第二十四話「婚姻届と神界の影」
第二十四話「婚姻届と神界の影」
ギルドの朝は、リーンの叫び声で始まった。
「ただいまー!婚姻届もらってきたー!」
カウンターで朝の仕込みをしていた見習いが顔を上げ、副長が持っていた帳簿を落としそうになる。掲示板の前で依頼書を眺めていた冒険者たちも一斉に振り返り、ギルド中が騒然となった。
「こ、婚姻届!?」
「リーンさん、それ本気ですか!」
「本気も本気!ね、真さん!」
「はい。本気です」
真は背筋を伸ばし、手帳から一枚の紙を取り出した。昨夜のうちに頭の中で組み立て、清書した婚姻届の雛形。書式は完璧で、署名欄にはすでに自分の名前が記されている。紙の端は折り目ひとつなく整えられ、インクの濃さも均一だった。
「では、リーンさん。こちらの署名欄に」
「ちょっと待て真さん!」
副長がカウンターから飛び出し、真とリーンの間に割って入った。手には、机の引き出しから取り出した小ぶりなカップ。リーンがいつも使っている、副長が密かに用意したあのカップだ。湯気が細く立ち上り、ほんのりと茶葉の香りが漂っている。その湯気が副長の顔にかかり、彼は目を細めた。
「あんたたち、いつからそんな話に」
「魔王城での三者面談で正式に許可を得ました」
「魔王が許可したのかよ!?」
「はい。正確には魔王から先に『娘を頼む』と」
「逆かよ!」
副長は天を仰ぎ、それから深いため息をついた。見習いが恐る恐る口を開く。
「あの、副長。これってギルド始まって以来の慶事じゃないですか?」
「……まあ、そうだな」
「じゃあ、反対する理由って」
「ねえよ。あんなにわかりやすいの、ねえよ」
副長は観念したように笑い、それからリーンの手を取った。ごつごつとした、長年ギルドを支えてきた手だった。その指には帳簿のインクの染みがこびりつき、手のひらには無数の依頼書をさばいてきた痕が刻まれている。彼は何か言葉を継ごうとして、喉の奥で詰まらせた。
「リーンさん。あんたがここに来たばかりの頃は、俺も正直どうなるかと思った。魔族の姫だってんで、構える奴もいた。でもな」
「……うん」
「あんたは、ここにいてくれてよかった。真さんと一緒に、幸せになれよ」
「副長……ありがとう」
リーンは俯き、しばらく言葉を探していた。胸の奥で、堰を切ったように記憶が流れていく。森で真に助けられた日。ギルドの扉を初めてくぐった日。坑道で一人、瓦礫を掘っていた日。カルロが来た日に真が報告書を三枚も書き損じたこと。熱を出した真の手を握りながら、朝まで祈ったこと。そして昨夜、中庭で真が「個人的な感情です」と言ったこと。全部、ここから始まったのだ。
「私、ずっと居場所がなかったんです。城でも、人間の街でも、どこにいても『魔族の姫』だった」
リーンは顔を上げ、ギルドの中を見渡した。副長、見習い、女神様、清掃隊の傭兵たち——そして真。
「でも、ここは違った。皆が、私をただのリーンとして見てくれた」
「当たり前だろ」副長が笑う。「あんたは最初から、ただのリーンさんだ」
リーンは目を潤ませ、副長の手を両手で握り返した。ごつごつとした手のひらの感触が、言葉よりも雄弁に副長の半生を物語っている。その温もりは、真の手とも父の手とも違う、もう一つの家族の温もりだった。見習いが鼻をすすり、掲示板の前の冒険者たちも拍手を始める。ギルド中が祝福の空気に包まれていた。壁に貼られた依頼書が、拍手の振動でかすかに揺れ、紙の擦れる音が空気を震わせる。
その拍手を背に、リーンは婚姻届の署名欄に自分の名前を静かに書き込む。インクが乾くまでの数秒間、ギルドの中はしんと静まりかえった。ペン先が紙を擦るかすかな音だけが、誰の耳にも届いていた。インクの匂いが、かすかに立ち上る。
「……書いたよ、真さん」
「はい。では、これをギルドの公式記録に」
「待って」
リーンは真の手をそっと押さえた。
「婚姻届の備考欄、なんて書くか決めてない」
「昨夜、考えました」
「え、いつ?」
「リーンさんが寝た後で」
