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社畜の郵便配達員は異世界でも休まない  作者: 太幽


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第二十三話「夜明け前の誓い」

第二十三話「夜明け前の誓い」


宴が終わり、広間には静けさが戻っていた。


机の上には空になった杯と、わずかに残った果実の香り。

松明の灯りが壁に揺れる影を長く伸ばし、給仕の魔族たちもすでに下がっている。

誰もいない広間で、魔王はただ一人、窓の外を見つめていた。


「レナス、か」


自分の口で呟いてみる。

かつて神界の女神として名を知られ、今は魔族の領土に立つ彼女。

政略だと笑いながら、その目は本気だった。

どれほどの覚悟であの提案を口にしたのか、考えれば考えるほど胸が熱くなる。


彼は手元の杯を取り上げ、最後の一口をゆっくりと喉に流した。

杯を机に戻す時、かすかに陶器が震える音がした。

その音に、彼は一人で小さく笑う。

勇者と杯を交わした手が、女神に触れた手が、まだわずかに熱を帯びている。


「妻よ、私はどうやらまだ、誰かのために生きられるらしい」


窓の外、かつては荒涼としていた大地に、今夜は月明かりが青く降りている。

その光は、遠くギルドがある街まで続いている。

明日、娘はあの街へ帰る。

そして今度は、自分もまた、あの街へ向かうことになるだろう。

魔王としてではなく、ただの父親として、そして——誰かの隣に立つ者として。


客室へと続く廊下で、酔った女神——レナスの肩を支えながら、リーンはゆっくりと歩いていた。


松明の灯りが石壁を橙色に染め、二人の影が長く伸びては縮む。

遠くで風が唸る音だけが、かすかに聞こえていた。


「お母様、足元気をつけて」

「大丈夫よ。私は女神だもの…」

「はいはい」


レナスはまだ「かわいい」と繰り返しているが、その声はだんだん小さくなり、時折とろんとした目でリーンを見上げては微笑む。

リーンはその頭をそっと支えながら、壊れ物を扱うような優しさで歩を進めた。


レナスの足元がふらつくたび、リーンは立ち止まり、自分の肩をしっかりと掴ませた。

母と呼ぶにはまだ少しだけ照れくさいこの人を、今は自分が守らなければと思う。

その責任感が、彼女の胸をかすかに熱くした。


客室の扉を開け、レナスを寝台に横たえる。

靴を脱がせ、枕の位置を直し、布団を胸元まで引き上げた。

レナスは目を閉じ、しばらく静かにしていたが、不意にその手がリーンの袖を掴んだ。


「リーン、おやすみの前に一つだけ」

「なに?」

「私はね、あなたに出会って初めて『守りたい』という言葉の本当の意味を知ったの」


「お母様…」


「神として世界を守るのとは違う。ただ一人の、かけがえのない誰かを守りたいと願うこと。あなたが教えてくれたのよ。あなたが笑うたび、あなたが誰かを助けるたび、私の胸は温かくなった。ありがとう」


