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社畜の郵便配達員は異世界でも休まない  作者: 太幽


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第二十一話「魔王城への道」

第二十一話「魔王城への道」


出発の朝は、霧に包まれていた。


街の石畳はしっとりと濡れ、吐く息がほのかに白い。

まだ夜明け前の藍色が、東の空に薄く残っている。

真はギルドの前で荷物を検めていた。

背負い袋の中には、携行食、水筒、包帯、予備のインク、報告書用の紙、リーンのパーティ申請書とパーティ証明書。


この世界の礼服に袖を通して整える。

濃紺の生地はまだ糊がきいていて、腕を通すたびに布がこすれる硬い音がする。

三日後に着る予定のそれを、なぜか今朝、彼は迷わずに選んでいた。


それらを一つ一つ手に取り、状態を確認し、備考欄にチェックを入れていく。


「相変わらず、すごい手際…そして服装がすごい気合入ってる!」


声がして顔を上げると、リーンが立っていた。


「今回は最重要案件なので」


いつものマントの上に、今日は旅用の軽装をまとい、深紅に近い黒髪をうなじのところで一束に結んでいる。

頬の傷はもうほとんど目立たない。彼女の手には小さな布袋。中からは乾燥させた薬草の束が顔を出していた。


「一応、魔獣避け。野営の時に使ったやつの改良版」

「ご苦労さまです」

「うん」


リーンは真の横に立ち、自分の背負い袋を背負い直した。

その肩には細かな擦り傷の跡がある。

昨日の誘拐の名残だ。

傷は癒えても、皮膚の下にまだ薄青い色が残っている。

それに気づいた真が、ほんの一瞬だけ視線を留めたが、すぐに荷物の確認に戻った。


「お待たせ」


ギルドの扉を開けて出てきたのは女神だった。

旅装束に身を包み、手には小さな包み。

その姿を見て、リーンが目を輝かせる。


「女神様、その上着」

「以前、街の市場で見つけたの。動きやすいわよ」

「なんだか新鮮。いつもの女神様の服もきれいだけど、今日はそれもいい!」


「ありがとう!今回はかなり重要な案件だからね!」


女神は少しだけ照れたように笑い、それから真に向き直った。


「大黒、道中の安全は」


「最優先します。出力は一割以下に抑え、戦闘は最小限。ルートは事前に下見済みです」


「……下見、本当に行ったの」


「昨夜、軽く」


「あなた、寝てないの」


「二時間ほど休みましたので。十分です」


女神は深いため息をつき、リーンと顔を見合わせた。

二人の間で、今は「もう言っても無駄」という諦めと、それでも少しだけ心配な気持ちが混ざった沈黙が流れる。


「じゃあ、行こっか」

リーンの声で、三人は歩き出した。

街はまだ眠りから覚めやらず、市場の露店もまだ布をかぶったままだ。

ただ、パン屋の煙突からだけは細く煙が立ち上り、焼きたての小麦の香りが霧に混じって漂っている。

石畳の上を、三人分の靴音が規則正しく刻まれていく。

真の革靴、リーンの柔らかなブーツ、女神の静かな足音。

その不揃いなリズムが、不思議と心地よく響いていた。

その香りを追いかけるように、三人は街の門をくぐり、街道へと出た。


街道は静かだった。


霧がゆっくりと流れ、視界はまだ十分ではない。

道端の草には夜露がびっしりとつき、一歩踏み出すたびに土の湿った匂いが立ち上る。

遠くの森からは、朝を告げる鳥の声がかすかに聞こえていた。


三人は並んで歩く。

先頭は真、その隣にリーン、少し後ろから女神が続く。

真は時折立ち止まっては前方の様子を窺い、足元のぬかるみを指さして注意を促した。

倒木を跨ぐ時は手を貸し、滑りやすい岩場では先に渡って安全を確かめる。

その一つ一つが自然で、当たり前の動作のように見えた。


「真さん、前にも思ったけど、そういうの慣れてるよね」


「前の職場で、配達先への道のりは常に安全第一でしたので」

「配達先って、郵便局の?」

「はい。雨の日も雪の日も、配達先に無事に届けるのが仕事でしたから」


リーンは少しだけ笑い、それから女神を振り返った。

「女神様、聞いた?雪の日もだって」

「聞いたわ。想像できる」

「やっぱりあの人の世界、頭おかしいのかな」

「大黒一人とは思わないけれど、でも——少しだけ、そんな世界を見てみたい気もする」


真は少しだけ歩調を緩め、空を見上げた。

霧が薄れ始め、東の空がほのかに朱を差している。


「前の職場では、配達先にどんな人がいるかは考えませんでした。荷物を待っている人がいる。それを届けるのが自分の役目。それだけでした」

「……それだけ?」


「でも、今は少し違います」