真は真剣な表情で手帳を開き、下書きを見せた。そこにはこう書かれている。
『本件、業務外の感情に基づく。ただし、遂行には万全を期す。追伸──休憩時間は十五分とする』
「……合格!」
「何の試験ですか」
「真さんが私の夫として相応しいかどうかの試験」
「それはいつ始まったんですか」
「多分、初めて会った時から」
リーンは笑い、それから真の手をぎゅっと握った。真もまた、その手を静かに握り返す。二人の手の温もりが、婚姻届の紙を通じて混ざり合っていった。
その時だった。
ギルドの扉が、静かに開いた。
入ってきたのは、白い装束をまとった二人の使者だった。背の高い男と、細面の女。どちらも人間ではない。その目には感情がなく、肌は陶器のように白い。彼らが一歩踏み出すたびに、床の古い木材がかすかに軋み、外の冷たい空気がギルドの温まった空気と混ざり合う。その冷気が足元を這い、副長の手にしたカップから湯気が一瞬で消えた。神界の使者だった。
「勇者召喚の執行者、女神レナス。ならびに召喚された勇者、大黒真。神界からの通達を伝達する」
ギルドの空気が一瞬で凍りついた。副長と見習いが固まり、掲示板の前の冒険者たちが後ずさる。祝福の拍手は止み、代わりに張り詰めた沈黙が場を支配した。先ほどまで婚姻届を祝っていた空気が、嘘のように消え去る。冷たい風が足元を這い、ギルドの灯りがかすかに揺らいだ。その灯りに照らされた使者の影が、壁に長く伸びている。
その沈黙を破ったのは、真だった。
「お引き取りください。こちらは通常営業中です」
使者の男が一歩前に出る。
「これは営業などではない。これは命令だ」
「命令であれば、なおさらです。私は神界の命令系統には属していません。私の上司はこちらの副長です」
副長がビクッと肩を震わせた。見習いが小声で「副長、真さんの上司ってあんただったんすね」と囁き、副長は「知らんかった」と震え声で返す。
使者の女が冷たい声で続ける。
「これは命令だ。女神レナスは神界への帰還を命じる。勇者大黒真は、魔族との一切の接触を禁じ、魔王討伐の任務に専念せよ。拒めば、勇者資格の剥奪、および女神レナスの神格剥奪が行われる」
「なっ……!」
リーンが前に出ようとした。しかし、それより早く、真が手を上げて制する。その手は、微動だにしなかった。
「質問があります」
「何だ」
「その命令は、神界の全権限者の承認を得た正式なものですか。書面での提出をお願いします。口頭命令は業務記録に残せませんので」
使者の二人は顔を見合わせた。明らかに想定外の反応だった。勇者は怒り、女神は恐れ、魔族の姫は泣き叫ぶ——そう想定していたのだろう。しかし、目の前の男は書面の話をしている。しかも手帳を取り出して、淡々と。相変わらずの無表情で、声のトーンすら変わっていない。
「……正式な命令書は後日発行される」
「では、その時点で改めて対応します。本日はこれにて」
「待て!」
使者の声が、初めて感情を帯びた。怒りだった。
「これは決定事項だ。我々は神界の意思を伝えに来た。昨日、女神レナスが神界に送った報告書の内容を、神界は重大な脅威と判断した。『魔王との婚姻を締結』──これは神界への反逆に他ならない」
副長が見習いに耳打ちする。
「女神様、報告書にそんなこと書いたのか」
「……あの人は、いつも特記事項なしって書いてたはずじゃ」
レナスが、静かに進み出た。その手に握られた一通の封書。神界への報告書の写しだった。彼女の足音だけが、静まり返ったギルドに響く。
「これは反逆ではないわ。これは、私の意思よ」
使者の二人がレナスを見据える。男の手が、腰の剣に伸びかけた。女の目が、レナスを射抜くように細められる。
「女神レナス。お前は神界の掟を破った。人間だけを守れという使命に背き、魔族の娘を救い、魔王との婚姻まで申し出た。その罪は重い」
「ええ。でも、私が守りたいものは、あなたたちが思うよりずっと広いの」
