第一章 三文役者05
ぼんやりとした思考回路のまま、そこにあることすら嘘に思えるアパートの一室を、私は見上げる。
ベンチで荒息を上げているショウに、現実に引き戻され、仕方なく、そう仕方なく、警察に保護を頼んで帰った。
しかし、それが大きな間違いだった。
気になって仕方がなく、とうとう一睡も出来ずに、空が明るむのを待たず、この場所に来てしまっている。
せめて親元に引き取られるのを、この目で確認してやれば良かった。
後悔ばかりが頭をもたげ、私を苦しめるのだ。
自分とは無関係と言い聞かせてはみたけど、喉が焼けそうなくらい痛んだ。
茶々丸の話を、信じたわけではない。
しかし、自然と雨に濡れてしまっている蒲団へ、私の目が行く。
あんな場所で、本当なのだろうか……、布団に包まっていたなんて……。
その光景を想像し、私は一度身を震わせ、考えるのを止めた。
階段の、わずかに開けられている空間。
私はどうしても、そこを上がって行く気にはなれずにいた。
パラパラと傘を叩く音が、やかましいくらい、鳴り続けている。
アルミの扉の向こう側のことを、私は想像していた。
何一つ、茶々丸についての情報はない。
あるのは、名前だけ。
それは、本人から聞かされたものじゃない。
名前が記されていない郵便受け。壁いったいに積まれた粗大ごみの山。それにあの身なり。
皆目見当がつかない茶々丸を、私はどうしてこんなにも気になって仕方がないのだろう。
今日こそは、本人の口から全てを聞くつもりで、ここへやって来ていた。
いつの間にか雨は止み、雲の切れ間から青空が見え始め出している。
突風が吹き、私は一瞬だけ目をつぶる。
そして次の瞬間、私は目を見開く。
目の前に茶々丸が立っていた。
「どうかされましたか?」
愛想が良い笑顔に、今日はトンボ眼鏡が掛けられていた。
「その眼鏡」
「ああこれ、なかなかいいでしょ?」
得意げに眼鏡に手を当て、ポーズを決める姿を見て、私は吹き出してしまう。
今日の茶々丸は、どこか雰囲気が違う。
自信に満ち溢れているように、見受けられる。
着ている物だって、昨日と何も変わっていない。
変わったのは、前髪で隠されていた目に眼鏡が当てられたというだけ。それだって、半分は、やはり髪に隠されてしまっている。
「小生の顔に、何かついておりますかな?」
ハッとなった私は、慌てて首を横に振る。
「ショウ君、どうしたかなって思って」
「ショウ?」
茶々丸は、初めて聞いたように首を傾げる。
「昨日、熱があるショウ君を交番に身元を調べるよう、頼んだじゃない?」
ますます分からないといった顔で、茶々丸は私を見る。
「本当に、分らないの?」
「申し訳ない」
「私のことは、分る?」
ちょっとした間が開き、茶々丸は、か細い声で、おそらくと答える。
どう解釈したらいいのだろう。
冗談を言っている顔ではないと思う。けど、役者なら、こんなの朝飯前の仕事なんだろう。
深く詮索することに、意味がないような気がして、私は茶々丸の言葉をそのまま受け入れることにした。
昨日濡れてしまった着流しを着ているのか、さほど汚れているようには見えない装いに、私は疑問を抱くが、静かに微笑む。
手を見ると、相変わらずおにぎりが一つだけ入れられている、コンビニの袋がぶら下がっていた。
微笑み返しをした茶々丸が、当然のように、目の前を通り過ぎて行く。
私は思わず、茶々丸の袖を掴んでいた。




