第五章 便利屋04
私の身に何が起ころうとしているのか、予測もつかないまま言い知れない不安が心を占めていた。
気が付くと私はいつもふんわりとした場所に身を置き、誰とも交われない空間を漂っているようだった。
実際今も、どこをどう歩いて自宅へ戻ったのか、まったく記憶がなかった。
覚えているのはただ一つ、茶々丸を酷く気づつけてしまったことだけだ。その原因はというと、さっぱり気持ちがいいくらい覚えていない。
頭の中がこんがらがってしまっているのだ。
目を閉じると、ショウが見せた大人びた微笑みだった。
どこか寂しげに笑うショウの口元が、何かを伝えようとしているのに、読み取れず、イライラが募り、眠れないまま私は朝を迎えてしまう。
きっと私はどうかしている。
私は衝動的虹部屋を飛び出していた。
まだ明けきらないくらい道を、只管に足元だけを見詰め駅へと向かっていた。
突然目の前に影が現れ、ドキッと足を止める。
呼び止める声など、全く耳に入っていなかった私は、目の前に立ち阻む人物の顔を、しばし見入ってしまっていた。
「大丈夫ですか?」
「ダイジョウブ?」
風が頬に刺さるような、寒い朝だった。その人物は、少し怖い顔をしていた。引っ切り無しに動く唇。なのに、何一つ私の耳には聞こえてこなかった。腕を掴まれ、有無なしに暖かい場所へと連れて行かれる。
「……しっかりしろ」
まるで何かの呪縛から解かれたかのように、突然飛び込んできた彼の言葉だった。
白いシャツに黒のエプロン。歩道から一段低くなっている店内。
窓側の席に私は座らされていた。
「ちょっと待ってて、すぐに暖かいもの、用意するから」
にこやかにそう話した彼が奥へと入って行くのを眺めながら、私はぼんやりと店内を見回す。
外から覗いたことがあるが、中へ入ったのは初めてだった。
「そんなところで、何をしているんだよ」
「ショウ?」
「違うよ。もう、忘れちゃったの? 僕は」
目の前に突然、湯気が上がるカップが置かれ、軽い眩暈を私は起こしてしまっていた。
すごく気分が悪かった。
頭の中を、まるで棒で引っ掻き回されているようで、目を開けているのも辛くなってきていた。
「いや~結構手強いですね」
霧の向こう側から話し掛けられているような感覚が、頭の中に広がり、やがて輪郭がぼんやりと現れて来る。頭にタオルを巻いた寺田に微笑み返す。
「汚れがひどいかった部分が何か所かありましたが、オーナーさんが取り壊すことになさったようで、これで手を引きます」
「オーナー?」
訊き返す間もなく、寺田は踵を返し、車のドアが閉まる音が合図になり、私はハッとなる。
「気分、良くなられました?」
目の前にいる相手が松浦と分かり、私は酷く動揺する。
「急に崩れ落ちられた時には、どうしようかと思いましたよ。本当に、救急車、呼ばなくて良かったんですか」
ぼやけていた記憶が鮮明に蘇ってくる。
あの時、一緒に居たのは茶々丸だった。
美和子から、今から業者が行くという連絡を受け、私はやっとの思いで茶々丸に事情を話した。
茶々丸は何も言わなかった。
それが尚更堪え、不安になった私だったが、すぐにそんなものはなくなってしまう。
愛想の良い寺田が到着し、次々と運び出されるゴミを眺めているうち、なぜだか心が晴れ晴れとした気分になった私は、茶々丸の途の新しい生活を想像し、ニヤついていた。
その時は、本気で美和子に感謝をしていた。
染みが残ってしまった壁が顕わにされ、汗まみれになった寺田に、
「二階はどうされます?」
そう聞かれ、私は初めてそこで茶々丸の異変に気が付く。
すっかり前髪がどかされた瞳はそこはかとなく暗く冷たいものだった。
茶々丸……。
「何をそんなに怖がっているのです?」
心の中を見透かされた私は、何も言えないまま、顔を茶々丸の背中に当てる。
「御安心なさい。世の中は便利になり、あれほどまで荒れたこの地もどうです、こんなに美しい場所へと変わったではありませんか。小生たちも、変わるべきなのではないだろうか。さぁ始まりですぞ」
背中越しに聞いた言葉だった。
そして私の手を、優しく叩いた茶々丸は、部屋へと上がって行った。
だけど……。
茶々丸は、忽然と姿を消してしまった。
三日三晩。眠ることも食べることも忘れ、私は茶々丸を探し回った。
雨に打たれ、雷が遠くでいつまでもなる中、何もなくなってしまったアパートを見上げる私は、誰かに手を引っ張られる。
「どこを探したって、あいつは見つからないよ」
ランドセルを背負ったショウだった。
「そんなこと……」
言い返そうとする私を、ショウはランドセルのベルトをしっかり握りしめ、物悲しい目で見つめ返す。
それが答えだった。
雨がランドセルに無数の粒を作り、流れ落ちる。
のろのろと時間が流れ、一つずつ記憶を消していった私は、テーブルの下に転がるぺんぎんを見つけ、拾い上げる。
窓が赤く染まり、ぺんぎんの背に明かりを灯すように、帯びて行く。
私は呼吸ができなくなり、恐怖が満ちはじめる。
「愚か者よ。罪は罪。罰を与えられるのは当然の報い。そして、罪を償わせねばならない」
吹き出した私の記憶はまとまりが付かないものだった。
「だから言ったでしょ。鍵がないとダメなんだってば」
友暉の言葉が頭に蘇る。
「さぁそれを私に」
誰かの手が目の前に伸びてくる。
それと同時に私は叫んでいた。
「ダメっ」
一瞬驚いた顔を見せた杉浦が、優しく微笑む。
「少し急ぎすぎましたかね」
手を翳され、私は何ごともなかったかのように、表に目をやる。
「もう少しゆっくりされてから行かれますか」
松浦のその言葉に、私は首を横に振る。
「帰ります」
松浦がにっこり微笑む。
私は一人のこのことを思い出していた。どうしても真相を確かめる必要がある。
松浦が開けてくれたドアから出た私は目を細める。
明るみが増した空に、一羽の鳥が飛んで行くのが見えた。




