最終話「明日も仕事がある」
最終話「明日も仕事がある」
街の復興は、驚くほどの速さで進んでいた。
ドラゴンに破壊された時計塔の跡地には、新しい鐘楼の骨組みが立ち上がり、市場には再び露店が並び始めている。
神界と魔界の共同事業として始まった復興計画は、今や街の日常に溶け込んでいた。
石材を運ぶ魔族の荷馬車の横を、人間の職人が設計図を広げて歩いていく。
神界の使者が資材の検品を行い、魔界神が帳簿をつける。
ついこの間まで敵同士だった者たちが、今は同じ現場で汗を流している。
真は、いつも通り四時半にギルドに到着した。
モップを手に取り、床を磨き、依頼書を並べ替え、観葉植物の葉に水をやる。
窓を開け放てば、朝露に濡れた街の匂いが流れ込んでくる。
焼きたてのパンの香り、湿った石畳、遠くの鍛冶屋から届くかすかな炭の匂い。
何も変わらない。
惑星が二つ消え、恒星が一つ寿命を早めても、彼はモップを握る。
床を磨きながら、真はふとモップの柄を握る手を見つめた。初めてこのギルドの床を磨いた日、この手にはマメがあった。今はもう、マメはタコになり、タコは皮膚の一部になっている。副長が「お前の手は配達の形そのものだ」と言ったのは、ずいぶん昔のことだ。
ただ——手帳の最後のページには、昨夜書き足したばかりの文字が並んでいた。
『自己分析:感情と魔力の連動について——リーンが傷ついた瞬間、魔力が無意識に発動。これは業務上の制御対象として認識すべき事象である』
『結論:リーンの安全が、私の業務の最優先事項であることを再確認。以上』
書き終えたページを閉じ、真はもう一ページだけめくった。誰にも見せたことのない、最後の最後のページ。そこには、報告書には決して書かない、ただのメモがある。
『俺は、この世界に来て初めて、誰かを守りたいと思った』
『これは、業務ではない。俺の、個人的な祈りだ』
「真さん、おはよう」
いつの間にかカウンターの前に立っていたリーンが、湯気を立てるカップを差し出した。
副長が用意した小ぶりなカップと、いつもの真用のカップ。
彼女の髪は今日も少しだけ寝ぐせが残っていて、あくびを噛み殺しながらも、真より早く起きて湯を沸かしたのだ。
「おはようございます、リーンさん。今日も早いですね」
リーンはカップを差し出したまま、真の顔をじっと見つめた。
「真さん、髪、伸びた?」
「……そうでしょうか」
「伸びてる。もみあげが耳にかかってる。前はもっと短かったよね」
「この世界に来てから、一度も切っていません」
「それ、いつから?」
「最初からです」
リーンは目を丸くし、それから声を上げて笑った。
「どれだけ働いてるの! 髪を切る暇もないなんて!」
「床屋を探す時間がなかっただけです。業務に支障は」
「あるよ! 私が切ってあげる!」
「……リーンさんが、ですか」
「うん。任せて。ギルドの在庫庫に切れ味の良い刃物があったはず——」
「あれは魔獣の爪を切るためのものです」
「それで切ればいいよ。夫の髪を切るのに、専用の鋏なんていらない」
真がわずかに眉をひそめたのを見て、リーンは声を上げて笑った。
「……冗談だよ。でも真さんほどじゃないかな、無茶してるのは」
「無茶はしていません」
「四時間睡眠でよく言うよ。ちゃんと寝た?」
「……四時間です」
「……まあ、真さんにしては上出来か」
リーンは自分のカップを両手で包み込み、真の隣に立った。
窓から差し込む朝日が、二人の影を長く伸ばしていく。
「ねえ、真さん。あの惑星二つ、どうなったんだろうね」
「宇宙の彼方です。現状、影響を確認する手段はありません」
「そっか。恒星も、爆発しちゃったし」
「……はい。加減を間違えました」
「うん。でも、いいんだよ」
リーンは真の手をぎゅっと握った。
「だって、私の腕が元に戻った。それだけで十分だから」
「……そうですね」
「真さんが言いたかったんでしょ、それ」
「……はい」
リーンは少しだけ俯き、真の手を握る力を強くした。
彼女の手は温かく、真の手は少しだけ冷たい。
その温度差が、互いの存在を確かめ合うようだった。
副長が出勤してくる頃には、ギルドはすっかり開店準備が整っていた。
「おはようございます、副長」
「おはようございます。本日の依頼は——って、真さん、今日は一段と早いな」
「いつも通りです」
「そうかよ。で、今日の朝礼の議題は」
「本日の依頼の振り分けと、復興支援の進捗確認です。所要時間は五分」
「よし、始めてくれ」
見習いが寝ぐせを押さえながら駆け込んでくる。
清掃隊のリーダーもモップを手に参加した。
新しいギルドの朝礼は、いつの間にかこんな顔ぶれになっている。
朝礼が終わり、それぞれの持ち場に散っていく中、副長が真を呼び止めた。
「真さん、ちょっと」
「はい」
「あのさ、俺、最近思うんだよ。あんたが来てから、このギルドはずいぶん変わった。いや、ギルドだけじゃない。街も、世界も」
