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社畜の郵便配達員は異世界でも休まない  作者: 太幽


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第二十九話「自覚、そして惑星二つの消失」


第二十九話「自覚、そして惑星二つの消失」


ギルドの床は、今朝も真が磨いている。


モップの先が床板を滑るたび、かすかに杉の匂いが立ち上った。

窓を開け放てば、朝露に濡れた石畳と、遠くのパン屋から流れてくる焼きたての香り。

観葉植物の葉に水滴を落とし、掲示板の依頼書を期限順に並べ替える。

一連の動作に無駄はなく、ためらいもない。


カウンターの上には、副長の二代目の小ぶりなカップ。

初代はつい先日、リーンがうっかり欠けさせてしまい、副長が一晩落ち込んだ末に「いい機会だ」と新調した。

初代のカップは今、ギルドの棚の上に安置されている。


見習いは、最近入った新人に朝礼の仕切り方を教えるようになっていた。

「いいか、真さんの話は絶対に聞き漏らすな。要点だけだからな」

「要点だけって、五分で終わっちゃうじゃないですか」

「そうだ。だから聞き漏らすな」


廊下の奥からは、清掃隊——今は正式に「ギルド清掃部」として認可されている——のリーダーの声が響く。

「そこの角、まだ埃が残ってるぞ!」

彼の胸には「清掃主任」の名札。


半年の月日が、ギルドの隅々にまで静かに積もっていた。


リーンのお腹には、新しい命が宿っている。


まだ外見からはほとんどわからない。

けれど彼女自身は知っていた。

つい先日、レナスに診てもらって確信したばかりで、まだ真にも伝えていない。


いつ伝えようか。

どんな顔をするだろうか。


そう思うだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。


市場で焼きたてのパンを買う時も、ギルドへの道を歩く時も、彼女は無意識のうちに自分のお腹に手を当てていた。


ーそんなある日のことー


空はどこまでも青く、雲ひとつない快晴だった。

戦いの日々は遠く過ぎ去り、街は平和そのものだった。


その朝も、リーンは真より少し遅れてギルドに向かう。

パン屋の前で焼きたてのパンを二つ買った。

一つは自分の分。もう一つは、いつも朝食を抜きがちな真の分だ。


「真さん、おはよう」


いつの間にかカウンターの前に立っていたリーンが、湯気を立てるカップを差し出した。

真はモップを壁に立てかけ、カップを受け取る。


「おはようございます」


一口含むと、熱い茶が喉を落ちていった。

リーンが淹れてくれた茶は、自分で淹れるよりほんの少しだけ甘い気がする。

いや、淹れ方はまったく同じだ。

それでも違う。

誰かが自分のために淹れてくれたという事実が、味覚をほんの少しだけ変えているのだろう。


「真さん、珍しい。眠そう」


「……昨夜は少し」


理由はわかっていた。

リーンが最近、何かを言いたそうにしている。

それでいて、まだ言い出さない。

それが気になって、つい遅くまで起きていたのだ。


「問題ありません。業務に支障は」


「はいはい。でも、今日は無理しないでね」


リーンは笑いながら真の肩をそっと叩いた。

その手が一瞬自分のお腹に触れ、それから離れる。


真はその仕草を視界の端に収めた。

何か言いかけて——やめた。

業務中に私的な質問をするべきではない。

そう自分に言い聞かせて、手にしたカップをもう一口含む。


日が暮れた帰り道のこと。


「真さん」

「はい」

「私ね、今日——」


リーンが何かを言いかけた、その時だった。


最初に異変に気づいたのは、広場で遊んでいた子供たちだった。


