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社畜の郵便配達員は異世界でも休まない  作者: 太幽


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第三話「姫と追手」

第三話「姫と追手」


真の動きは、速さという概念を超えていた。


最初の一人が倒れるまでに、わずか一呼吸。

腰を落とし、足を踏み出し、相手の懐に入る。

その一連の流れはまるで、空気が流れるように自然で、無駄がなかった。


茂みから飛び出した真は、一直線に男たちの中心へと走り込んだ。

その足取りは、朝の配達で最初の一軒に向かう時のそれに似ていた。

慌てず、急がず、それでいて決して遅れない。


男は声を上げる間もなく膝から崩れ落ち、手に持っていた剣が地面に転がる。

金属が苔の上に落ち、鈍く湿った音を立てた。

露を含んだ苔が衝撃を吸い込み、その音は思ったよりもずっと静かだった。


「て、てめえ——!」


真は倒れた男を見下ろし、小さく息を吐いた。

「アニメで見た体術を真似てみました。実戦で使えるものですね」


「あ…アニメって何だ!ふざけやがって!」


真は相手の抗議には答えず、すでに視線を次の男に向けていた。

配達先の表札を確認する時の、あの淡々とした視線の移し方で。

二人目が反応した時には、真はすでに別の位置に立っていた。


背後を取られたことにすら気づかない。

真の手刀が、その首筋に静かに落ちる。


首筋に手刀が触れる瞬間、真は相手の脈拍を感じ取った。

手のひらの側面に伝わる、速くて浅い鼓動。

恐怖だ。

かつて強面の先輩配達員が、大型犬に吠えられただけで同じ脈を打っていたのを思い出す。

どんなに強がっていても、皮膚の下は正直だった。


衝撃は最小限。

痛みすら感じる間もなく、二人目の意識は刈り取られた。


あと三人。


「囲め!一斉にかかれ!」


残った三人が散開し、真を包囲しようとする。

連携のとれた動きだ。

荒事に慣れた者たちであることは間違いない。


正面からの一人が牽制の斬撃を繰り出し、その間に右の一人が横合いから突きを入れる。

左の一人がさらに死角から距離を詰める。

三方向同時。

普通の相手なら、これで終わる。


だが真は、普通ではなかった。


正面の剣を半身でかわし、その勢いのまま右の相手の手首を掴む。

軽く捻る。


手首を捻られた男の指が、意思に反して開いていく。

真はその指の一本一本が力を失っていくのを、手のひら越しに感じ取った。

無理やりこじ開けるのではない。

手紙の封を切る時のように、そっと、しかし確実に。

それだけで男の指から力が抜け、武器が落ちる。


剣が地面に突き刺さり、かすかに震えた。

その震えが収まる前に、真はすでに次の位置へと動いていた。


左からの攻撃は、倒したばかりの男の体を盾にするでもなく、ただ一歩下がるだけで回避した。

相手の刃は空を切り、勢い余って体勢を崩す。


「この——!」


正面の男が再度斬りかかってくる。

が、その時には真はもういない。

気がつけば男の背後に立ち、まるで郵便物を受け取るかのように、その腕をやんわりと制していた。


真の手は、男の腕を掴んでいるのか、それとも支えているのか——見ている者には判別がつかなかった。

それは、受け取り拒否の荷物を、差出人にそっと戻す時のような、妙に礼儀正しい手つきだった。


「申し訳ありませんが、これ以上続けると、お互いに怪我が増えます」


静かな声だった。

怒りも恐れもない、ただの事実確認のような口調。


男は振りほどこうとしたが、真の手は動かない。

万力のような力ではない。

むしろ、力を入れていないのに外せない——そんな異様な感覚。


男の顔から、汗が一筋、こめかみを伝って落ちた。

その汗が地面の苔に吸い込まれるまで、真はじっと待っていた。


「な、なんなんだてめえは……!」