「私は業務をしているだけです」
「わかってる。でもな、あんたのその『業務』が、どれだけのものを変えたか——あんたは多分、気づいてないんだろうな」
「評価は他者がするものです。私は、今日の業務をこなすだけです」
副長は笑い、それから真の肩をぽんと叩いた。
「そうだな。じゃあ、俺も今日の業務をこなすか」
「はい。それがよろしいかと」
副長はカウンターに戻り、小ぶりなカップにそっと触れた。
リーンが毎日使うこのカップは、もうすっかりギルドの象徴になっている。
その表面には、使い込まれた陶器特有の細かな貫入が浮かび、窓からの朝日を受けてかすかに光っていた。
見習いが声をかける。
「副長、その初代のカップ、捨てないんですね」
副長は棚の上のカップを振り返った。
「捨てられるかよ。リーンさんが最初に使ってたカップだぞ」
「でも、欠けてますよ。縁のとこ」
「欠けたからこそだ。あれを見るたびに思い出すんだ。最初の頃、俺がどんなに緊張してたかをな」
「水を出す手が震えてたってやつっすか」
「そうだ。今じゃ考えられねえだろ」
「そうっすね」
「だからこれは、お前が一人前になったらやる」
「……え?」
「まだ早いか」
「いや、その……俺、頑張ります」
見習いはそれ以上何も言わず、棚の上の初代カップをじっと見つめた。
欠けた縁が、窓からの朝日を受けてかすかに輝いていた。
午前の半ば、一通の依頼書が届いた。
差出人は魔界神。
内容は「新店舗の売上が好調につき、二号店を出したい。ついては内装工事と販売員の追加研修を依頼したい」というものだった。
真は依頼書を読み終えると、すぐに手帳にスケジュールを書き込んだ。
「魔界神、二号店ですか。商売が軌道に乗ったようですね」
「真さんが全部教えたからでしょ」
「私は基本的な経営手法をリスト化して渡しただけです」
「それで二号店出せると思ってる魔界神も大概だけど、それを可能にした真さんも相当だよ」
そこへ、レナスが控え室から降りてきた。
手には一通の封書。
神界への報告書だが、以前のような定期報告ではない。
彼女が個人的に書いた、近況を知らせる手紙だった。
「大黒、これ、預かってくれる?」
「神界へのお手紙ですね」
「ええ。もう報告書じゃないの。ただの近況報告。元気でやってますって」
「承知しました。配達先は神界ですね。ちょうど今日のルートに組み込めます」
「大黒」とレナスは少しだけ間を置き、それから真の目をまっすぐに見つめた。
「私はあなたに感謝してる。あなたが召喚に応じてくれなかったら、私は今でも『敵を討て』とだけ言う女神だった。リーンを娘だと思えることも、カミナンデスと共に生きることも、なかった」
真は少しだけ考えてから答えた。
「私は、与えられた業務を遂行しただけです。結果として、レナス様がご自身の道を選ばれた。それはあなたの意志です」
「大黒……ありがとう」
「いえ。では、配達に行ってまいります」
「真さん、私も行く!」とリーンが声を上げる。
「もちろんです」
「今日の休憩は十五分以上だからね」
「承知しました」
「本当にわかってる?」
「……検討します」
「検討じゃない!」
二人のやりとりを見送りながら、レナスは静かに微笑んだ。
ギルドの窓から差し込む朝日が、彼女の髪を金色に染めている。
午後、一通の封書がギルドに届いた。
差出人はカミナンデス。
内容は「今日の夜、魔王城でささやかな宴を開く。ついては、ギルドの皆にも来てほしい」というものだった。
副長が封書を読み上げると、見習いが目を輝かせる。
「宴っすか! 行きたいっす!」
「清掃隊も呼んでやろう。いつも頑張ってるしな」
「副長! 俺、何着て行けばいいっすか!」
「普段着でいいだろ」
「そうですけど!」
副長は笑いながら、掲示板に宴の案内を貼り出した。
画鋲を刺す手は、もう震えていない。
魔王城の広間は、温かな灯りに包まれていた。
壁には無数の松明が灯り、長机には料理が並んでいる。
焼きたての獣肉、色とりどりの野草の和え物、湯気を立てるスープ。
見たこともない果実を盛った大皿が机の中央に置かれ、甘露のような甘い香りが漂っていた。
清掃隊は緊張した面持ちで席に着き、見習いはきょろきょろと広間を見渡している。
副長はカミナンデスと杯を交わし、魔界神は商売の話を神界の使者に持ちかけていた。
カミナンデスが杯を掲げて宣言する。
「今日は集まってくれて感謝する。大した宴ではないが、楽しんでいってくれ」
「大したことないって言いながら、料理めっちゃ豪華っすよ!」と見習いが叫び、副長が「お前、そういうことは言うな」と小突く。
カミナンデスは笑い、レナスを見た。
「レナス、お前からも一言」
「ええ。私からは——ありがとう。あなたたちと出会えて、本当によかった」
リーンは真の手を握ったまま、その言葉を聞いていた。
