第四話「山が消える」
第四話「山が消える」
ギルドに戻った真が最初にしたことは、依頼書の報告欄への記入だった。
受付カウンターの隅に置かれた小さな机。
真はそこに腰を下ろし、背筋を伸ばしてペンを取る。
字は常に丁寧に。
読み手に誤解を与えないように。
それは郵便局時代に上司から叩き込まれた基本だった。
ペン先が紙を走る音だけが、静かなギルドに規則正しく響く。
その音は、夜間窓口で一人、伝票を整理していた時の音に似ていた。
違うのは、紙の質とインクの匂いだけだ。
こちらのインクは、ほんの少しだけ甘い。
樹脂か何かが混ざっているのかもしれない。
依頼書番号:1034
依頼内容:薬草(月光草)の採取
指定数:十本
採取数:十二本(指定数十本+在庫用二本)
状態:すべて良品。根元より採取、葉の縁の発光を確認済
備考:採取時の天候は晴れ。土壌は湿潤。今後の採取に備え、自生場所の簡易地図を添付
真はそこまで書いて、いったんペンを置いた。
そして数秒考え込み、再びペンを取る。
特記事項:
「これ、書くの嫌だなぁ…」
彼は迷った。
報告書の書式として、どこまで書くべきか。
前の職場では、業務中の事故やトラブルは速やかに報告する決まりだった。
どんなに小さなことでも、隠さず、ごまかさず、正確に。
それが組織の基本だ。
その基本が、逆に彼を悩ませていた。
山を消した。その事実をどう書けばいい。
前の職場なら「配送車両の接触により、お客様の塀を損傷」と書けばよかった。
だが、ここには「山を消す」に該当する項目がない。
仕方なく、特記事項欄に自筆で書き足すことにした。
「仕方ねぇか…」
・森の奥、座標おおよそ北西の方角にて不審者五名を捕縛。武器は現場で回収。
・不審者の身柄は解放済。武器についてはギルドに保管を依頼。稼業から足を洗う誓約書を記載、新しい仕事の斡旋を約束。
・不審者らに追われていた女性一名を保護。負傷あり。大事には至らず。
・なお、上記不審者との交戦時に衝撃が発生。付近の山岳(名称不明)の大部分を崩壊させてしまいました。
「大部分を崩壊」と書いた後、真はペンを置いて自分の右手を見つめた。
この手で、山を消した。
その実感はまだなかった。
実感はないが、報告書には書かなければならない。
それがルールだ。
・地形変更により周辺環境に影響が出る可能性があります。関係各所への連絡を推奨。
真はもう一度読み返し、最後に「以上」と書いた。
「——地形変更?」
背後から声がした。
振り返ると、副長が報告書を覗き込んでいる。
いつ戻ってきたのか。
いや、真が報告を始めた時からずっとそこにいたのかもしれない。
副長の手には、さっきまで自分が整理していた書類の束が握られたままだ。
その指が、紙の端をじわじわと湿らせている。
手汗だ。
「はい」
「……山を、消した?」
「完全に消えたわけではないようです。地図で確認したところ、山体の七割程度が崩壊し、残り三割がかろうじて地形を保っている、という表現が正しいかと」
「…いや、聞きたいのはそういうことじゃないんだが……七割って……」
「あ、すみません、報告書を修正します。『大部分を崩壊』だけでは主観的な表現でしたか」
真は再びペンを取り、「七割程度崩壊・三割残存」と書き足した。
書き足す文字は、それまでの文字よりわずかに小さかった。
追記であることを自分でも認識している証拠だ。
それでも書く。書かねばならない。
それが報告書というものだった。
副長はその様子を半ば呆然と見つめ、それから受付カウンターに手をついた。
「真さん。おまえ、いや、あなたは、ええと」
「真で結構です」
「真さん。あんた、山だぞ。山を消したんだぞ。地形が変わったんだぞ。それなのに、なんでそんなに落ち着いてるんだ」
「落ち着いているつもりはないのですが。実際、加減を間違えたのは反省しています。次からは戦闘時の衝撃を抑える工夫を——」
「そういうことじゃないんだよ!」