空の一点が、不自然に歪んで見える。


積乱雲が渦を巻くように一点に吸い込まれ、青空がひび割れるガラスのように細かな亀裂を走らせた。


やがてその亀裂は大きく裂け、漆黒の虚空が覗く。


轟音とともに姿を現したのは、一頭の巨大なドラゴンだった。


鱗は漆黒で鈍く光り、翼を広げれば街の半分を覆う巨体。


尾が振られるたびに風が唸りを上げ、市場の露店が次々と吹き飛ばされていく。


咆哮が響くたび、建物の窓が粉々に砕け散った。


ドラゴンの吐く息は灼熱の風を巻き起こし、噴水の水が瞬く間に蒸発していく。

蒸気が立ち上り、広場一帯を白く覆った。


神界の使者が広場に駆けつけ、空を見上げて叫ぶ。


「ありえん……なぜよりにもよってアレが! 神界の記録にしか存在しない太古の災厄竜……創世記の時代に封印された伝説のドラゴンだ! 我々の力では到底——」


言い終わる前に、ドラゴンの尾が広場の時計塔を薙ぎ倒した。


何世紀も街を見守ってきた石造りの塔が、轟音とともに崩れ落ちる。


舞い上がる粉塵。


逃げ遅れた者たちの悲鳴。


倒壊する建物の下敷きになりかけた老人を、清掃部のリーダーが間一髪で救い出した。


「勇者様に連絡を! 早く!」


魔界神が翼を広げて飛び上がるが、折れた翼はまだ完全には癒えておらず、バランスを崩して屋根に激突した。


神界の兵士たちが一斉に光の槍を放つ。

だが、ドラゴンの鱗に当たるそばから霧散していく。 


傷一つつけられない。


兵士たちは次々と地面に叩きつけられた。


「……これが、太古の災厄竜……創世記の神々でさえ封印するのが精一杯だったというのに……」


使者の声は、絶望に震えていた。


その時、魔王城の書斎で書類と格闘していたカミナンデスが、はたと顔を上げた。

ペンを取り落とし、インクが机に広がるのも構わず立ち上がる。

彼の目が、見開かれた。


「レナス! 気配を感じたか!」

「ええ! リーンに何か——!」


控え室から飛び出してきたレナスと、廊下で鉢合わせる。


二人は言葉を交わす間もなく、同時に駆け出した。


娘の気配が、かすかに震えている。

それは恐怖か、痛みか、それとも——。

レナスの胸に、かつてない不安が押し寄せる。


彼女の指先が震え、カミナンデスは拳を握りしめたまま、ただ前だけを見て走り続けた。


ギルドの前では、真が一人、空を見上げて立っていた。

手にはいつもの手帳。


「出力、一割——いや、今回は状況から見て五割」


真が一歩踏み出すよりも先に、リーンが動いた。


瓦礫の陰で泣いている小さな女の子を見つけ、考えるより先に駆け出していた。

彼女は子どもを抱きかかえ、安全な場所へ逃がそうと地面を蹴った。


「——っ!」


ドラゴンの尾が、唸りを上げて振り下ろされる。

尾の先端が空気を裂き、衝撃波だけで周囲の壁がひび割れた。


リーンは身を挺して子どもを庇い、地面を転がる。

尾が彼女の左腕をかすめた——だけでは済まなかった。


肉が裂け、骨が砕ける鈍い音。

鮮血が石畳に飛び散った。


「ぐわぁっ!」


右腕で子どもを抱えたまま、リーンは声もなく地面に倒れた。

それでも彼女の腕は、最後まで子どもを離さない。

腹部をかばうように、無意識に体を丸めている。


「——リーン!」


真の口から迸ったのは、呼び捨てだった。

手帳が石畳に滑り落ちる。

紙が風に舞い、血の混じった泥水に汚れていく。


彼は駆け出していた。

業務のことも、出力の計算も、すべてが吹き飛んで。


「リーン! リーン!」


彼女の体を抱き起こす。

だが、返事はない。

血の気の失せた頬。

奪われた左腕。

腹部を守るように丸められた体。


真がそれに気づいた瞬間、彼の中で何かが砕け散った。


(リーン。まさか…妊娠してたのか——)


