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社畜の郵便配達員は異世界でも休まない  作者: 太幽


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第五話「リーン」

第五話「リーン」


同じ夜、魔王城の一室で、ただ一人窓の外を眺める男がいた。


魔王——その肩書きを持つ彼は、今は鎧を脱ぎ、質素な椅子に腰を下ろしている。

手にはくたびれた手紙。

妻が遺した、短い文面だった。


手紙の紙は、人間の街で使われているものよりずっと粗い。

魔族の領土では紙を作る余裕すらなく、これは遠い昔に交易で手に入れたものだ。

紙の端は擦り切れ、折り目は煤けて黒ずんでいる。

それでも魔王は、その手紙を毎夜こうして手に取り、読むでもなく眺めるのが習慣だった。


「リーンが、今日も城を抜け出したそうです」


背後からの声に、魔王は手紙を机に置いた。


「そうか」


「お叱りになりますか」


「……叱れるか。この城に閉じ込めておくことの方が、あの子には牢獄だろう」


魔王は立ち上がり、窓から見える荒涼とした大地を見渡した。

かつては緑が広がり、笑い声が絶えなかったこの土地も、人間との戦が激化するにつれて、少しずつ痩せ細っていった。


窓の外には、今夜も月が出ている。

人間の街を照らすのと同じ月だ。

だが、この大地を照らす月明かりだけは、どこか冷たく感じられた。


「私は、あの子に誇れる世界を残せていない」


「魔王様……」


「勇者が現れたという。ならば猶更、時間はないな」


彼はもう一度だけ手紙に目を落とし、それから顔を上げた。

その瞳には、諦念と、それでも消えぬ決意の炎が、静かに揺れていた。


「せめて最後まで、父として立ってみせる。魔王としてではなく——一人の男としてな」


あれから三日が過ぎた。


ギルドの朝は、この三日で激変していた。


真の提案した「朝礼」は、副長の必死の抵抗によって短縮版となり、それでも毎朝六時きっかりに行われている。

出席者は当初、真と副長だけだったが、今日はなぜかもう一人、見習いの若い職員が加わっていた。


正確には、加わらざるを得なかった。

真が「明日の朝礼、議題は——」と言いかけただけで、副長が若い職員の袖を掴み、目で「お前も来い」と合図したのだ。

道連れである。


「おはようございます。本日の依頼は八件。うち緊急はなし。昨日からの持ち越しを合わせて合計十一件です。では、手分けして——」


「あの、真さん」


「はい」


「真さんが出勤するの、何時ですか」


「四時半です」


「……はあ」


見習い職員は引きつった笑みを浮かべ、二度とこの質問はするまいと心に誓った。


やがて他の職員たちも出勤し、ギルドはゆるやかに動き出す。

掲示板に新しい依頼書が貼られ、在庫庫からは薬草や鉱石の箱が運び出され、どこからかコーヒーに似た飲み物の香りが漂い始める。


真はカウンターに立ち、受付業務をこなしながら、合間に書類を整理し、空いた時間で床を掃き、それでも手が空くと次の業務を探して周囲を見渡した。

まるで体がじっとしていることを許さないかのように、常に動いている。


受付カウンターの木の縁には、真が毎朝磨いているせいで、ほんのわずかだが手のひらの形に窪みができ始めていた。

誰も気づかない。

真自身も気づかない。

それでも確かに、彼の仕事の痕跡はギルドに刻まれつつあった。


「真さん、ちょっと休んだらどうですか」


「さっき五分ほど休みましたよ」


「五分……休憩って言わないですよ、そんなの」


「何も考えない時間は五分あればいいのです。食事はしたのでご安心を」


職員たちは顔を見合わせた。

そのやりとりにも、もう慣れてしまった自分たちがいる。


そうして、午前の中ほど。

ギルドの扉が静かに開いた。


入ってきたのは一人の少女だった。

深紅に近い黒髪を後ろで束ね、仕立ての良い服の上に、旅慣れたマントを羽織っている。

