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社畜の郵便配達員は異世界でも休まない  作者: 太幽


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第二十話「魔王からの招待状」

第二十話「魔王からの招待状」


翌朝、ギルドの床にはまだ夜の冷たさが残っていた。


モップの先が床板を滑るたび、かすかに杉の匂いが立ち上る。

まだ藍色の闇が窓の外を満たし、街は眠りの底にある。

真はいつも通り四時半に到着し、誰もいないフロアで一人、掲示板の依頼書を期限順に並べ替え、カウンターを布で拭き、観葉植物の葉に水滴を落としていく。


一連の動作に無駄はなく、ためらいもない。


昨日、リーンが誘拐され、女神が神界の命令に背き、傭兵崩れの男が床に崩れて泣いた。

そんな一日の翌朝とは思えぬ、いつも通りの静けさだった。

だが、彼が拭き終えたカウンターには副長の小ぶりなカップが伏せて置かれている。

リーンが昨日、両手で包み込んでいたあのカップだ。

真はそれを一瞬だけ見つめ、それから布で縁を丁寧に拭き、元の位置に戻した。

その指先が、ほんの少しだけ陶器の表面にとどまったのを、誰も見ていない。


空が白み始めた頃、副長が出勤してきた。

外套の肩には朝露がしっとりと滲み、脱ぐ間もなく足を止める。


「真さん、あんた昨日あれだけ動いて、もうか」


「おはようございます。在庫庫の棚を補修しておきました。ついでに戸棚の蝶番も——」


「人の話を聞けっつの」


副長は天を仰ぎ、それから諦めたように笑った。

カウンターに置かれた小ぶりなカップが、窓から差し込む朝日に照らされてかすかに光っている。

彼はそのカップを手に取り、指で縁をなぞってから、そっと戻した。

彼なりの安堵の確かめ方だった。

昨日、このカップの持ち主が無事に戻ってきたことを、誰よりも気にかけていたのは副長だ。

今も、目に見えぬ埃がついてはいまいかと指先で確かめる。

その仕草には、ギルドの副長としてではなく、ただの中年男の優しさが滲んでいた。


見習いが欠伸を噛み殺しながら顔を出したのは、それから間もなくのこと。

寝ぐせのついた髪を手のひらで適当に押さえつけながら、いつものように声をかける。


「副長、リーンさん今日来ますかね」


「さあな。昨日はあれだったし、さすがに一日くらい休むんじゃ——」


扉が勢いよく開いた。


「おはようございます!」


入ってきたのはリーンだった。

頬の傷には薄く軟膏が塗られ、深紅に近い黒髪はいつもより丁寧に梳かされている。

マントの裾には昨日の雨の名残がまだかすかに滲んでいたが、彼女の足取りには迷いがない。

手には小さな包み。

開けると、焼きたてのパンが二つ。

表面はこんがりと狐色に焼け、湯気とともに小麦の香りがフロアに広がった。


その香りに、見習いの腹がかすかに鳴る。

副長が咳払いでごまかした。


「差し入れ!昨日のお礼!」


「リーンさん、その傷——」見習いが顔を曇らせる。


「これくらい平気。女神様が手当てしてくれたし。それより真さん、一個は真さんの」


真はパンを受け取り、一瞥した。

表面の焼き色、気泡の入り方、耳の部分の成形。

それらを瞬時に観察し終えてから口を開く。


「焼き上がりから二時間以内。表皮の水分量から見て、おそらく西通りの——」