副長は声を張り上げたが、真の表情は変わらない。
困惑している様子すらない。
ただ静かに、上司の言葉を待っている。
その態度が、副長をさらに混乱させる。
副長は自分の声が大きくなったことに、自分で驚いた顔をした。
それから、こめかみを指で揉みながら、ゆっくりと息を吐く。
その息は、さっきまで真が書いていたインクの甘い匂いをかき混ぜた。
「なあ、真さん。あんたは自分が何をしたか、わかってるのか」
「はい。依頼外の業務が発生し、その結果として環境に被害を及ぼしました。責任は感じています」
「責任……」
「報酬から差し引いていただいて構いません。あるいは、山の復旧作業があれば私が担当します」
副長は、口を開きかけて、閉じた。
何か言おうとして、それを飲み込んだのがわかった。
たぶん、山をどうやって復旧するつもりだ、と言いたかったのだろう。
でも、この男なら本当にやりかねないと思い直したのだ。
副長はしばらく黙り込み、それから大きなため息をついた。
「とりあえず、今日はもう上がっていいぞ」
「上がる、とは」
「帰れ。休め。もう暗くなるし、報告書の処理も明日でいい」
「まだ勤務時間内ですが」
「いいから!」
「……わかりました」
真は渋々といった様子でペンを置いた。
机の上の書類をきれいに整え、椅子を元の位置に戻す。
カウンターに残っていた未処理の書類を手に取り、「これは明日の朝一で処理します」と言ってから、ようやく立ち上がる。
立ち上がる時、真の腰がほんの少しだけ軋んだ。
自分でも驚いて、一瞬だけ腰に手を当てる。
異世界に来てから軽くなったはずの体が、今日だけは少し重い。
山を消すのは、やはり体に負担がかかるらしい。
それに——胸の奥に、妙に落ち着かないものがあった。
言葉にできない、何か。
配達リストが途中で終わった日の夜に似ている。
やるべきことが残っているのに、それを置いて帰らなければならない時の——あの感じ。
真はギルドの入り口で一度立ち止まり、振り返ってカウンターを見た。
副長はすでに別の書類に目を落としている。
その背中に「お先に失礼します」と小声で言ってから、真は扉を開けた。
扉を閉める時、ほんの一瞬だけ、ためらいがあった。
まだやれることがあるのではないか。
でも副長は「帰れ」と言った。
上司の指示には従わなければならない。
それが組織というものだ。
真は自分にそう言い聞かせ、宿への道を歩き出した。
副長は、閉まった扉を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……今の人、帰り際に『お先に失礼します』って言ったぞ」
「言ってましたね」
「山を消した日の終業時に、だぞ」
「……そうですね」
若い職員と副長は顔を見合わせ、同時にため息をついた。
いったい、何を考えているのかわからない。
いや、考えていることはむしろ明確すぎる。
「なあ、あの人、本当に勇者なのか」
「らしいですよ。女神様が直々に召喚したって」
「勇者って、もっとこう……違うもんじゃないのか」
「さあ……」
「…あと副長…この五人の名前、賞金首リストだよ…」
若い職員が指さしたリストには、つい先ほどまでこのギルドにいた男たちの名が並んでいた。
本名だ。真の前で名乗った名前と、一字一句たがわない。
つまり偽名ではなかったのだ。
「は?あの金さえ払えば何でもやるあの?足を洗わせた?どうやって!」
「さぁ…でもこれ、所長案件だわ、俺らじゃ対応出来ないし、誓約書に仕事斡旋かぁー…」
若い職員はそう言いながらも、口元がほんの少しだけ緩んでいた。
賞金首が床を磨いている光景を、つい想像してしまったのだろう。
翌朝、副長の予想は的中することになる。
真が出勤してきたのは午前五時半——昨日、副長が冗談で言った時刻そのものだった。
