第一章 三文役者06
不思議そうな顔で振り向いた茶々丸に、私は夢中で言葉を掛けていた。
「まだ、話は終わっていないわ」
そう言われても、茶々丸は何のことか本当に分からなようで、そのままの格好で動けずにいるようだった。
「私、箕輪ユウキっていうの。あなたの、あなたの名前を教えてくれない?」
きょとんとしたままだった茶々丸が、困ったように頭を掻き出す。
その間が嫌で、私は思いついた言葉を、連ねる。
「私、怪しい人じゃないです。太陽パネルなんて売って歩いているけど、あなたを無理に売りつけるつもりもないし、ていうかアパートだから無理ですよね。じゃない。そんなことが言いたいんじゃなくて、そう何となく、知り合ったから、名前くらい知りたいなって」
支離滅裂になっているのは、自分でもよく分かっていた。でも、私は無我夢中だった。
「申し訳ない。何も、分らないんだ」
茶々丸が、本当に申し訳なさそうに言う。
えっという顔をする私に、茶々丸の瞳が真っ直ぐに向けられる。
「どういうこと? 確か……茶々丸って、ショウ君は呼んでいたけど」
「そうですか。きっとそれが小生の名前なんでしょう」
「そんな安易でいいの? だいたい、自分の名前だよ。分からないわけないじゃ……」
「何も、覚えていないんだ。気が付いたらあの部屋に居て……」
私は、言葉を詰まらせてしまった。
前髪の隙間から見え隠れしている瞳は、悲しみに満ち溢れ、私の胸をも締め付ける。これ以上、訊いてはいけない気がしてならなかった。
また突風が吹き、私は砂埃が目に入らないように、目を瞑る。
どこから飛んで来たのか、足元に新聞紙が絡みついていた。
それを拾い上げ、私は茶々丸を見る。
とぎれとぎれの記憶。
私と同じだ。
妙な親近感を覚えた私は、上目使いで茶々丸を見る。
大したことではなかった。
難しく考えることに疲れていた私は、笑ってみせる。
次の瞬間、茶々丸に顔を顰められ、私は焦ってしまう。
「いや、怒ったのなら、そ、そうですよね。全部忘れてください」
急に茶々丸の顔が近づいて来て、私は思わず身構える。
「嫌な事件が、続いているな」
新聞?
徐に拾い上げた新聞を、茶々丸はまじまじと眺めていた。
私はきょとんとしてしまう。
茶々丸は苦しそうな顔で、頭を振り、眼鏡を外し、目を拭う。
「小生は、しなければならないことがあるので、これで失敬する」
「する事って?」
「この子の言葉を、心を、誰が弁護するって言うんだ。小生しかおらんでしょ」
「弁護?」
私の言葉など、まるで耳に入らないようで、茶々丸はさっさと踵を返し、軽快な音を立てて階段を上って行ってしまった。
ドアが閉まり、茶々丸の姿が見えなくなっても、私はしばらく呆然と立ち尽くしていた。
そして、茶々丸が珍しく分厚い本を持っていたことを思い出す。
雨にぬれてしまわないように、確か郵便受けに入れといた。
ゴミ山の脇で、見え隠れしている郵便受けを覗き込む。
「あった」
シミになってしまっている本を取り出し、私は再び、茶々丸が消えて行ったドアを見上げる。
それは六法全書だった。
雨に濡れたせいで、開きにくくなっていたが、何とか中身を見ることが出来た。
相当使い込んでいるのが分かる。
いくつかの項目にアンダーラインが引かれ、手垢で汚れてしまっているページ。
何かの事故か病気で記憶を失ってしまったのだろうか。
無意識に、行動をとらせている?
それなら何となく納得ができる。
弁護士をしていたのなら、少しくらい貯えもあるだろうし、もしかしたら、私が知らないところで、誰かが茶々丸を介護しているのかもしれない。
一つ謎が解けた気がした。
そうなると私の中で、次々と茶々丸に対しての解釈が生まれ、成立させられていった。
喩え、どんな人物であったにしても、もうこの気持ちは止められない。
私はある決死をして、駅へと踵を返し歩きはじめる。
もう誰にも止められない恋を、私は始めようとしていた。




