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社畜の郵便配達員は異世界でも休まない  作者: 太幽


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第六話「女神の口癖」

第六話「女神の口癖」


「やっほー!真さん!来たよ!」


リーンがギルドに通うようになって、五日が過ぎた。


カウンターに立つ真の姿を見るたび、不思議と肩の力が抜ける。

それがここ数日でリーンが覚えた、密かな発見だった。

最初はギルドに足を踏み入れるたびに周囲の視線が気になったものだが、今では真が「いらっしゃいませ」と言うだけで、ふっと息が楽になる。


「リーンさん!いらっしゃい!」


副長も変わった。

最初のうちは「ま、魔族の姫だぞ…」と青ざめ、水を差し出す手も震えていたのに、今では「リーンさん、今日も水でいいか」と普通に声をかける。

人間の適応力はまま不思議なものだと、リーンは思う。


見習いの若い職員に至っては、完全にリーンに懐いていた。

歳はまだ十代後半、怖がるより先に好奇心が勝つ年頃なのだろう。

コーヒーもどきのお代わりを自ら勧め、この前など「角って重くないんですか」と無邪気に尋ねてきて、副長に頭をはたかれていた。

リーンはそれに声を上げて笑った。


だが、ギルドの空気すべてが変わったわけではない。


リーンがギルドの扉を開けるたび、一瞬だけ静寂が走る。

冒険者たちの視線が彼女の角に注がれ、何人かは今も無意識に剣の柄に手を伸ばす。

そのたびに副長が咳払いをし、見習いが慌てて「リーンさん、こっちこっち!」と手招きする。

真だけはいつも通り「いらっしゃいませ」と言う。

その声が、リーンには港に帰る船の汽笛のように聞こえた。

この場所に自分がいてもいいのだと、たった一言で教えてくれる音だった。


ギルドの扉を開けるたび、リーンはまず匂いを確かめるようになっていた。

インクの匂い。

カウンターの上で真がついさっきまで依頼書を書いていた証拠だ。

コーヒーもどきの焦げたような香ばしさ。

見習いがまた失敗したらしい。

古紙と埃。

掲示板に貼られた依頼書が、風でかさかさと乾いた音を立てている。

そして——微かに漂う石鹸の匂い。

真が今朝も床を磨いたのだ。

雑巾がけの後の、かすかに湿った空気がまだ床のあたりに残っている。


どれもが人間の匂いだった。

魔族の城にはない、生活の匂い。

リーンはその匂いを吸い込むたび、自分の体のどこかが緩んでいくのを感じた。


笑いながら、自分がこんなに人間の前で笑える日が来るとは思わなかったと、少しだけ胸が熱くなった。

笑うことは隙を見せること。

弱さを見せること。

父からそう教えられて育った。

なのに今——このギルドでは、なぜかそれが許されている気がする。

笑ってしまった後の、何も起きない静けさ。


それが彼女の胸の奥を、ほんの少しだけ温かくした。


「リーンさん、今日はどのようなご用件で」


真は変わらずカウンターの前に立ち、背筋を伸ばし、筆記板を手に、いつもの穏やかな声で出迎える。

目はまっすぐに相手を見ているのに、奇妙なほど圧力がない。

それが真という男の、誰にも真似できない立ち居振る舞いだった。


「ただの休憩。外、暑いから」


「そうですか。どうぞ奥の席を。今日は風通りが良いです」


「ありがとう」


リーンが席に着くのと同時に、真は水差しとカップを用意する。

水差しの持ち手を必ずリーンの方に向け、カップの底に小さな布を敷いて水滴が机を濡らさないようにする。

茶葉の用意はないかと一瞬考え、今日も水だけでいいと判断するまでの流れが、あまりに自然で淀みがない。


カップを置く時、真は必ず持ち手を相手の利き手の方に向ける。

今日もそうだった。

リーンが左手でカップを取ろうとして、少しだけ間を置いてから右手に持ち替えた。

真はその動きを黙って見ていたが、何も言わなかった。

ただ、手帳の隅に「カップの持ち手、左利き用の確認」と小さく書き足したのを、リーンは見逃さなかった。


(まったく、どこでこんな給仕を覚えたんだか)