最後の一人が、悲鳴のような声を上げて後退した。


「ま、待て!降参だ!降参する!」


その言葉に、真は手を離した。

同時に、まだ意識のあった男たちも武器を手放し、両手を上げる。


武器を失った手が、無意識に空を掴む。

配達が終わった後の、何も持たない手の所在無さに似ていた。


真は一人ひとりの顔を確認し、武器の有無を確かめ、それから背筋を伸ばした。


だが、その直後だった。


「お、おい……あれ……」


降参したはずの傭兵の一人が、震える指で真の背後を指さした。

その声は、戦闘の恐怖とは別の種類の震えを含んでいた。

真が振り返るより早く、別の男が叫ぶ。


「や、山が——!」


どおん、という音が、一拍遅れて森に届いた。

腹の奥に響くような低い音。

木々が一斉にざわめき、葉擦れの音が波のように森を走り抜ける。


最後の一人を制圧した時、真は一歩、強く踏み込んでいた。

ただそれだけだ。男を押さえつけるために、ごく自然に踏み出した一歩。

だが、その踏み込みで砕けた岩盤が、地中を伝って尾根を抉り、山の片側をまるごと崩壊させていたのだ。

地割れは真の足元から一直線に山へと伸び、その軌跡はまるで見えない巨人が爪で大地を引っ掻いたかのようだった。


真は自分がやったことを理解し、そして——ほんの一瞬だけ、申し訳なさそうに眉を下げた。


「……アニメだと被害は現実にならないんですが」


誰に言うともなく、そう呟いた。


「では、いくつか質問に答えていただけますか」

「な、なんだ……?」

「どなたの依頼で、このお嬢さんを追っていたのですか」


男の顔から血の気が引いた。

口を開きかけ、閉じ、震える唇で言葉を探している。


その唇は、さっきまで強がっていた男のそれとは思えないほど乾いていた。

下唇の中央に、歯で噛みすぎてできた小さな傷がある。

傭兵稼業が初めてではない証拠であり、それでも今回ばかりは勝手が違った証拠でもあった。


「し、知らねえんだ……俺たちはただ、雇われただけで……仲介人を通したから、誰の依頼かは本当に——」


「そうですか」


真は無表情で男の目を見つめた。

数秒の沈黙。

それから男は観念したようにうなだれた。


「誓って本当だ……俺たちはただの傭兵で、報酬の半分は前金でもらってる。それ以上は詮索しなかった……」

「報酬の内容は」

「あの姫を、捕まえて連れて来いと。生死は問わねえって……だから死んでもいいってことじゃねえ、ちゃんと生きたまま——」


必死に弁解する男の肩に、真はそっと手を置いた。


手を置かれた肩が、びくりと跳ねる。

その震えが、真の手のひらにじかに伝わってきた。

骨のすぐ上に、肉が薄くしかついていない。

ちゃんと食えていないのだ。

真は無言でその肩をひとつ、軽く叩いた。


男の体が跳ね上がる。

殺される——そう思ったのだろう。


だが真は、ただ静かに言った。


「では、今後このようなことをしないと約束してください」

「……は?」

「仕事の依頼は選ぶべきです。あなた方にも事情はあるのでしょう。食べるためかもしれない。家族を養うためかもしれない。ですが、誰かを傷つけて得た報酬は、いずれあなた方を傷つけます。仕事というのは本来、誰かを幸せにするためにあるべきだと、私は思います」


男は呆然と真を見上げた。

いま自分は、殺されるか、説教されるか、どちらかだと思っていた。

だがこの男は違う。

仕事の話をしている。

まるで同僚に助言するかのように、淡々と。


その声は、配達先で道を尋ねられた時に道順を教えるのと同じ調子だった。

親切だが、そこに特別な感情はない。

ただ、そうすべきだからそうしているだけの声。


「行っていいです。ただし、あなた方の持ち物から武器を預かります。あとでギルドを通じてお返ししますので、取りに来てください。お名前だけここに記載を。そしてこちらが、二度とこのような仕事をしないと制約する書類になります。新しい仕事はギルドに紹介を仰ぐので明日以降、来てください」


