第十九話「誘拐、そして女神の選択」
第十九話「誘拐、そして女神の選択」
雨だった。
ギルドの窓を打つ雨音は、朝からずっと強く、弱く、を繰り返している。モップをかけたばかりの床に、玄関から吹き込んだ水滴が細かな染みを落とした。濡れた木材と、どこか遠くの竈で焚かれる煙の匂いが混ざる中、真はいつも通り四時半に到着し、棚の在庫を数え直していた。
「真さん、リーンさんまだっすかね」
見習いがカウンター越しに声をかける。その手には、副長が用意した小ぶりなカップが握られていた。今日は雨だから来ないかもしれない、と彼は思っている。真は顔を上げずに「おそらく」とだけ答え、黙って在庫リストに数字を書き込む。冷たい空気が足元を這い、湿気を含んだ床板がかすかに軋んだ。
副長が玄関で外套を払い、しぶきを散らす。「雨足、また強くなりそうだな」と呟く声は、どことなく沈んでいた。
そこへ、扉が勢いよく開く。
「すみません、遅くなりました!」
飛び込んできたリーンは、マントから滴る雨を気にする間もなく駆け込んだ。
深紅に近い黒髪が雨に濡れて重く光り、床に小さな水たまりが広がる。彼女の手には、濡れた布袋。中からは乾燥させた薬草の束が顔を出していた。真は即座にモップを手に取り、無言で水たまりを拭いていく。
「おはよう。雨、すごくて」
「いらっしゃいませ。どうぞ奥の席を」
真はいつもの水差しと、副長が用意した小ぶりなカップを差し出した。リーンはカップを覗き込み、目を輝かせる。
「あ、これ、ちょっと小ぶりでかわいい」
「副長がリーンさん用に用意したものです。手が小さいので、こちらの方が飲みやすいだろうと」
「副長が……?」
振り返ると、副長は必死に書類に目を落としている。聞こえていないふり、のポーズだ。
リーンは小さく笑い、カップを両手で包み込んだ。
湯気が立ち上り、彼女の冷えた指先にじんわりと熱が広がる。その熱さが、雨に濡れた肌には少しだけ沁みた。
見習いが「リーンさん、今日の薬草、いい香りっすね」と近づき、薬草の束に鼻を寄せる。
「本当だ、柑橘みたいな——」
「見習い、仕事に戻れ」
副長の声に、見習いは肩をすくめて持ち場へ戻っていった。リーンはもう一度だけ笑い、カップを口元に運ぶ。温かいお茶が喉を落ちていく感触が、雨の冷たさを洗い流していくようだった。
午前の依頼が一段落した頃、リーンはギルドを出て市場へと向かった。
見習いに頼まれた買い出しだ。雨は小降りになり、石畳にはあちこちに水たまりが光っている。露店の商人たちが、濡れた商品を拭きながら、明日は晴れるとかなんとか話し合っていた。
(なんか、見られてる?)
