第六章 探究者02
これは現実なのか、判然としないまま、私は近寄ってこようとする人物を呆然と見つめていた。
大きな翼を収めた鳥が、松浦の姿に代わり、私の微笑みかける。
「探しましたよ」
いつもと変わりない紳士的な振る舞いで、松浦は手を伸ばしてくる。
「さぁそれをこちらへ」
いつの間にか、ぺんぎんがカバンの中から転げ落ちてしまっていた。
私は慌てて拾い上げ、強く握りしめる。
「さぁ寄越すのです」
口元を歪めた松浦が、おもむろに指を鳴らし、それに反応するかのようにぺんぎんが熱くなり出す。
目を見張る私の手から離れたぺんぎんが、宙に浮かび上がる。
「それはわたくしが回収させていただきます」
「回収って?」
ぺんぎんがゆらゆらと宙を漂いながら松浦へと引き寄せられていくのを、私はただ茫然と見つめていた。
「ようしよし。いい子だ。何も考えず、そう黙って見ていればいい。あなたは悔やむことなど何一つない。そうすべて闇の中へ葬られ、何もかも元の木阿弥。きれいさっぱり忘れてしまうのです」
冷ややかな笑みで、松浦がぺんぎんを手にしようとした時だった。
松浦の躰が大きく後ろへ飛ばされ、ぺんぎんが私の足元へ落ちてくる。
「ユウ、ぺんぎんをそいつに渡しちゃだめだ」
咄嗟的だった。
火傷しそうなくらい熱くなってしまっているぺんぎんを、私は慌てて拾い上げると強く抱きしめる。
みるみる広がる光の向こう側で、茶々丸が振り返り微笑む。
「ユウさん、小生だけを信じてください。さぁ」
茶々丸が手を差し伸べてきて、私は無我夢中で握り返す。
その途端、目が眩むほどの光が私を覆う。
記憶の渦が、濁流になって私の頭の中を掻き毟って行く。
「……さゆり……さゆり」
肩を大きく揺さぶられ、私は重い瞼を開ける。
だんだん視界がはっきりしてきた。
頭を撫でられ、兄がにっこり微笑む。
「立てるか?」
手を引っ張り上げながら、兄は長い息を漏らす。
「急に飛び出して行ったから、何事かと思ったぞ。母さんも心配しているから、一緒に帰ろう」
「兄ちゃん? どうして……、だってここは」
正気を取り戻した私は、手を引き歩き出す兄の手を引っ張り返す。
「お前、まだ、気にしてたんだな。広瀬はさ、事故だったんだ。お前が言ったことなんて微塵も聞こえてなかった。だってあいつの耳は」
「違う、違うの。あの日、探検に行こうって誘って、お小遣いを出し合って」
突然、空から何かが降ってきて、手を引く兄へ襲い掛かる。
「ユウ、さぁこの手を離さないでください。目を瞑って」
「待って、お兄ちゃんこれは?」
「記憶が錯乱しているだけだ。心配はいらぬ」
強い風に煽られ、私を庇う兄を見て愕然となる。
エメラルドグリーンの瞳が私を見詰めていた。
「忘れるのです。それが其方のため」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
躰が軽くなり、私の気が遠のく。
「ユウ、こんなところで何してんの?」
山道の入り口の前、私は膝に顔を埋めるようにうずくまっていた。
こわごわと顔を上げる私に、ショウが少し疲れた笑みを見せる。
「ショウ……君? こんなところで何をしているの?」
「それは、俺が聞きたい」
時々、ショウは大人びた顔をする。それがおかしくて、私はつい笑ってしまう。
よく見ると、ショウの顔や手はひっかき傷のようなものが幾つも、生々しくつけられていた。
「ショウ、その傷は」
「転んだ」
「転んだって、そんな生易しいものじゃ」
「あのさ、俺、あんたが思っているほど弱っちくないし、全然平気なんだ。だからさ、いちいちふさぎ込むとか、やめにしない?」
「ふさぎ込む?」
「分からないならいいや。その方が、俺にも都合がいいし」
さっさと踵を返し歩き出す、ショウを慌てて追いかける。
すっかり夜の帳が下り、街灯が疎らな道はどこか不気味で、身の毛がよだった。
祖母が話すように、何かが出てきてもおかしくない装いを秘めた道を、私は黙々とショウと下りて行く。
疑問は確かにあった。
偶然出会ってしまうような場所ではない。
とてつもなく恐ろしいことがあった気がするのに、それが何だったのか分からなくなっていた。
明るく照らされる街が見えてきて、私が何を目的でここへやって来たのか、もうすでに記憶は残されていないのだ。
「あのさ」
そう言って、ショウが足を止め、振り返る。
「今度誘う時はさ、もっと地図とか下調べしてからしてくれる。こんなところで遭難って、洒落にもならないでしょ。俺が居なかったら、最悪だったんだからな。感謝しろよ」
得意げに笑うショウの顔が、一瞬誰かの顔と重なり合う。
スッと私の手を放したショウが前を駆け出して行く。
「またな」
振り返り手を振る仕草が、誰かを思わせる。
意味もなく、私の瞳から涙がその背中を滲ませていた。
忘れてはいけないはずなのに、忘れなくてはならない記憶。
バチッバチッと鈍い音を上げ、今にも消えそうな街灯に、一人の紳士が足を組み、愉快気に、見下ろされていることなど、私は知る由もなかった。




