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社畜の郵便配達員は異世界でも休まない  作者: 太幽


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第二十六話「共同復興計画、そして最初の公式業務」



第二十六話「共同復興計画、そして最初の公式業務」


神界と魔界の連名による依頼書がギルドに届いたのは、あの広場の戦いから五日後の朝だった。


真はいつも通り四時半に出社し、床を磨き終えたところでその封書を見つけ、モップを壁に立てかけ、封筒を手に取る。


封蝋には神界の紋章と魔界の印が並んで押され、紙は両者の力を示すかのように重く、それでいて不思議な温かみがあった。


差出人は神界使者と魔界神の連名。


担当者指名は『大黒真』。


窓から差し込む朝日が、封蝋の凹凸を浮かび上がらせる。


真は指先でその表面をなぞり、神界の紋章と魔界の印がぴったりと並んでいるのを確認してから、静かに封を切った。


インクの匂いがほのかに漂い、紙を広げるたびに、かすかに蜜のような甘い香りが立ち上る。


神界と魔界の筆致はまったく異なり、一方は直線的で硬く、もう一方は曲線的で流れるような字だったが、文面から伝わる意思は驚くほど揃っていた。


『共に、新しい世界を築きたい』


真は依頼書を手帳に書き写しながら、すでに頭の中でルートと所要時間を計算していた。


旧倉庫街までは徒歩で二十分。


会議時間は二時間を見込み、準備を含めて三時間の業務。


ペン先が紙を走る音だけが、誰もいないギルドに響く。


そこへ副長が出勤してくる。


外套の肩には朝露がしっとりと滲み、いつものようにカウンターの小ぶりなカップを確認するのが日課だった。


「真さん、今日は一段と早いな」


「共同復興計画の依頼書が届いていました。神界と魔界の連名です」


「は?」


副長が真の手から依頼書を受け取り、封蝋をまじまじと見つめる。


彼の太い指が、神界の紋章と魔界の印を交互に何度もなぞった。


やがて封蝋の凹凸を指先で確かめ終えると、深いため息とともに依頼書を真に返した。


その目は、もはや驚きを超えて、遠くを見つめるような諦めの色を帯びている。


「とうとう神様と魔界の神様の両方から指名かよ……あんた、どこまでいくんだ」


「いえ、業務の範囲内です」


「業務の範囲内で世界を平和にすんな!」


副長は天を仰ぎ、それからカウンターの小ぶりなカップにそっと触れた。


リーンがいつも両手で包み込む、あのカップだ。


「これも、そのうち記念碑にでもなるのかね」


「何のですか」


「平和の」


副長はカップを手に取り、指で縁をなぞった。


(あの日、魔族の姫がギルドに来たと聞いて、俺は正直どう接していいかわからなかった。水を出す手が震えて、『魔族に水を出すなんて正気か』って自分でも思った。でも、真さんはいつも通り『いらっしゃいませ』って言って、カップの持ち手を彼女の方に向けて……)