最初に感じたのは、かすかな違和感だった。路地の奥。黒い外套の男が一人、雨に濡れながらこちらを見つめている。その視線だけが、妙に熱を持っていた。リーンが振り返ると、男はゆっくりと背を向け、路地の闇に消える。
(気のせい——)
軽く首を振り、彼女は市場へと足を早めた。それでも、胸の奥に小さな棘が刺さったような違和感が残る。雨音の合間、自分の足音だけがやけに大きく響いていた。
買い物を終え、ギルドへの帰り道。
人通りの少ない路地を抜けようとした時、背後から足音が二つ、三つ、増えた。雨に濡れた石畳を踏む音。迷いのない、迷いのない——狙いすました足運び。
リーンが足を速めようとした瞬間、目の前に一人の男が立ち塞がった。
傭兵崩れの男。酒場で「勇者がなんだ」と吐き捨てていた男だ。手には使い込まれた剣。刃こぼれの跡が無数に走り、それでも手入れだけはされた刃が雨に濡れて鈍く光っている。男の目には暗い炎が宿っていた。
「魔族の姫だな」
声は低く、唸るようだった。リーンは一歩後退しながら、短く問い返す。
「何の用」
「勇者様が魔族に甘いのは、お前が取り入ったからだろ」
男が歪んだ笑みを浮かべ、距離を詰めた。吐く息からは、安酒と古い煙草の匂いが混ざって漂う。
「魔族の姫が勇者を誑かして、物資を横流しさせてる——街じゃそう言われてるぜ」
「違う、真さんは自分の意思で——」
リーンの声を遮るように、男の剣が鞘から抜かれた。鈍い金属音が路地に反響し、雨に濡れた壁に吸い込まれていく。
それと同時に、リーンの手のひらに魔力の光が宿った。
「来るな!」
叫び声とともに放たれた光が、路地を白く染め上げる。
ギルドの扉が勢いよく開いたのは、それから間もなくのことだった。
飛び込んできたのは、元傭兵のリーダー格の男。泥にまみれ、肩で荒く息をし、その手は震えている。雨と汗が混ざった雫が、床にぽたりぽたりと落ちた。
「勇者様!リーンさんが!」
真が即座に手帳を閉じて立ち上がる。
「どうされましたか」
「さらわれました!傭兵崩れの連中です!魔族に肩入れするなって息巻いてた奴らで——止めようとしたんですが、間に合わなくて!」
その声を聞き、副長が椅子を蹴るように立ち上がった。見習いの顔から血の気が引いていく。ギルドの中が緊迫に包まれる中、真は手に持ったペンを静かに机に置いた。
「場所は」
「旧倉庫街の外れです。人数は五人、武器は剣と短弓——」
「十分です」
真は背負い袋を手に取り、出入り口へと向かう。その顔からは感情が消えていた。
「待ちなさい、大黒」
階段の上から響いた声に、ギルド中の視線が集まる。女神がゆっくりと降りてきた。その顔に迷いはない。
「今回、私も同行します」
「女神様——」と副長が驚きの声を上げるが、彼女は首を振って制した。
「私の観察対象は大黒だけじゃない。あの娘もまた、私にとって大切な存在よ」
真は女神の目をまっすぐに見つめ、短く頷いた。
「承知しました。では二手に分かれましょう」
その顔に、すでに迷いはなかった。
旧倉庫街の扉を破った瞬間、煤と埃と錆びた鉄の匂いが一気に押し寄せた。
薄暗がりの中、柱に縛りつけられたリーンの姿が目に入る。口には布が巻かれ、頬には一筋の傷。赤く腫れたその傷口からは、まだ新しい血がにじみ、マントの襟に染みを作っていた。手足を縛る荒縄が、彼女の細い手首に食い込んでいる——だがその目は、決して折れていなかった。
真が一歩踏み出すより先に、女神が動いた。
「手を出さないで、大黒」
女神の右手がかざされ、倉庫内に淡い光が満ちる。傭兵たちが一斉に武器を構えたその瞬間、祈りの詠唱が空間を震わせた。止まっていた空気が動き、かすかな羽音のような響きが一気に膨れ上がる——次の瞬間、光の奔流が傭兵たちを薙ぎ払い、壁に叩きつける。無数の埃が舞い上がり、視界を遮った。
「女神様——」
リーンが掠れた声を上げる。拘束されながらも、その両目ははっきりと見開かれていた。
女神は傭兵たちに歩み寄り、静かに見下ろした。
