第八話「お得意様の失踪」
第八話「お得意様の失踪」
北の廃鉱から戻った真は、報告書の記入に取り掛かっていた。
魔獣討伐は問題なく完了。
移動を含む所要時間は三時間半。
安全確認、死骸処理、鉱山の閉鎖措置までを滞りなく終えた。
後を追った冒険者たちが到着した時にはすべてが片付いており、彼らは何もせず帰ってくる羽目になったという。
副長はその報告に安堵の息を漏らし、周囲の冒険者たちは「さすが勇者だ」と口々に囁いた。
当の真は、称賛の声にはまるで興味を示さず、自分の席に腰を下ろしてペンを走らせている。
「魔獣の死骸、素材として使える部位を一覧にまとめました。買取をご希望なら——」
「あ、ああ、助かる」
「あと、廃鉱の入り口が老朽化していました。応急処置を施しましたが、早めの本補修が望ましいです。見積もりも簡単に添えてあります」
「わかった、所長に伝える」
「それと——」
真は手帳を開き、ずらりと並んだ項目を指でなぞりながら次々に報告を続けた。
「魔獣は廃鉱の第三坑道に潜伏していました。光に反応する習性を利用し、入口で閃光を焚いて誘き出す戦法が有効でした。残存する鉱石に反応していた可能性があり、同様の案件では坑道の閉鎖が最も確実です。また、死骸からは甲殻素材が予想以上の質で採取できました。市場価格は現在のところ中位ですが、加工次第で上位品に相当する可能性があります。周辺の地図も三点測量で修正し、ついでに採取してきた薬草のリストも末尾に添付しておきます」
副長は途中でメモを諦め、ただ相槌を打つだけになった。
(…勇者が言ってることが、もはや意味がわからない)
メモを取ろうとしても情報量が多く、聞き逃した点を尋ねれば「では最初から説明し直します」と本気でやり直す。
副長の手に負える量ではなかった。
副長はその報告書を横から覗き込み、思わず息を呑んだ。
簡潔で、正確で、何の感情もこもっていない。
まるで配達完了の伝票のようだった。
討伐した魔獣の項には「一匹、成獣、推定齢五歳」とだけ記され、その下に素材の一覧が続く。
生命を奪ったという実感など、どこにも感じられない筆致だった。
「……と、以上です」
「ご苦労さん。助かった」
「いえ、業務ですので」
すべての報告を終え、真はふと顔を上げてギルド内を見渡した。
隅の席。
窓際の椅子。
いつもならそこに座っているはずの人物がいない。
彼は少しだけ首を傾げ、ギルドの入口の扉に視線をやる。
副長が手を止めた。
真が仕事以外のことを口にするのは珍しい。
普段の彼は、誰がいようがいまいが関係なく自分の業務をひたすらにこなす。
人間観察や人間関係にはとんと興味がない——というより、すべてを「業務」という枠組みで処理している節がある。
「そういえば」
「なんだ?」
「リーンさん、今日はいらっしゃってないんですね」
「お前が出かけた直後に帰っちまったよ。なんか様子が変だったな」
「変、ですか」
「女神様に『勇者』って呼ばれたのを聞いて、顔色が変わってな。飛び出すように出て行った。動揺してたと思う」
真はしばらく考え込み、それから手帳に何かを書き込んだ。
副長が横から覗き込む。
「何書いてんだ」
「お得意様の来店頻度に変化があった時の対応マニュアルです」
「お得意様……」
「はい。常連のお客様が突然いらっしゃらなくなった場合、まずは理由を分析し、必要に応じて対策を講じる。基本的な顧客管理ですが、このギルドにはマニュアルがないようなので」
副長は口を開けて、閉じた。
「顧客管理」に「対応マニュアル」。
リーンとの五日間を、この男はすべて「業務の延長」として処理しているのか。
いや、それだけではない。
彼は「来客が途絶えた」という事実だけを問題視している。