真は手早く男たちの武器を集め、丁寧に一本一本、木の幹に立てかけた。

それはまるで、郵便物を配達先ごとに仕分けているかのような手際の良さだった。


剣を立てかける時、真は刃の向きをすべて同じ方向に揃えた。

いつでも取りに来られるように。

そして、誰かが誤って蹴飛ばしても怪我をしないように。

取扱注意のシールを貼る時の、あの几帳面さが、異世界の森の中でも同じように発揮されていた。


そして真は、懐から手帳を取り出すと、傭兵たちの名前を一人ずつ書き付けていった。


「……え、待って、なんで名前を」

「新しい仕事の紹介に必要ですので」

「いや、あの、俺たちの名前なんて聞いてどうする」

「履歴書の代わりです」

「そんなこと言われたの初めてだ……」

最後の男が、震えながらも名を名乗る。

その名前は、他の四人より明らかにたどたどしかった。

偽名かもしれない。

真はその名前を手帳に書きつけ、それから顔を上げて、男の目をもう一度見た。

それだけだった。

偽名でも構わない——そう言っているように、男には見えた。


傭兵たちは這うようにしてその場を去っていった。


傭兵たちの足音が完全に消えた後も、真はしばらくその場に立っていた。

彼らが置いていった剣を手に取る。

柄はまだわずかに温かかった。

汗と脂と、こすれた革の匂いが染みついている。


真は目を閉じて、その匂いを深く吸い込んだ。

汗の酸っぱさ。革の渋さ。そしてかすかに、砥石の油の匂い。

ちゃんと手入れをしていた証拠だ。

この男たちは、剣をただの道具としてではなく、生活の手段として扱っていた。


(ずっと握ってたんだな。眠る時も、飯を食う時も)


郵便配達の現場でも、同じことがあった。

差出人不明の荷物を受け取る時、その包みにどれだけの時間と体温が込められているかを想像する癖がついていた。

包み方、結び目の固さ、テープの剥がれ具合——すべてに発送者の手癖が残っている。


返送されてきた郵便物を受け取る時も、同じだった。

もう届かないと知りながら、それでも誰かが最後まで握りしめていたであろう温もり。

この剣の柄にも、同じものがあった。

手癖。生活。体温。


真は剣を丁寧に布で包み、背負い袋にしまった。


「必ずお返しします」


残されたのは真と、そして少女だけ。


真は振り返り、少女のもとに歩み寄った。

彼女はまだ短剣を構えたまま、肩で息をしている。

頬には一筋の傷。

戦闘のせいか、それとも森を逃げ回るうちについたものか。


少女の肩が、小刻みに震えている。

恐怖か、寒さか、それとも両方か。

真はそれ以上近づかず、ちょうど玄関先で荷物を渡す時の距離で立ち止まった。

相手を圧迫しない、でも無視もしない、郵便配達員として最適な間合い。


「大丈夫ですか?」


少女は答えない。

答えられない。

目の前で起こったことが信じられないのだ。


五人の武装した傭兵を、一瞬で無力化した。

しかも、誰一人として殺さずに。

これほどの力量差がありながら、最後まで手加減をしていた。


そしてなにより——


「なぜ」


少女の声は震えていた。

恐怖からではない。

困惑からだ。


「なぜ、私を助けた…」


真は少しだけ首をかしげた。

その質問の意味がわからない、という顔だった。


本当に、わからなかったのだろう。

配達先で「なぜ届けてくれたんですか」と尋ねられるのと同じくらい、彼にとっては意味のない問いだった。

困っている人がいるから。それだけだ。


「お困りのようでしたので」

「それだけ?」

「はい」

「私は……私を、誰だと思ってるの」

「存じ上げません。悲鳴が聞こえたので来ただけです」


関係ない——と、はっきりと言葉にせずとも

その口調が、すべてを物語っていた。


その「関係ない」は、冷たさではなかった。

むしろ、その逆だった。

相手が誰であろうと、困っていれば助ける。

つまり真にとって、助けるかどうかの判断に、相手の身分や種族は最初から入っていない。

入る余地がないのだ。


真は膝をつき、地面に手のひらを当てた。

冷たい。

森の土はまだ朝の温度を残していた。

その冷たさが、戦闘で熱くなった手のひらをゆっくりと冷やしていく。


熱が土に吸い込まれていく。

それと同時に、全身の力が抜けていくのを感じた。

配達が終わった後の、あの瞬間といっしょだ。

緊張が解けて、それでもまだ頭のどこかで次の配達先を考えている。

でも今は、ほんの少しだけ、この冷たさを感じていてもいい——


(よし、終わりだ)