副長はそこで顔を上げ、カウンターの向こうで忙しく動く真の姿を見つめた。


「……俺も、ずいぶん遠くまで来たもんだ」


「副長?なんか言いました?」


「なんでもない。仕事しろ」


見習いが寝ぐせを手で押さえながら顔を出す。


「副長、今日もリーンさん来ますかね」


「来るだろ。ていうか、もう来てる」


「おっはようございまーす!」


ギルドの扉を勢いよく開けて入ってきたのは、リーンだった。


手には湯気を立てるカップが二つ。


副長が用意した小ぶりなカップと、いつもの真用のカップ。


深紅に近い黒髪は今日も丁寧に梳かれ、耳元でほんの少し跳ねている。


彼女が歩くたび、かすかに柑橘の香りが漂った。


「真さん、これ。今日は長丁場になりそうだから」


「ありがとうございます。ちょうど依頼が入ったところです」


「依頼?こんな朝早くに?」


「はい。神界と魔界の共同事業です。私が担当者に指名されています」


リーンは目を輝かせ、カップをカウンターに置いた。


陶器が触れ合う小さな音が、静かなギルドに澄んで響く。


「私も行く!パートナーだもんね」


「もちろんです。では、朝礼後の出発とします」


「朝礼の議題、今日は何?」


「共同復興計画の概要説明、および現地での役割分担について。所要時間は五分です」


「五分!?共同復興計画を五分で説明するの!?」


「要点だけなら十分です」


「真さんの中では十分でも、他の人には短すぎるの!ゆっくり喋って!せめて七分!」


「この夫婦は…はぁ」


二人のやりとりを聞きながら、副長が掲示板に新しい依頼書を貼る。


画鋲を刺す手が、かすかに震えていた。


「共同復興計画、か。俺たちのギルドも、ずいぶん遠くまで来たもんだ」


ギルドを出る前に、リーンは自分のカップを手に取り、最後の一口を飲み干した。


冷めかけた茶が喉を落ちていく感触を、彼女はこの数ヶ月ですっかり覚えてしまっている。


「そういえば、私がここに来たばかりの頃、副長がすごく緊張してて」


「そうだったな」


「水を出す手が震えてて、見習い君は『角って重くないんですか』って」


「あったあった」


見習いが懐かしそうに笑う。


「今はもう、リーンさんがいないとギルドが静かすぎて困るっすよ」


「大げさだなあ」


「大げさじゃないっすよ。副長だって、リーンさんが来るまではあんなにカップにこだわる人じゃなかったし」


「おい、余計なこと言うな」


副長が慌てて見習いの頭をはたく。


リーンは声を上げて笑い、真はその様子をカウンター越しに静かに見つめていた。


窓から差し込む朝日が、四人の姿を金色に縁取っている。


旧倉庫街は、リーンが誘拐されたあの場所だった。


煤と錆びた鉄の匂いはもう薄れ、代わりに新しい木材と石切りの粉の香りが漂っている。


建物の壁には修復のための木枠が組まれ、足元には真新しい工具が並んでいた。


かつて傭兵たちがリーンを縛りつけた柱も、今はきれいに磨き上げられ、掲示板に生まれ変わっている。


広場だった場所には長机が並べられ、神界の使者の男女と魔界神がすでに着席していた。


翼をすべて折られた魔界神は、今は人の背丈ほどに縮み、翼の折れ目を丁寧に畳んで椅子に収まっている。


どうやらこの五日間で、街の暮らしにも少し慣れたらしい。


その手には、ギルドで見習いが出したコーヒーもどきのカップが握られていた。


湯気を立てるそれを、彼はやけに慎重な手つきで口元に運んでいる。


「よく来たな、ギルド職員」


「本日はご依頼ありがとうございます。では、議題を確認します」


真は手帳を開き、あらかじめ作成した議事次第を読み上げる。


「一、旧倉庫街の再開発計画。二、神魔共同の交易ルート確立。三、今後の紛争解決手続きの制定。以上三件となります」


神界の使者が苦笑する。


「相変わらず手際がいいな。我々が考えるより先に議題が整理されている」


「事前準備は業務の基本ですので」


清掃隊のリーダーが恐る恐る近づいてくる。


手にはモップとバケツ。


新しい革の手袋には、ギルドの清掃隊としての印が焼き付けられていた。


「あの、勇者様。俺たちも何か手伝えませんか」


「では、まず床の清掃を。会議は綺麗な場所で行うべきです」


「了解っす!」


清掃隊は一斉に動き出した。


彼らがモップをかけるたびに、古い石畳が本来の色を取り戻していく。


モップが床を滑る規則正しい音が、会議の静かなBGMのように響き始めた。


かつて傭兵だった男たちが、今は誇りを持って床を磨いている。


その姿を見ていた魔界神が、低く呟いた。


「彼らは確か、以前あなたと敵対していた傭兵たちでは」


「はい。今はギルドの清掃係です」


「敵だった者を、ここまで信頼できるのか」