年の頃なら十八かそこら。

まだあどけなさの残る顔立ちだが、その瞳の奥には、年の割に鋭い光が宿っていた。


ギルドの空気が、一変した。


職員たちが息を飲み、数人が腰を浮かしかける。

掲示板の前にいた冒険者たちも手を止め、その場の全員が少女から目を離せなくなる。


「魔、魔族……!」


「なぜこんなところに……」


「あの角……間違いない、魔王の血筋だ……!」


ざわめきはすぐに緊張へと変わり、複数の冒険者が無意識に武器に手を伸ばす。

誰かが椅子を蹴る音がした。

剣の柄を握りしめる手が、かすかに震えている。

この場にいる全員が、魔族と人間の間に横たわる長い戦いの歴史を、それぞれの形で肌に刻んでいた。


ギルドは人間のための施設だ。

魔族が立ち入ることはまずない。

ましてや、魔王の娘ともなれば——。


副長が慌てて前に出ようとした瞬間、それよりも早く、一人の男が動いていた。


「いらっしゃいませ」


真は、まるで昨日も来ていた常連に話しかけるような調子で、カウンターの前に立った。

手には受付用の筆記板を持ち、背筋は真っ直ぐ。

表情はいつも通り、穏やかで、しかも真剣だった。


その声は、さっきまで薬草採取の報告を受けていた時と、まったく同じトーンだった。

一瞬、ギルド中の時間が止まったように感じられた。

魔族が来た。

それなのに、この男はいつも通り「いらっしゃいませ」と言った。


「本日はどのようなご用件でしょうか」


リーン——魔王の姫——は、室内の緊張を見渡してから、真の顔を見た。


そのまま口を開かなかった。

開けなかった。


魔王の姫として生まれてから十八年。

人に頭を下げるどころか、感謝の言葉すら、彼女はほとんど口にしたことがなかった。

城ではすべてが当然のように与えられ、兵は命令に従い、臣下は黙って傅く。

魔族の姫が誰かに「ありがとう」と言う場面など、彼女の人生に一度もなかったのだ。


しかし、あの森での出来事を思い返すたび、胸の奥に引っかかるものがあった。

助けてもらったのに、まともに礼も言わずに別れた。

山を消したことに驚いて、名前だけを聞いて、それで終わった。

あの時、本当なら最初に言うべき言葉があったはずだと、三日間ずっと考えていた。


それでも、いざ口にしようとすると、喉が凍りついたように動かない。

たった五文字が、こんなにも重い。

頭を下げるということが、これほどまでに自分を無防魔にする行為だとは、知らなかった。


リーンは唇を一度きつく結び、それからゆっくりと開いた。


「……あの時は」


そこで言葉が止まった。

彼女は自分の声が、これまでの人生で一度も聞いたことのない弱々しい響きを帯びていることに気づいた。


「あの時は……ありがとう」


その声は、さっきまでの毅然とした態度とは別人のように、細く、そしてどこか震えていた。

カウンターの上で、彼女の指が小さく動く。

何かを掴もうとして、掴めず、ただ空を撫でるような仕草だった。


真は筆記板をそっとカウンターに置き、真っ直ぐにリーンを見た。


「ご丁寧にありがとうございます。ですが、私は業務の一環として対応したまでですので、お礼には及びません」


「……業務」


「はい」


「私が誰でも関係ないって、そういうこと」


「はい。お客様はお客様です」


リーンはしばらく真の顔を見つめていたが、やがてふっと肩の力が抜けた。


「来ちゃった」


「ご依頼ですか。それともご相談でしょうか」


「用件がないと来ちゃダメ?」


「いいえ。ギルドはどなたでもご利用いただけます。ご見学でも、休憩でも、お気軽にどうぞ」


「……どなたでも」


「はい」


「私が魔族でも?」


真は首をかしげた。


「お客様がどなたであれ、ギルドの利用に制限は設けられていません。少なくとも、私はそう理解しています」


副長が思わず口を挟んだ。


「いや、真さん、待て、彼女は——」


「副長」


「な、なんだ」


「お客様です。まず席にご案内しますので、お水をお願いできますか」