「あなたたちは、守るべきものを間違えたのよ」
声に怒りはなく、むしろ深い悲しみが滲んでいる。
女神が指をかざすと、縄がほつれるように解け、口布が静かに床に落ちた。リーンはしびれた手首を振り払う間もなく、女神の手を取られる。指先が震えているのが、互いの手に伝わった。
「……どうして…あなたが動けば大変なことになるかもしれないのに…」
「理由がなければ、助けてはいけないの?」
あの坑道でのリーンの問いかけと、同じ響きを持つ言葉だった。リーンの目から涙がこぼれ、乾いた床に小さな染みを作る。
「私は——あなたが、笑っているところをもっと見たいの、理由はそれで十分」
「女神様……」
リーンは声を詰まらせながら、女神の手を握り返した。その手の温もりが、互いの存在を確かめ合う。
女神はもう迷わなかった。
その時、柱の陰から最後の一人が飛び出した。
酒場で「勇者がなんだ」と吐き捨てていた男。手にした短剣を逆手に構え、狙いはリーンの背中。捨て身の突貫だった。
「大黒!」と女神が叫ぶ。
真の体は、もう動いていた。雨に濡れた床を滑るように踏み込み、一息で男の懐に入る。空気を裂く短剣の音。真は首を傾けただけでそれをかわすと、男の手首を右手で静かに掴んだ。力を入れているようには見えない。ただ、触れただけ。
「出力、五分」
「がっ——」
骨の砕ける音は、しなかった。
代わりに、ストンと力が抜ける小さな音がした。手首の関節が外れたのだ。男の指から短剣が滑り落ち、床に落ちた刃が倉庫の埃で曇る。真はそれを見下ろしながら、静かに言った。
「お怪我は」
男は震えながら真を見上げた。濡れた床に尻もちをつき、肩で息をしながら、それでも必死に問いかける。
「なぜだ、なぜ殺さない……おれは、魔族に、お前の大事な——」
「大事な、ですか」
真は少しだけ首をかしげ、リーンの方をちらりと見た。
その視線に気づき、リーンが慌てて俯く。女神はそんなリーンの肩をそっと抱き寄せた。
真は再び男に向き直る。いつも通りの、淡々とした声で。
「業務上のパートナーです」
倉庫に一瞬の沈黙が落ちた。
静寂を破ったのは、女神の小さな笑い声だった。肩の力が抜けたような、それでいて温かな響き。
リーンもつられて声を上げて笑い、涙を拭いながら「ここで言う?」と呟いた。
真は男の前にしゃがみ込み、手帳から一枚の紙を破り取って差し出した。
「お名前を」
「な、なんで……」
「仕事は誰かを幸せにするためにあるべきだと、私はそう思います。あなたにも、そういう仕事を見つける権利がある」
武器を並べ終えた真は、集めた短剣の刃を倉庫の壁側に向け、安全な状態に整える。男は呆然とそれを見つめ、やがて声を殺して泣き始めた。その嗚咽を、雨音が静かに包み込む。煤と錆びた鉄と、冷えた石の匂いだけが倉庫に残った。
倉庫を出ると、雨はすでに上がっていた。
雲の切れ間から陽の光が差し込み、濡れた石畳が金色に輝いている。水たまりに映る空を、風が小さく揺らしていた。
「申し訳ありません、女神様。雨の中を」とリーンが俯きながら言う。
「いいえ」
女神はリーンの手を握ったまま、静かに首を振った。
「むしろ感謝したい。あなたが私に選択の機会をくれた。神としてではなく、一人の——」
「女神様……」
女神は言葉を切り、リーンの髪についた埃をそっと払い落とす。その指先は驚くほど優しく、傷ついたリーンの頬にそっと触れて離れた。
「帰りましょう、ギルドへ」
「……うん」
真は少し離れた場所で待っていた。二人の様子を静かに見守りながら、手帳を開いて何かを書き込んでいる。ペンの走る音だけが、濡れた街に響いた。
「大黒」
「はい」
「あなたの報告書に『女神が神界の命令に背いた』と書くなら、それで構わないわ」
「書きません」
真の返事は即座だった。
「これは業務上の判断です。救助活動の一環として、女神様の同行を私が要請した。報告書にはそう書きます」
「……大黒」
「それに——」と真は珍しく言葉を継いだ。「リーンさんは、ギルドにとって大切なお客様です。それで十分です」
