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社畜の郵便配達員は異世界でも休まない  作者: 太幽


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第二十八話「今日も働く、明日も働く」

第二十八話「今日も働く、明日も働く」


真の一日は、いつも通り四時半に始まる。


ギルドの鍵を開け、誰もいないフロアでモップを手に取る。


床板を滑るモップの先から、かすかに杉の匂いが立ち上った。モップの柄を持つ手に、いつもの力加減が戻っている。三日間の熱で失った筋力も、もう完全に回復していた。


床を磨き終えると、真はモップを壁に立てかけ、ほんの少しだけ息を整えた。


(初めてこの床を磨いた日、副長は俺を「勇者様」と呼んだ。今は「真さん」だ。リーンが初めて来た日、ギルドの空気は凍りついた。今は彼女の笑い声が聞こえる。床は変わらない。だが、この床の上を歩く者たちは変わった)


それから、カウンターの上の小ぶりなカップを指でなぞり、いつもの定位置に戻す。リーンが来る前に、もう一度だけ窓を開け放った。


窓を開け放てば、朝露に濡れた街の匂いが流れ込んでくる。焼きたてのパンの香り、湿った石畳、遠くの鍛冶屋から届くかすかな炭の匂い。それらが混ざり合った朝の空気を、真はいつものように大きく吸い込んだ。肩の力を抜き、まぶたを閉じる。その息が白くなることももうない。春の朝は、静かに、そして確かに深まっていた。


掲示板の依頼書を期限順に並べ替え、カウンターを布で拭き、観葉植物の葉に水をやる。一連の動作に無駄はなく、迷いもない。まるで機械のように正確で、しかし機械よりずっと優しい手つきで。


——と、ここまでは以前と変わらない。ただ一つだけ、変わったことがある。


「真さん、おはよう」


いつの間にかカウンターの前に立っていたリーンが、湯気を立てるカップを差し出した。副長が用意した小ぶりなカップと、いつもの真用のカップ。カップの縁から立ち上る湯気が、朝日を受けて金色に透けている。


彼女の髪はまだ少し寝ぐせが残っていて、あくびを噛み殺しながらも、真よりも早く起きて湯を沸かしたのだ。その寝ぐせが、朝の光でふわりと輝き、逆光を受けて銀色の輪郭を作っている。


「おはようございます、リーンさん」


「今日も四時半でしょ。私も少し早く来てみた」


「無理をされなくても」


「無理してるのは真さんの方。私はね、夫婦業も業務のうちだと思ってるから」


真はカップを受け取り、一口含む。熱い茶が喉を落ちていく感触が、いつもより少しだけ深く感じられた。リーンが用意してくれた茶は、自分で淹れるよりほんの少しだけ甘い気がする。いや、淹れ方はまったく同じだ。水の量も茶葉の分量も、真がいつもやっている通りのはず。それでも、違う。それはおそらく、誰かが自分のために淹れてくれたという事実が、味覚をほんの少しだけ狂わせているのだろう。


「どう?」


「おいしいです」


「よかった。真さんに『おいしい』って言われるの、なんか嬉しい」


リーンは自分のカップを両手で包み込み、湯気の向こうでそっと微笑んだ。かつてこのギルドで、自分はただ水をもらうだけの客だった。カップの持ち手を自分の方に向けてくれた真の手を、どれだけ見つめていたか。今、そのカップを自分が差し出す側になった。そのことが、言葉にできないほど嬉しかった。


リーンは自分のカップを両手で包み込み、真の隣に立った。窓から差し込む朝日が、二人の影を長く伸ばしていく。


副長が出勤してくる頃には、ギルドはすっかり開店準備が整っていた。


「おはようございます、副長」


「おはようございます。本日の依頼は——あれ、副長、今日は早いですね」


「真さんとリーンさんが早すぎるんだよ。俺の出番がなくなる」


副長は笑いながらカウンターに入り、小ぶりなカップにそっと触れた。リーンが毎日使うこのカップは、もうすっかりギルドの象徴になっている。副長の指がカップの縁をなぞるのは、もはや完全に癖だった。


