第四章 鑑定士05
目覚ましが鳴っても、なかなか起き上がれずに、私は布団の中でいつまでもぐずぐずしていた。
茶々丸と蜜のような時間を共にするようになって、一週間。
幸福感と引き換えに、私の躰は次第に脱力感に襲われるようになっていた。
カーテンの隙間から差し込む日差しが、真っ直ぐテーブルの上に置かれたぺんぎんへと伸び、乱反射して、七色の陰を作っているのを見つけ、私はしばらくそれを眺める。
智暉が初めてこれをくれた時のことを、私は思い出していた。
陽にかざし、同じような光の層を眺めた。あの時、何か別の会話をしたような気がするのだが、まったくと言っていいほど、何も思い出させずにいる。もやもやとして気持ちが悪くて仕方がないのだが、この健忘症は、昨日今日始まった話ではない。諦めを付けた私は起き上がり、ぺんぎんを窓辺に持って行き、中を覗き込む。
不純物が入り混じってしまっているようで、決して透き通ってはいないぺんぎん。向きによっては、様々な色が映り、七色の層が見える位置も違っている。今日はグレーで七色の層は足元の方に見える。
私はぺんぎんを外し、カーテンを開け外を眺める。
思った通り、どんよりとした空が広がり、今にも雨が降り出しそうな天候に、顔をしかめてしまう。
こんな日は、茶々丸はまともに相手をしてくれない。
言葉数も少なく、一人ボーッとすることが多い。何を話しかけてもダメな時もある。その時は諦めて帰るしかなかった。
冷蔵庫に作り置きしておいた料理をバッグに詰め込み、外に出た私は、一羽の大きな鳥が電線の上に居ることに気が付き、足早に通り過ぎる。
その大きな鳥ーは、そんな私を見据えたのち、ギャアギャアと何か喚き散らかすのように鳴くと、どこかへと飛んで行った。
生ごみを捨てる日ではないのに。
私は顔を顰める。
「おはようございます」
ずっと下を向いて歩いていた私は、最初、その言葉が誰に向けられてのものなのか分からなかった。
もう一度同じ言葉が聞こえ、顔を上げると、見覚えがある男性がにこにことしながら、私を見ている。
あのビルに入っている、レストランのウエイターだ。
「これからお仕事ですか」
愛想が良い笑顔で聞かれ、戸惑いながら私は頷く。
「いってらっしゃい」
何なんだ。
「行ってきます」
小声で答えた私は、足を速める。
胸に貼りつけられた名札が、脳裏から離れなかった。
松浦哲司。
それが彼の名前らしい。
白いシャツに黒のエプロン。後ろに流され、右側だけをピンで止められた髪。店の中に居る時と違って、今日は黒縁のメガネを掛けていた。
何を考えてしまっているんだ。
私は慌てて、頭の中のものを追い払う。
電車を降りた私は、半ば走るように茶々丸が住むアパートの前まで行き、一気に階段を駆け上がっていた。
いつもなら、見上げるだけで、仕事場である倉庫へと向かってしまうのだが、どうにも松浦の姿が頭から消せず、思い余ってこんな行動をとらせている。
何も考えずに、私はドアノブを回す。
壊れでもしているのか、空回りするばかりで、一向に空く様子がない。
不審に思い、私はドアを叩く。
「茶々丸、居る? 寝ているの? 起きて」
応答がなく、次第に私の手に力がこもる。
「ユウ」
私を呼ぶ声が後方で聞こえた気がし、私は振り返る。
ショウだった。
「そんなところで、何をしてんだよ」
「茶々丸に会いに来たのに、返事がないの」
泣きそうな声で言う私に、ショウは呆れてみせる。
「あいつなら今、公園に居たぜ」
嘘。
私はその言葉に、目を大きくする。
「行ってみろよ。ベンチでぼんやりとしてっから」
そんなはずない。
さっき通った時には居なかった。もしかしてと思って、コンビニにも顔を出してからここへ、やって来たのだ。どこですれ違ったというのだ。
階段を駆け下りる時、最後の一段を踏み外し、転びそうになる私を、ショウが助ける。
「ありがとう。もう学校へ行く時間でしょ。早く行きなさい」
「助けてもらって、その言いぐさは何だよ」
ショウの文句を後ろに訊きながら、私は公園目がけて全速力で走って行く。
「茶々丸」
「ユウさん」
のんびりとした声で言う茶々丸に、私は飛びつく。
「どうかされたんですか?」
「私を抱いて」
「はぁ」
間延びした声に苛立ちながら、
「どこにも行けないように、あなたの愛で私を縛り付けて欲しいの」
何も言ってくれない茶々丸を、上目使いで見る。
抱きしめるどころか、手をブランとさせ、きょとんとしたまま私を見ていた。
「ごめん。私、どうかしていた。仕事、行かなくっちゃ。今日は迎え、来なくていいからね。真っ直ぐ、自分の部屋に帰るから。これ食べて。チンした方が美味しいけど、ないから仕方ないよね」
早口でまくしたてた私は、呆然としたままの茶々丸を置いて、公園を後にする。




