第三章 伴奏者05
汗臭いまま、電車に乗ることが忍びなく思いながら、私は茶々丸の元へ向かっていた。
公園に差し掛かった時、不意に名前が呼ばれ、私は振り返る。
「金森さん」
「偶然。箕輪さんの家もこの辺りでしたか」
私は言葉を失う。
面接を受けてから一週間しか過ぎていない。その時の会話をこの人はすっかり忘れてしまっているのだろうか?
「ここから遠いけど、通いきれますか?」
そんな質問をされ、私は躊躇うことなく答えたはず。
返答に戸惑う私に気付く様子もなく、金森は親しげな笑みで話しかけてくるのだった。
「折角だから、飲みにでも行きませんか? 美味い酒、置いている店知っているんですよ。箕輪さんは、いける口なんでしょう」
酒を飲む素振りを見せる金森に、私は苦笑で見つめ返す。
大概、私が戸惑いを見せると、ショウがやって来ていた。
心の底で、私はそんな偶然を祈る。
「いいから行きましょう。お酒、飲めなくても十分楽しめますって。飯とかも、上手いんですよ」
有無なしで、金森は私の手を引っ張る。
連れて行かれる私の背後で、風がざわめく。
桜の木に一羽、カラスが止まり、その様子を眺めていた。
何が、そんなに楽しいのだろう?
渋々と薦められた酒を一口運び、すでに、二杯目をほぼ飲み干そうとしている、金森の顔をしみじみ見る。
「箕輪さん、全然、食べていないじゃないすっか。ここは、僕が奢りますって。どんどんいっちゃってください」
「あの、金森さん」
声を押し殺して言う私に、金森はにこやかな目を向ける。
「良くしてくれるのは嬉しいですけど、こういうことは」
「彼にでも、叱られますか?」
私は、答える代りに、目を伏せる。
「そんな小さい奴、別れちまえば」
予想外の言葉だった。
驚いたまなざしを向ける私に、金森は平然と酒を勧める。
「箕輪さん、日本酒、飲んでみる?」
あくまでも、ニコニコし続ける金森に、思わず吹き出してしまっていた。
こんなには、初めてだった。
どこにいても何をしてても、私はどこか蚊帳の外にいて、傍観者を決めていた。
茶々丸と二人っきりでいるときだけが、唯一、私の心に着せられている、見えない鎧を外せるものだと思っていた。
なぜだろう?
不思議な気持ちで、改めて隣で楽しそうに酒を飲む、金森の顔を見る。
様相も何もかも違うはずなのに、一緒にいると、茶々丸と同じものを感じ取ってしまうこの人って……。
「どうしたんです? 急に黙り込んだろして?」
え?
一瞬、金森と目があった私は躰が吸い込まれる感覚に襲われてしまう。
「顔色、良くありませんね。酔っちゃったのかな?」
グワーンと耳の奥がおかしくなり、金森の声がうまく聞き取れなくなっていた。
突然、目の前にオレンジジュースが現れ、私は驚きの眼で見上げる。
「茶々丸」
まさかの登場に、半ば口をパクパクさせながら私は口走っていた。
「これ、間違っていると思うけど」
「いいえ、こちらの方から頼まれました」
さっきまでの笑顔を引っ込め言う金森に対し、いつもの茶々丸らしくもない口調で茶々丸は対応してみせる。
何だ何だ、この雰囲気は……。
どこからともなく、ピシっピシっという音が聞こえてきていた。
「茶々丸、この人は仕事先の」
私の弁解も聞かずに、茶々丸はあっさり背を向けて店を出て行ってしまう。
それを追おうと立ち上がる私の手を、金森が掴む。
「あいつはあんたには相応しくない。辞めた方が良い」
「放してください」
「あいつは、あんたを不幸にするだけだ」
「どうして……、どうしてそんな事が、金森さんに分かるんですか? 私、仕事を辞めます」
「目を覚ませ。あいつは」
私は金森の手を振り払い、茶々丸の姿を夢中で探す。
