第四章 鑑定士04
一歩、外に出た私は立ちくらみをしてしまう。
事務所では、べたべたと美和子が、金森と仲睦まじく仕事の話と称して、顔を突き合わすように話し込んでいた。
金森に対して、特別な感情を持っていたわけではないが、もう一度振り返り、肩を竦めて歩き出す。
「ユウさん」
「茶々丸?」
急いで来たのか、前が少しはだけている茶々丸が、にこやかに手を振っていた。
私は、あれっと思う。
茶々丸の周りだけが、どんよりとした空気が纏っているかのように見えてしまうのだ。
眼を擦り走り出そうとした私は、驚きの表情を浮かべ、足を止めることになる。
誰かが風を切って、私の横をすり抜けて行った。
それが何だったのか理解するまでに、私は数秒かかってしまう。
黒い塊がだんだんはっきりしてきて、それがランドセルを背負った少年の姿と変わり、憎たらしい表情で振り返る。
「ショウ?」
しばらく姿を見せていなかったショウだった。
挑発的な目で私を見たショウは、有無を言わさずに茶々丸を回れ右させ、そのまま連れ去ってしまおうとしていた。
「ちょっと」
完璧に置いてきぼりにされた私は、慌てて足を動かしたものだから、前のめりになり転びそうになる。
「ちょっと、待ってってば」
追いかけるように走りだした私は、腕を掴まれ、驚きの表情で振り返る。
「あれ、ユウの彼氏だよね。いいな。格好いいよね」
そんなこと……。
出かかった言葉を、私は自分の中へ押し戻す。
そんな言葉が、何の役に立たないことを、私は充分知っている。それがむしろ引き金になってしまうこともだ。
どんな顔をしていいのか分からない私を見た、美和子が少しだけはを見せて笑う。
悪寒が走る。
茶々丸に限って、そんなことはない。そう信じたい。信じたいけど、不安が次から次と生れ私の中へ降り積もっていく。
「着物男子も悪くないわね」
首を伸ばすように、茶々丸を見ていた、志津恵が呟く。
「そうそれ。私も最初あった時、ドキッとさせられちゃった。やっぱ、日本人はこれよね~」
最後の部分をは盛らせている二人を見て、私は顔をしかめる。
気に入らない。と言った舌の根も乾かない内に、何なんだこの笑顔で話す二人は。
如何わしいものでも見るような眼差しを向ける私に、志津恵さんは独特の笑みで、口を開く。
「私たち、これから飲みに行くけど、箕輪さんも来る?」
わざと聞く美和子に、私は一度、茶々丸たちの方を見てからゆっくり口を開く。
「私は」
「無理じゃない。この子、昔っから人付き合い悪かったし」
意地悪く言う美和子に同調した志津恵が、明るい笑顔を作る。
「そうよね。あんな彼氏が迎えに来ているんですものね。私たちになんて、付き合えないわよね。仕方がない仕方がない」
目が笑っていない志津恵に、思わず、私は腰が引けてしまう。
「あの、私、少しくらいなら」
「何ぐずぐずしてんです。もう夕飯の時間はとっくに過ぎてますよ。ショウがお腹空かして、かわいそうじゃありませんか」
「え? あんたたちそういう仲なの? あの子って」
「はい。小生たちの」
何を言い出すのかと、冷や冷やしている私の手を握り、茶々丸はにやりとする。
その冷たい瞳が、私を震えさせる。
「早く」
ショウに反対の手を強く握られた私は、ハッとなり我を取り戻す。
時々、ショウの瞳の奥に不思議な力を感じてしまうことがある。
「腹減った~」
「あぁそうですね~。お腹、空きましたね。ユウさん、行きましょう」
いつもの茶々丸に戻ったその笑顔を見ながら、私はそっと後ろを振り返る。
二人はもう歩き出していた。
視線を戻した私は、茶々丸を見た瞬間、胸が一つ跳ね上がる。
元に戻ったはずの茶々丸の横顔が、険しいものへと変わってしまっているのだ。
無邪気に笑っていたショウも、どことなく、怒っているかのように見える。
「茶々丸……」
「あの二人、小生は好きになれません。特に若い方の言葉、信じてはいけません」
「何? 急にどうしてそんなことを言い出すの?」