右手が、無意識に天へと伸びていた。

指先が震えている。

怒り、悲しみ、自分でも名付けられない感情が、濁流のように全身を駆け巡った。


「——あ」


自分でも理解できない声が、喉の奥から漏れた。


指先から放たれた白炎が、天を貫いた。

赤を通り越し、青を通り越し、純白に染まった炎がドラゴンの巨体を一瞬で包み込む。

太古の災厄竜は、抗う間もなく消滅する。

鱗が蒸発し、骨が消え失せ、咆哮を上げる口も、空を覆った翼も、何もかもが跡形もなくかき消えた。


白炎は天を突き抜け、雲海を蒸発させ、大気圏を越えていく。

虚空の彼方で、二つの惑星が静かに砕け散った。


街の上に、これまで誰も経験したことのない静寂が広がる。


レナスとカミナンデスはその光景を目の当たりにして言葉を失った。


カミナンデスが、震える声を絞り出す。


「惑星を……二つ……指先一つで……」


真は、そんな声など耳に入らなかった。

彼はただ、リーンの体を抱きしめている。


血に濡れた彼女の右手を握りしめた。

脈はまだある。

だが、この出血量では時間の問題だった。


彼の目から、一滴の涙がこぼれ落ちる。

その涙が、リーンの血に混ざって石畳に染み込んだ。


左手が、再び無意識に動いた。

白く柔らかな光が手のひらから零れ、リーンの全身を包み込む。

光は傷口に吸い込まれ、千切れた血管が繋がり、砕けた骨が組み直され、失われた皮膚が瞬く間に再生していく。


光が消えた後、リーンの左腕は元通りになっていた。

傷跡すらない。

ただ、破れた袖だけが、先ほどの惨状を物語っている。


「——なんだ? この光は……」


真の声は、かすれていた。


リーンがゆっくりと目を開ける。


「……え? 私、確か……腕が……あれ?」


彼女は自分の両手を見つめ、指を一本一本動かす。

破れた袖口を引っ張り、肩が元通りになっているのをまじまじと確認して、もう一度呟いた。


「あれ?」


「……よかった」


真はリーンを抱きしめた。

今度は怖がらずに、強く、深く。


「よかった……無事で……リーン……!」


その瞬間だった。


夜空の彼方で、一際大きな光が炸裂した。

白く輝く閃光が、夜空を昼間のように明るく照らし出す。

星々がかき消されるほどの光量が、数秒間、世界中を包み込んだ。


真の白炎が粉砕した惑星のさらに奥——恒星の核に達し、連鎖反応を引き起こしたのだ。

一つの恒星が、その生涯を数百万年早めて終えた。

超新星爆発だった。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛…」

リーンの瞳孔が開きったような衝撃

掠れた声で小さな悲鳴をあげた。


夜空に広がる光の輪を見上げながら、リーンが呟く。


「真さん、あれ……」

「……はい」

「惑星だけじゃなかったみたい」

「……そうですね」

「私のせい?」

「いえ。俺のミスだな」


リーンは、感動よりも先に「やってしまった……」という顔で青ざめた。


抱きしめられて嬉しいのに、空では恒星が爆発している。

この気持ちをどう処理すればいいのか、彼女の十八年の人生経験ではまったく足りなかった。


「あの、真さん……ありがと……でも、これ、どうしよう」

「恒星は遠いので、おそらく大丈夫です」

「おそらく……?」

「おそらくです」


リーンは笑った。

腹を抱えて、目の端に涙を浮かべて。

ドラゴンに腕を奪われ、惑星と恒星が消えるのを目の当たりにし、その腕を治癒され——そのすべてを経て、彼女はやっぱり笑っていた。

笑うしかなかった。


「……真さん、今、私のこと『リーン』って呼んだよね」

「……気のせいです」

「違う! 絶対呼んだ! それに『よかった』って! 二回も!」

「……緊急時でしたので」

「緊急時の真さんは呼び捨てで『よかった』を連発する! また一つデータが増えた!」


真はしばらく黙り込み、それから小さく息を吐いた。

その口元が、ほんの少しだけ緩んでいる。


「……あなたには敵いませんね」


そこへ、広場の入り口から二人の人影が全速力で駆けつけてきた。

レナスとカミナンデスである。

二人は倒壊した時計塔の瓦礫を飛び越え、破壊された市場の残骸を迂回し、息を切らせながらリーンの前に立った。


「リーン! 無事か!」

「お父様! お母様!」

「気配が……気配が一瞬、かすれて……それで……!」


レナスは言葉を継げず、ただリーンの体を抱きしめた。

カミナンデスもまた、娘の無事な姿を見て、戦場でさえ見せなかった安堵の表情を浮かべる。


「真、娘を守ってくれたのか」

「……守れたと言えるのか…結果助かっただけで、俺は何も…」


カミナンデスは真の目をまっすぐに見つめ、深く頷いた。

「俺」という言葉に、彼はすべてを理解したのだろう。

この男は今、勇者でもギルド職員でもなく、ただの夫としてそこに立っている。


夜空の彼方で恒星が爆発した余波が、かすかなオーロラとなって街の空を彩り始めた。