「副長、今日の朝礼の議題は——」


「真さん、ちょっと待て。今日は俺から提案がある」


「副長から、ですか」


副長は居住まいを正し、真とリーンに向き直った。


「ギルドに、新しい看板を出そうと思う。『人間も魔族も、どなたでも歓迎』——そんな看板だ。今までは暗黙の了解でやってきたが、そろそろ明文化してもいい頃合いだろ」


リーンが目を輝かせる。


「それ、いいですね!」


「だろう。で、看板の文言は真さんに頼みたい」


「承知しました。三案ほど作成し、比較検討の上で決定しましょう」


「三案も出すのかよ」


見習いが寝ぐせを押さえながら顔を出し「副長、俺にも手伝わせてください」と声を上げる。


清掃隊のリーダーも「看板の取り付けは俺たちが」と名乗り出た。彼の手には、すでに工具の入った革袋が握られている。準備が早すぎるのも、真の影響だろうか。


ギルドの朝が、今日も賑やかに始まっていく。


午前の半ば、一通の依頼書が届いた。差出人は魔界神。内容は「新しく開業する店舗の内装工事、および販売員の研修」。ついでに「開店祝いの挨拶も頼みたい」とある。ついでに、と言いつつ、依頼書の一番下には小さく「真、お前の作った営業許可証が役に立った。礼を言う」と書き添えられていた。


真は依頼書を読み終えると、すぐに手帳にスケジュールを書き込んだ。


「魔界神、本当に商売始めたんだ」


「はい。先日の会議で『商売を始めたい』とおっしゃっていました」


「真さんがリスト作ったからかな」


「飯屋リストは別件です。今回は内装と研修ですので」


リーンは笑い、真の手を握る。


「私も一緒に行くね。魔界神さん、真さんに甘えすぎだし、私が監視しないと」


「監視、ですか」


「そう。真さんはすぐに業務を増やしすぎるから。今日の休憩は十五分以上取ること。いい?」


「……承知しました」


——もっとも、この「承知しました」は、これまでに何度も聞いてきた「承知しました」であり、そのたびに五分で切り上げられてきた実績がある。リーンは真の目をじっと見つめ、もう一言だけ付け加えた。


「破ったら、明日の朝のお茶はなし」


「……承知しました」


今度の返事は、ほんの少しだけ声が小さかった。


そこへ、レナスが控え室から降りてきた。手には一通の封書。神界への報告書だ。


「大黒、これ、預かってくれる?」


「神界への報告書ですね」


「ええ。今日で最後の報告書になるわ。これからは、ギルドの一員として、正式にここで働きたいの」


副長が目を丸くする。


「女神様が、うちで?」


「女神ではなく、レナスと呼ばれてほしいの。私はもう、一人の母で、一人の妻で、そしてギルドの職員よ」


「ギルドの職員……元女神様がうちの職員……」


副長はしばらく呆然としていたが、次第に笑みがこぼれてきた。カウンターの小ぶりなカップを見つめ、それからレナスに向き直る。


「レナスさん、うちは誰かさんのせいで…その、ブラック企業に近いかもしれませんが、それでもいいですか」


「ええ、大歓迎よ」


「やっぱりレナスさんも大概だな!」


ギルド中に笑い声が響いた。


レナスが正式に加わったギルドの朝礼は、これまでより少しだけ賑やかになった。副長が仕切り、真が議題を読み上げ、リーンが休憩時間のチェックを担当し、レナスが議事録を取る。見習いがお茶を淹れ、清掃隊が床を磨く。誰もが自分の役割を知っていて、誰もが互いの役割を尊重している。それは、真が静かに、しかし確実にこのギルドに根付かせた「業務」の形だった。


夕暮れが近づき、ギルドの窓から差し込む光が茜色に変わる頃。


真はカウンターで今日の報告書を清書していた。ペン先が紙を走る音だけが、静かなギルドに響く。その音は、夜間窓口で一人、伝票を整理していた時の音と同じで、少しだけ違う。今は隣にリーンがいる。


『本日、新看板の文言案を三案提出。魔界神の新店舗内装工事の下見を実施。休憩時間は十五分を遵守。レナス氏のギルド正式加入が決定』


『特記事項:リーンさんが朝、私のために茶を淹れてくれた。以上の報告を終わります』


そこへリーンが近づき、報告書を覗き込んだ。最後の一行を見て、小さく笑う。


「真さん、それ報告書に書くこと?」


「重要な特記事項です」


「……そういうとこだよ」


リーンは真の手からペンをそっと取り上げ、代わりに自分の手を握った。彼女の手は温かく、真の手は少しだけ冷たい。ペンだこが固くなった彼の指を、彼女の細い指が一本一本、優しくなぞる。


