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社畜の郵便配達員は異世界でも休まない  作者: 太幽


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第七話「父の教え」

第七話「父の教え」


城に戻ったリーンは、自室の寝台に倒れ込んだ。


寝台の冷たい布が、熱くなった頬に貼りつく。

その感触だけが、今の彼女を現実に繋ぎ止めていた。

天蓋の布地が、窓からの風でかすかに揺れている。

その動きを目で追いながら、これまでの五日間が頭の中で駆け巡る。


森での出会い。

山が消えた瞬間。

傭兵たちを諭す真の背中。

ギルドで交わした、どうでもいいような会話の数々。

水の味。

五分の休憩。

あの男に初めて自分の名前を聞かれた時のこと。

そういえば昨夜も、名前を呼ばれた夢を見た。

目が覚めて、誰もいない天蓋を見上げた時の、あの妙にぽっかりとした感じ。


「勇者…か」


声に出してみると、その言葉は思ったよりずっと冷たかった。

あの男の前では感じなかった冷たさだった。

知りたくなかった。

いや、正確には知ろうとしなかった。

飛び抜けた力。

女神に召喚されたという事実。

気づくための材料はいくらでもあったのに、全部見ないふりをしていた。

自分に都合よく「妙なギルド職員」というラベルを貼り付けて、安心したかっただけだ。


(でも、あの人は私たちを助けた。私を助けた。理由もなく)


矛盾だった。

勇者は魔族を討つために召喚される。

神界が定めた役割であり、これまで幾度となく繰り返されてきた歴史だ。

なのにあの男は、傭兵を殺さず更生させ、私を「お客様」として迎え、魔族か人間かなど一切関係なく接してきた。


寝台の上で身を丸める。

膝を胸に抱え、指先が冷えていくのを感じた。


(信じたいんだ。私は、あの人を)


リーンは自分の胸に手を当てた。

心臓の音が、さっきまでよりずっと早い。

それは恐怖でも怒りでもなく——ただ、信じることを自分に許した時に生まれる、かすかな震えだった。


(あの人の言う「お客様」を、嘘だと思いたくない)


とめどなく涙が溢れる。

その涙の理由を、リーンはもう知っていた。

悔しさだ。

自分が「勇者」という肩書きに囚われていたことへの悔しさ。

そして——それでも信じたいと願っている自分を、誰よりも自分自身が許せなかったことへの、悔しさ。


涙がこめかみを伝い、耳の裏を通って、枕に染み込んでいく。

その生温かさだけが、やけにリアルだった。

染み込んだ場所が少しずつ冷えていくのを、彼女はじっと待った。


窓の外からは、兵士たちの訓練する声が聞こえる。

剣と剣がぶつかる乾いた音。

誰かが地面に倒れる鈍い音。

いつもと変わらない城の音。

でも今日は、そのすべてが遠い世界の出来事のように感じられた。

まるで水の底から水面を見上げているような、そんな距離感があった。


(演技なのか。策略なのか。でも、あの目は——)


真の目を思い出す。

いつも静かで、真剣で、どこかズレていて、それでいて決して曇っていなかった。

嘘をつく人間の目はもっとどこかで泳ぐ。

けれど真の目は、いつだってまっすぐだった。

まっすぐすぎて、かえって何を考えているのかわからないほどだ。

まるで宛名のない手紙を、それでも届けようとしているような目。


(私、あの人のことを信じようとしてる。勇者を。魔族の敵であるはずの相手を)


そこまで考えて、リーンは自分が何を思い始めているかに気づき愕然とした。

だが、否定できなかった。

信じたいのだ、自分は。

あの「お客様はお客様です」という言葉を。

あの、何の裏もない、ただの事実確認のような口調を。


(でも、もしそれが全部、作り物だったら——)


その考えが、胸の奥に冷たい針を落とす。

想像するだけで指先が冷えた。

ギルドで飲んだ水の冷たさとは違う、もっと深いところから冷えていくような冷たさだった。


魔王の娘として生まれて十八年。

人間の言葉の裏を読むことは、息をするのと同じくらい自然に身についた習性だ。

なのに、あの男の言葉だけは、裏を読もうとしても読めなかった。

裏がないからだ。

それが余計に、リーンを混乱させた。


(こんなの、知らなかった。敵も味方も関係ない人間が、本当にいるなんて)