「ユウさん、騙されやすいでしょ。夕べもそうだったし。あの女、あまりいい目をしていないです。小生には、分るんです」
「ああ俺もそう思った。あの女、性根が腐っているよな」
二人に悪口を言われ、いささか面白くなくなった私は、衝動的に反論を始める。
「確かに癖がある子だけど、話してもいない人のこと、少し言い過ぎじゃない? それにショウ、小学生なのに生意気。本当にもう、ひとの友達にケチ、付け過ぎ」
「友達?」
茶々丸が不思議そうな目で、首を傾げる。
「そうよ友達よ。なんか文句ある?」
「あれは、友達とは言いません」
「そうだ野蛮人だ」
「ショウ、野蛮人て言葉の意味、分かっていて使っているんでしょうね」
「そのくらい、知っているよ。バカにすんなよ」
曲がり角に差し掛かった時、そう言うと、ショウは私の手を強く引っ張ったかと思うと、ランドセルを揺らしながら、駆けて行ってしまった。
その後姿を見て、私の頭の中を何かが掠める。
前にもこんな風景を見たことがある。
髪が金色に光、とても眩しくて切なくて……。
「ユウさん」
茶々丸に目を覗き込まれ、私は俯く。
心臓が割れそうに痛かった。
風が吹き、茶々丸の瞳が顕わになる。
今の、何?
茶々丸が慌てて前髪を戻し、前を歩いて行ってしまう。
見間違いに決まっている。そんなことがあるはずがない。
瞳の色が銀色になってしまっていた気がした。
人気のない公園を突っ切り、茶々丸が足を止め、遅れて歩く私の方に向き直って、微笑む。
「小生の言うことだけを、これからは信じて欲しい。特に昨日の男とあの女は用心です」
きょとんとする私の髪にキスをした茶々丸は、そのまま踵を返し、滑るような足取りで前を歩いて行く。
髪に隠された瞳は、どこまでも澄んだ青空のように優しく、さっきまでの不安や怖れは無くなり、晴れ晴れとした気分になっていた。
木々が風に揺らされざわめく。
闇にまぎれて、一羽の鳥がそんな二人を見ていることも知らず、私は記憶ゆっくりと頭から消去されていくことにも気が付かず、至福の笑みで前を歩いていく茶々丸を追いかける。
アパートの前、一度足を止めた茶々丸は先に階段を上って行く。
うす暗い部屋で、茶々丸が用意してくれた食事を摂り、蜜のような時間を二人で過ごしたのち、部屋を後にする。
ゴミに埋もれてしまったこの部屋には、わずかな明かりしかなく、水が通っていなかった。
だから茶々丸は、コンビニや公園に良く出没していたのだ。
お風呂はどうしているのの質問に、茶々丸は指を重ねあわせ、しばらくじっと見つめてから、小生、臭いですかと訊き返されてしまって、私は返答に困ってしまう。
着ているものも着た切りで、この暗闇の中、自分がどんな状態になっているのかさえ、定かではない。
気が付くと私は茶々丸に見送られ、あの公園まで一緒に歩いているのだ。
もう一度聞かれた私は、慌てて首を大きく振る。
かすかに茶々丸の胸が揺れ、笑っているのを肌で感じる。
何だろう?
さやさやとした風にあおられているような、心地よさが私の中に広がり、躰の芯がポッと温かくなっていく。経験が少ないせいでそう感じてしまうのだろうか。
ふわふわした気分のまま、どのくらいの時間が過ぎ去ったのか分からなくなる。
「もうお帰り」
囁かれるまま、いつもの通り公園まで一緒に歩き、周囲の音を一切感じずに、部屋の意明かりをつけている自分が居るのだ。
茶々丸の部屋に泊まらせてもらったのは一度きりで、それからはいつもこんな調子だった。
それでも、私の中に微塵も不安はなかった。
すべてが幸せを感じている。
テーブルに置かれたぺんぎんを手にし、真っ暗になった空を透かし見る。
当然だが、黒に染められたぺんぎんになり、私は笑ってしまう。
本来あるべき姿。
光の加減で、窓に掛けられたカーテンが映り、まさしくぺんぎんになりきっているオブジェを手に、意味もなく顔を綻ばせる。
こんな風に笑うのは、初めてじゃないかと自分でも思う。
それほど私は満たされていた。