副長は何か言いかけて、しかし真の目を見て、思いとどまった。


その目には、迷いも恐れも、打算も何もなかった。

ただ淡々と、業務を遂行しようとする光だけがあった。


副長は小さく息を吐き、それから若い職員の肩を軽く叩いた。

水を用意しろ、という合図だ。

若い職員は呆気にとられながらも、慌てて厨房へ走っていく。

その背中を見送りながら、副長はもう一度だけ、真の後ろ姿を見つめた。


「……わかったよ。真さんなら安心だし、水くらい用意する」


副長が折れたのを見て、他の職員たちも、少しずつ日常を取り戻し始めた。

完全に緊張が解けたわけではない。

それでも、真のその態度が、場の空気を奇妙なまでに安定させていた。


その時、ギルドの隅の椅子で静かに様子を見守っていた女神が、そっと背筋を伸ばした。


リーンが口にした「ありがとう」という言葉——女神はその瞬間を、はっきりと目撃していた。


(魔王の娘が、頭を下げた?)


あの少女は誇り高い魔族の姫だ。人間に、それも相手が勇者と知っていながら、感謝の言葉を口にした。それだけではない。その声の震え、指の仕草、すべてが——本物だった。演技でも計算でもない、ただ自分の気持ちを伝えるために、彼女はここに来たのだ。


女神は自分の中に、それまで存在しなかった種類の感情が生まれているのを感じた。

それは驚きであると同時に、別の何かでもあった。

胸のあたりが、ほんの少しだけあたたかくなるような——。


(私は、敵対する可能性がある魔族の姫に対して、なぜ……)


その感情に名前をつけることを、女神はまだためらっていた。

だが、彼女は確かにその場に立ち会っていた。

真の前では、「魔族」も「神」も関係なくなるという不思議な光景に。


リーンは、その女神の存在に気づいた。

明らかに人ならざる気配。

神の力を持つ者がいることは、魔族である彼女にはすぐにわかった。

少しだけ体が強張る。

それでも彼女は立ち上がらなかった。


「あれは」


「女神様です。私を召喚された」


「……召喚?まさか勇者の」


「はい」


ごく短いやりとりのあと、リーンは真に向き直った。


「ねえ、さっきの話だけど」


「はい」


「業務の一環なら、お礼を言われる筋合いはないって言ったわよね」


「はい。当然のことをしたまでですので」


「じゃあ、質問を変える」


リーンは一拍置いて、口元にほんの少しだけ笑みを浮かべた。


「あの時、私の名前を聞いてくれたのは、業務の一環だったの?」


その問いには、さっきまでの硬さがなかった。

リーンは、自分でも気づかないうちに少しだけ前のめりになり、真の答えを待っている。

その姿勢は好奇心であり、あるいは——もっと別の何かでもあった。


真は一瞬だけ考えてから、静かに答えた。


「……いいえ。あれは、私がそうしたかったからです」


「そう」


リーンはその言葉を聞いて、満足そうにうなずいた。


「だったら、やっぱりお礼を言う理由はある。さっきのは業務の一環へのお礼じゃなくて、そうしたかったから助けた人へのお礼。それでいい?」


真は少しだけ目を丸くし、それから小さく笑った。


「……理屈に合いませんが」


頑固な二人の、静かな譲り合いだった。


そのやりとりの一部始終を、女神はカウンターの影からじっと見つめていた。


(リーン・ヴァルデマールが、二度も礼を言った。それも、あんなに自然に)


それだけではない。二人の間には、すでに奇妙な信頼のようなものが芽生えている。リーンは人間の施設にいるという緊張をほぐし、真はいつも通り受付をしている。本来なら決して交わらないはずの二人が、まるで昔からの知り合いのように言葉を交わしている。


(真、あなたは——魔族の姫にさえも、同じように接するのね)


女神は自分の胸に手を当てた。自分が先ほど感じた感情は、もしかすると「安心」だったのかもしれない。あるいは「羨望」だったのかもしれない。どちらにせよ、それは女神としての立場からはかけ離れた、ひどく人間的な感情だった。