その時、扉が控えめにノックされた。

三度。

間を置いて、もう一度。

父のノックだった。

幼い頃から変わらない、あの慎重すぎるほど慎重な叩き方。

返事をする前に、リーンは慌てて目元を拭った。

指の甲で涙を拭い、それから枕に顔を押しつけて、涙の跡を消す。

急いで拭ったせいで、頬が余計に赤くなったのが自分でもわかった。


「リーン、いるか」


「父上……!」


跳ね起きたリーンの目の前に立っていたのは、鎧を脱ぎ、質素な上着姿の魔王——彼女の父だった。


軍議を途中で切り上げてきたのだろう。

肩にはまだ広間の重い空気が残っている。

広間で発する声とは違う、静かな響きが部屋に沁みた。

その声は、広間で幹部たちに命令を下す時の何倍も低く、何倍も柔らかかった。

扉の前で、魔王は一瞬だけ立ち止まった。

リーンが泣いていたことに気づいたのかもしれない。

だが、それについては何も言わなかった。


「門番から聞いた。ずいぶん急いで帰ったそうだな」


「……はい」


「何かあったのか」


父はゆっくりとリーンの隣に腰を下ろした。

寝台がぎしりと軋む。

その軋みが、やけに大きく部屋に響いた。

窓からは夕日が差し込み、部屋を茜色に染めている。

魔王の横顔に、深い影が落ちた。

その影の濃さが、広間で見せる顔とは違う、ただの父親の顔を浮かび上がらせていた。


遠くで兵士たちの訓練の声がかすかに聞こえていた。

剣の音。怒号。倒れる音。

それらがすべて、この部屋だけは別の世界であることを強調していた。


親子の間に、しばしの沈黙が落ちる。

窓の外で、夕風がカーテンを揺らした。

部屋の隅に置かれた燭台の火が、風に揺れて影を踊らせる。


リーンは迷った。

話すべきか、黙っているべきか。

城を抜け出して人間の街に行っていたこと。

勇者と接触したこと。

そして何より——その勇者に好意に近いものを抱きつつあること。

どれも父を心配させる材料だ。

でも、父に嘘をつくことはできなかった。

この人は、リーンが嘘をつくといつも静かに見抜いた。

そして一度も怒らず、ただ悲しそうな目をした。

その目を、もう見たくない。


「勇者に、会いました」


魔王の眉がぴくりと動いた。

けれど声は驚くほど静かだった。

広間で発する命令とはまるで違う、父親の声だった。


「そうか。それで、どんな男だった」


「……わからないんです。父上が言っていた勇者と、全然違って」


「違う?」


「憎んでなかった。私たちを。私を…と言うか、憎むという概念が無いのかも」


リーンの声が、わずかに震えている。

城に戻ってからずっと押し殺していたものが、父の前で少しずつ溢れ出していた。


魔王はしばらく黙り込み、窓の外を見た。

沈みかけた夕日が、彼の横顔に深い影を落としている。

その表情は、広間で見せる魔王の顔ではなかった。

ただの父親の顔だった。

深い皺が刻まれた目元が、かすかに緩んでいるようにも見える。


「リーン、私はな、若い頃にある勇者と戦ったことがある」


「え……」


初めて聞く話だった。

リーンは息を飲んで父の横顔を見つめた。


「二十年近く前だ。お前が生まれるよりも前の話。その勇者は燃えるような正義を抱えていた。魔族はすべて悪だと信じ、一切の躊躇なく我々を斬った」


魔王はそこで言葉を切り、窓の外に目をやった。

夕日に染まる荒野の先に、かつて仲間たちが倒れた戦場がある。

その声は、今までよりも一段低く、重くなった。


「よく覚えている。当時まだ少年だった——私の息子が、仲間を逃がすために一人で殿を務めた」


リーンの呼吸が、止まった。


(息子)


父の息子。

ならば——私の。


「名を、ゲルドと言った」


魔王の声が、かすかに震えている。


「お前の、兄だ」


「……兄……?」


言葉が、頭の中で転がった。

兄。

いたのか。

私に。

それを、どうして今まで。


「言えなかった。お前が生まれる前に死んだ子の話を、どう話せばいい。お前が物心つく頃には、もういなかった。私は——私は、父として、息子の話を娘にどう伝えればいいのか、わからなかったのだ」