「仕事ぶりは保証します。彼らはこのギルドで最も優秀な清掃隊です」


その言葉を背中で聞きながら、リーダーは無言で床を磨き続けた。


バケツの水が揺れる小さな音だけが、彼の耳に届いている。


ただ、その目は少しだけ潤んでいた。


議題が一つ消化されるたびに、机の上には新しい書類が積み上げられていく。


会議が進むにつれて、窓の外の街の喧騒も少しずつ柔らかくなっていく。


朝方まで聞こえていた鍛冶屋の金槌の音が昼前には収まり、代わりに市場の笑い声や、子どものはしゃぐ声が風に乗って届くようになった。


窓から差し込む陽の光も、最初は机の半分を照らすだけだったのが、いつの間にか部屋全体を金色に染めている。


机の上のコーヒーもどきのカップから立ち上る湯気が、朝は勢いよく揺れていたのに、今はゆっくりと、静かに漂っている。


再開発計画では、真が作成した図面がそのまま公式な建設計画として採用された。


壁の補修箇所には小さな付箋が貼られ、通路の幅や荷物の動線まで、彼の走り書きがびっしりと書き込まれている。


その紙を手に取って隅々まで眺めていた神界の使者が、感心したように息を漏らした。


「この図面、誰が書いた」


「私です。昨夜のうちに。現地の下見は以前に済ませてありますので」


「下見?ここに来たのは誘拐事件の時だけだろう」


「はい。その際に、倉庫の構造と周辺の地図を記録しました」


「戦闘中にそんなことを……」


「戦闘は一分足らずで終わりましたので、残りの時間で」


神界の使者は天を仰ぎ、持っていた羽根ペンを机に置いた。


「もういい。何も言うまい。あなたに常識を求めるのが間違いだった」


魔界神が身を乗り出し、太い指で図面の一点をつついた。


「この交易ルート、魔族の領土を通るが問題はないのか」


「事前に魔王の許可を得ています。ついでに、ルート上の安全確認も」


「いつだ」


「昨夜、魔王城まで走って」


「走って……どれだけの距離だと思ってる」


「往復で三時間。十分です」


魔界神は杯を置き、大きなため息をついた。


だがその口元は、どう見ても笑っていた。


議題が二つ消化された頃、部屋の空気はもう完全に柔らかくなっていた。


朝はあれほどピンと張りつめていた緊張感が、今はどこにもない。


清掃隊のモップの音だけが、相変わらず規則正しく部屋の隅で響いている。


いつの間にか、魔界神のコーヒーもどきのカップにはお代わりが注がれ、神界の使者の前にはリーンが差し入れた茶菓子が置かれていた。


魔界神が口を開いた。


「ギルド職員よ、一つ聞きたい」


「はい」


「お前はなぜ、これほどまでに敵味方なく働けるのだ。神も魔も人間も、お前にとっては同じなのか」


真は少しだけ考えてから答えた。


指先でペンをくるりと回し、机の上に静かに置く。


「同じではありません。ただ、区別する理由がないだけです」


「区別する理由がない?」


「はい。前職では、配達先にどんな人がいるかは考えませんでした。雨の日も雪の日も、相手が誰であれ関係なく。荷物を待っている人がいる。それを届けるのが自分の役目。それだけでした。ここでも、同じです」


神界の使者の男が、手元の書類をめくる手を止めて言った。


「ギルド職員、一つだけ聞かせてくれ」


「はい」


「私たちは、つい五日前までお前を拘束しようとしていた。神界の命令で、武力をもって。それなのに、なぜこうして同じ机につける」


真は手帳を開いたまま、使者の目を見た。


「あなたがたは、命令に従っていただけです。私はその命令を受け入れなかった。それだけの違いです」


「……それだけ、か」


「はい。それだけです」


使者の男はしばらく黙り込み、それから小さく笑った。


「私たちは、何と戦っていたのだろうな」


魔界神はしばらく黙り込み、それから笑い声を上げた。


折れた翼がかすかに震え、その振動で机の上のコーヒーもどきの水面に小さな波紋が広がる。


「なるほど。我が負けたのも当然だ。お前には、最初から敵も味方もなかったのだな」


「敵だと思って戦っていたのは、あなたたちだけですかね」


「違いない」


神界の使者も笑い、魔界神も笑った。


二人の笑い声が、壁の反響板に吸い込まれていく。


かつてこの場所で、神と魔が手を組んで最後の一撃を放った。


その同じ場所で、今、彼らは同じ机を囲んで笑っている。


部屋の隅からは、清掃隊の一人が鼻をすする音がかすかに聞こえた。


リーンは窓辺に立ち、壁の修復された箇所を指でそっとなぞった。


つい数週間前、ここで自分は縛られていた。傭兵たちに囲まれ、口に布を巻かれ、それでも心のどこかで「真さんが来る」と信じていた。そして真は来た。女神も来た。あの雨の日が、今は遠い昔のようだ。