美しくも異様な光景に、街の人々が口を開けて空を見上げている。


レナスが、その光景を見上げながら言った。


「……あれは、恒星の爆発ね」

「はい。俺が加減を間違えました」

「……あなたを召喚した時に魔法も付与してたの忘れてたわ。」


真は当時を振り返ってみた。


「記憶にありませんね」


「あんたが勝手にまとめて要約したんでしょ!」


レナスは深く息を吸い込み、カミナンデスと顔を見合わせた。

二人は無言で頷き合い、居住まいを正す。


「カミナンデス。被害は」

「惑星二つと恒星一つ。幸い、居住可能な惑星ではなかった。だが、天文学者たちは大騒ぎだろうな」

「神界には私から説明する。あなたは近隣の星々への影響を」

「了解した。弁償は——」

「とりあえず、真のギルド報酬から天引きで」

「それで済む規模か?」

「済ませるのよ。それが親の役目」

「……そうか。それが、親か」

「ええ。親は子どもの尻拭いをするものなの。それがどれほど宇宙規模でも」


神界の使者が震えながら近づいてくる。


「……惑星が二つ消えたぞ」

「はい」

「いや『はい』じゃなくて! 恒星もだ!」

「はい」

「『つい』で恒星を吹き飛ばすなど……お前は一体……」


真は静かに使者の目を見た。


「ギルド職員です。最近委託から正式採用されました。」


魔界神が「俺の店の窓ガラスが割れたんだが、これも業務の範囲内で対応してくれるか」と割り込もうとしたが、レナスが「それはまた後日」と手で制した。


カミナンデスが、震える声でレナスに耳打ちする。


「レナス。俺は今、あの男に本気で喧嘩を売らなくてよかったと心の底から思っている」

「ええ、私もよ。だって、恒星よ、恒星」

「指先一つであれか……」

「娘の夫よ」

「……自慢の婿だ」


清掃部のリーダーが、落としたモップを拾い上げながら呟く。


「……恒星を一つ消した後で、残りの依頼の心配する人、初めて見た」

「それが真さんだ」

「俺たち、とんでもない人の下で床磨いてたんだな」

「今更だろ」


見習いが涙をぬぐいながら言い、副長は「俺たちのギルドは、どこまでいくんだろうな」と天を仰いだ。


レナスは、リーンの左腕にそっと触れた。


「痛くない?」

「うん。全然!平気だよ!」

「……まさか……治癒魔法まで使えるとは私も知らなかったわ」

「私の夫は神界とか魔界とか、そんなレベルじゃないよね…指先で恒星だよ!」

「最強で、最善で、最も休まない。それが大黒真という男ね」


リーンは笑い、それからレナスに抱きついた。


「お母様、私、やっぱり、あの人が好き」

「そうね」

「お母様も好き」

「ありがとう…私もよ」


真は、ゆっくりと足元の手帳を拾い上げた。

泥を払い、破れたページを丁寧に揃え、それからペンを取る。

インクが掠れて書けない。

懐から予備のインク壺を取り出し、静かにペン先を浸した。

その手は、かすかに震えている。


『新規能力確認。火属性魔法(白炎)——射程、宇宙空間まで到達可能。出力調整、緊急課題』

『高位治癒魔法——欠損部位の完全再生を確認』

『その他、未確認の能力が複数潜在している可能性あり。後日、段階的な検証を行う予定』


『特記事項:リーンさんの左腕、治癒。問題なし。本日の依頼、あと三件残っています』


『追伸:リーン。名前を呼び捨てにしてしまった。再発防止策、無し』


そこまで書いて、真はペンを置いた。

手帳を見つめる。

自分の字で書かれた「再発防止策」の文字を、彼は長い時間、じっと見つめていた。


「理屈ではどうにもならないこと、ありますよね」


手と背中には、今まで感じたことのない緊張が走っている。


「……出力調整が必要ですね。次回は——」


誰に言うでもなく呟き、真は立ち上がった。

その顔は、もういつもの無表情に戻っている。

ただ、手帳を閉じる指先だけが、ほんの少しだけ強く、ページを握りしめていた。


リーンはそんな真の顔をじっと見つめ、それから小さく笑った。

立ち上がり、自分の両腕を広げて、もう一度確認する。

動く。

痛くない。

当たり前のように、そこにある。


そして無意識に、自分のお腹に手を当てた。


(——大丈夫。この子も、無事だ)


「真さん、残りの依頼、片付けに行こっか」

「はい。では、次の依頼に向かいましょう」

「うん!」


二人は歩き出す。

瓦礫の山となった広場を抜け、粉塵舞う市場の跡を通り過ぎ、ギルドへと続く道を。


街はまだ混乱の最中だが、人々は少しずつ瓦礫を片付け始めている。

その中を、真とリーンはいつも通りに並んで歩いた。


夜空を見上げると、真が砕いた惑星の欠片が流星群となって流れ、恒星の超新星爆発の光がオーロラのように揺らめいている。

誰も見たことのない、異様で、どこか美しい光景だった

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