そこに込められた意味には、おそらく気づいていない。
「本気で言ってんのか」
「本気ですが」
副長は天を仰いだ。
心配するという行為を「顧客管理」と名付けてしまうのも、本人が本気でそれを信じているのも、いよいよ筋金入りだった。
「なあ、真さんよ。お前、リーンさんのこと心配じゃないのか」
「心配、ですか」
真はペンを止め、少しだけ顔を上げた。
数秒、遠くを見る。
副長が口を挟もうか迷った時、彼はゆっくりと口を開いた。
「リーンさんは、良いお客様でした」
「……だった?」
「来店頻度が高く、滞在時間も安定していて、常に笑顔で帰られる。依頼こそ少なかったですが、あの方がここに来るとギルドの空気が和らぐのを、私も感じていました」
「それだけ……か?」
副長は少しだけ間を置いた。
「寂しい」という言葉は出てこないのだろうか。
この男は、自分の感情を「業務の効率」という言葉に置き換える癖がある。
副長にはそれがわかっていた。
長く付き合ったわけではないけれど。
真は何も言わなかった。
ただ、視線を手帳に落とし、再びペンを走らせる。
その動きはいつもよりほんの少しだけ遅い。
副長はそれを見逃さなかった。
手帳の隅に、真のペンが何かを書きかけて、止まった。
「リー」の二文字が、かすれたインクで紙に滲んでいる。
真はその文字を数秒見つめ、それから几帳面に二重線で消した。
その上に「お得意様 来店頻度分析」と書き直す。
消した文字の跡は、蛍光灯の下でうっすらと浮かび上がっている。
副長にはそれが見えていた。
「……そうかよ。まあ、そのうちまた来るさ」
「そうでしょうか」
「あんたが変わらなきゃ、あの娘さんもきっと戻ってくる。あんた、リーンさんに嫌われるようなこと、何かしたか?」
「嫌われる……?」
真は本気でわからない、という顔をした。
自分が誰かに嫌われる可能性など考えたことがないのだろう。
良くも悪くも、それが大黒真だった。
「何もしてないなら大丈夫だ」
「そう、ですかね」
「そうだよ。あんたを見てると、たまにそう思えるんだ。大丈夫だってな」
副長はぽんと真の肩を叩き、自分の持ち場へ戻っていった。
真はしばらく入口の扉を見つめていたが、やがて何事もなかったかのように、ペンを取り次の書類に向かう。
その前に、もう一度だけ窓際の席に目をやった。
リーンの席。
椅子はきちんと机に納められ、カップの跡も綺麗に拭き取られている。
真が今朝、掃除をしたからだ。
そのきれいな席が、どこか間違っているような気がして、彼は一瞬だけ眉をひそめた。
外では夕日が傾き始め、ギルドの窓から差し込む光が一層強く床を照らしていた。
見習いが、カウンターを磨きながらぽつりと言った。
「リーンさん、今日も来なかったっすね」
「ああ」
「俺、この間新しい茶葉を仕入れたんすよ。リーンさん、水ばっかりだったから、たまにはお茶でもどうかなって思って。でも、来ないと意味ないっすよね」
「……お前、なかなか気が利くじゃないか」
「副長こそ、リーンさんのために新しいカップ用意したじゃないっすか。ちょっと小ぶりなやつ。『手が小さいから、こっちの方が飲みやすいかと思って』とか言って」
「ばっ、あれはたまたまだ!たまたま安かったんだよ!」
必死に否定する副長の耳の先が、ほんの少し赤い。
見習いはそれを見て、あえて何も言わなかった。
代わりに、磨いていたカウンターの端を指で撫でる。
そこには、リーンがいつも肘を置いていた位置に、うっすらと擦れた跡が残っていた。
「でも、そのカップ、今も副長の机の引き出しに入ってますよね。ちゃんと箱に入れて、誰にも使わせないで」
「……お前、よく見てるな」
「あの人が来るたびに、ギルドの空気が柔らかくなったんです。それは俺だけじゃなくて、副長もでしょう?」