レナスはそう言って微笑み、そのまま静かに寝息を立て始めた。

規則正しい、穏やかな呼吸。

リーンはその手をそっと握り返し、しばらくその場を動けなかった。


寝息に合わせて、レナスの胸がゆっくりと上下している。

その動きを見つめながら、リーンは幼い頃、母が死んだ夜のことを思い出していた。

あの時、母の胸はもう動いていなかった。

でも今、目の前で寝息を立てるこの人は、確かに生きている。

私の母だ、と彼女は心の中でそっと言った。


「…私の方こそ、ありがとう。お母様」


声には出さず、心の中でだけ呟いて、リーンは静かに部屋を後にした。


その頃、真は客室の灯りを点けずに、窓辺に立っていた。


月明かりだけが部屋を青白く照らし、机の上には開いた手帳とペン。

今日の業務記録をつけ終えたばかりだった。

手帳の最後のページには、走り書きが一つ。

「レナス。女神様の御名前」


ペンの先が、その名前の上をそっとなぞる。

神としてではなく、個人として彼女を呼ぶこと。

それがどれほどの変化か、真は言葉にできないが、手帳に書き留めるべき情報だと判断した。


真が窓の外を見つめていると、扉が静かにノックされた。

返事をする前に、開く。


「真さん、まだ起きてる?」


リーンだった。

手には小さな杯が二つ。

宴の残り酒ではない。湯冷ましだ。


「ええ、今日の業務記録を」

「真さんらしい。ちょっとだけ、いい?」

「どうぞ」


リーンは真の隣に立ち、杯を差し出した。

真はそれを受け取り、一口含む。

温かい湯が喉を落ちていく感触が、妙に心地よかった。

窓の外には満天の星。

その下に広がる荒涼とした大地が、月明かりに青く染まっている。


「…父上が、泣いてた」


リーンがぽつりと言った。その声は、月明かりに吸い込まれるように静かだった。


「母上が亡くなってから、ずっと一人で頑張ってきて。私にも『魔王として立て』って厳しくて。でも今日、あんなに笑った父上、久しぶりに見た」

「そうですか」


「真さんのおかげだよ。真さんが来てから、何もかも変わった。私も、父上も、女神様も」


真は杯を見つめ、それから静かに言った。

「私は、業務をしているだけです」

「うん。でもね、真さん」


リーンは真の目をまっすぐに見つめた。

杯を持つ指が、かすかに震えている。


その震えは、湯冷ましの水面に小さな波紋を作り、静かに消えていった。

心臓の音が、自分でも聞こえるほど大きい。

でも、もう怖くはなかった。


「私は、業務じゃなくても、真さんと一緒にいたい。真さんは、どう?」


窓の外で、風が一つ吹き抜けた。

松明の灯りが揺れ、部屋の中の影が一斉に動く。

真はしばらくリーンの目を見つめ、それからゆっくりと杯を置いた。


彼が杯を置くまでに、いつもよりずっと長い時間がかかった。

それは迷いではなく、言葉を選ぶための静かな間だった。


「…リーンさん」


月明かりの下、城の外れにある中庭はひっそりと静まり返っていた。


真とリーンは並んで歩き、古びた石造りの縁台に腰を下ろす。

ひんやりとした石の感触が、火照った頬に心地よい。

遠くで、夜警の兵士たちが松明を掲げて歩く気配がするが、ここまでは聞こえない。


縁台に座ると、石の冷たさが二人分の体温をゆっくりと奪っていく。

でも、肩が触れ合う部分だけは、かすかに温かかった。


「ここ、小さい頃よく来てたの。母上が好きだった場所で」


リーンが中庭を見渡しながら言った。

庭の隅には古びた石像が一つ。

雨風に削られ、今は誰だかわからなくなっている。

それでも、優しい微笑みをたたえたその像を、リーンは指先でそっと撫でた。


石像の表面はざらざらとしていて、指の腹に小さな抵抗を返す。

長い年月をかけて少しずつ形を失ったその姿は、それでも確かに誰かを慈しむ形を保っていた。


「母上、どんな方だったんですか」


「覚えてるのは、あったかい手と、優しい声。それと、歌。子守唄をよく歌ってくれた。『どんな夜も明けるから』って」


リーンはその歌を小さく口ずさみ、それから少しだけ笑った。

その歌声は本当に小さくて、真がそばにいなければ聞き取れないほどだった。

でも、確かにそこに、幼い頃のリーンがいた。


「母上が死んだ時、父上は私に言ったの。『これからは私が母代わりもする』って。でも、戦争で忙しくて、きっと母代わりもできなくて…それでも、私のことをずっと見ててくれた」


