、これですよね」
「う~ん、間違ってはないと思うけど、ちょっと違うかな」
「小生、割とこれ、気に入っているんです」
「そうなの」
……何、今の記憶。
「頼む。どうしてもそれが必要なんだ」
宗像の目に鈍い光が宿り、私の躰の自由が奪われる。
少しずつぺんぎんから指がはがされていき、私の手元から離れ始めたその時だった。
宗像の躰が弾き飛ばされ、壁に激突をしその場へ崩れ落ちる。
「ギルバード、そこまでです」
凛とした表情をした松浦だった。
ふてぶてしい笑みを浮かべ、宗像がよろよろと立ち上がる。
「邪魔すんじゃねーよ」
「もう観念するのです」
「嫌と言ったらどうなります? ケントニス」
「仕方がありません。やはりあなたとは一戦交えなくてはならないのですね」
やれやれと首を振った松浦が手を突き出す。
まぶしい光の渦が巻き起こり、私はその波動を受け、弾かれてしまう。
目の前で、何が起こっているのか理解できずにいる私を、誰かが救い上げる。
「間に合った。さゆちゃん、こっちに来て」
広瀬だった。
ベランダでは、手すりに座った寺田の姿があった。
まるでこの事態を楽しんでいるかのように、口元が上げられ、頻りに指で作ったタクトを振り続けている。
広瀬とともに逃げ出そうとしている私を見つけ、一瞬にして目の前へと移動してきた寺田が微笑みかける。
「ユウ、それはあなたが持つべきものではありません。さあいい子だ。それを僕に渡してください」
私が知っている、寺田ではなかった。
冷ややかな瞳で睨まれ、私は身動きが出来なくなる。
「それをそいつに渡しちゃダメだ」
「邪魔は許しません」
指を払う仕草をした松浦が、ニヤリとする。
広瀬の躰が宙に浮かばされ、松浦が無造作に指を回し始めると同時に、同様、くるくると円を描きはじめる。
「実に楽しい。愚かな人間に何ができるという。この指一本にもかなわない。どうですユウ、あなたもこの力を手にしたいと思いませんか? それを解放してくれるのなら、少し分けてあげてましょう」
「さゆ、騙されちゃダメだ。君にしか、あいつは救えない」
強い閃光の向こう、おぼろげに浮かぶシルエット。
優しく微笑む瞳。好きですよと動く唇。
カシャカシャとランドセルを鳴らし掛けて行く少年の姿が、閃光の中へと飛び込んで行き、ぺんぎんから色鮮やかな光が放たれ始める。
黄金色に髪を光らせかけて行く少年を追いかけ、私は草原を駆け巡っていた。
無邪気に少年は笑い、これは秘密だと告げる。
鳥たちのさえずりが、二人に話しかけ、おとぎの世界にでも迷い込んでしまったのではないかと錯覚してしまうくらい、時間がたつのを忘れ、私は夢中で少年と遊んだ。
ある日、一羽の鳥がやって来て、少年が今すぐ会いたがっていると伝えてきた。
私は少年に会いに行くため、ありったけのお金をそこら中からかき集め、家を飛び出す。
早く少年に会いたかった。
家を飛び出した私は、たどたどしい声によって呼び止められる。
最近、家の近所へ引っ越してきた男の子。
兄の同級生。登校班が一緒で、いつも私の後ろでニコニコとついて歩いていた、広瀬友暉君。
なぜか気が合い、兄といるより、私といることが多かった。
祖母の家で出会った男の子の話をした、唯一の子。
鳥たちの言葉が分かるようになったと話す私を、笑わずに真面目に頷いてくれる、大切な友達。
どうしてそんな大事なことを忘れてしまっていたんだろう。
あの日も、偶然出くわした広瀬に、何のためらいもなく、少年に会いに行くと告げた。
そして、僕も一緒に行くと言って、草原を目指した。
じめじめとしたけもの道を、何度も足を滑らせながらよじ登り、草原を見つけた時、嬉しさで私は駆け出す。
友暉も嬉しそうにその後をついてくる。
白い門扉があるんだと指さし言う私に、満面の笑みで頷く友暉。
ざわざわと風が当たりの木々や草を揺らし始め、小鳥たちが急かす。
私たちは無我夢中で少年が待っているであろうあのお屋敷を探した。
大きな雲が太陽を隠し、影を落とす。
空を見上げた友暉が、先を急ごうとする私の手を握る。
「帰ろう」
「でも」
友暉が静かに首を振ったその時だった。
一瞬何かが霞め飛んでいった気がした。
後ろ髪を引かれる思いで私は友暉に手を引かれ、来た道を戻り始める。
少年に会いたい気持ちは、さらに膨らみを増していた。
沢が見えてきて、私は力づくで友暉の手を振り解く。
ぬかるんだ道に、私の力が加わったおかげで、友暉はバランスを崩しそのまま沢へと転げ落ちて行ってしまった。
その後の記憶はない。
意識不明。植物状態。謝る両親。折れてしまった私の右腕。
消してしまいたい記憶が渦巻く。
誰かのささやきで起こされた私は、目を見張る。
見知らぬ青年だった。
エメラルドグリーンの瞳が、優しく微笑みかける。
「私が、あなたの苦しみをお預かりしましょう」
そう言って、青年は私に手をかざす。
瞬く間に、私の楽しかったことや悲しかったことが、その青年の手中へと吸い込まれ行き、すべてを忘れ去った。
「しかるべき時までこれはお預かりしておきます。では、グッドナイト」
「さゆちゃん、まだ解放しちゃダメだ。あいつに騙されるな」
友暉の叫び声に、私の記憶が揺らぐ。
「私だけを信じてくれますね」
青く澄んだ瞳が、青空が目の前に広がる。
「あなたは……誰……」