「もう、そういう分析はいいから食べて!」


「……いただきます」


真がパンを一口かじる。

サク、と小さく皮が崩れる音がして、湯気がほわりと立ち上った。

中はふわりと白く、噛むたびに小麦の素朴な甘みが広がる。

パンくずがひとつ、真の口元からこぼれ落ち、彼はそれを指先でつまんで、そっと口に戻した。

その仕草が妙に几帳面で、それでいてどこか愛おしい。


リーンはその様子をじっと見つめ、真が二口目を飲み込むのを確認してから、自分のパンにかぶりついた。

彼女の口元にパンくずがつき、それを指先で拭いながら、目を細める。


「おいしい」


「そうですね」


「真さんの感想、いつもそれ」


「客観的事実ですので」


真は真顔のまま、パンをもう一口かじった。

リーンはそんな真をちらりと見て、それから俯いて小さく笑う。

彼女の口元にはまだパンくずがついているが、それを指摘する者は誰もいなかった。


二人のそんなやりとりを、副長と見習いはカウンターの陰からそっと覗いていた。

見習いが声をひそめて耳打ちする。


「副長、あれ絶対いい感じっすよ」


「見るな。俺たちは仕事だ」


「でも——」


「後で俺にも一口くれ」


「副長ずるいっすよ!」


副長は咳払いを一つし、何食わぬ顔で在庫庫へ向かった。

その背中を見送りながら、見習いはにやにやと笑っている。

在庫庫の扉が閉まる瞬間、副長が小さくガッツポーズをしたのを、見習いは見逃さなかった。


控え室では、女神が机に向かっていた。


昨夜、リーンと別れた後も、彼女はほとんど眠っていない。

窓辺に立ち、月のない空を見上げながら、自分の選択を何度も反芻していた。

神界の命令に背き、リーンを守ったこと。

それは神としての自分を根底から揺るがす決断だった。

けれど、後悔はない。

むしろ、清々しさに近い感覚が胸の奥で静かに息づいている。


机の上には白紙の報告書。

今日も「特記事項なし」と書く。

嘘はもういちいち数えるのをやめたほど積み重なり、もはや日常の一部だった。

インク壺の蓋を開け、筆を取る。

羽根ペンの先がかすかに紙を擦る音だけが、静かな部屋に響く。

窓の外から、リーンの笑い声がかすかに聞こえてきた。

副長が何か言い、見習いが笑い、そしてリーンの声が重なる。

その響きを耳にするたび、女神の口元がほんの少し緩むのを、彼女自身は気づいていない。


——コン、コン。


扉をノックする控えめな音が二度。

ノックの間合いで、誰だかすぐにわかった。


「女神様、いる?」


「リーン、どうぞ」


入ってきたリーンの手には一通の封書があった。

封蝋には魔王城の紋章——二本の角を戴く城の印が、深紅の蝋で刻まれている。

紙は重く、折り目がきっちりと整えられ、手渡す彼女の指先は少しだけ震えていた。


「これ、父上から。女神様と真さんに、直接渡してほしいって。昨日のうちに届いてたんだけど、今朝まで待ってて」


女神は封を切った。

重みのある紙を二つ折りから開くと、几帳面な筆致の文字が並ぶ。

インクは濃く、紙の繊維に深く染み込んでいる。

書き手の気迫が、文字の一画一画から伝わってくるようだった。

それはまさしく、一国の王が書いた手紙だった。

けれど同時に、一人の父親が娘の友人に宛てた手紙でもあった。


(この丁寧さ…やっぱり魔族って種族が違うだけで思考や生活などは人間族と何も変わらないんじゃ…)