副長は黙り込んだ。
否定も肯定もしなかった。
それだけが答えだった。
「そうですよね」
見習いの声は静かだった。
「そりゃ見てますよ。俺だって、リーンさんにまた来てほしいですから」
二人のそんなやりとりを、カウンターの隅で聞きながら、真は次の依頼書を手に取った。
依頼書の端を指でなぞる。
報酬欄には銀貨十二枚と書かれている。
リーンは一度も依頼を受けなかった。
それでも彼女は「お客様」だった。
その事実と、今その席が空であるという事実。
その差を、真は「業務効率」という言葉で片付けられずにいた。
その口元が、ほんの少しだけ緩んでいたことに、誰も気づかなかった。
ギルドの入口の扉を見る。
今朝も磨いた取っ手が、夕日を反射して鈍く光っている。
ノブに手をかける人影は、ない。
その夜。
ギルドの奥の控え室で、女神は報告書をいまだに書けずにいた。
窓から差し込む夕陽が、机の上の書類を橙色に染めている。
元は物置だったこの部屋を、女神が無理を言って執務室に変えさせた。
一人で考えるには十分すぎるほどの静けさがある。
その静けさが、今はかえって彼女の心を責め苛んでいた。
神界への定期報告。
その書式は決まっている。
召喚した勇者の行動記録、任務達成率、脅威への対処状況。
そして——魔族との接触に関する特記事項。
ペンを手に取る。
何千年も神界で使ってきた筆記具ではない。
この世界の羽根ペン。
最初は持ち方すら違和感があったが、今では手に馴染んでいる。
(魔族の姫、リーン・ヴァルデマール。勇者と頻繁に接触中。これを報告すれば——)
神界は間違いなく真に魔族との接触を禁じるだろう。
場合によっては、リーンを拘束して魔王討伐の布石にせよと命じるかもしれない。
それが神界の「正義」だ。
脅威は排除する。
敵は討つ。
守るべき人間のために、それ以外は切り捨てる。
それが正しい。
少なくとも、女神としての彼女はこれまでずっとそう信じてきた。
何千年も従い、疑うことすら知らなかった。
でも。
「お客様はお客様です」
真の声が頭の中で繰り返される。
あの静かで、妙に力強い声。
目の前に困った人がいれば助け、依頼があればこなし、相手が誰であれ「お客様」と呼ぶ男。
彼にとってそれは「正義」ではない。
「業務」だ。
それが、あの男の凄みであり、同時に女神には一番理解しがたい部分でもあった。
(私は、あの娘を敵と呼べるのか)
女神はそっと目を閉じた。
思い出すのは、つい先日の昼下がり。
リーンがカップを両手で包み込み、一口飲んで、ほっと息をついた時のことだ。
その瞬間、彼女の眉の力が抜けて、年相応の——そう、十八かそこらの、ただの若い娘の顔になった。
(あの表情が、妙に心に残っている)
それだけではない。
副長に「今日も水でいいか」と声をかけられた時の、一瞬きょとんとしてから、嬉しそうに「うん」と頷く仕草。
見習いが「角って重くないんですか」と無邪気に尋ねた時、怒るどころか声を上げて笑った、あの笑い声。
カップを置く時、ソーサーの端をそっと揃える癖。
帰るとき、真にだけ「また来る」と言い、他の職員にはだけしていた、小さな手の振り方。
気がつけば、女神はリーンのそんな細かな仕草や行動を、一つ残らず覚えている自分に気づいた。
観察記録のためではない。
記録に必要はない。
ただ、目が追っていた。
記憶が勝手にその光景を焼き付けていた。
(私が、あの娘を気に入っている……?)
自覚した瞬間、女神は一人で頬を赤らめた。
神が、魔族の娘を「お気に入り」などと。
そんなことが許されるはずがない。
なのに、否定できない。
あの笑顔を見るたび、自分の胸が温かくなるのを、もう誤魔化せなくなっていた。
(守りたい……?敵であるはずの、魔族の娘を?)