そして真は誰もいないギルドの床を磨き、掲示板の依頼書を期限順に並べ替え、壊れかけていた椅子の脚を補修し、ついでに裏口の錆びた蝶番に油を差してから、始業時間ぴったりに副長の机の前に立った。
「おはようございます。朝礼の議題、七つに増やしておきました」
「……五つじゃなかったのか」
「昨夜、追加で二つ思いつきまして」
「寝ろよ!寝てくれよ!」
副長の絶叫が、清掃されたばかりのギルドにこだました。
山が消えた——その噂は、想像以上の速さで広まった。
「聞いたか、勇者様が山を吹き飛ばしたらしい」
「山だぞ、山。あの東の森の向こうにあったやつだ」
「一撃だってよ」
「そんなわけあるか」
「嘘だと思うなら、自分で見に行ってみろって」
街の酒場では、商人や冒険者たちがその話題で持ちきりだった。
酒場の窓からは、噂の山があった方角がよく見えた。
夕日に染まるはずの稜線が、今日はない。
それだけで、誰もが黙って酒を飲み干した。
人々は口々に「勇者の力は本物だ」「これで魔族も怖くない」「いや、力が強すぎて怖い」と語り合った。
中には実際に山のあった場所まで出かけていき、変わり果てた地形を目の当たりにして言葉を失う者もいた。
期待と恐怖。
希望と不安。
相反する感情が入り混じりながら、それでも一つの事実だけは誰もが認めていた。
勇者は、本物だ。
女神が召喚したあの男は、間違いなく、今まで誰も見たことのない力を持っている。
それを使えば、魔王だって倒せるに違いない——そう信じる者が増えていく一方で、一部の者は密かに恐れていた。
「力が強すぎる者は、いつか必ず制御を失う」
「味方でいるうちはいい。だが、もしも敵に回ったら」
そんなささやきも、街のどこかで生まれ始めていた。
誰もが、名前も知らない勇者について語っていた。
だが、その勇者がギルドで床を掃除し、傭兵に職を斡旋し、朝礼の議題を七つに増やしていることは、誰も知らなかった。
同じ頃、魔王城でもその情報はもたらされていた。
赤黒い岩で造られた城の最奥。
広間の中央に敷かれた長机に、魔王軍の幹部たちが集まっている。
席の数は十二。
そのうち埋まっているのは九つ。
末席には、まだ成人したばかりの若い幹部が座り、上座には魔王その人がいた。
「報告します。人間側に召喚された勇者と思われる情報です」
斥候が差し出した報告書には、目を疑うような内容が書かれていた。
魔王は報告書を受け取ると、まず紙の質を指で確かめた。
人間の街で使われている紙だ。
粗いが、繊維がしっかりしている。
こういう紙を作れるのは、平和な証拠でもあった。
「山を、一撃で……?」
「はい。正確には、森の中で何者かと交戦し、その際の衝撃が付近の山に直撃した模様。人間たちの間では『一振りで山を消した』との噂が——」
「一振りだろうが数発だろうが、そんなことは問題ではない」
声を発したのは、魔王だった。
彼は椅子から立ち上がり、広間の窓の外を眺める。
そこから見えるのは、荒涼とした魔族の領土。
人間たちが「不毛の地」と呼ぶこの場所で、彼らは長い間、細々と生きてきた。
窓の外には、ひび割れた大地がどこまでも続いていた。
かつてはここにも川が流れ、木々が生い茂っていた。
魔王の記憶の中では、今もその景色が色あせずに残っている。
「問題は、その力をいつ我々に向けるかだ」
「魔王様……」
「今はまだ、単なるゴロツキ相手に使ったに過ぎない。だがそのうち必ず——人間の王か、あるいは神界の命令で——我々の前に立ちはだかるだろう」
魔王の声には重みがあった。
怒りではなく、もっと深い、諦念のようなものが混じっている。
「その時、我々はどう戦う。何人の兵を失い、どれだけの領土を捨てることになる。それよりも——」
「それよりも?」
魔王は振り返らずに言った。
「その勇者とやらが、もし本当に『正義』だけを信じているなら、戦いは避けられない。正義ほど恐ろしいものはない。正義は相手の話を聞かず、妥協を許さず、そして何より——自分が間違っているとは決して思わない」