黙って読み進める彼女の目が、少しだけ見開かれた。


リーンはその表情の変化を見逃さず、ごくりと唾を飲み込む。


「魔王城への招待状。『話がしたい。三人で』」


「うん。真さんにも同じものが届いてるはず」


女神はゆっくりと封書を机に置き、窓の外を見た。


街は朝の光に包まれ、市場に並ぶ露店の掛け声が遠く聞こえる。

あの灯りの下には、人間も魔族も関係なく、今日を生き、明日を願う者たちがいる。

その灯りの一つ——魔王城の主が、今、手を差し伸べてきた。


勇者と女神を、自らの城に招くという。

それが何を意味するか、わからぬ者はいない。


「リーン」


「はい」


「あなたの父上は、勇者と女神を城に招くのがどんな意味か、わかっているの」


「わかってるよ。それでも、話したいんだって。昨日の誘拐の話が城に届いて、父は一晩中考えてたみたい。『もう待つだけの時は終わった』って」


女神はそれ以上は問わず、封書を机の引き出しにしまい込んだ。


その隣には、白紙の報告書の束が静かに並んでいる。


今日は「特記事項なし」に加えて、少し違う備考を添えようと思った。


『勇者、魔王城と和平交渉開始。詳細は後日』


嘘ではない。

ただ、すべては書かない。

そういう嘘もあるのだと、彼女はとっくに学んでいる。


「支度をしてくるわ」


「女神様」


「なに」


リーンは一歩近づき、そっと女神の手を握った。

昨日、倉庫で握り返してくれた手と同じ温かさが、今日もそこにある。


「ありがとう。本当は神界の立場とか、いろいろあるはずなのに」


「当然のことをしたまでよ」


その言葉に、リーンは真の顔を思い出し、少しだけ笑った。

でも今日は、それだけでは言い足りなかった。


「ねえ、女神様。私、ついこの前まで『人間の女神は敵だ』って思ってた。でも、今は違う。女神様がいてくれてよかった。真さんと二人だけじゃ、きっと辿り着けなかった」


女神はしばらく黙り、それからゆっくりと振り返った。

その目は、神の目というより、一人の年長の女性の目だった。

目尻に、かすかな皺が浮かんでいる。

それはこの数ヶ月で刻まれた、新しい表情だった。


「それは私も同じよ。あなたと大黒がいて、私は初めて『自分が守りたいもの』を言葉にできた」


「女神様——」


「さ、支度をしなきゃね。魔王城は初めてだから、お土産は何がいいかしら?」


女神はそう言って小さく笑い、クローゼットへと向かった。

リーンはその背中をじっと見つめてから、静かに部屋を出ていく。

廊下に出ると、胸の奥がじんわりと温かくて、彼女はひとり、壁に手を当てて深呼吸をした。

壁の冷たさが、手のひらを通して全身に行き渡り、少しだけ心臓の音が落ち着いた。


フロアでは、真が招待状を読み終えたところだった。


手紙を二度、三度と読み返し、裏面に記された簡易地図を指でなぞり、それから顔を上げる。

封蝋も紙質も、リーンが持っていたものとまったく同じだ。


「承知しました。では、明朝六時に出発とします」


「真さん、いいの?詳しいことも聞かずに」


「はい。依頼ですので」


「誰からの依頼?」


「魔王です」


副長がむせた。

見習いが目を白黒させる。


「ま、待て真さん、魔王だぞ。あの魔王だぞ。魔族の王。人間と戦争してる相手の大将だぞ」


「はい。先方からのご依頼ですので、早急に対応すべきかと」


「いやいやいや」


「それに——」


真はリーンの方をちらりと一瞬だけ見た。


(ん?一瞬私を見た?次に出てくる言葉は“業務ですので”この言葉を聞くと安心する…)