(この場所は、私が一番怖かった場所。でも今は、違う)


彼女は机を囲んで笑い合う神と魔の使者たちを見渡し、それから真の横顔を見つめた。


(この人は、本当に最初から変わらない。山を消したあの日から、ずっと)


彼女の手が、いつの間にか真の袖をそっと掴んでいた。


会議が終わり、協定書の草案が真の手帳に清書された頃、夕暮れが近づいていた。


窓から差し込む茜色の光が、長机の上の書類を橙色に染めている。


旧倉庫街はすっかり様変わりし、長机の上には綺麗に整理された議事録と、今後のスケジュール表が並んでいた。


壁には清掃隊が磨き上げた新しい掲示板がかけられ、そこには神界と魔界の連名による最初の公式通知が貼られている。


リーンは立ち上がり、窓辺に歩み寄った。


夕日に染まる街を眺めながら、かつてこの場所で自分が縛られ、女神に救われた夜のことを思い出す。


あの時の煤と涙の匂いは、もうどこにもない。


「では、本日の協議はこれで終了とします。次回は来週、同じ場所で」


「了解した」


魔界神が真の前に立ち、小さくなった翼を広げた。


折れた翼の断面はすでに癒え始め、新しい羽毛がかすかに顔を出している。


「真、私はこの街が気に入った。しばらく腰を据えて、商売でも始めてみようと思う」


「商売、ですか」


「ああ。この五日間、あちこち見て回ってな。人間の世界には、魔界にないものが山ほどある。それを少しずつ、魔族の領土にも届けたい」


「それは良いお考えです。開業にあたって必要な手続きのリストを作成しましょうか」


「お前、本当になんでも業務にするんだな」


「はい。なんでも業務です」


魔界神は笑いながら、背を向けて歩き出した。


「では、明日からよろしく頼む。いや——ギルド職員」


その背中を見送りながら、リーンが真の袖を引く。


「真さん、あの人、翼折れたままで街を歩いてるよ。普通の人には見えないのかな」


「おそらく、見えていると思います。ただ、誰も気にしていないだけかと」


「そんなものかな」


「この街は、そういう街になりつつあるということです」


神界の使者の男が、机の上の書類をまとめながら呟いた。


「……なあ、ギルド職員」


「はい」


「お前を見ていると、我々ももっと働かねばならない気がしてくる。神界に戻ったら、まず報告書の書式を統一するところから始めようと思う」


「それは良い心がけです。必要であれば雛形をお送りしますが」


「頼む」


使者の女が慌てて男の袖を引く。


「ちょっと、あなたまで感染ってどうするの。私たちは神よ。二十四時間働く必要なんて——」


「だが、この男の書類を見ろ。この完璧さを。これが『業務』というものだ」


「……見ちゃダメ!見たら負けよ!」


「負けでいい。これが、我々に足りなかったものだ」


使者の女は天を仰ぎ、それから真に向かって言った。


「……あなた、本当に罪な男ね」


「よく言われます」


リーンは少しだけ考えてから、真の手を握った。


彼女の手は温かく、真の手は少しだけ冷たい。


「それって、真さんのおかげだよ」


「私は業務をしているだけです」


「うん。でも、それで十分」


清掃隊が最後のゴミをまとめ終え、リーダーが真に声をかける。


手には、真が支給した新品のモップ。


バケツの水は真っ黒に濁り、今日一日の仕事の証がそこにあった。


「勇者様、俺たちも明日からこの共同事業の清掃担当に任命されました」


「そうですか。引き続き、よろしくお願いします」


「……あの、俺、今まで誰かの役に立つってことがわからなくて。でも、勇者様に会って初めて、仕事って誰かのためになるんだって。ありがとうございます」


真はリーダーの目をまっすぐに見て、静かに言った。


「あなたたちは、もう十分に誰かの役に立っています。これからも、よろしくお願いします」


リーダーは深く頭を下げ、それから仲間たちのもとへ戻っていった。


リーダーは仲間たちのもとへ戻りながら、ふと廊下の隅を見た。あの日、自分たちがリーンさんを追い詰めた場所だ。あの時の彼女の目を、彼はまだ覚えている。恐怖と、それでも決して折れない強さが混ざった目だった。