レナスはリーンの肩にそっと手を置き、それから真に向かって頷いた。その手の温もりを、リーンは決して忘れないだろう。肩に置かれた手の重みが、言葉よりも雄弁に彼女の決意を伝えている。
「大黒。あなたはあなたの業務を続けて」
「承知しました」
真は手帳を閉じ、使者に向き直った。
「では、そろそろお引き取りください。こちらはこれから、婚姻届の受理と、それに伴う書類作成がございますので」
「な、何を言っている!これは神界の命令だぞ!」
「はい。後日正式な書面が届き次第、対応いたします。本日はこれにて」
真は一歩も引かなかった。使者の二人はしばらく睨み合っていたが、ついに男の方が舌打ちをした。
「……わかった。本日中に正式な命令書を持ってくる。それまでに、後悔するがいい」
使者が去り、ギルドに静けさが戻る。扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。しばらく誰も口を開けず、壁の時計の針だけが時を刻んでいる。見習いがへなへなとその場にしゃがみ込んだ。床板がぎしりと軋み、その音が静寂を破る。
「……助かった」
「まだだ」
副長が難しい顔で呟く。
「本日中に、また来るって言ったぞ。それまでに手を打たないと」
「手はあります」
真が静かに言った。全員の視線が真に集まる。
「婚姻届を受理し、その事実を神界に通知します。神界の掟では、婚姻は神聖な契約として保護される。これは前職で学んだ法律の基本です」
「前職で何を学んでたんだ……」
「配達先の選び方と、契約書の読み方です」
真は手帳を開き、次の項目にペンを走らせる。副長がそれを横から覗き込み、天を仰いだ。
「婚姻届受理証明書……それに神界への通知文……あんた、いつの間に」
「頭の中には」
「もういい、わかった。真さん、あんたに任せる」
副長は腹をくくったように笑い、それからリーンとレナスを見渡した。
「どうやら俺たちのギルドは、神界を相手に喧嘩を売ることになりそうだ。お前たち、腹はできてるか」
「もちろんです!」
「当然よ」
「業務の一環として」
四人は顔を見合わせ、それから一斉に笑った。見習いだけが「俺もですか!?」と慌てている。副長がその肩をぽんと叩き、「お前も戦力だ」と笑った。見習いは涙目になりながら、大きく頷いた。
「俺、何ができるかわからないですけど」見習いは震える声で言った。その指が、カウンターの木目を無意識になぞっている。「でも、真さんとリーンさんにはお世話になりっぱなしで。リーンさんには薬草の見分け方教えてもらったし、真さんには報告書の書き方直してもらったし」
「それは業務指導だ」と真。
「それでもです!俺、二人のために何かしたいんです」
リーンが一歩近づき、見習いの目をまっすぐに見た。
「見習い君が淹れてくれるお茶、いつもおいしいよ。あれ、私の大事な休憩時間なんだ」
「リーンさん……」
「だから、これからもよろしくね」
見習いは涙をこらえきれず、袖で顔を拭った。その袖には、今朝方こぼしたコーヒーもどきの染みがまだ残っている。染みは乾いて茶色く変色し、彼の不器用さと、それでも必死に働いてきた証のように見えた。
その勢いで、カウンターに置かれた小ぶりなカップがかすかに揺れ、澄んだ音を立てる。
夕暮れが近づき、ギルドの窓から茜色の光が差し込む頃。
真はカウンターで婚姻届の清書を終え、リーンが署名した欄を確認した。インクは完全に乾き、紙は微かにざらついている。窓からの夕日に透かすと、インクの濃淡が浮かび上がった。
「これで正式に受理されました」
「ありがとう、真さん」
「いえ。業務です……が」
真は少しだけ間を置き、それから言った。
「業務外の感情も、多少は含まれています」
「多少は、て」
リーンは笑い、それから真の手をぎゅっと握った。見習いがまた鼻をすすり、副長が「泣くな」と背中を叩く。副長自身も、目頭をちょっと押さえていたことを、見習いは見逃さなかった。その手の甲には、さっきまで帳簿をつけていたインクの染みが、まだ残っている。黒く滲んだ染みが、まるで勤続の勲章のように彼の手に馴染んでいた。