「リーンさんのご実家でもあります。ご挨拶に伺うのは、ビジネスマナーとして当然かと」


リーンは一瞬きょとんとして、それから耳の先をほんの少し赤らめた。

頬もみるみる桜色に染まっていく。

その赤みが首の先まで広がり、彼女は思わず俯いた。


「は?ちょっと待って!ご、ご実家……挨拶……?」


「違いますか」


「違わないけど!なんか違う!真さん、それ絶対わかってて言ってるでしょ!」


「いいえ。事実を述べたまでです」


「その顔がもう確信犯なんだって!」


副長は飲み物を吹き出し、腹を抱えて笑い始め、見習いはカウンターに突っ伏して肩を震わせている。

机の上に広げた書類が、副長の吹き出した飲み物でにじみ、見習いが慌てて布巾を投げる。

その布巾を受け取りながら、副長はまだ笑い続けている。


「ふ…副長!書類が…も、俺限界!腹が痛てぇー!」


リーンは一人であわあわと手を動かし、何か言おうとしては口を閉じ、また開き、結局「もう!」とだけ叫んで給湯室に駆け込んでいった。


フェアウェイに逃げ込んだ彼女が、カップを手に一人で深呼吸している姿を想像し、副長はさらに笑った。

カップの中の水が、彼女の震える手に合わせて小さな波紋を描いていることだろう。


真はそんなリーンの背中を静かに見送り、手帳を開いた。

備考欄にさらさらと書き込む。


『明朝より魔王城へ出張。往復二日を見込む。服装は通常業務と同様で可』

『なお、訪問理由は業務連絡および先方の親族への挨拶を含む』


「……挨拶含む、か」副長が横から覗き込み、また吹き出す。「真さん、あんたほんとにわかってるのか」


「何がですか」


「だからそういうとこだよ!」


副長は腹を抱えたまま、カウンターに手をついた。

その拍子に、小ぶりなカップがかすかに揺れて、小さな音を立てる。

副長はそれをそっと押さえ、それから苦笑いを浮かべた。


夕暮れ時。

ギルドの一日が終わり、副長と見習いが帰り支度を始める中、リーンは一人、裏手の中庭に立っていた。


空は茜色から紫へと変わり始め、一番星が一つ、また一つと静かに灯る。

石畳の隙間から顔を出した雑草が、夕風にゆらゆらと揺れていた。

彼女はそれをぼんやりと見つめながら、明日の旅路を思う。


真と、女神と、三人で魔王城へ。


父が何を話すつもりなのかはわからない。

わからないけれど——わかることが一つだけある。


(初めて、勇者と魔王が、同じ机につく)


その場に自分が立ち会えること。

それが、なによりも誇らしかった。

勇者の召喚は、本来なら魔王を討つためだ。

なのに真は、一度だって父を討とうとしなかった。

それどころか「依頼がなければ討ちません」と言い放った。

そんな勇者がいることを、父に、自分の言葉で伝えられる。

ずっと敵同士だった者が、話し合いの席につこうとしている。

それがどんなに奇跡に近いことか、彼女は誰よりも知っていた。


夕風が、彼女の髪をそっと揺らす。

深紅に近い黒髪が、金色の空を背景にふわりと舞い上がった。

彼女はその髪を耳にかけながら、もう一度だけ空を見上げる。

星が、また一つ増えていた。


「リーンさん」


振り返ると、真が立っていた。

手には手帳と、何やら小さな包み。

相変わらずの無表情で、でも、どこかいつもより距離が近い。

それだけで彼女の心臓が跳ねるのは、もうずいぶん前からの習慣だった。


「明朝の集合場所と時間を確認にまいりました」


「ギルドの前でいい?」


「はい。六時ちょうどに出発します。道中の安全を最優先に、出力は一割以下に抑えます。食事は携行食を用意しました。女神様には事前にルート図を提出済みです」


「ああ、うん。万全だね」


「何か不足があれば」


「……ねえ、真さん。私、嬉しいんだ。父上が真さんに会いたいって言ってくれて」


「そうですか」


「うん。だから、よろしくね」


真は少しだけ間を置き、手帳を閉じた。

そして、いつもよりほんの少しだけ低い声で言う。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


リーンはその一言に、また耳を赤くした。

「こちらこそ」——それは、彼が初めて自分から言った「よろしく」だった。

今までは、リーンが「よろしくね」と言っても、真は「はい」とか「承知しました」としか返さなかったのに。

そして彼女は、真がいつものように手帳を開いて明朝の計画を再確認し始める背中を、ただ静かに見つめた。

その目は、もう迷っていなかった。


夜。

控え室で、女神は一通の封書を認め終えたところだった。


蝋はまだ冷めやらず、封筒に押された紋章がかすかに揺れる。

神界行き。

宛名を書く手は、もう震えていない。


『勇者、魔族の姫と協力し治安維持に貢献。詳細は別途報告』

『追伸——私が守りたいものは、きっとあなたたちが思うより、ずっと広い』


最後の一行を書き終え、女神は窓の外を見上げた。

満天の星の下で、ギルドの灯りが静かに揺れている。

遠くの空の向こうに、明日、自分たちが向かう魔王城がある。

神としてではなく、一人の——母代わりとして。

リーンと真と、三人で歩く道を、彼女はもう怖がっていなかった。

封をした手紙を机に置き、窓辺に歩み寄る。

ガラスに映る自分の顔が、以前よりずっと柔らかく見えた。


明日は、魔王城。

その先に何があるかは、まだ誰にもわからない。

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