第二章 弁護人06
その夜、窓を叩きつける風が鳴り止まずにいた。
思いがけず、自分の思いが報われ、わたしは衝立でも取れたかのように、心は軽くなっていた。
「……本当ですか?」
「小生、こんなこと、嘘を吐きません」
ボロボロと涙をこぼす私を見て、茶々丸が柔らかな笑みで、そっと抱き寄せる。
遠ざかって行く、ショウのランドセルの音も、風のざわめきも、全てが二人を祝福しているかのように、その時の私は思えて仕方なかった。
すべてが輝き出す瞬間。
そんなものに出会えるなんて、自分でも思いもしなかった。
誰彼関係なく、すべての人へ微笑みかけたくなる。
あの殺伐とした年明けとはまるで違う、この気持ちをどう表現していいのか分からない私は、この先に何が待ち構えているかなんて、まるで想像もつかずにいた。
部屋へ帰り、求人雑誌を捲る手もリズミカルで、それが自分でもおかしくておかしくて、顔が綻んで仕方がなかった。
帰りがけに買った、履歴書に書き連ねる自分。
変速ギアを入れて、加速して行く感情が心地よいものだと、茶々丸と出逢って初めて知った。
いつも感じていた暖かなものはこれだったんだ。と、私は確信してしまっていた。
いそいそと、面接用のスーツを用意するためクローゼットを開き、そして次の瞬間、足に硬いものが当たり、その場に蹲ってしまう。
半分むき出しになったぺんぎんだった。
それが何を意味しているのか、一瞬にして分かり、背筋がゾクッと寒くなる。
こんなにも幸せな自分なのに……。
私は友暉の言葉を振り切るように、何重にもして包み直したぺんぎんをクローゼットの奥底に押し込む。
人の心なんて勝手なもの。
輝きだした私の人生は、前へ前へと突き動かして行く。
茶々丸の謎は解明できないまま数日が経ち、私はコンビニ店員として働き始めだす。
すべてが輝いて見える。
人も景色もすべての物がだ。
あれ程、人が苦手だった私は、笑顔で接客をしている。疎遠になっていた松野の母親とも、ちゃんと話せたし、叔父夫婦の家にも顔を見せたりと、変貌ぶりを発揮していた。
夕暮れの街、急ぎ足で茶々丸の待つアパートの前まで行き、大きく深呼吸をしてから、わずかに開けられているスペースへ足を踏み入れる。
「おい」
やっと決心して足を踏み入れたところなのに、水を差すように声を掛けられ、私は飛び上がるように振り返る。
「ショウ?」
ランドセルの肩ベルトを、ぎゅっと握ったショウが、珍しく怖い顔をして見上げていた。
「何よ、そんな怖い顔をして」
「いいのかよ」
「は? 何が?」
「全部壊れちまうぞ」
「何がよ。言っている意味、全然分からないんですけど」
怪訝な顔して言う私に、ショウはフン。と一回鼻を鳴らし、そっぽを向いてしまう。
「おや、どうかされました?」
茶々丸が近づいてきていることに、私は全く気が付かずにいた。
「何でもないの。それよりまた」
茶々丸が手にしている物を指さしながら、私はクスッと笑う。
ばつが悪そうに茶々丸は髪を掻き毟り、一瞬、青空のような瞳が垣間見え、ぎゅっと胸が締め付けられる。
「私、お料理とか得意じゃないけど、それよりマシなもの作ります」
ざわざわと風が吹きぬけて行き、茶々丸の表情が曇ったように感じた。
「雨が、降って来そうなので、今日はお帰りなさい」
まるで二人の間には見えない壁でもあるかのように思えて、私は無性に悲しくなる。
「……どうして、どうしてあなたは、私のこと、好きだと言いました。それなのに」
泣き出した私の肩を抱き、茶々丸はもう一度耳元で聞き取れないほど小さな声で囁く。
「焦ってはダメです。すべてが台無しになる」
一瞬目の前が真っ暗になり、私は駅に向かい始める。
「ユウ」
「ん?」
ショウに呼び止められた私は、首を傾げる。
「今、幸せ?」
照れ笑いをする私に、ショウは憎らしいくらいの声で、表情で、あかんべぇをして見せ、バーカと言って、私の手を握リ駆け出す。
「待ってショウ」
振り返って茶々丸を見ようとする私に、ショウは、振り返るな。と叫び手を痛いくらい握り締める。
訳が分からなまま、公園の桜の木の下まで連れてこられた私は、息を整えながらこっそりショウを盗み見る。
まったく意味が分からなかった。
いつの間にかどんよりした空を、忌々しそうに見上げたショウが何か言おうとしたときだった
葉がパラパラと落ちて来て、見上げると一羽の黒い鳥が止まっていて、私はゾクッとなる。
カラスとは少し、違うように思えた。
眼光が鋭く、まるで私を睨みつけているようだ。
鳥が羽ばたきを見せ、私たちは無我夢中でその場から逃げ出す。
そう、逃げ出したのだ。
カバンの中で、ぺんぎんがカタカタなっていた。
ふっと視界が開けて、一面に広がる緑に目が奪われる。
心臓が悲鳴を上げ、迫り来るものに怯えながら、でも足を取られてしまい、空から降って来るものから逃れようと、後ずさった。
「ユウ、目を瞑れ」
え?
「いいから、言われたとおりにしろ。瞑ったか?」
「うん」
「よし、ゆっくり、10数えろ」
訳が分からないまま、私はショウに言われたとおり、ゆっくり数えはじめる。
10。と言い切った瞬間、頬を何かが掠めて行った感触が伝わってくる。
すごく怖かった。
怖くて怖くて、目を開けることが出来なかった。