窓の外を見る。
街は夜の帳に包まれ、灯りがぽつりぽつりとともり始めている。
あの灯りの下には、人間も、魔族も関係なく、ただ今日を生き、明日を願う者たちがいる。
(私が守るべきは、この灯りそのものではなかったのか)
神界の掟は「人間を守れ」と命じる。
しかし、この灯りの下で笑うリーンの姿は、果たして「敵」だったか。
違う。
あの娘は、ただの一度も私の敵ではなかった。
私が、そう決めつけていただけだ。
勇者は敵を討つために召喚する。
その前提でしか、物事を考えていなかった。
女神は引き出しを開け、白紙の報告書を取り出すと、何も書かずに封筒に入れた。
「特記事項なし」——今回もまた、そう送る。
それが彼女の答えだった。
繰り返す嘘。
女神として初めてつく嘘ではなくなった。
もう三度目だ。
それでも、書くことはできなかった。
封筒に入れる前に、女神は無意識に机の表面を指でなぞった。
羽根ペンの先がつけた無数の小さな傷。
報告書を書くたび、迷うたび、ペン先を置く場所を間違えてつけてしまった傷跡だ。
何千年も神界で書類を書き続けて、こんなことは初めてだった。
神界の机には傷一つなかったのに、この机はもう、彼女の迷いでざらざらになっている。
(次に会った時、私はあの娘に何と言えばいいのだろう)
答えの出ない問いを抱えたまま、女神はペンを置いた。
指先が少しだけ震えていた。
魔力の消耗ではない。
心の動揺だ。
何千年、感情に揺れることなどなかったのに。
「魔族との平和な共存が実現すれば、それはそれで人間を守ることに繋がる。……そう、言い訳しておこう。後で、なんとかなるわ」
なんとかなる——そう思えるようになった自分が、少しだけ不思議だった。
つい数日前まで、私は「神界の正義」という型にすべてを当てはめていた。
魔族は脅威。勇者は討つ者。それ以外の選択肢など、考えたこともなかった。なのに今は、違う。
(あの日の私を、誰かが責められるだろうか)
リーンの前で真を「勇者」と呼んだ瞬間を、女神は何度も反芻していた。
あれは単なる口癖ではなかった。
うっかりでもなかった。
心の奥底に、確かにあったのだ——魔族は敵だという、拭いがたい差別心が。
それを、あの娘の前で無意識に露出させた。
あの時のリーンの顔。
凍りついたような、それでいてどこか「やっぱり」と納得したような、傷ついた顔。
(私は、あの娘を傷つけた。自分の中の差別心にすら気づかずに)
自覚した時、女神の胸に鋭い痛みが走った。
私は正しいと思っていた。
神界の掟に従い、人間を守るために魔族を警戒するのは当然だと。
でも——それが「差別」だったと、今ならわかる。
相手を個人として見ず、種族だけで判断する。それを差別と呼ばずして何と呼ぶ。
(それでも、あの娘はきっと戻ってくる)
なぜそう思えるのか。
根拠はなかった。
だが、確信に近いものがあった。
真が変わらないからだ。
あの男はリーンがいなくなっても、いつも通り床を磨き、依頼書を整理し、カップの持ち手を客の利き手に合わせている。
その一切を「業務」としてやり続けることが、結果として「お客様を待つ」ことになっている。
真の変わらなさは、信頼の証だ。あの娘がそれに気づかないはずがない。
そしてもう一つ
——リーン自身が、このギルドを「自分の居場所」にしようとしていたのを、女神は知っている。
カップを両手で包む仕草。
水の味にほっと息をつく横顔。「来ちゃった」と悪戯っぽく笑う声。
あれはすべて、本物だった。
(だから、なんとかなる)
根拠は乏しいかもしれない。
でも、信じるに値するだけのものが、この五日間には確かに積もっている。
真が積み上げた「業務」も、リーンが残していった「笑顔」も、副長の引き出しにしまわれたカップも、見習いが仕入れた茶葉も——そのすべてが、リーンがここにいた証拠であり、そして戻ってくる理由になる。
あの娘が戻ってきた時、私はまず謝らなければならない。
勇者と呼んだことではなく、心の奥に差別心を持っていたことを。
そう思えるようになった自分を、不思議だと思う。
それが、何よりも大きな「なんとかなる」の根拠だった。
独り言の最後は、自分に言い聞かせるようだった。
「なんとかなる」という言葉は、言い訳としてあまりに弱く、しかし今の彼女が絞り出せる精一杯の強がりだった。
だが、その弱さの中に、ほんの少しだけ——本当にほんの少しだけ——確かな手応えがあった。
女神は立ち上がり、もう一度だけリーンの座る席を見た。
月明かりが街を照らす中を、一人、夜の闇へと歩いていく。
その後ろ姿は、神というより、ひどく人間じみていた。
背筋はまだ伸びている。
けれど、その肩はわずかに落ちている。
何かを棄てるのが惜しいような、それでいて棄てなければ前に進めないと知っているような、そんな歩き方だった。
(次に会った時、私は「勇者」ではない名前で彼を呼ぼう。そしてリーンにも——伝えなければならないことがある)
夜風が、女神の長い髪をそっと揺らした。
街の灯りが、彼女の行く先をほのかに照らしている。