リーンは半ば呆れ、半ば感心しながら、冷たい水を一口含む。

喉を通る水はほんの少し硬く、それでも彼女には清冽に感じられた。

それがこの男が淹れる水のせいなのか、それとも自分の心のせいなのかは、わからなかった。


「あなた、本当にじっとしてないのね」


「じっとする理由があまりなくて」


「休憩は」


「さっき五分——」


「はいはい、十分なのね」


「十分すぎます」


真の口元がほんの少しだけ緩む。

営業用の作り笑いでも、愛想笑いでもない。

本当にかすかな、本人も気づいていないかもしれない表情。

リーンはそれを見るたび、最初の出会いを思い出す。

山を吹き飛ばした直後に「次回は加減します」と言った時の、あの妙に真面目な顔。

あれからずっと、この男は変わらない。


変わらないどころか、まわりが彼に慣れてきている。

それがもっと不思議だった。


ギルドの隅で、その様子をじっと見つめる者がいる。


女神である。


彼女はここ数日、できる限りギルドに顔を出していた。

理由は建前上「真の監視」だが、実際のところ、自分の行動を自分で説明できなくなっていた。

朝、目が覚めて最初に考えるのは、今日リーンは訪ねてくるだろうかということ。

来ないと知ると、かすかに落ち込む自分がいる。


それに気づいた時、女神は愕然とした。


(なぜ私は、あの娘が来るたびにここへ来てしまうのか)


答えは出ず、出そうとするたびに考えを打ち切ってしまう。

今日もまた隅の椅子に腰掛け、報告書に目を落とすふりをしながら、二人のやりとりを窺っている。

報告書の内容はもう三度も読み返していたが、何も頭に入ってこなかった。


リーンが笑った。

真の「十分すぎます」に呆れたような、それでいてどこか嬉しそうな笑顔。


それを見た瞬間、女神の胸の奥で何かがチクリと刺さった。

痛みと呼ぶにはかすかで、でも確かにそこにある何か。

手を当ててみる。

心臓の音が、いつもより少しだけ早い気がした。


それはきっと、ただの取り越し苦労。

女神はそう思いたかった。

勇者と魔族の姫が親しくしている——それだけだ。


そこに何か特別な意味など、あるはずがない。

でも、もしも……あの娘が真に惹かれているのだとしたら?


そんな考えが頭をよぎった瞬間、女神は慌てて首を振った。


(違う。私は神だ。この世界を守る者だ。そんな個人的な感情で——)


しかし、そう否定すればするほど、胸の奥でチクリと刺さる何かが消えない。


それは嫉妬なのか、不安なのか、それとも単に彼女にとってリーンが"想定外の存在"になりつつあるからなのか。

自分でも判然としなかった。


(私は神だ。任務でここにいる。あの娘と勇者の関係など、本来は監視対象でしかないはずだ)


そう自分に言い聞かせるが、その「監視対象」という言葉に、今は妙な後ろめたさがまとわりつく。

監視。

報告。

神界の正義。

そのすべてが、あの娘の笑顔の前では、刃のように冷たく感じられた。


(これは…なんだ)