「……俺たち、ずいぶん遠くまで来たよな」


「ああ」


「俺たちみたいな者が、神様と魔界の神様の会議の場を掃除するなんてな」


「でもよ、リーダー」


「なんだ」


「勇者様は、俺たちに『誰かの役に立っている』って言ったぜ」


「……ああ」


「だから、これでいいんだよな」


リーダーは答えず、ただ頷いた。バケツの水が揺れて、小さな波紋が広がる。その波紋を見つめながら、彼はかつて酒場で真に初めて誓約書を書かされた夜のことを思い出していた。あの時は死んだ方がマシだと思った。でも今は、この仕事を誇りに思う。


その背中は、かつて誰かを追い詰めていた頃とは全く違う、誇りに満ちたものだった。


夕日が旧倉庫街の壁を茜色に染める頃、真とリーンはギルドへの帰路を歩いていた。


街はいつも通り賑わっている。


パン屋の前には焼きたてのパンを待つ人の列ができ、その中には人間の母親に手を引かれた魔族の子どもが立っている。


鍛冶屋からは鉄を打つ音が響き、見習いの魔族が人間の親方に叱られながらも、必死に金槌を振るっていた。


市場の前を通りかかると、パン屋の主人が大きな声で叫んでいた。


「おい、今日の発注ミスだ!小麦粉が三袋も余ってる!どうする!」


「どうするって……捨てるしかないんじゃ」


「バカ言え!ギルドの真さんならどうする!」


「え……『誤配達です、こちらで受け取ってください』?」


「そうだ!誰か余ってる村を探せ!在庫は誰かの役に立つ!」


店の前で、魔族の子どもがパンをかじりながら首をかしげている。


「お母さん、『誤配達』ってなに?」


「ええとね、誰かを助けるための、ちょっとした魔法みたいなものよ」


そのやりとりを聞きながら、リーンが真の袖を引いた。


「真さん、この街の人たち、どんどん真さん化してない?」


「業務効率が向上するのは良いことです」


「休憩は?」


「さっき五分ほど」


「みんな真さんになっちゃう前に対策考えないと……」


市場では商人たちが値引き交渉に声を張り上げ、その隣で神界の使者が果物を品定めしている。


酒場の前を通りかかると、中から元気な笑い声が聞こえてくる。


人間と魔族が同じ卓を囲み、互いの杯を掲げている。


その光景をきらびやかなネオンが照らし出し、通りにまで明かりがこぼれ落ちていた。


「おお、ギルド職員!お前も来るか!」


「私はこれから業務がありますので」


「相変わらずだな!ははは!」


「明日も会議がありますので、深酒はほどほどに」


「それも業務か!」


「はい。業務です」


真は小さく会釈してその場を離れた。


隣を歩くリーンが、くすくす笑う。


「真さん、神様と飲み友達になるの、多分歴代勇者で初めてだよ」


「そうでしょうか」


「そうだよ。でも、それが真さんらしい」


リーンは真の手をぎゅっと握り、それから言った。


「ねえ、明日も一緒に仕事しようね!」


「もちろんです」


「明後日も」


「はい」


「その先も、ずっと」


「承知しました。命尽きるまで付き合っていただきます。」


「え、未来永劫って予定表に入るの?」


「長期確定として、備考欄に記載します」


リーンは笑い、真の肩にそっと頭を預けた。


彼女の髪からは、かすかに柑橘の香りがする。


ギルドの看板が見えてくる。


二人の影が夕日に長く伸びて、一つに重なっていた。


ギルドの扉を開けると、見習いが掲示板の前で何やら書き物をしていた。手には真がいつも使っている手帳と同じ型の、新しい手帳。表紙には「業務記録」の文字。


「見習い君、それ」


「あ、リーンさん!これ、真さんに教えてもらった業務記録っす。今日の朝礼の議題をまとめてて」


「朝礼……見習い君が?」


「はい。真さんが『明日の朝礼は見習いが仕切れ』って。副長も『いい経験だ』って」


副長がカウンターから顔を出し、苦笑いを浮かべた。


