第三章 伴奏者01
空を覆い尽くすように、黒い翼が広がり茶々丸は目を見開いていた。
「走れ」
訳が分からなかった。
風圧で足が取られ、振り返ろうとする私を、ショウは強引に引っ張り返す。
何かが起きている。
大きな影が行く手を阻む。
「振り返っちゃダメだ」
転がるように公園へ駆け込んだ私は、やっとの思いでショウの手を振り解く。
「急にどうしたのよ」
肩で息をしながら訊く私に、ショウは何も話そうとせずベンチに腰掛ける。
「だから、答えなさいよ」
あれっと思った。
怖かったという思いは残っているのに、何に対してなのか、全くと言って良い程思い出せなかった。
汗が玉のように流れ落ちる。
躰がバラバラになりそうだった。
汗を拭こうとハンカチを取り出した瞬間、何かに触れ、私は目を見開く。
一面に広がるモスグリーン。
躰ごと何かに引き寄せられる感覚に陥り、呼吸が苦しくなる。立っているのも辛くなっていた私の耳に、ふとハーモニカの音色が聞こえ顔を上げる。
ショウ?
誰かがこちらを振り返り、微笑みかける。
私は何かを思い出しかけていた。
……この曲って?
スーッと心に広がった何かを取り払うようにメロディーが心に浸み渡っていき、呼吸がだいぶ楽になる。
「さゆちゃん、良い歌だね」
「聞こえないのに、何で分かるの」
「分かるよ。僕の心の耳は聞こえているから」
身に覚えのない会話が、ふと聞こえてきて私は辺りを見回す。
耳の奥が、キーンと鳴る。
ふと躰が軽くなり、意識が遠くなりそうになっていた。
一瞬、音がなくなる。
私は草原に一人で立ち尽くしていた。
一歩踏み出そうとする私の耳に、力強い音が鳴り響く。
さっきまでの曲とは、がらりと変わったのだ。
いつの間にかやって来ていた茶々丸が吹いているものだった。
私は目を見開く。
茶々丸の背に、黒々とした羽が無数に舞い散っていた。
不意に大きな影が頭上に広がり、次の瞬間、私は強い力で弾き飛ばされてしまう。
ハッとなり、私は飛び起きる。
私は首を傾げてしまう。
いつの間にか私はベンチの上で、転寝をしてしまっていたようだ。
足元には、茶々丸も気持ちよさそうに寝息を立てていた。
ショウは帰ってしまったらしく、どこにも見当たらなかった。
日差しが気持ち良く、手をかざし、私は空を見上げる。
そして、私は違和感を感じ、足元で寝ている茶々丸に目を戻した。
髪の色が、金色になっている。
それにどうして、こんな沢山の羽毛が落ちているのだろう。
よく見ると、茶々丸の顔に無数の傷がつけられていた。
「茶々丸、起きて、起きてよ」
私は夢中で、茶々丸の躰を揺する。
黒と白の羽毛。
それが何を意味しているのか、私には分からない。
ただ恐怖だけが心を占め、必死で茶々丸の目を覚まさせようとしていた。
「……ユウ……ユウキてば」
いつからそこにいたのだろう。
私は、その声が全く耳に入っていなかった。
「ユウキ」
肩を叩かれ、やっとその声の主を見た私は、驚く。
「美和子」
ニコニコした浦崎美和子だった。
大学卒業以来、会っていなかった私の唯一の友達。
メールでは連絡を取りあっていたのだが、会いたいという私の言葉に、彼女はことごとく断りを入れて来ていた。
「こんな所で、何をしているの?」
それはこっちが言いたいセリフだった。
美和子の視線が、私の足元の方へ移り、もう一度戻ってくる。
「誰?」
その声に、美和子の瞳孔が大きくなる。
茶々丸が頭を掻きながら起き上る。
この状況に気まずさを覚えつつ、私は言葉を探していた。
「私、ユウキの友達の浦崎美和子と言います」
屈託のない笑顔。編みこんだ髪。くっきりとした二重瞼。笑うと頬骨辺りに出来る笑窪。首を少しだけ傾ける。自分を良く見せる方法を、美和子は知っていた。
まだしっかり頭が起きていない様子の茶々丸は、そんな美和子に対して、あまり興味を示さなかった。
「小生は、これで失礼をする」
大きく伸びをして立ち上がった茶々丸は、そう言うとあっさり公園を出て行ってしまった。
「あれ、ユウの彼氏」
私は何も答えずにいた。
「ユウ、どうかしたの? 顔色が悪いよ」
さっきまで地面いっぱいにに散らかっていた羽毛が、ひとかけらもなくなっていた。
それどころか、茶々丸の髪も、顔の傷も……。
「ユウ?」
スーッと頭の中のものが拭い取られ、私はぎこちなく微笑み返す。