女神は無意識に自分の胸元を手で押さえていた。


その時だった。


リーンがふと顔を上げ、女神の視線に気づいた。

二人の視線が、ほんの一瞬だけ交わる。

リーンの目には、警戒と——かすかな共感のようなものが混ざっていた。

女神の目には、動揺と——やはりかすかな共感のようなものが混ざっていた。


互いに何を思っているかは言葉にしない。

ただ視線だけが交わり、そして同時に逸らされる。

その一瞬が、ギルドのざわめきに溶けて消えた。


リーンは気づいていた。

あの女神は、ただ監視しているだけではない。

真を見る目が、どこか違う。

それが何なのかはわからないが——自分と同じ種類の何かを持っていることだけは、なぜか確信があった。


女神も気づいていた。

リーンが自分を見返す目に、敵意よりも「わかってしまう」という諦めのようなものがあることに。

そしてその「わかってしまう」が、自分の胸のチクリと同じ根っこから生えていることに。


二人は互いに、それ以上何も追わなかった。

追えなかった、と言うべきか。


空気が少しだけ変わったのを、真だけは気づかなかった。

彼はすでに手帳を開き、次の業務の段取りを確認し始めていたからだ。


ギルドの入口の扉が勢いよく開き、一人の男が飛び込んできた。

年の頃は三十代半ば、鎧は泥にまみれ、肩で息をしている。

額に一筋の汗が流れ、手にした剣には新しい刃こぼれの跡があった。


「緊急依頼だ!北の廃鉱に大型の魔獣が出た!すでに三人が重傷、至急応援を!」


ギルドの空気が一瞬で戦闘態勢に切り替わる。

副長が掲示板の前に走り、待機中の冒険者たちが武器を掴んで立ち上がる。

机が押されて椅子が倒れ、誰かが「回復薬を持って行け!」と叫ぶ。

数分前までのんびりとした空気は吹き飛び、場は緊迫に包まれた。


真は手にしていた書類を置き、副長の前に歩み出た。

その動きに、ついさっきまでリーンと気の抜けたやりとりをしていた男の影はない。

あるのは仕事に向かう一人の職員の顔だけだ。


「副長、私が行きます」


「ああ、真さん、頼む。相手は大型だ、気をつけて——」


「承知しました。すぐに終わらせます」


真は背負い袋を手に取り、扉に向かおうとした。


「待ちなさい、勇者」


女神の声が、ギルドに冷たく響いた。


その一言で、場の空気が変わった。

冒険者たちが一斉に女神を振り返り、副長が息を飲む。

慌てふためいていた見習い職員も、その場で動きを止める。

そして何より——


リーンが、凍りついた。


カップを口元に運びかけたまま、その手が止まっている。

指先が白くなるほどカップを握りしめ、ただ女神と真を交互に見つめていた。

飲みかけの水がカップの中でかすかに揺れ、水面が小さな波紋を描いている。


「女神様、何か」


真はいつもの平然とした声で振り返った。

女神は真の目をまっすぐに見据える。

自分の声がほんの少し硬いのを自覚しながら。


「相手は大型の魔獣。あなたの力なら問題ないでしょう。ですが、加減を間違えないように。前回のように、山を消すのは避けてほしい」


「了解しました。今回は周囲の安全を最優先に」


「ええ、それと——」


女神は言葉を切り、ちらりとリーンの方へ目を向けた。

ほんの一瞬だった。

だがあの時、自分は確かにリーンを見てから「勇者」と呼んだ。

その視線の意味を、リーンは痛いほど理解しただろう。


(勇者。この人が、呼ばれてるだけじゃなくて、本当に勇者。そしてあの女神——人間だけを守る、神界の)


リーンの胸の中で、何かが音を立てて崩れていく。

これまで積み上げてきた「妙なギルド職員」という像が、ガラスの割れる音とともに砕け散る。


(勇者。やっぱり、そうだったのか)


「やっぱり」と思っている自分がいることに、リーンは内心で舌打ちした。

最初から知っていたはずだ。

山を消す力。

女神の存在。

なのに、知らないふりをしてここに通い続けた。

あの「お客様」という言葉に、甘えていたのだ。


山を消す力。

神が召喚した存在。

それはすべて、勇者だからこそだった。

考えてみれば当たり前のことだ。

普通のギルド職員が素手で山を消せるはずがない。


「——相手は魔獣だが、付近に魔族の集落があるという報告もある。勇者としては、そこも気にかけてほしい」


「承知しました」


真は短く答え、今度こそギルドを飛び出していった。


北の廃鉱は、街から馬を飛ばして半時ほど。

真は徒歩で向かったが、その脚は馬より速い。

道中、頭の中で依頼内容を整理する。


(大型の魔獣。廃鉱に潜伏。すでに重傷者三名。つまり、制圧の優先度は高く、かつ鉱山施設への被害を最小限に抑える必要がある。出力は前回の数割程度に抑え、狙いは正確に——)


前回の反省があった。

山を消したのは、出力の調整を怠ったからではない。

出力を「抑える」という発想そのものがなかったからだ。

今回は違う。

業務の質を上げるためにも、これは良い訓練になる。


廃鉱の入口に到着すると、すでに退避した鉱夫たちが震えながら状況を説明した。

「中にまだ二人、取り残されている」という。

真は「了解しました。では、まず救出を」とだけ答え、坑道に足を踏み入れた。


坑道の入り口からして、空気が違った。

ひんやりとした岩の冷たさ。

カビとコウモリの糞が混ざったような、むせ返る悪臭。

壁に手をつくと、湿った煤が指先にべったりと張りつく。


真は一瞬立ち止まり、目を閉じて坑道の奥から流れてくる空気を読み取った。

(風が動いている。出口は塞がっていない。鉱夫たちはまだ生きている)