真は手近な椅子を引き、リーンに座るよう促した。

副長が持ってきた水差しとカップを受け取り、リーンの前に静かに置く。


カップを置く時、真は必ず持ち手を相手の利き手の方に向ける。

今日もそうだった。

リーンが左手でカップを取ろうとして、少しだけ間を置いてから右手に持ち替えた。

真はその動きを黙って見ていたが、何も言わなかった。


「口に合うかわかりませんが」


「ありがとう」


リーンはカップを両手で包み込み、口をつけた。

冷たい水が喉を通る。


その水は、魔王城で飲む水とは違う味がした。

城の水は硬く、わずかに岩の味がする。

この水は柔らかく、ほんの少しだけ甘い。

この街の水は、こういう味なのか。

それとも、ここで飲む水だから、そう感じるのか。


「あのさ」


「はい」


「私が魔族の姫だって、知ってたの?」


一瞬、ギルドの空気が張り詰めた。

副長が水差しを落としそうになり、若い職員が息を呑む。

リーンは、真の目をまっすぐ見つめていた。


「魔族でお姫様だったのですか!それは驚きです!」


あまりに迷いのない答えだったので、リーンはしばらく言葉を探せなかった。


「それだけ?」


「お客様はお客様です。依頼があればお受けする。なければ、またのご利用をお待ちする。それだけです」


「……本当にそれだけ?」


「はい」


リーンは、カップの中で揺れる水面を見つめた。

さっきまで冷たかった水が、手のひらの熱でほんの少しだけ温まっている。

この男の前では、魔族も人間も関係ない。

そしてこの男は、山を消す力を持ちながら、カップの持ち手の向きにまで気を配る。

それが本当なら、自分は今まで何と戦っていたのか——。


その時、リーンはふと口元をほころばせた。


「ねえ、さっきから気になってたんだけど」


「はい」


「カップの持ち手、いつもこっち側に向けるの?」


「はい。お客様が取りやすいように」


「……誰にでも?」


「誰にでもです」


リーンは小さく笑った。さっきまでの張り詰めた笑みではなく、心の底から漏れたような笑い方だった。


「それ、お礼を言われる筋合いの業務?」


真は一瞬だけ言葉に詰まり、それから観念したように小さく息を吐いた。


「……どうやら、あなたには敵いませんね」


「そうよ。私は魔族の姫なんだから」


そう言ったリーンの顔は、誇り高げでも威張っているのでもなく、ただ少しだけ照れくさそうだった。

自分の立場を、こんなふうに冗談にしたのは初めてだった。


その変化はごく小さなものだったが、女神はそれを見逃さなかった。

リーンの声に、かすかな弾みが加わっている。

それは間違いなく、笑顔だった。

敵の本拠地で、しかも神である自分が目の前にいるのに——。


(あの娘は、変わり始めている)


女神はそこで初めて、気づいた。

もしかすると、変わっているのはリーンだけではないのかもしれない。

この三日間、真の行動を記録し続けてきた自分もまた、少しずつ何かに気づかされている。

真が魔族の姫に差し出す水の入ったカップを、今の自分は、ただ静かに見守っている。


(神である私が、魔族の姫を前にして——それでも、この場を止めたいと思わない)