配達が終わった時も、いつも同じだった。

最後の荷物を届け、空になったカバンを抱え、しゃがみ込んで一息つく。

夏はアスファルトの照り返しが熱く、冬はコンクリートが氷のように冷たかった。


ここでは土が冷たい。

それだけの違いだ。

終わったことに変わりはない。


真は立ち上がり、ズボンについた土を払った。

その仕草は、配達を終えた後のそれと何も変わらなかった。


土を払う手が、膝のあたりで一度止まった。

生地に染み込んだ土の色が、指で叩いても落ちない。

洗濯しないと取れないな——そう思ってから、この世界にクリーニング店があるかどうか、まだ調べていないことに気づいた。

まあいい、とにかく今は。


その言葉が、リーンの心の奥深くに、何かを落とした。

小さな石が、静かな湖面に落ちた時のような波紋。

それはまだほんのさざ波だが、確かに彼女の中の何かを揺らした。


彼女は無意識に、自分の胸の前に手を当てていた。

心臓の音が、さっきまでよりずっと早い。

それは恐怖の名残でも、走った後の息切れでもなかった。

ただ——わけがわからなかった。


リーン——魔王のただ一人の娘、リーン・ヴァルデマール——は、この時、自分が何を感じているのか、どうしても言葉にできなかった。


魔族の姫として生まれてから十八年。

彼女は人間というものをずっと知っているつもりでいた。

魔族を憎み、恐れ、滅ぼそうとする者たち。

それが人間だった。


人間の本で読んだことがある。

「勇者は正義のために戦う」と。

「正義は魔族を滅ぼす」とも。

ならば、この目の前に立つ男は——勇者ではないのか。

それとも、人間とは、本に書かれているほど単純な生き物ではないのか。


父である魔王は、人間との戦いの中で多くの同胞を失ってきた。

彼女自身もまた、人間の放った暗殺者に何度も命を狙われた。


「勇者は特に危険だ。決して近づくな」

父からそう教えられてきた。


人間は自分たちの敵であると、疑った事もなかった。


なのに。


この男は、敵であるはずの自分を「お嬢さん」と呼び、「お怪我は」と尋ね、「来ただけだ」と言い切った。

それが演技でも計算でもないことは、その言葉のあまりの軽さが証明していた。


計算なら、もっと巧くやる。

演技なら、もっと熱く語る。

この男は、そのどちらでもない。

ただ、そうしたからそうしただけだ。


「あなた、名は」


気がつけば、そう問いかけていた。

逃げるべきだと思った。

魔族の姫であることがばれれば、この男も態度を変えるかもしれない。

それでも——それでも、名を知りたいと思った。


名を知らなければ、この出会いはなかったことになる。

この男にとってはそれでいいのかもしれない。

でも、自分は違う。

この出会いに、名前が必要だ。


「私はリーン。あなたは?」


真は少しだけ申し訳なさそうな顔をして、それから小さく頭を下げた。


「申し遅れました。大黒真です。ギルドで働いています」


「申し遅れました」——その言葉は、配達先での第一声と全く同じだった。

「大黒真です。ギルドで働いています」——それは、社名と自分の名前を告げる時の、あの定型句そのものだった。


「大黒……真」

「はい。何かお困りでしたら、いつでもギルドまでご連絡ください。本日は薬草採取の依頼の帰りですが、緊急のご用件があれば承ります」


リーンは呆気にとられた。

五人の傭兵を倒した直後に薬草採取の話をしている。

それが冗談でも大げさでもなく、ただ事実として口にしていることに、頭がついていかない。


薬草採取。緊急のご用件。承ります。

その言葉の並びが、彼女の中で奇妙な響きを立てた。

まるで、戦闘と薬草採取とが、同じ「業務」の枠に収まっているかのように。


彼は間違いなく、今日の自分の「仕事」の一環として、リーンを助けたのだ。


「あなた、今の、あれ……どうやったの」

「どう、とは?」

「だって、あんな動き、普通じゃない。それに、あの人数を一瞬で——」


真は少し考えるように宙を見て、それから思い出したように背後の方へと目を向けた。


「うーん…身体があまりにも軽かったので、アニメの真似をしてみたのですが…」


傭兵たちを一掃した時、真はありったけの「手加減」をしたつもりだった。

一発で倒し、二発は当てない。

周囲の被害を最小限に抑え、武器だけを取り上げる。

それが最適解だった。


だが——


真はしばらく遠くを見つめてから、小さく、本当に小さく息を吐いた。


その息が、朝の冷えた空気に白く溶けていく。

現代では見慣れた冬の風景。

でも、ここは異世界で、季節は春に近い。

息が白くなったのは、真の呼吸そのものが異様に熱を持っていたからだ。

戦闘で上がった体温が、彼の吐く息を一瞬だけ白く染めていた。


「加減、間違えたかもしれません」

「……は?」