「そうですか」


「うん。私、父上のこと誇りに思ってる。それに最近は——女神様も、もう一人のお母様みたいで」


「…それは、業務上の」


「もう!そういうとこだよ!」


リーンは声を上げて笑い、それから真の袖をそっと掴んだ。

指先が布地を掴む小さな音が、静かな中庭に吸い込まれていく。


「真さん」

「はい」

「さっきの質問の答え、まだ聞いてない」


月明かりが雲に隠れ、あたりが少しだけ暗くなる。

風が止み、夜警の足音も遠ざかった。

二人を包む静けさだけが、深く、深く広がっていた。


自分でもわかっている。

報告書なら、ここまで時間はかからない。

依頼の達成報告なら、三秒で済む。

でも今、伝えようとしているのは、それとはまったく違う種類の言葉だった。


「…私は」

「うん」

「自分が何を感じているか、言葉にするのが苦手です。業務としてなら、何時間でも報告できますが」


真はそこで言葉を切り、自分の胸に手を当てた。

心臓の音を、自分の手のひらで確かめるように。


手のひらの下で、心臓が規則正しく打っている。

それは異常な鼓動ではない。

ただ、いつもよりほんの少しだけ早い。

そのわずかな差を、彼は言葉ではなく、身体で確かめていた。


「リーンさんが来なかった七日間」

「…うん」

「業務に集中できませんでした。報告書を三枚も書き損じました。原因は不明でした」


「真さん…」


「ですが、その後も観察を続け、結論に達しました」


真はリーンの目をまっすぐに見つめた。

その目は、いつもの静かな光をたたえながら、どこか新人が初めて配達を一人でやり遂げた時のような、かすかな熱を宿していた。


「私は、リーンさんを…業務から外してでも、お守りしたい。仮に、婚姻届の書式がこの世界に存在しなくても、私は自分でそれを作成してでも、リーンさんと共にいたいと思います。それは、業務ではなく——多分、個人的な感情です」


「多分」と言った自分の言葉に、真は少しだけ眉をひそめた。

不確かな表現だ。報告書なら絶対に使わない。

でも、今はこの言葉しかなかった。


「…多分、て」

「すみません、不確かな表現で」

「ううん。十分」


リーンは真の手をそっと握った。

その手は少し冷たくて、でもとても温かかった。

真の手のひらの温度が、自分の手のひらに静かに広がっていく。

配達のために鍛えられた手は、節くれ立っていて、その感触が言葉よりも雄弁に彼を語っていた。


「真さん。私も同じ。でもね、私がパーティ登録したのは、本当はちょっとだけ下心があったの」

「下心、ですか」

「えへへ。少しでも真さんの近くに行きたくて。だって、真さんすぐどっか行っちゃうし」

「…そうでしょうか」

「そうだよ。気づいてなかったでしょ」

「はい」


リーンは笑い、それから真の肩にそっと頭を預けた。

真の肩は思ったより固くて、そして驚くほど温かかった。

その温かさに、彼女はそっと目を閉じる。


「でもね、どうしても気になることがあるの」

「何でしょう」

「パーティ登録を婚姻届の仮申請だと思ったの、いつから?」

「リーンさんがサインした瞬間です」

「うん。それで、どうしてそう思ったの」

「副長に聞いたら『男女でパーティを組むなら普通は婚姻も視野に入れる』と」

「副長ー!」


どこか遠くで、副長がくしゃみをする姿が目に浮かぶようだった。

リーンは肩を震わせて笑い、それからゆっくりと顔を上げた。


「まあ、いっか」

「よろしいんですか」


「だって、おかげでこうなったんだもん」


月が雲の切れ間から顔を出し、中庭を青白く照らし始める。

古びた石像の微笑みが、月明かりに浮かび上がって見えた。

その石像の目は、まるで二人を優しく見守っているかのように、静かに中庭を見つめていた。


「真さん」

「はい」

「私、明日、ギルドに戻ったら、正式な婚姻届を提出する」

「承知しました。書式は私が用意します」

「うん。でもその前に、もう一度だけ言わせて」

「何でしょう」

「好きだよ。大好き。ずっと前から。多分、初めて会った時から」


真はしばらく黙り込み、それから静かに言った。


「…私も、おそらく、そのように思います」


「おそらく、て」

「不確かな表現で申し訳ありません」

「いいよ。真さんらしい」


リーンは笑い、それから真の手をぎゅっと握りしめた。

真もまた、その手を握り返す。

二人の手の温度は、いつの間にか同じになっていた。


ぎゅっと握られた手の中で、お互いの指がかすかに動く。

それは、言葉にならない何かを確かめ合うような、小さな、確かな仕草だった。


「あのね、真さん」

「はい」

「これからも、いっぱい仕事しようね。一緒に」

「それはもう、十分に」


「…死ぬ気で仕事頑張るからね!」

「それはいけません、たまには休憩も」

「五分でしょ」

「…十五分」


「三倍になった!」

(五分が十五分。真さんにとっては、それが多分、精一杯を超えた譲歩で、最大限の愛情表現なんだ)