「何が」

「リーンさんや女神様と仕事ができることを、以前より明確に——」


真はそこで言葉を切り、しばらく考え込んでから言った。

手が、無意識に礼服の襟を直していた。

糊のきいた布が指先にわずかな抵抗を返す。

その感触に促されるように、彼は言葉を継いだ。

「『業務上の利点』として認識しています」

「今、絶対違うこと言いかけたよね」

「いいえ」

「真さん、目が泳いでる」

「気のせいです」


女神が笑いをこらえて咳払いをする。

リーンは頬を膨らませながらも、どこか嬉しそうに真の背中を見つめていた。

朝日がようやく顔を出し、三人の影が長く伸びていく。


やがて街道は森の中へと入っていった。

木々の密度が増し、空気がひんやりと変わる。

足元には苔が厚く敷き詰められ、一歩踏み出すたびに、土と腐葉土の混ざった深い匂いが立ち上った。枝の隙間から漏れる陽の光が、細かな網目模様を地面に描いている。


「この先が、ちょっと面倒なのよね」


女神が立ち止まり、前方を見据えた。

木々の間からは、かすかに魔獣の気配が漂っている。

まだ距離はあるが、無視して通れるかは微妙なところだ。


「迂回しますか」と真が地図を取り出す。


「迂回すると、どのくらい」

「半日はロスします」

「なら、まっすぐ行きましょう」


覚悟を決めたように女神が言いかけたその時、前方の茂みが揺れた。


現れたのは、大型の猪型魔獣だった。

泥に塗れた剛毛が逆立ち、鼻息が荒い。

ただ徘徊しているだけではない。

明らかにこちらを獲物と見なして、前足で地面を掻き、突進の機会を窺っている。


「出力、一割」


真が半歩前に出た。しかし、リーンがその袖をそっと引く。


「真さん、待って」

「どうされましたか」

「あれ、お腹、見て」


魔獣の腹は不自然に膨らみ、かすかに蠢いている。

猪型の魔獣は基本的に温厚な種族だ。

これほど攻撃的になるのは、妊娠中で縄張り意識が過敏になっている時だけ。


「なるほど。駆除ではなく追い払いに留めるべきですね」

「うん。急に方向転換すると転倒して、お腹の子に影響が出るかもしれない」

「では、私が注意を引きつけます。リーンさんは左から回り込んで、あの巨体を安全な方向へ誘導を」


真が地面の石を拾い、魔獣の右側に投げた。

石が乾いた苔の上で跳ね、魔獣の注意が一瞬それる。

その隙にリーンが左から回り込み、地面に手を当てた。

小さな魔力の光が、彼女の手のひらから零れる。


リーンの指先が、かすかに震えている。

それは恐怖ではない。新しい力と、それを使いこなせた確信がないことへの緊張だった。

以前の自分なら、迷わず魔力を暴発させていた。

でも今は違う。

彼女の手のひらから零れる光は、優しく、細やかで、まるで子守唄のように魔獣の歩みを包み込んでいく。


「こっち。こっちよ」


光に導かれるように、魔獣はゆっくりと方向を変え、森の奥へと消えていった。

剛毛が枝を擦る音が遠ざかり、やがてすべてが静かになる。


「……やった」

「お見事です」

「真さんのおかげ。一人じゃ無理だった」

「いいえ。適切な判断でした」


リーンが魔獣の後ろ姿を見送った後、そっと息を吐く。

彼女の手が、無意識に自分の腹に触れていた。

その仕草が何を意味するか、真は気づかなかったが、女神だけは見逃さなかった。

母を亡くした娘が、今、別の命を守る側に立っている。

女神はそんな二人を後ろから見つめ、小さく微笑んだ。


つい先日まで、自分の魔力の加減すらわからなかったリーンが、今は冷静に魔獣の状態を見極め、適切な対処を選んでいる。


その成長が、なぜだか自分のことのように嬉しかった。


真は、そんな女神の視線に気づき、小さくうなずく。

そのうなずきが、業務上の確認ではなく、個人的な感情の共有であることを、女神は確かに感じ取っていた。


森を抜け、小川に沿って歩くことしばらく。


真が手を上げて立ち止まった。


「ここで小休止にしましょう」

「真さんが休憩を提案するなんて」


「「「五分です」」」


三人の声が綺麗に重なった。


リーンは声を上げて笑い、川辺の岩に腰を下ろした。


真も珍しく少しだけ笑みを浮かべて、腰を下ろした。

それは、ほんの少しだけ口元が緩む程度だったが、誰の目にも明らかな変化だった。


水の流れがさらさらと音を立て、時折、魚が跳ねる小さな水音が混ざる。


水面には朝日がきらめき、その光が岸辺の草を金色に揺らしていた。

女神は持参した水筒から水を一口含み、空を見上げる。

雲がゆっくりと流れていた。


「そういえば、前にもこんな道を歩いたね」

「坑道の時ですね」

「うん。あの時は私、まだ勇者だって知らなくて、真さんをどう呼べばいいかもわからなくて」