女神は動かなかった。

動く理由が見つからなかった。


リーンは立ち上がった。


「……また来る」


「お待ちしています」


真はそう言って、自然にカップを片付け、机を拭く。

一連の動作に、特別な感情は込められていない。

常連の客を見送るのと同じ、日常の所作。


机を拭く布は、真が自分で洗って干しておいたものだ。

清潔で、ほんの少しだけ石鹸の匂いがする。

彼はリーンが座っていた席を拭き、カップを下げ、それから次の業務に取り掛かった。


リーンはギルドを出る間際、扉の手前で一度だけ立ち止まり、振り返った。

その視線の先にいたのは真だったが、それから少しだけ横にずれて、女神の姿を捉える。


二人の視線が、ほんの一瞬だけ交わった。


女神は微動だにしなかったが、その目に敵意がないことを、リーンは確かに感じ取った。

それだけで十分だった。リーンは何も言わず、ただ軽くうなずいて、ギルドを後にした。


ギルドの外はすでに昼前で、街は活気に満ちている。

商人の呼び声。

走り回る子供たち。

鉄を打つ音。


そのすべてが、彼女には遠い世界のようだった。


生きている世界が違う。

彼女はそう思っていた。

人間と魔族は決してわかり合えない。

それがずっと、彼女の中で揺るがない事実だった。


でも。


「お客様はお客様です」


あの男はそう言った。それだけだった。


リーンはギルドの扉を見ながら、小さく笑った。


「やっぱり、変わってる」

「でも、カップの持ち手まで変えてるんだから、変わってるだけじゃダメだな。面倒見が良すぎる」


彼女はそう呟くと、マントを直し、街の中へと歩き出した。

その足取りは、来た時よりもずっと軽かった。


ギルドの中では、女神がまだ動かずに座っていた。


「女神様」


真が歩み寄り、静かに言った。


「先ほどは口を挟まれませんでしたが、よろしかったのですか。神界への報告など、必要なこともあったのでは」


女神は少しだけ考えるように宙を見て、それから静かに首を振った。


「……私にはまだ、あの光景をどう報告すればいいのかわからないの」


「報告を迷われることなどあるのですか」


「ええ、今まではなかったわ」


その言葉のあと、女神はわずかに口の端を持ち上げた。


「真、あなたはすごいわね。魔族の姫に、あんな顔をさせた」


「あんな顔、とは」


「自分で気づきなさい」


女神は立ち上がり、軽くスカートの裾を払った。

その仕草はいつもより少しだけ人間くさく、そしてどこか機嫌が良さそうだった。


「いいお客様だったわね」


「……はい」


「それだけ?」


真は少し考えてから、わずかに口元を緩めた。


「常連になってくださると、受付として嬉しいです」


「……もう」


女神は苦笑いを浮かべ、窓の外を見た。

街の向こうに広がる空の下、遠くには消えた山があった場所が見える。

その方角に向かって、小さな影が一つ、歩いていくのが見えた気がした。


世界は少しずつ、動き始めている。


その中心にいる男は、今も変わらず受付に立ち、次の依頼を待っている。


受付カウンターの上には、先ほど副長が置き忘れた書類がまだ残っていた。

真はそれを見つけると、無言で手に取り、所定の場所に戻す。

それから再び受付に立ち、静かに次の来客を待つ。


女神はその後ろ姿を見つめながら、何かを言おうとして、結局何も言わずにその場を去った。

だがその口元には、かすかな笑みが残っていた。


ギルドの朝は、いつも通りに過ぎていく。


真は手帳を開き、今日完了した業務を一行ずつ確認し、まだ残っている仕事を頭の中で並べ替えた。


薬草採取。

不審者対応。

お客様応対。

地形変更の報告書。


手帳の端には「朝礼の議題」、その下に「在庫庫の整理」が走り書きされ、さらにその下に「山の復旧作業の見積もり」が几帳面に追記されている。

誰に頼まれたわけでもない。

彼が自分で見つけた「やるべきこと」だった。

そのリストの一番下に、真は小さく「カップの持ち手、左利き用の確認」と書き足した。


明日の朝礼の準備。

在庫庫の整理もそろそろしておきたい。


「さて、次の業務は……」


誰よりも早く出社し、誰よりも働き、誰よりも休まない男。

かつては郵便配達員だった。

今はギルド職員。


だが彼にとって、それはただの肩書きだ。

仕事内容が変わっただけ。


今日も彼は掃除をし、書類を整理し、依頼を受け、現場に向かう。


異世界で始まった大黒真の日常は、こうして静かに、しかし確かに動き始めていた。


山が一つ消えたこと以外は——


いや、それすらも、彼の中では「報告書に記載すべき事項」でしかないのかもしれない。


それでも、彼がギルドの扉を開けるたび、街の誰かが彼の背中をちらりと見るようになっていた。

まだ名前は知られていない。

だが「ギルドの変わった職員」が、ただ者ではないらしいと、少しずつ噂が広がり始めている。


そして今日、その噂にまた一つ、新しい頁が加わった。

魔王の姫がギルドを訪れ、笑顔で帰っていった——その事実は、やがて街と城の両方を静かに揺さぶることになる。


第一章「山が消えた日」完

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