リーンがふと真の顔をじっと見つめた。その目は、坑道で瓦礫を掘り起こしていた時と同じくらい真剣で、でも今はどこか悪戯っぽい光を宿している。


「ねえ、真さん」


「はい」


「さっき、レナス様に『私のことはいいから』って言われた時、なんて答えたか覚えてる?」


真は少しだけ考えてから答えた。


「『いえ、これも業務です。新郎新婦の補佐はギルドの重要な依頼ですので』と」


「そう。それでね、婚姻式の後、私が『ありがとう』って言った時は?」


「『業務ですので』と答えました」


「うん。じゃあ、これは?」


リーンは真の手をぎゅっと握り、言った。


「真さん、大好き」


「……それは」


真は一瞬、言葉に詰まった。彼の指がリーンの手の中でかすかに動き、それから静かに握り返す。いつもの「業務ですので」が出てこない。代わりに、何か別の言葉を探している。リーンはその瞬間を見逃さなかった。


「真さん、今、『私』じゃなくて『俺』で答えそうになったでしょ」


「……気のせいです」


「違う!絶対そう!私、わかるんだから!」


リーンが身を乗り出す。その目は、珍しい魔獣を発見した時よりも輝いていた。


「真さんはね、仕事の時は『私』って言うの。でもね、本当に嬉しい時とか、びっくりした時とか、たまに『俺』が出るの!前に野営した時、『俺は客観的に評価してるだけだけど』って言ったの、私、ちゃんと覚えてるんだから!あと、お義父様との宴の時も『俺』って言ってたし!」


「……よく覚えてますね」


「当たり前でしょ!真さんの『俺』はレアなんだから!観察と記録は基本でしょ!」


リーンは真の両手をぎゅっと握りしめ、興奮気味に続けた。


「つまり!真さんは仕事モードの時は『私』で、プライベートモードの時は『俺』なんだよ!今、確かにそのスイッチが切り替わった!」


「……リーンさん、まるで研究者ですね」


「そう!私は真さん研究者!兼、妻!兼、世界で一番大好きな人!」


真はしばらく黙り込み、それから小さく息を吐いた。その口元が、ほんの少しだけ緩んでいる。


「……あなたには敵いませんね」


「あ!今それ!『あなた』って言った!それもレア!私が真さんのプライベートを引き出した証拠!副長、聞きましたか!」


カウンターの向こうから副長の声が飛んでくる。


「聞いてたよ!ついでに言うと、真さんが『あなたには敵いませんね』って言ったの、俺、初めて聞いた!」


「副長まで聞いてたんですか」


「当たり前だ!こっちは業務中だからな!」


「私も業務中です!」


「真さん、今それ『私』だよ!仕事モードに戻った!」


リーンが指を差して叫ぶ。その声は、新しい看板を取り付け終えた清掃隊の笑い声と混ざり合って、ギルドの天井に吸い込まれていった。


外では、新しい看板を取り付ける清掃隊の声が聞こえる。『人間も魔族も、どなたでも歓迎』。副長が指示を出し、見習いが脚立を支え、レナスがその様子を微笑みながら見守っている。魔界神が「ついでに俺の店の看板も頼む」と割り込んで、清掃隊のリーダーが「それは別料金です」と笑顔で返していた。その声は、かつて彼らが追い詰めていたリーンの耳にも、今はただただ心地よく届いている。


「ねえ、真さん」


「はい」


「私より長生きしてね」


「…魔族の寿命はどれくらいですか?」


「人間の数え方だと七百年かな」


「…承知しました…これは…お母様に相談してみます。」


「……真さん、一つだけわがまま言っていい?」


「何でしょう」


「たまには、十分じゃなくて十五分の休憩を、一緒に取ってほしい」


真は少しだけ間を置き、それから言った。


「承知しました。休憩時間の延長を検討します」


「……検討なんだ」


ギロっと睨め付けるリーンの目は、唯我独尊思考の真もある意味の恐怖を覚えた。その目は、坑道で瓦礫を掘り起こしていた時の彼女の目のように強く、それでいて今はどこか優しかった。