リーンが真の視線の先を追う。

森の木々が途切れたその先。

遠くの空がやけに広く感じられる。

いや、違う。

さっきまであそこには——


空の色が、不自然に途切れていた。

本来なら山の稜線が描くべき曲線が、そこだけごっそりと欠け落ちている。

残った斜面の断面が、朝日を受けて生々しく赤く光っていた。

削り取られた岩肌からは、かすかに湯気のようなものが立ち上っている。

森の冷たい空気の中で、そこだけが異様に熱を帯びていた。


山が、消えていた。


「うそーーーーーー!」


リーンの声が、やまびこのように森に響き渡った。


その声が、さっきまで消えていた鳥たちを一斉に飛び立たせた。

羽音が頭上で爆ぜ、木の葉がはらはらと落ちる。

静寂が、少女の絶叫によって破られ、森が再び動き出した。


森の向こう、遠くにそびえていたはずの山が一つ、跡形もなく消え去っている。

何が起こったのかは明白だった。

真の攻撃の余波が、あの傭兵たちに向けられた力のほんの一部が、方向を誤って山に直撃したのだ。

より正確に言えば——最後の一人を制圧した時、真が踏み込んだ一歩が地面を砕き、その衝撃が岩盤を伝って山を崩壊させたのだった。


「な、なに、さっきまで……山が……え?」


真は申し訳無さそうに頭をかいた。


「すみません。戦闘時の衝撃が、思いのほか周囲に被害を及ぼしたようです。ここはひとまずギルドに報告して——」


報告。

その言葉に、リーンは目を瞬かせた。

山を消した男が、まるで書類の不備を詫びるように「報告」と言ったのだ。


「山が消えたんだけど」

「はい」

「地形が変わってるんだけど」

「そうですね」

「それに対して、感想は」


真はしばらく考え込んでから、こう答えた。


「次回は加減します」


「次回は」——その言葉は、この男にとって「山を消す」ことが、配達先の郵便受けに荷物が入らなかった時の「次回は気をつけます」と同じ重さであることを意味していた。

反省はしている。でも、それは失敗に対する落ち込みではなく、次への改善点としてのみ存在している。


リーンは、気がつけば笑っていた。


笑うしかなかった。

怖さもある。

信じられない気持ちもある。

でも、目の前の男は山を消したことよりも、薬草採取の方が大事な仕事だという顔をしている。

力の加減を間違えたことを、まるで書類の誤記のように「次回は気をつけます」と謝っている。


「あなた、変わってる」


口に出してから、リーンはそれがこの世界で一番の褒め言葉だと気づいた。

「変わっている」は、彼女の知る限り、最も正直な賛辞だった。

だって、変わっていなければ、こんなふうに敵を助けたりしない。

山を消しておいて薬草の話もしない。

そして何より——私を、「お嬢さん」と呼ばない。


「よく言われます」


真がほんの少しだけ口の端を持ち上げた。

営業スマイルとは違う、自然な笑顔。

その笑顔を見た瞬間、リーンの胸の奥で、かすかに何かが灯った。

温かくて、鈍くて、そして少しだけ痛いような——そんな灯りだった。


こんなふうに笑ったのは、何年ぶりだろうかと

本人も気づかないうちに、そんな思いが頭の片隅をよぎった。


リーンは自分の心臓の音を聞きながら、これは危険だと直感した。

この男は、勇者だ。

魔族の敵だ。

なのに、どうして——


「また会える?」

「ギルドにいらっしゃれば、お会いいただけるかと」

「そう」


「そう」——短く答えたリーンの声は、自分でも驚くほど柔らかかった。

拒絶されるかもしれないと、ほんの少しでも思っていたのかもしれない。

でも、この男は拒まない。

誰も拒まない。

まるで郵便物を受け取るように、いつでもそこに立っている。


「リーンさん、いつでも歓迎します」


「さんも、様もつけないで。リーンでいい」


真はクスッと笑うと

背負い袋を直し、来た道を戻り始めた。


背負い袋には薬草が入っている。

依頼は完了した。

これからギルドに戻り、報告書を書く。

彼の頭の中はもう、次の業務の段取りで埋まっているのだろう。


リーンは、その背中を見ながら立ち尽くしていた。

しばらくその場から動けなかった。

動く理由もなかった。


動きたくなかったのかもしれない。

あの背中が、森の向こうに消えるまで、この時間を終わらせたくなかった。


山の消えた森の中で、魔王の姫はひとり、知らない誰かの名前を口の中で転がしていた。


大黒真。


その名前は、彼女の舌の上で、硬くもなく柔らかくもなく、ただ静かに転がった。

一度口にしただけでは足りなくて、もう一度、今度は声に出さずに繰り返す。

唇が、かすかに動いた。


それは、この世界を変える名前になることを、まだ彼女は知らない。

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