暗闇と湿気。

壁に沿って進むと、やがて大きないびきのようなものが聞こえてくる。

坑道の奥、採掘広場の天井に巨大な影が張りついていた。

壁に張りつく甲殻。

節くれだった六本の脚。

暗闇で鈍く光る複眼。

魔獣は坑道全体を巣とし、天井に逆さまにぶら下がりながら、侵入者を待っていたらしい。


魔獣の甲殻が岩を擦るたび、坑道全体にガリガリという不快な音が響く。

唾液がぽたりと地面に落ち、かすかに湯気を立てていた。

魔獣の吐く息は生温かく、坑道の冷たい空気の中でそこだけが異様に熱を帯びていた。

それだけ巨大な体を維持するために、それだけの熱を生み出している証拠だ。

真はその熱を肌で感じながら、まず魔獣の位置と坑道の構造を頭に叩き込んだ。

(甲殻種。鉱石を餌にするタイプ。とすると——天井の崩落リスクを考えるなら、正面からの衝撃は避けるべきだ。最適解は——)


真の頭の中ではすでに、魔獣の分類、弱点、素材としての価値、討伐後の搬出方法までが一覧になって並んでいる。

彼は背負い袋から依頼書を取り出すと、魔獣を見上げながら、まず備考欄に「甲殻種、成獣、推定全長四メートル」と走り書きした。


「……おい、何してる」


坑道の隅に、取り残された鉱夫が二人、身を寄せ合って震えていた。

うち一人は足を負傷している。

その顔には、魔獣への恐怖だけでなく、真という得体の知れない闖入者への不安も張りついていた。


真は彼らに気づくと、魔獣から目を離さずに言った。

「お待たせしました。すぐに終わらせますので、そのまま動かないでください。あと、差し支えなければお名前を。報告書に記載しますので」

「な、名前……?」

「はい。救出者の確認です」


その時、天井の魔獣が動いた。

複眼が真を捉え、六本の脚が坑道の壁を這いずり、岩の破片がぱらぱらと落ちる。

魔獣は獲物を定めると、天井から一気に落下しながら、その巨体を真に叩きつけようとした。


真は動かなかった。

いや、正確には、一歩も動かずに、右手だけで魔獣の脚の一本を掴んだ。

落下の勢いが、そこで完全に止まる。


「——出力、三割」


魔獣が悲鳴を上げる間もなく、真はその脚を軸に巨体を回転させ、壁に向かって叩きつけた。

衝撃で坑道全体が揺れる。

天井から岩の粉が降り、鉱夫たちが悲鳴を上げる。


「……三割ではまだ強いか。二割」


真は魔獣の動きを観察しながら、手帳にメモを取る余裕すら見せていた。

魔獣は怒り狂い、壁を蹴って再び突進してくる。

今度は正面から、口を開けて噛みつこうとした。


真は半歩だけ横にずれ、その顎の下に手を当て、軽く上方に押し上げた。

出力一割五分。

顎が外れ、魔獣の頭が天井にめり込む。


「これなら坑道の崩落リスクは低い。ただ、甲殻に傷をつけると素材価値が落ちる。頭部への打撃で昏倒させるのが最適解——」


ぶつぶつと分析を続けながら、真は頭の中のチェックリストを一つずつ潰していく。

天井の崩落リスク、甲殻の素材価値、救出者の安全確保、戦闘後の搬出ルート。

それは配達ルートを決める時の思考とまったく同じだった。

最短で、最も安全に、確実に届ける。


真は魔獣の頭部に狙いを定め、とどめの一撃を見舞った。

出力一割。

正確に、最小限の力で。

魔獣の巨体は、大きな地響きとともに採掘広場の床に崩れ落ち、二度と動かなくなった。


坑道に静寂が戻る。

真は魔獣の昏倒を確認すると、すぐに鉱夫たちのもとへ歩み寄り、負傷者の足を検めた。


「骨折していますね。応急処置をしますので、少し我慢してください」


手際よく副木を当て、包帯を巻く。

その指先は、書類を仕分ける時と同じくらい繊細で、それでいて確かな力加減だった。

鉱夫は痛みに顔を歪めながらも、真の手元を呆然と見つめていた。

手当てを終えると、坑道の外で待機していた救援隊を呼び入れ、鉱夫たちを引き渡した。

その後、真は再び魔獣の元に戻り、死骸の寸法を測り、素材となる部位の状態を確認し、すべてを手帳に記録した。


「甲殻はほぼ無傷。市場価格は上位。死骸の搬出には人員が三名ほど必要——」


その一部始終を見ていた救援隊の隊長が、呆然と呟いた。


「おまえ、いったい……」