「俺も最初は抵抗したんだがな。気がついたら朝礼が当たり前になってた。真さんがいない日の朝礼を誰が仕切るかって話になって、見習いに白羽の矢が立ったってわけだ」


「副長、真さんの朝礼、最初は六時だったのに今は五時半っすよ」


「気がついたら三十分早まってた。なぜだ」


「真さんが『朝礼前に在庫庫の整理をすると効率的』って言い出して——」


「それで朝礼が早まったのか!?」


「はい。でも、誰も文句言わないんすよ。だって、その方が仕事がスムーズに回るから」


副長は深いため息をつき、それからリーンに向かって言った。


「リーンさん、あんたからも言ってやってくれ。『休憩は大事だ』って」


「私が言っても無駄ですよ。真さん、私との休憩は十五分取るようになったけど、それ以外は相変わらず五分だし」


「……あんたの前では休憩取るようになっただけ、進歩か」


「多分、それが真さんの精一杯の愛情表現なんです」


「愛が重い」


見習いが手帳を閉じて、誇らしげに言った。


「でも、俺、朝礼の仕切りができるようになって、初めて副長に褒められたんすよ。『お前もやればできるんだな』って」


「言ったか?そんなこと」


「言いましたよ!忘れたんですか!?」


「……言ったかもな」


見習いは手帳を胸に抱え、窓の外を見つめて言った。


「俺、このギルドに来るまで、自分に自信がなかったんす。でも今は違う。真さんに教えてもらって、副長に認めてもらって、リーンさんにお茶を褒めてもらって——過労死した初代勇者みたいにはなりたくないっすけど、でも、誰かの役に立てるなら、ちょっとくらい働きすぎてもいいかなって」


「過労死した初代がいるのかよ!」


「知らなかったのか!?」


副長は天を仰ぎ、それから笑った。


「まあ、死ななきゃいいさ。俺たちは、俺たちのペースでやればいい」


見習いが手帳を胸に抱え、窓の外を見つめて言った。


「でも、俺、このギルドが好きっす。真さんも副長もリーンさんも女神様も清掃隊も、みんながいて——働きすぎは良くないけど、働くことが楽しいって、初めて知ったんすよ」


副長はカウンターの小ぶりなカップを手に取り、そっと撫でた。


「だな。俺もだ」


リーンは真の袖をそっと掴み、耳の先をほんの少し赤らめて言った。


「私も。ここが、私の居場所だよ」


レナスが一通の封書を手に、控え室から降りてきた。


「大黒、カミナンデスからよ」


真は封を切り、便箋を開いた。几帳面な字が並んでいる。筆圧が強く、何度も書き直した跡があった。


『真へ。共同復興計画の進捗、確認した。立派なものだ。ところで、私は今、城の執務室で報告書を書いている。レナスに教わった書式でな。これがなかなか終わらない。なぜなら完璧を目指してしまうからだ。お前のせいだ』


リーンが背後から覗き込んで笑う。


「父上、すっかり真さんに影響されてる」


「続きがあります。『追伸。リーンは元気か。元気ならいい。元気がなければ、お前のせいだ』」


「そこは父上のせいでしょ!」


真は便箋を手帳に挟み、静かに言った。


「返信しておきます。『リーンさんは本日も笑顔です。問題ありません』と」


「……真さん、そういうとこだよ」


「何がですか」


「そういうとこが、好き」


レナスが窓辺で微笑みながら、そっと報告書を開いた。今日の特記事項は、決まっている。


控え室の窓辺では、レナスがその姿を見つめている。


手には一通の封書。神界への、今日も「特記事項あり」の報告書だった。


封蝋を押す手は、もう震えていない。


「今日も、特記事項あり。共同復興計画、順調に進行中。仲介者によって、神と魔の会議が平和的に行われたことをここに報告する」


彼女は封筒を机に置き、窓の外の二人を見守り続けた。


夕日が彼女の頬を茜色に染め、その口元には穏やかな微笑みが浮かんでいる。

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