「それで十分、か」
女神が小さく呟く。リーンはまた少しだけ泣いた。温かい涙が手の甲に落ち、雨の名残と混ざって消えていく。
夜。控え室の窓辺で、女神は月のない空を見上げていた。
机の上には白紙の報告書。嘘はもう七度目になる。今回の件を報告すれば、リーンの救出が正当化されるかわりに、神界は彼女を「利用価値のある捕虜」として拘束を命じるだろう。それを防ぐためには、書かないしかない。いや、書きたくないのだ。
「特記事項なし」
女神が封筒に宛名を書く。今回は、短い備考も添えた。
『勇者、魔族の姫と協力し治安維持に貢献。詳細は別途報告』
嘘ではない。ただ、すべては書かない。そういう嘘もあるのだと、彼女は学んだ。
そこへ、扉がノックされた。
開けると、リーンが立っている。手にはカップが二つ。コーヒーもどきの、かすかに焦げたような苦い香りが控え室に広がった。
「女神様、ありがとう。今日のこと」
「当然のことをしたまでよ」
その言葉に、リーンは真の顔を思い出して少しだけ笑った。女神も笑い返し、カップを受け取る。湯気が細く立ち上り、ランタンの灯りに揺れて見えた。
リーンは少しだけ迷って、それから口を開いた。
「えっと、前に言ったよね…私、母上を小さい頃に亡くしてて」
「リーン」
「なんか今日、女神様に助けられた時、母上がいたらこんな感じだったのかなって。それで、ガラにもなく泣けてきて。ごめんなさい、変なこと言って」
女神はカップを床に置き、両手を広げた。
「おいで」
リーンは目を見開き、それから恐る恐る女神の胸に飛び込んだ。少し冷たい体。でも、とても温かい腕。雨の日に感じる柑橘の香りが、リーンの鼻をくすぐる。女神はリーンの頭をそっと撫でながら、静かに言った。
「私もね、あなたに会ってから、自分が変わったのを感じてる。神としてではなく、一人の——」
「……一人の?」
「あなたの、母代わりのようなものかしら」
「女神様、それはちょっとポジションがずるいです」
「あら、そうかしら」
「もう少し、甘えていい?」
「もちろんよ」
二人は顔を見合わせ、声を潜めて笑い合った。笑い声は静かに夜の闇に溶け、窓の外では雲の切れ間から星が一つ、顔を出した。
在庫庫では、真が一人、明日の朝礼の準備をしていた。
手帳には今日の業務記録。傭兵たちの身柄引渡し、リーンの救出、女神の同行、倉庫の後始末。それらを淡々と数字と事実に落とし込んでいる。ペンの走る音だけが、静かな在庫庫に響いていた。
「真さん、まだ仕事してるんですか」
リーンが立っていた。手には水差しとカップ。今度は冷たい水だ。真はペンを置き、彼女に向き直る。
「リーンさんこそ、もう休まれるべきでは。お怪我もあったでしょう」
「こんなの、かすり傷だよ」
「それより真さん、今日はありがとう」
「業務ですので」
「……お礼くらい気持ちよく言わせなさい!まったく!」
真は少しだけ間を置き、それから言った。
「どういたしまして」
いつもの「当然のことをしたまでです」ではなかった。
「ねえ、真さん。さっき、あの傭兵に言ってた『業務上のパートナーです』って」
「はい」
「それだけ?」
真は首をかしげる。
「他に何か」
「ううん、なんでもない」
リーンは小さく笑い、カップを真に差し出した。真はそれを受け取り、いつものようにカップの底に小さな布を敷いて机に置く。水差しから冷たい水を注ぐまでの、その手つきに無駄はなかった。
冷えた陶器の表面に水滴が浮かび、指先が少しだけ冷える。リーンはそのカップを両手で包み込み、一口含む。硬い水が喉を落ちていく感触が、やけに心地よかった。
「……また依頼が入ったんですか」と真が尋ねる。
「うん。明日、真さんと一緒に受けようと思って。今回はちゃんと加減します」
「それは結構なことです」
真の口元が、ほんの少しだけ緩む。リーンはそれを見逃さなかった。
胸が大きく跳ねる。それでも彼女は何も言わず、ただ冷たい水をもう一口、ゆっくりと飲んだ。
第四章「誤配達と噂」 完