真はその手の温もりを確かめてから、手帳を開き、今日の報告書を書き始めた。備考欄にはこう書かれている。
『本日、婚姻届受理。業務外の感情に基づくが、遂行には万全を期す』
『神界より使者。正式な命令書は未着のため、当方より婚姻届受理証明書を送付予定』
『副長、見習い、冒険者各位の協力に感謝。明日も通常営業を予定』
清掃隊のリーダーが、恐る恐る真に近づいてきた。かつて傭兵としてリーンを追い詰め、今はギルドの床を磨く男だ。その手には、使い込まれたモップが握られている。
「勇者様」
「どうされましたか」
「俺たちも、何か手伝えませんか。神界相手でも、勇者様の役に立てることがあれば」
真は少しだけ考えてから、静かに言った。
「では、床の清掃をいつもより丁寧に。神界の使者が来るなら、なおさら床は綺麗にしておくべきです」
「……それだけですか」
「十分です。あなたたちの仕事が、このギルドを支えています」
清掃隊のリーダーは深く頭を下げ、それから仲間たちのもとへ戻っていった。その背中は、かつて誰かを追い詰めていた頃とは全く違う、誇りに満ちたものだった。彼の手に握られたモップの柄が、窓からの夕日を受けて鈍く光っている。その光は、彼らがこれまで磨き続けてきた床と同じ輝きだった。
その背中を見送った後、清掃隊の他の面々も次々と真のもとへ集まってきた。
「勇者様、俺は酒場で変な噂を流してる奴らに睨みを利かせてきます」
「俺は市場で、勇者様が魔族の村に物資を届けた話をもっと広めてきます。いい話は広めねぇと」
「俺、さっきの使者の顔、覚えました。街で見かけたらすぐ知らせます」
真は一人ひとりの顔を見てから、静かに言った。
「皆さんの業務は、ご自身で判断されて結構です。ただし、無理はしないように」
「……勇者様がそれを言うんすか」
「私は最近、十五分の休憩を取るようにしていますので」
清掃隊の面々は顔を見合わせ、それから一斉に笑った。その笑い声がギルドの天井にこだまし、壁にかけられた古い盾がかすかに震えた。
控え室では、レナスが机に向かっていた。
手には一通の封書。神界への通知文だった。婚姻届の受理を報告し、それに基づいて神界の命令には従えない旨を丁寧に、しかし断固として記した文面。彼女の嘘は、もう終わった。これからは、自分の意思で書く。
女神はペンを置き、窓の外を見上げた。満天の星が、街の灯りと共に瞬いている。遠くで、夜警の足音が規則正しく響いていた。その灯りの一つ一つに、今日を生き、明日を願う誰かがいる。
「……今日からは、特記事項なしじゃなくて」
「特記事項あり、ね」
レナスは机の引き出しをそっと開けた。中には、これまで彼女が書かなかった白紙の報告書の束が静かに眠っている。嘘を重ねた日々。特記事項を書けなかった夜。真の熱を見守った夜。リーンが誘拐された雨の日。どれもが、彼女が神ではなく一人の個人として生きた証だった。
彼女はその束を手に取り、一番上の一枚にそっと指を触れた。何も書かれていない白紙。でも、その白さはもはや虚無ではなく、これから何をでも書ける自由の色だった。紙の表面は、長い間引き出しにしまわれていたせいでひんやりと冷たく、それがかえって彼女の指先の熱を際立たせた。
「ありがとう、過去の私。もう、大丈夫よ」
レナスは引き出しを静かに閉め、新しい報告書にペンを走らせる。
封蝋を押す手は、もう震えていなかった。代わりに、その手には確かな決意が宿っている。封をした封筒を机の上に置き、彼女は立ち上がった。ギルドのフロアからは、まだ笑い声が聞こえる。真とリーン、副長に見習い、清掃隊の男たち。そのすべてが、彼女が守りたいと願ったものだった。
女神は静かに部屋を出て、彼らのいる光の中へと歩いていく。扉を開けた瞬間、ギルドの笑い声が一段と大きくなり、彼女のローブの裾がふわりと揺れた。その背中は、もはや神のそれではなく、一人の母のそれだった。