魔王の拳が、膝の上でぎりりと鳴った。

その音は、広間で幾多の将兵を震え上がらせてきた拳とは思えないほど、か細く、そして痛々しかった。

リーンの指も、無意識にシーツを掴んでいた。

兄。

自分には兄がいた。

角の生え揃わぬ少年。

まだ十五。

今の自分より、ずっと幼い。


「勇者はそいつに『降伏しろ、命までは取らぬ』と言った。ゲルドは剣を置いた。震えながら、仲間の無事を願って。そして次の瞬間——」


魔王の声が、一度途切れた。

窓の外の夕日が、さらに深く傾いていく。

部屋の中の影が、長く伸びた。


「勇者は、躊躇なくその首を斬り落とした。『魔族に情けは無用』と言ってな。正義のための行為だと、本気で信じている目だった。あの目を、私は三十年経った今も忘れられない」


リーンの脳裏に、その光景が勝手に浮かんでいた。

見たこともない兄の——ゲルドの手。

震えながら剣を置く手。

その柄から指が一本、また一本と離れていく様子。

十五歳の少年が、仲間の無事を信じて、すべてを手放す瞬間。

そして——首を斬り落とされる瞬間。


その顔を、リーンは想像できなかった。

兄の顔を、一度も見たことがない。

角の形も、声も、笑い方も、何一つ知らない。

なのに、その手の震えだけは、ありありと浮かんだ。

血の繋がった兄が、自分と同じ角を持っていたかもしれないと——そう思った瞬間、リーンの胸の奥で何かが悲鳴を上げた。


(兄は、私と——同じ角を)


リーンは無意識に、自分の角に手を当てていた。

その角の根元が、かすかに熱い。

父親から受け継いだこの角を、兄もまた持っていたのだろうか。

持っていたのだろう。

だって、父の息子なのだから。


魔王は続けた。

その声は、遠くを見ているようで、それでいて今この瞬間に引き裂かれているようでもあった。


「ゲルドの血は、土に吸い込まれるのに時間がかからなかった。それがあの戦場の現実だった。誰かが死に、誰かがそれを忘れる。私は忘れまいと誓ったが、それでも世界は何も変わらずに動き続ける。私はゲルドを助けられなかった。この手は、あの時も今も、ただ握りしめることしかできなかった」


魔王は拳を開き、自分の手のひらを見つめた。

その手のひらは、広間で幾多の指示を下してきた手だったが、今はただ、皺と古傷に覆われた父親の手だった。


「だからこそ思うのだ——あの日の勇者と同じ目をしていない者がいるなら、少なくとも話を聞く価値はある」


魔王の手が、かすかに震えているのを、リーンは初めて見た。

彼女は何も言わず、ただ父のその手に、そっと自分の手を重ねた。

父の手は大きく、硬く、そして冷たかった。

その冷たさが、かえって父の言葉の重みを伝えてくる。


「仲間を逃がそうと立ち向かった若い兵士たちも、皆容赦なくな。私はそいつと戦い、どうにか退けたが——多くの同胞を失った」


「だから言ったんだ。勇者は危険だと。近づくなと。お前には、同じ思いをさせたくなかった」


魔王は深く息を吸い、過去の記憶を振り切るように続けた。

その息は、かすかに震えていた。


「……今回の勇者は、山を消したそうだな。それに傭兵どもを更生させ、魔族の集落に物資を届け、お前を助けたとも聞く。情報は入っている。あの傭兵たちがギルドで清掃係になった話もな」


リーンは目を丸くした。

父は既にほとんど把握している。

いつの間にそこまで。

しかしその驚きは、すぐに別の感情に飲み込まれた。

まだだ。

まだ心臓が、さっきの「兄」という言葉を消化しきれていない。


「父上は……どうやってそこまで」


魔王は口元をほんの少しだけ緩めた。

それは笑みと呼ぶにはあまりに疲れていたが、確かに父の表情だった。


「魔王を舐めるな。人間の街にも、こちらの息のかかった者はいる。それに——あの傭兵どもがギルドで清掃係になった話は、街の酒場でちょっとした笑い話になっているらしい。『賞金首が床を磨いてる』とな」