「い…いえ、確定で」


「合格!」


リーンは笑い、真の肩に頭を預けた。彼女の髪からは、かすかに柑橘の香りがする。いつの間にか、彼女の髪の香りはギルドの朝の空気の一部になっていた。


ギルドの外では、清掃隊が取り付けた新しい看板が、夕日に照らされて金色に輝いていた。


夕日が沈み、街に夜の帳が下りる頃、魔界神の新店舗の前に一つの灯りがともった。


店先には真が書いた営業許可証が飾られ、ショーウィンドウには魔界神が人間の職人と共同で作り上げた商品が並んでいる。看板は清掃隊が誇らしげに取り付けたものだ。


開店初日、店には人間と魔族が入り混ざって訪れていた。酒場で神界の使者と杯を交わしていた常連客もいれば、魔王城から視察に来た魔族の役人もいる。


店の前を通りかかった真が足を止める。魔界神が商いの手を止めて振り返り、二人はしばし無言で見つめ合った。かつてこの街で、神と魔が手を組んで真に挑み、指一本で退けられた。その同じ場所に、今は店が建ち、灯りがともり、値段交渉の声が聞こえる。魔界神は何も言わず、ただ小さく笑って、商いに戻った。真もまた、無言でその場を後にした。


魔界神は小さくなった翼を嬉しそうに震わせながら、人間の客に商品の説明をしていた。翼の折れた部分はもうすっかり癒え、新しい羽毛がかすかに光っている。


「これはな、魔界の鉱石で作った照明だ。暗闇でもほのかに光る」


「へえ、きれいだな。いくらだい?」


値段交渉が始まり、魔族の商人と人間の客が笑いながら言葉を交わす。その隣では、神界の使者が魔界神の店の会計簿をチェックしていた。神界の使者が魔界神の会計簿をチェックする——数ヶ月前なら誰も想像しなかった光景だ。


「魔界神、この仕入れ価格は高すぎないか」


「うるさい、これは品質にこだわった結果だ」


「品質と価格のバランスが商売の基本だろう」


「それを言うなら、お前のところの光の槍も大概高いだろうが」


隣では、清掃隊が店の前の歩道を掃き清めている。新しい街の、新しい日常が、確かにここにあった。


壁に耳を当てると、かすかに石のきしむ音が聞こえる。この街が呼吸している音だ。何世紀もかけて積み上げられた石の声。その上に、今、新しい営みが重なっていく。


夜。控え室の窓辺で、レナスは一通の封書を認め終えたところだった。


神界への、本当に最後の報告書。


ペンを取る指が、ほんの少しだけ震えた。これまで何度も「特記事項なし」と書いては神界を欺き、「特記事項あり」と書いては自分の意志を貫いてきた。そのすべてが、この一枚のためにあったのかもしれない。嘘から始まった報告書が、今、真実で終わる。


『特記事項あり。本日をもって、私は神界の女神としての任を解かれました。これよりはギルド職員として、一人の母として、一人の妻として、この世界を見守ります。私が守りたいものは、あなたたちが思うよりずっと広く、そしてすぐ隣にありました』


彼女は封蝋を押し、立ち上がった。封蝋が固まるまでの数秒間、彼女はただじっと窓の外を見つめていた。これが最後の報告書だ。もう嘘は一つもない。


窓の外では、街の灯りが一つまた一つとともり、その中には魔界神の店の明かりも混ざっている。ギルドのフロアからは、片付けをする副長と見習いの声が聞こえる。真は備品庫で明日の準備をし、リーンはカップを洗っている。いつもと変わらない夜の音。


街のどこかで、魔界神の店の灯りが一つ、静かに揺れている。その灯りの下では、人間と魔族が同じ卓を囲み、明日の商いの話をしていることだろう。神でも魔でもない、ただの営みが、この街には確かに根付いていた。


彼女は深く息を吸い、静かに微笑んだ。その息は、もう白くはならなかった。春はすぐそこまで来ている。


「今日も、特記事項あり。明日も、きっと」


真は手帳を閉じ、備品庫のランタンの灯りを静かに消した。誰もいない在庫庫で、彼はもう一度だけ手帳を開く。業務記録の最後のページ——そこには、報告書には書けなかった言葉が、いつもより少しだけ乱れた字で走り書きされている。


『リーンに「大好き」と言われた。俺はうまく答えられなかった。でも、彼女は笑っていた。だから、それでいいのだと思う。これは業務記録には書けない。だからここに書く』


真はそのページをそっと閉じ、手帳を胸にしまった。明日も四時半に起きる。床を磨き、依頼書を並べ替え、リーンのために茶を淹れる。変わらない一日が始まる。でも、その「変わらない」が、かつての自分とは全く違うものであることを、彼はもう知っていた。

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