「その節はご迷惑をおかけしました」


「違うよ。私が勝手にドキドキしてただけ。でも——」


リーンはそこで言葉を切り、水面を見つめた。

川のせせらぎが、沈黙を埋めるようにさらさらと響く。


「今は、ドキドキしても怖くない。それだけは、はっきりしてる」


「……そうですか」


真はそれ以上何も言わなかった。

でも、水筒をしまう手が、いつもよりほんの少しだけゆっくりだった。


女神はそんな二人を横目に、携行食の包みを開ける。

中から現れたのは干し肉と麦粉を固めたビスケット。

表面はこんがりと焼け、ほんのり塩の香りがする。

彼女はそれをリーンに差し出しながら、静かに言った。


「あなたたちを見てると、不思議な気分になるわ」


「どんな?」


「とても、古い友人たちのことを思い出すの」


「どんな友達?」とリーンが身を乗り出す。


「ずっと昔、私がまだ神になりたての頃に、人間の世界で出会った人たちよ。彼らもまた、何かを守ろうとして、不器用で、でも懸命で。それでも結局、時の流れには逆らえなかった。だけど、今のあなたたちを見ていると——あの時にできなかったことが、今ならできるかもしれないと思える」


リーンが驚いた顔で女神を見つめる。

これまでに何度か見せた、深いところを覗き込むような目だった。


「女神様にも、そんなことがあったんだ。ずっと神様として、すごい力を持ってて、迷いなんてないんだと思ってた」


「そんなことないわ。私は、何千年も迷ってきた。今も、迷ってる。でも——」

「でも?」

「迷っていいんだと、最近ようやく思えるようになったの」


女神はそう言って小さく笑った。

その目は、どこか遠くの、もういない誰かを見つめているようだった。


その目尻の皺が、先ほどよりもずっと深く刻まれていることに、リーンは気づいた。

何千年も生きてきた神が、今、自分たちと同じ時間を生きている。

その皺は、決して老いではなく、むしろ新しく生まれた感情の証のように見えた。


真は無言で立ち上がり、次の行程を確認するために地図を広げる。

その背中を見ながら、リーンは思う。

自分は、この旅の先で何を見るのだろう。

父と真と女神が同じ机につくところを。

彼女は自分の胸にそっと手を当て、大きく息を吸った。


「さて、行きましょうか」


女神が立ち上がり、荷物をまとめ始める。

リーンも岩から腰を上げ、真が地図をたたむのを待って歩き出した。

川を離れ、もう一度森の中へ。

陽が少しずつ高くなり、空気がぬるみ始める頃には、遠くの山の稜線がはっきりと見えるようになっていた。


やがて森を抜け、開けた高台に出る。

眼下には荒涼とした大地。赤茶けた岩肌と、ところどころに生える乾いた草。

人間たちが「不毛の地」と呼ぶ魔族の領土が、どこまでも広がっていた。

そしてその先、岩山の頂にそびえる黒い城。


「魔王城だ」


リーンの声は、誇りと緊張が混ざっていた。

その目は、まっすぐに城を見据えている。


真はしばらく城を眺め、それからいつもの声で言った。

「立派な城ですね。玄関はどのあたりでしょう」


「……感想、それだけ?」


「防犯上の観点からも興味深い構造です」


「玄関は目の前のあれだけど!」


「あの扉ですか!建物ひとつ入るほどの大きさにする意味ありますか?防犯上、あまり良くないかと。」


「ここに来るまでにどれだけの護衛警備いたと思ってるのよ!」


「なるほど!あえて城を大きくして、人員を配備!魔王は経済を回す根幹なのですね!」


「…はぁ…行こ。」


背後の女神が、堪えきれずに吹き出した。

リーンもつられて笑い、真はそんな二人を静かに見つめてから、また城へと視線を戻す。

遠くの城門を叩く音が、風に乗ってここまで届く。

その音には、わずかな鉄臭さが混じっていた。

門が、開きつつある。


「リーンさん」

「はい」

「あなたのご実家に伺うのは、初めてです」

「……うん」

「不手際のないよう努めます」


リーンはその言葉を聞き、そっと笑った。

「不手際」だとか「業務」だとか、そんな言葉はもうどうでもいい。

それでも、この男が「不手際のないように」と思っていることだけは、ちゃんと伝わってくる。


「真さん。私の父、きっと真さんのこと気に入ると思う」

「そうでしょうか」

「うん。だって、こんなに変わってるんだもん」

「よく言われます」


三人は再び歩き出した。

風に乗って、かすかに城の門を叩く音が聞こえる。

その音は、遠くから聞こえる太鼓のように規則正しく、三人の足音と重なって響いていた。

魔王城は、もうすぐそこだ。

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