第三章 伴奏者06
急ぎ足で商店街を突っ切って行く私は、ふとあのビルが目に留まり立ち止まる。
今確かに、智暉がそこに立っていたような気がした。
そんなはずがない。
私はフッと笑みを零す。
不安に駆られると、心のどこかで私はいつの間にか、友暉を探す癖がついてしまっていた。
幻覚を見てしまったのはそのせいだろう。
そう思いつつも私は、居もしないと分かっている友暉の姿を探すように、暗がりに目を凝らす。
あの日にはなかった、閉じられている非常階段へ続く扉。
一瞬、草原にぽつんと建てられた白い門扉がそれと重なり合う。
まずいと思った。
私は眼を擦り、もう一度見直す。
黒々と塗られた鉄策である。どう見間違えても白くなんて見えないはず……。
どこまでも弱気になてしまっている、自分に気が付く。
とてつもない恐怖が、幾重にも重なり圧し掛かってくる。
考えてみると、ずっとこの見えない何かに怯えていた気がする。
そして私は、願わくば、あの階段の中腹辺りで腰かけていてくれれば、どんなにいいだろうと思う。
しかし、視線を戻し煌々と明かりに照らされている店内へ目を向けた頃には、私の中から、そんな思いは取り払われていた。
店内は程よく混み合っていた。
丁度、窓際に座る二人連れの客人へ、料理が運ばれてきたところである。
嬉しそうに微笑み合うカップル。
どこにでもある風景。
自分でも気が付かないうちに、見入ってしまっていたらしく、料理を運んできていたウェイターと目が合ってしまう。
気まずさと恥ずかしさでいっぱいになった私は、慌てて目を逸らし、小走りでその場から離れる。
まただ。
誰かに、頭の中をぐちゃぐちゃにかき回されているような、目がチカチカして、気分が悪くなる。
それなのに、私の足は自分の意思とは関係なく、だんだん速度を上げていき、家に着く頃には、走っていた。
今まで、こんな速度で走ったことがあっただろうか。
部屋に駆け込み、後ろ手で鍵を閉める。
明かりもつけずにしばらく、私はその場へ立ち尽くしてしまっていた。
どうしてか分からなかった。
湧き上がってくる恐怖。
その要因など、何一つないのに……。
テーブルの上に置いたぺんぎんが、暗闇にぼんやりと浮かび上がる。
窓から零れだす月明かりが、反映されているのであろう。
ぺんぎんを手に取り、窓を開ける。
ビルの隙間から、半月が見え隠れしていた。
「疲れた」
思わず口にしてしまった自分の言葉に、苦笑してしまう。
無造作にぺんぎんを置き、部屋の明かりをつける。
お腹が空いていることに気が付き、私は冷蔵庫の中をのぞき、あれと思う。
何かが頭の中で引っかかった。
カーテンが揺れ、夜に紛れて、そんな様子を見つめる人物がいることに気が付かない私は、急に駆り立てられるものを感じ、冷蔵庫を閉め、バタバタと探し物を始めだす。
このままではいけない。
年明け早々の私が、そこにはいた。
就職がなかなか決まらず、焦りだけが募る。
すっかりくたびれてしまったスーツをクリーニングに出し、新たな気持ちで職探しに挑もう。
絞り出した活力だった。
「履歴書を書こう」
わざと声に出して言う。
そうでもしなければ、心が言うことを聞いてくれないのだ。
引き出しの中を探すが、どうしても履歴書が見つからずにいた。
コンビニにだって、履歴書は売っている。
そう思いながらも、私は探す手を止められずにいた。
押し入れに、無造作で積み上げられた大学時代の資料。
どうしてここまで拘るのか、自分でもよく分からない。
しかし、今、探さないと後悔する気がして仕方ないのだ。
使っていないカバンを退かし、クリーニングから戻って来たまま放置されたスーツの間に、ゴツゴツしたものを見つけた私は、首を傾げる。
それが何か、まったく想像がつかなかったのだ。
手に取り、見覚えのある柄が描かれた布を取り払っても、しばらく私は思い出すことができなかった。
ぺんぎん?
なぜ、そんなものがここにあるのか、私には見当がつかなかった。
クリスタル製の青白いぺんぎんを手に、私は首を傾げる。
カーテンが揺れ、電線に腰かけた黒スーツの男が、愉快気に指で作ったタクトを振りだす。
「これを預かっていて欲しい」
ふっと思い出し掛けていた記憶が消え、代わりに友暉の声が頭の中で響く。
「きみが必要な時にだけ、このぺんぎんを思い出す」
「変なの」
「変かな? 普通だよそんなの」
「ええー普通じゃにと思うけど」
「良いんだよ。記憶なんてさ。必要な時にだけ引っ張り出せばさ。忘れたって、罪にはならない」
「そんなの嫌だな」
「いやでも仕方がないさ。それが普通なんだから」
「だから、普通じゃないって」
そう突っぱねた私の言葉に、智暉は寂しそうな目を向け、微笑む。
口元が何かを言おうとするが、私はその瞬間、目を閉じ、耳を塞いでいた。
テーブルに置かれた履歴書を、入り込んできた風が飛ばす。
私は慌てて窓を閉め、カーテンを引く。
そしてふと目にしたぺんぎんを見て、私は目を見張る。
腹の部分が黒い煙のようなものが、一瞬ではあったが、そう見えてしまったのだ。
急いで手に取り、確認をする私を、電線に止まった男は空を仰ぎ見るように、渾身の力を籠め手を突き上げる。
ぺんぎんを手にした途端、私は酷いめまいに見舞われる。
その場に静止していられなくなり、私はその場へ崩れ落ちてしまったのだった。