「六時間以上の労働の場合、十五分は休憩必要です。」

「じゃあ、私も真さんも夫婦業二十四時間よ?」

「休憩時間の組み直しを真剣に考える必要がありますね。睡眠は業務なので四時間、稼働時間も一日…三時間は必要でしょうか。」


「う…ん…」

リーンは真の肩に頭を預けたまま、静かに目を閉じた。

その寝顔は、幼い頃に母の膝で眠っていた頃のように穏やかだった。


真はその髪をそっと撫で、それから空を見上げる。

満天の星が、二人を見下ろしていた。

風が再び吹き始め、遠くで夜警の足音が規則正しく響く。

中庭の石像は、変わらず優しく微笑んでいた。


真はその石像を見つめながら、手帳に書き留めようとして——やめた。

今この瞬間のことは、文字ではなく、手のひらの温度で覚えておくべきだと感じたからだ。

それは彼にとって、ほとんど初めての「記録しない」という選択だった。


翌朝。

魔王城の門の前で、三人は出発の準備を整えていた。


朝日が城の黒い壁を金色に染め、乾いた風が三人のマントを静かに揺らしている。

見送りに立つ魔王の影が、門の石畳に長く伸びていた。


「リーン、たまには帰ってこい」

「うん。父上も、無理しないでね」

「お前にだけは言われたくない」


魔王は笑い、それから真に向き直った。


「真。娘を」

「承知しました」

「…早いな」

「はい」

「変な男だ」

「よく言われます」

「それとな、レナス」


魔王は少しだけ間を置き、それから女神の手を取った。

その手つきは、昨夜の宴で杯を交わした時よりもずっと優しく、そして確かだった。


「お前の提案、考えておく」

「ええ、よろしく頼むわ。魔王。そしていつか名前で呼び合える日を楽しみにしてる」


「…か…カミナンデスだ」


「カミナンデス?全然魔王っぽくない!」


「名前にコンプレクスを持ってるんだ!出来れば魔王で呼んで欲しい!頼む!」


「嫌よ!神なんですと名乗る魔王は神界でも評判になるかもね!」


レナスはそう言って微笑み、魔王の手をそっと握り返した。

その笑顔は、もはや「神」のそれではなかった。


魔王はしばらく自分の手を見つめ、それから小さく笑った。

その笑い声は、昨夜の宴で真に「業務を忘れろ」と言った時のものと、同じ響きを持っていた。


三人は歩き出す。

魔王はその後ろ姿が見えなくなるまで、門の前に立ち続けていた。


彼の背後で、城門がゆっくりと閉まっていく。

その重い音が、乾いた大地に吸い込まれていった。

城に戻る足取りは、これまでより少しだけ軽い。

それは、一人の王ではなく、一人の父親としての歩みだった。


ギルドへの帰り道。

真はいつも通り先を歩き、リーンがその隣を歩き、レナスが少し後ろから続く。


街道には朝日が降り注ぎ、夜露に濡れた草がきらきらと光っている。

来る時は霧に包まれていた道が、今ははっきりと見えた。


「真さん、婚姻届の書式、もうできた?」

「頭の中には」

「はやっ!」

「昨夜のうちに大枠は。細部を煮詰めたら清書します」

「そしたら、今度こそサインするね」

「はい。今度は業務上のパートナー登録ではなく」

「うん。婚姻届の本提出として」


リーンは真の手をそっと握った。

真は少しだけ驚いた顔をして、それから静かにその手を握り返した。

その動作は、もはや反射ではなく、確かな意志を伴った応答だった。


「真さん、手、あったかい」

「リーンさんも」

「…お母様、見てる?」

「見てるわよ」


レナスは口元をほころばせ、わざと少し距離を保って歩いていた。

その目は、もはや任務を帯びた監視者のそれではなかった。

ただ、わが子の幸せを見守る母の目だった。


ギルドの看板が見えてきた頃、リーンが口を開く。


「ねえ、真さん。一つだけ聞きたいことが」

「はい」

「婚姻届の備考欄って、ある?」

「あります」

「そしたら、なんて書く?」


真は少しだけ考え、それから静かに言った。


「『本件、業務外の感情に基づく。ただし、遂行には万全を期す』」

「…合格!」

「何の試験ですか」

「私が決める、真さん試験」


リーンは笑い、それからギルドに向かって走り出した。

朝日が街を金色に照らし、パン屋の煙突からは今日も細く煙が立ち上っている。

見習いが扉を開け、副長が何事かと顔を出し、リーンは手を振りながら叫ぶ。


「ただいまー!婚姻届もらってきたー!」

「は!?」


ギルドの朝が、今日も賑やかに始まろうとしていた。


副長の手から、小ぶりなカップが滑り落ちそうになるのを、見習いが慌てて受け止める。

そのカップの中には、リーンのために用意された温かいお茶が、まだ湯気を立てていた。

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