彼女の目は少しだけ潤んでいる。
「真さん」
「はい」
「私、父上とお母様が隣に立ってるのを見て、実は泣きそうだった」
「そうですか」
「でも、泣かなかった。なぜだかわかる?」
「わかりません」
「真さんの手が、あったからだよ」
真は少しだけ間を置き、それから静かに言った。
「……それは、光栄です」
「光栄、かあ」とリーンは声を上げて笑う。
「真さん、そういうの、業務?」
「いえ。個人的です」
「合格!」
リーンが清掃部の様子を見に行っている間、真は一人、手帳を開いていた。
ページをめくる指が、ふと止まる。
そこには、古いインクで書かれた文字。
『特記事項:リーンさん、本日も不在。魔王城の行事につき事前連絡あり。問題なし』
その下に、二重線で消された文字がうっすらと残っている。
「リー」の二文字。
真はその文字を指でそっとなぞり、それから静かにページをめくった。
消した文字が、今はもう消えていない。
手帳の最後のページには、つい昨夜書いたばかりの文字。
『リーン。名前を呼び捨てにしたのは、業務ではない。個人的な感情だ』
広間の向こうでは、清掃隊のリーダーがまた泣いている。
副長と見習いが杯を掲げ、魔界神が商売の話に夢中になり、カミナンデスとレナスが並んで立っている。
変わらない光景。
でも、それが何よりの平和だった。
宴が終わりに近づく頃、真は一人で広間の窓辺に立っていた。
手には手帳。
今日の業務記録をつけ終えたところだ。
ペンを置き、窓の外を見上げる。
夜空には満天の星。
そのどこかに、自分が粉砕した惑星の欠片が漂っているのかもしれない。
かつて惑星だったものは、今は無数の星屑となって宇宙を照らしている。
彼はしばらくその星々を見つめ、それから手帳を開き、最後のページに静かにペンを走らせた。
『本日の業務、全て完了。復興支援、配達、魔界神の二号店研修計画立案、魔王城での宴出席』
『特記事項:リーンさんの笑顔を確認。問題なし。明日も通常営業を予定』
『追伸——本日も、リーンさんが茶を淹れてくれた。以上』
背後から、リーンが近づいてくる気配がした。
「真さん、何書いてるの?」
「今日の業務記録です」
「また特記事項に私のこと書いた?」
「……なぜわかったんですか」
「真さんのことなら、なんでもわかるよ」
リーンは真の手をそっと握り、窓の外を見上げた。
「ねえ、真さん。明日も、こんな感じで働こうね」
「もちろんです」
「明後日も」
「はい」
「その先も、ずっと」
「承知しました。では、そろそろ帰りましょう。明朝は四時半ですので」
「四時半って、真さん、今日も四時半に起きるつもり?」
「もちろんです」
「じゃあ私も四時半に起きる。だって、真さんの髪、切らなきゃ」
「……本気ですか」
「本気も本気。夫の髪を切るのも、妻の業務でしょ」
真は手帳を開き、明朝の予定欄に静かにペンを走らせた。
リーンが横から覗き込む。
そこには、こう書かれている。
『明朝四時半——起床、清掃、リーンさんと夫婦の時間。散髪。所要時間は未定』
「……未定なんだ」
「はい。どれだけ時間がかかるか見当がつかないので」
「真さん、そういうのはね、『未定』でいいの。むしろ『未定』が正解」
「そういうものですか」
「そういうものなの」
広間の窓辺で、カミナンデスとレナスが並んで星を見上げていた。
レナスの手には、空の杯。
「カミナンデス」
「なんだ」
「あの日、あなたは言ったわ。『正義ほど恐ろしいものはない』と」
「……言ったな」
「今も、そう思う?」
カミナンデスはしばらく黙り込み、それから静かに杯を置いた。
「思う。だが——」
「だが?」
「正義を信じない者にも、守れるものはある。そう教えたのは、あの男だ」
「……ええ」
「だから私は、これからも魔王として立つ。だが、それはもう戦うためじゃない。守るために、だ」
レナスは答えず、そっとカミナンデスの手に自分の手を重ねた。
「私はもう、神じゃないわ」
「知っている」
「だから言うけど——あなたはいい王になるわ」
「……お前に言われると、妙に嬉しいな」
リーンは笑い、真の肩に頭を預けた。
彼女の髪からは、かすかに柑橘の香りがする。
窓の外では、満天の星が二人を見下ろしていた。
真が粉砕した惑星の欠片たちは、今、新しい星座となって夜空を巡っている。
明日も、仕事がある。
変わらない朝が来る。
でも、その変わらない朝に「夫婦の時間」が加わる。
それが、彼がこれから築いていく、新しい日常だった。
ギルドの灯りが、今日も静かに揺れている。
世界は今日も、静かに回っている。
暴力ではなく、働くことで平和を築き、敵を愛することで神ですら変わった。
その中心にいた男は、今日もただの「働く人」として、日常を生きている。
自分が世界を変えたことに、最後まで気づかないまま。
明日も、明後日も、その先もずっと。
彼は休まない。