リーンは思わず、小さく吹き出しそうになった。

想像してしまう。あの荒くれ者たちが、真に叱られながら床を磨いている姿を。

笑い話になるのも無理はない。

それでもリーンは、すぐに俯いてしまった。

笑ってはいけない気がした。

兄が死んだ話の直後に、笑うなんて——。


「裏切りと蔑みの人生から、真っ当な仕事に変わろうとしている…それを許した?」

「ギルドの清掃員として。情報収集にもなるし、本人たちもこの仕事を気に入っていると聞く。…面白い話だ」

「不思議な男だ。神界が送り込んだ勇者とは到底思えん。まるで——神界の命令など歯牙にもかけていないような、そんな行動ばかりだ」


「父上……」


「だが、それでも気をつけろ。相手がどうであれ、勇者であることには変わりない。いつ神界の命令で動き出すか、誰にもわからない」


魔王はリーンの肩に手を置こうとして、少し迷った。

大きくて節くれだった手が、空中で一瞬止まり、それからようやく彼女の肩に触れた。

幼い頃から変わることなく、彼女を守ってきた手だ。

その手が、今は少しだけ震えているような気がした。

気のせいかもしれない。

でもリーンには、父が自分を心配するのと同じくらい、何か別の感情をこらえているように見えた。


「——だが」


魔王は少しだけ間を置き、リーンの目をまっすぐに見た。

その目は、広間で兵を率いる魔王の目ではなく、ただ一人の父親の目だった。

そして、息子を失い、それでもなお娘を信じようとする父親の目だった。


「お前が信じたいと思える相手なら——」


魔王はそれ以上何も言わなかった。

代わりにリーンの頭を軽く撫でる。

その手がかすかに彼女の角に触れた。

昔、幼い彼女が自分の小さな角を怖がって泣いた時と、変わらない仕草だった。

そのとき「この角はお前が私の子である証だ。誇りに思え」と言ってくれたことを、リーンは今でも鮮明に覚えている。


私の角。兄の角。

繋がっている。

血が、確かに。


「父上……あの人を、真さんを、信じてみたいんです。兄を殺した勇者と、同じ勇者かもしれない。でも——それでも」


「真……さん」


「はい。大黒真。それが、あの人の名前です」


魔王はその名を、口の中で一度だけ転がした。

大黒真。

神界の勇者ではなく、ギルドの職員でもなく——ただの、一人の男の名前。

娘がその名前を口にする時の声の響きが、魔王にはすべてを物語っていた。

かすかに上ずった、しかし確かな決意のこもった声だった。


「それは、良い名だな」


魔王はただそれだけを言って、深くうなずいた。


「城にいるか、それともまた出かけるか。お前の好きにしろ」


「……父上」


「私はもう少し軍議がある。ゆっくり休め」


魔王は静かに部屋を出ていった。

扉が閉まる音が、やけに優しく響く。

その音は、広間で鳴る重厚な扉の音とは全く違っていた。

父がそっと閉めたのだと、音でわかった。


残されたリーンは寝台に腰掛けたまま、長い時間、父の言葉を反芻していた。


兄がいた。

ゲルドという名の、十五歳の少年。

仲間を逃がすために一人で殿を務め、勇者に殺された。

自分が生まれる前の話だ。

知らなかった。

知らされなかった。

そのことに怒りはない。

ただ、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚があった。

そこに、冷たい風が吹き抜けていく。


(兄がいた。そして——その兄を殺したのは勇者だ)


その事実が、重くのしかかる。

でも、それでも——

真は違う。

あの男は、兄を殺した勇者とは違う目をしている。

憎しみでも正義でもなく「配達」の目で世界を見ている。

その目を、私は信じたい。


窓の外の空はすっかり暗くなり、星がひとつ、またひとつと瞬き始めている。

その星の光が、窓から差し込み、机の上の手紙を青白く照らしていた。

母が遺した手紙。

リーンはそれを手に取り、読むでもなく、ただ指先で紙の感触を確かめた。

父が毎夜そうしているように。

母は知っていたのだろうか、ゲルドのことを。

知っていたのだろう。

そして、それでも父と共に生きたのだろう。


(信じたいと思える相手——)


真の顔が浮かぶ。

あの真面目くさった顔で「お客様はお客様です」と言い切った男。

山を消したのに「次回は加減します」と書類の誤記のように謝った男。

傭兵に「仕事は誰かを幸せにするためにある」と説き、リーンに「お困りのようでしたので」と当然のように手を差し伸べた男。

それから——「あれは、私がそうしたかったからです」と言った男。

業務ではない、ただ自分がそうしたかったから。

その一言が、何よりもリーンの胸を熱くした。


(あなたは、本当に私たちを敵だと思っていないのか。それとも、それすらも「業務」のうちなのか。私が魔族の姫だと知っても、あなたは変わらず「お客様」と呼ぶのか。私の兄を殺したのと同じ、勇者の力を持つあなたが——)