どこを探しても、茶々丸の姿を見つけられない私の頭の中で、乱暴に弾かれる不協和音が鳴り響く。
荒々しいピアノの音色。
やたらノイズが酷く、吐き気さえもようさせられてしまう。
回転木馬を高速回転で乗せられている、そんな気分だった。
ついに耐えきれなくなった私は、耳を塞ぎ、その場に屈みこむ。
コツリと、足元に何かが落ち、私はそれを拾い上げる。
それは、夜の背景を映し出しているぺんぎんだった。
「なんでこんな時に……」
口が開いてしまっているカバンにぺんぎんを押し込み、代わりに出したハンカチで口を押え、私はよろよろと立ち上がる。
無性に茶々丸が恋しかった。
もうその時の私の中には、怒りに任せてオレンジジュースを置いていった茶々丸の記憶は残っていない。
恋しくて恋しくて、そうまるで、母親を探す迷子のように私は、茶々丸を探し求め、夜道をひたすら駆け抜けていた。
肩で息をしながら、アパートの階段を駆け上がり扉を叩く。
そう、気が付くと、私は無我夢中でアルミでできているその扉を、力任せに叩きつづけていた。
しかし、その扉は開かれることはなかった。
握りしめていたぺんぎんが鈍く光る。
私は踵を返し、公園へと向かった。
なぜだか、茶々丸が呼んでいる気がするのだ。
駆け込んで行く私に気が付いた茶々丸が、振り返り両手を広げて見せる。
いつもより何倍も大きく見える茶々丸に、私は吸い込まれるように、駆け寄って行く。
そんな時だった。
一羽の鳥がそれを遮るように、私に目がけて飛んできた。
何が起こったのか、一瞬分からなかった。
遠くで鈍い音がして、ヌーッと茶々丸の顔が近づいて来る。
「さぁ、それをこちらへ」
私の指が、ぺんぎんから一本ずつ剥がされて行く。
「ユウ、それをそいつに渡しちゃダメだ」
ショウの声に、私はハッとなる。
茶々丸が顔を歪ませる。
「まったく煩いですね」
ニヤリとした茶々丸が伸ばした手から、目を瞠るような光が放たれ、ショウの呻き声と共に闇が戻ってくる。
「さぁユウさん、邪魔者は消えました。小生にそれを」
目の前に草原が広がり、私は白い門扉の前に居た。
「まだだ。まだ今しばらく堪えよ」
風がスカートのすそを揺らし、先を急かす。
「ユウさん、さぁそれを手放し、自由におなりなさい」
手放せって、いったい何を手放せばいいの?
鳥たちが一斉に飛び立ち、一羽秀でて、喚き散らす。
頭の中に広がるノイズ。
私はぺんぎんを胸に力強く抱きしめ、逃れようと後ずさりを始める。
少年が振り返り、私は手招かれ、心がグラグラと揺らめく。
「いいですね。そのままそのまま」
嬉しそうに指で作ったタクトを振る少年に、私はどんどん吸い込まれていくように近づいて行っていた。
少年が大振りし、形相が変わる。
「ギルバード、正気を戻せ。その人を殺めてはならぬ」
躰が石にでもされてしまったかのように、動けなくなっていた。
ひらりと目の前に白い羽が落ちて来たかと思うと、頭の中が真っ白になり、私はぼんやりと当たりを見回す。
どうして公園に居るのか、分からなかった。
息を切らした金森が白く浮き立つように姿を現し、私は目を瞠る。
「さっきは言いすぎました。すいません。酔っ払いの戯言だと思って、許してください」
金森に両手を握られ、不思議な気分になる。
ずっとそうしていたように、私は金森の胸に顔を埋め、顔を綻ばす。
しかしそれも束の間、またあの耳障りな不協和音が頭の中で鳴り響き、闇が私を覆い尽くして行く。
立っているのが辛くなった私の躰が、ガクッと落ちる。
金森の腕の中で、私の記憶が遠のいでいく。
ハッとなった私は、開いた扉から慌てて飛び下りる。
慣れない仕事で、すっかり疲れ切ってしまった私は、足を引きずるように家路に就く。