「大黒真です。ギルドで働いています。では、搬出の手配をお願いします。私は先にギルドへ戻り、報告書を作成しますので」


真はそう言うと、来た道を戻り始めた。

戦闘時間はわずか数分。

後処理を含めても、街を出てから一時間も経っていない。

救援隊の男たちは、魔獣の死骸と、何事もなかったかのように去っていく真の背中を、ただ見送るしかなかった。


ギルドに戻った真は、報告書の作成に取り掛かる。

一方、その場に残されたリーンは——


真が飛び出した後も、しばらくその場に立ち尽くしていた。

カップの水面が、リーンの震えに合わせてかすかに揺れている。


静かになったギルドで、リーンは立ち上がった。

カップがカタンと音を立てる。

飲み残しの水がほんの少しこぼれ、机の上に小さな染みを作った。


見習い職員が何か言いかけて、副長がそれを手で制した。

副長の目が「そっとしておけ」と語っていた。

こういう時の空気を読めるのが、この男の数少ない長所の一つだと、後で見習いは思うことになる。


「……ゆ…勇者」


リーンの声は、息を吐くようにかすかだった。

まるで、その言葉を喉の奥から絞り出すかのように。

顔を上げれば、そこには女神が立っている。


「そうよ。この世界を守るために、神界が召喚した——」


女神の答えに、リーンは表情を消した。

怒りも悲しみもない、ただの無表情。

それがかえって、彼女の受けた衝撃の大きさを物語っていた。


怒りでも悲しみでもない、もっと根っこの部分で、彼女の中の何かが根こそぎ揺さぶられたのだ。


期待していたのかもしれない。

あの男は、自分をただの「お客様」として扱ってくれる特別な誰かだと。


でも実際は、彼はただの「勇者」で、「自分の仕事」をしていただけだ。


それならそれでいい。

最初からわかり合えると思っていなかった。


二人の視線が交差する。

空気が張り詰め、副長も見習いもただ固まっている。


リーンは何も言わずにギルドを後にした。

扉を開ける手が震えていたのを、女神は見逃さなかった。


立ち去るリーンの背中を、女神は見送った。

リーンの肩が、わずかに震えている。

怒りか、悲しみか、それとも——恐怖か。

女神にはわからなかった。

いや、知りたくないのかもしれない。

自分の胸の奥で、何かが軋む音を聞いた気がした。


(私としたことが、なんてことを)


意図したわけではなかった。

真を「勇者」と呼んだのは、ただの長年の癖だ。

召喚して以来、そう呼ぶことが当たり前になっていた。

しかし結果として、あの娘に真の正体を知らせてしまった。

それが良かったのか悪かったのか。

女神自身にもまだ判断がつかない。


ただ、リーンが見せたあの表情——裏切られたような、それでいてどこか「やっぱり」と納得したような複雑な顔が、女神の胸に小さな棘を残したのは確かだった。


副長が恐る恐る声をかける。


「あの、女神様…リーンさん、大丈夫でしょうか」


「……大丈夫かは、私にはわからない。でも」


「でも?」


「あの娘は、きっとまた来るわ」


言ってから女神は、自分の言葉に自分で驚いた。

そんな確信はどこにもない。

ただの直感だ。

しかし口に出した瞬間、それが偽らざる本心だと気づく。


(だってあの娘は、真のことを——)


そこまで考えて、女神は思考を打ち切った。

これ以上は自分の心の奥を覗きすぎる。


強くあろうと思えば思うほど、自分の内側で何かが音を立てて崩れていく。

正しさと正しさの間で、自分は今、どちらを選べばよかったのか。

答えは出ない。

(私は、あの娘に何と言えばよかったのだろう——)


扉の向こう、もう見えなくなったリーンの足跡を思って、女神は静かに目を閉じた。


ギルドには、誰もいなくなっていた。

リーンの飲み残した水の入ったカップだけが、カウンターに置き去りにされている。


風が窓を揺らすたび、カップの水面がほんの少し揺れる。

そのかすかな揺れを見ていると、まるで何かがこの場にまだ残っているような気がした。

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