その言葉は、彼自身の経験から滲み出たものだった。
かつての勇者に同胞を殺された日のこと。
「魔族に情けは無用」と言い放ったあの男の、一片の曇りもない目。
あれが正義というものなら、自分は正義を永遠に憎むだろう。
誰もが黙り込んだ。
魔王の言葉は、あまりにも真実を突いていたからだ。
「引き続き情報を集めろ。勇者の正体、名前、性別、その性格、好み、行動パターン。戦うにせよ避けるにせよ、相手を知らなければ始まらない」
幹部たちが深く頷き、それぞれに指示を確認する。
その中で、一人だけ——末席に座る若い幹部だけが、わずかに目を伏せていた。
報告書に記された「森の中で保護された女性」という一節。
それが誰を指すのか、彼には心当たりがあった。
一方、街の外れの安酒場では——。
五人の男たちが重い沈黙に包まれていた。
つい先ほどまで「姫を捕まえろ」と息巻いていた傭兵たちである。
街の中心部にある商人や冒険者たちの集う酒場とは違い、ここは壁も床も煤けて黒ずみ、灯りも心もとない。店の隅ではドブネズミが一匹、こぼれた酒のしみを舐めていた。繁盛しているとは言い難いが、傭兵崩れの荒くれ者たちが肩を寄せ合うには、むしろこのくらいの場所がちょうどよかった。
「……で、どうする」
「どうするも何も、誓約書にサインしちまったしな」
「ギルドに武器も取り上げられた」
「よりによって賞金首リストに載ってる俺らに、仕事の世話だってよ」
リーダー格の男が、カップをぐいと呷ってから呟いた。
カップの中身は水だった。
酒を頼む金がもうなかったのではない。
ただ、飲む気になれなかった。
「……俺、明日ギルド行くわ」
「正気か?」
「あの男に言われたんだ。『仕事は誰かを幸せにするためにある』って。そんなこと、誰にも言われたことなかった」
男の手には、真に書かされた誓約書があった。
酒場の薄暗い灯りでは読み取れないほどの細かい字で、あの男の几帳面な文面がびっしりと並んでいる。
男はそれを読めないくせに、大事そうに畳んで懐にしまった。
残る四人は顔を見合わせ、それから誰からともなく笑い始めた。
「お前、今まで何人も斬ってきたくせに」
「うるせぇ。……でもよ、俺らみたいなのに、まともに仕事を紹介するってよ。バカだよな、あの男」
「ああ、バカだ」
バカだ、と二度目の言葉を、誰かがやけに優しい声で繰り返した。
酒場の親父が、無言でカップに水を継ぎ足した。
水はタダだった。
だが今夜は、その水がやけにうまかった。
「罪を償えって言われたら…死罪でも喜んで受けるわ…これが最後の晩餐かもな」
こうしてこの五人は、翌朝ギルドに出頭した。
死罪も受け入れる、だがこの命を誰かの為に役立てたいと訴える五人の熱意が所長を動かした。
所長室から出てきた五人は、互いの顔を見合わせ、それから一斉に笑い出した。
無理もない。これから彼らは、つい昨日まで自分たちが狙っていた場所——ギルド——で働くことになったのだ。床掃除に書類整理、依頼書の張り替えに倉庫の整理。武器を捨て、ほうきを手に取る。そんな未来が、本当に自分たちに訪れるとは。
のちにギルドの雑務係として真の右腕となり、どんな汚れ仕事も笑顔でこなす「元傭兵の清掃隊」として街の名物になるのだが——それはまだ、先の話である。
同じ夜、真はギルドの裏手にある安宿の一室で、明日の朝礼の議題を五つから七つに増やしていた。
窓の外では、山の消えた方角の空が、いつもより広く感じられた。
その空に向かって、真は几帳面な字で改善提案書を書き上げ、それから静かにペンを置く。
机の上の提案書を、窓から差し込む月明かりが青白く照らしていた。
中身はまだ誰にも読まれない。
だが真は、それでよかった。
書くこと自体が、彼にとっては明日への準備だった。
就寝時間は午前二時。
起床は四時半。
「明日もミスせず頑張るぞ!」
その声は、静かな部屋の壁に吸い込まれ、誰にも聞かれることなく消えていった。