問いたいことは山ほどある。

どれも答えを聞くのが怖い問いばかりだ。

あの男は、聞けばきっと素直に答えるだろう。

その答えが、自分の信じたい通りのものか、それとも——。


想像して、リーンは唇を噛んだ。

噛んだ唇の痛みが、かろうじて彼女を現実に留めていた。


たとえ答えが自分にとって辛いものでも、聞かなければ何も始まらない。

逃げていては、何も変わらない。

それは、この五日間のギルド通いで、彼女が身をもって学んだことだった。


あの場所にいると、自分が自分でいられる。

魔族の姫でも、勇者の敵でもなく、ただの「リーン」でいられる。

その感覚を、一度知ってしまった。

知ってしまったからには、もう後戻りはできない。

あの場所でしか得られないものがある。

それを使い果たすまで——いや、使い果たしてもなお、私はあそこに通い続けるだろう。


(私は——)


リーンは強く手を握りしめた。

冷えていた指先が、握り返されることでようやく温かくなる。

拳の中に、わずかな熱が生まれた。

その熱が、ゆっくりと全身に広がっていく。

拳の中で、何かが鼓動している。

自分の心臓だ。

握りしめるほどに、その鼓動は強くなる。


あの人に、もう一度会いに行かなければ。

そして自分の口で、直接確かめなければ。


でも、今はまだ——自分の気持ちを、ちゃんと整理してから。

兄のことを知ったばかりの自分と、それでも真を信じたいと思う自分。

その二人を、ちゃんと一人にするまでは。


ギルドの水が喉を通る時の冷たさ。

机を拭く布の石鹸の匂い。

カップの持ち手がいつも自分の方に向けられていること。

それらすべての意味を、ちゃんと理解してから。


(それまで、少しだけ待っていてください。真さん)


心の中でそう呟いて、リーンは静かに目を閉じた。

「真さん」と呼んだ自分に、彼女自身が少しだけ驚く。

いつからそんな呼び方が自然に出るようになったのか。

でもその呼び方は、不思議としっくりきた。

まるでずっとそう呼んでいたかのように。

枕がまだ、さっきの涙で少しだけ湿っていた。

でもその湿り気は、不思議と嫌ではなかった。

それはまだ、生きている者の涙だった。

少なくとも、流すことができた。


長い夜が、始まろうとしていた。

窓の外の星が、一つ、ひときわ強く光った。

その星明かりが、机の上の手紙を青白く照らし、リーンの伏せた瞼の上にも、かすかな光の膜を作った。

星は何も言わない。

ただ、そこにある。

それだけで、十分だった。


―軍議室―


魔王は自室を出ると、しばらく廊下に立ち尽くした。

壁に手をつき、深く息を吐く。

石壁の冷たさが、手のひらから体温を奪っていく。

廊下の松明が、風に揺れて魔王の影を不規則に踊らせた。

リーンの部屋で見せた父親の顔は、もうそこにはない。

しかし、広間で見せる魔王の顔でもなかった。

その中間——どちらでもない顔で、彼は軍議室への歩を進めた。


軍議室の重い扉を開けると、長机にはまだ数人の幹部が残っていた。

地図と報告書が広げられ、燭台の火が揺らめいている。

部屋の空気は重く、誰もが押し黙ったまま、地図の上の駒を見つめていた。


魔王が席に着く。

幹部たちが一斉に顔を上げた。

その視線には、先ほどまでとは違う緊張が走っている。

魔王が娘の部屋に行っていたことを、誰もが知っている。

そして——そこから戻ってきた魔王の顔に、かすかな翳りがあることも。


魔王は地図の上の駒を一つ手に取った。

人間側の拠点を示す駒だ。

その駒の冷たさが、指先に残る。

彼はそれをそっと元の場所に戻し、それから顔を上げた。


「続けろ。状況を報告せよ」


その声は、すでに魔王のものだった。

しかしその声の奥に、ほんの少しだけ——本当にほんの少しだけ——柔らかな響きが残っていることに、気づいた者は誰もいなかった。


(大黒真……娘がお前に託した信頼を、どうか裏切らないでくれ)


窓の外には、娘が見上げたのと同じ星が瞬いている。

その星明かりが、軍議室の地図の上にも、かすかに差し込んでいた。


(もっとも——裏切ったその時は、神界の勇者であろうと容赦はせん。それが父親というものだ。二人分の父親の、せめてもの責務だ)


魔王は再び駒を手に取った。

今度は離さなかった。

指先が、駒の冷たさに慣れていく。

その冷たさが、彼に決意を思い出させた。

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