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社畜の郵便配達員は異世界でも休まない  作者: 太幽


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第十八話「不穏な影、そして清掃隊の偵察」

第十八話「不穏な影、そして清掃隊の偵察」


誤配達から二日が過ぎ、街の空気は少しずつ変わり始めていた。


「聞いたか、勇者様が魔族に物資を」

「ああ、あの村は昔から魔族との行き来があるとこだろ」

「でもよ、人間の物資を魔族に回してるってのは、ちょっと」


酒場では相変わらずの噂話。

だが、その声には以前のような単なる好奇の色だけでなく、かすかな不満の響きが混じり始めている。薄暗がりのカウンターで、傭兵崩れの男が一人、グラスを見つめながら呟いた。


「ふん……魔族にまでいい顔するとはな」


その男がカウンターに数枚の銅貨を置き、立ち去る。残されたグラスには、まだ半分以上の酒が揺れていた。


グラスに残った酒の表面に、天井の梁が歪んで映っている。

その歪みを誰も見ていなかった。

ただ、酒場の隅でネズミだけが、こぼれた酒のしみを舐めていた。


ギルドの朝は、今日も変わらずに巡ってくる。


真は午前四時半、誰よりも早く到着し、床を磨き、依頼書を並べ替え、観葉植物の葉に水をやる。その手つきは正確で、窓から差し込む朝日だけが、彼の動きに合わせて床の上を静かに滑っていく。


「真さん、ちょっと」


副長が難しい顔で真を呼び止めた。手には一通の封書。封蝋には領主の紋章が押されている。


「領主から、あの村への誤配達について正式な説明を求められてる。なぜ事前に相談しなかったのか、物資の使途は適切だったのか——」

「説明資料はすでに作成済みです」


真は手帳から一枚の紙を取り出した。そこにはこう書かれていた。


『誤配達経緯説明書』

『一、本来の届け先と誤認した事実の確認』

『二、誤配達先の現地調査および緊急性の検証』

『三、返品より現地での活用が合理的と判断した根拠』

『四、次回以降の再発防止策』

『五、領主への事後承認申請』


その字はいつも通り几帳面で、読み手に誤解を与えないよう配慮された、真の流儀そのものだった。

だが、インクの染みが三箇所。

普段の彼ならありえないことだ。

それだけこの説明書に神経を使ったのか、あるいは——。


「……あんた、いつの間に」

「昨夜のうちに。残業ではありません。自主的な作業です」


副長は深いため息をついたが、その口元はかすかに緩んでいる。

「こりゃ領主も何も言えんな」と呟き、封書を受け取って去っていく。

真は何事もなかったかのようにカウンターへ戻り、次の依頼書を手に取った。


その背中を見送る副長の手の中で、領主からの封書がかすかに音を立てた。

封蝋の硬さが、領主の怒りの度合いを物語っている。

だが副長は、それよりも真のインクの染みの方が気になっていた。


控え室の窓辺で、女神は街の様子を静かに見つめていた。


窓ガラスが朝の冷気でうっすらと曇り、街の景色をぼやけさせている。

その曇りを指先で拭うと、冷たさが指に染みた。

下の通りでは、見慣れた風景が広がっているのに——どこか遠くがかすんで見える。

まるで、何かがこの街を覆い始めているような、そんな予感。


机の上には、今日も白紙の報告書。嘘はもう六度目になる。だが今回は、少しだけ状況が違う。街の噂が、少しずつ悪い方向に傾き始めている。あるのは、匿名の投書や、領主への密告めいた声。


(大黒の行動が、ここまで波紋を広げるとは)


真の「誤配達」は善意によるものだったが、それが人間側の一部を刺激した。かつて魔族に家族を殺された者、魔族との戦いで仲間を失った者。そうした人々の傷を、真は意図せずにえぐってしまったのだ。


(それでも——)


女神は静かに目を閉じる。あの村の子どもたちの笑顔を思い出す。真が届けたのは食料だけじゃない。誰かに見捨てられた人々にとって、それは「あなたたちは忘れられていない」という証明だった。そのことを思うと、女神の胸は少しだけ温かくなった。


胸に手を当てる。

そこには、神としての冷たい理屈ではなく、ただの温かな鼓動があった。

その鼓動を感じるたびに、彼女は思う。

私はもう、神だけではないのだと。


窓の外では、リーンが真と何やら話している。リーンが笑い、真がいつものように首をかしげている。あの二人を見ていると、不思議と心が落ち着く。


(私の嘘は、まだ続けられる)


女神は白紙の報告書を引き出しにしまい、立ち上がった。今日は、ギルドのフロアでコーヒーもどきでも飲もうか。そんな気分だった。


部屋を出る時、扉の枠に手をついた。

あの夜、廊下で壁に頭をぶつけた場所が、まだほんの少しだけ凹んでいる。

彼女はその凹みを指でなぞり、それから小さく笑った。

もうあんなドジは踏まない。

でも——あの夜がなかったら、今の自分はなかった。


「真さん、これ、見て」


リーンが差し出したのは、小さな布の包みだった。中から現れたのは、乾燥させた薬草の束。微かに柑橘のような香りが漂う。野営の時にリーンが採取していた魔獣避けの薬草だ。


布を開いた瞬間、ふわりと立ち上った柑橘の香りが、ギルドの埃っぽい空気を一瞬で塗り替えた。

副長がカウンターから顔を上げ、見習いが鼻をひくつかせる。

それは、リーンが初めて自分の手で生み出した「ギルドへの貢献」の香りだった。


「あの後、もう少し研究してみたの。これ、魔獣避けだけじゃなくて、傷薬にもなるんだって。見習い君に教えてもらった」

「それは有用ですね」

「でしょ。ギルドの在庫に加えてもいいかな」

「ええ、ぜひ」


真が薬草を受け取り、手帳に『リーンさん提案、新規在庫候補』と書き込む。リーンはそれを横から覗き込み、小さく笑った。


「私が提案しただけで、ちゃんと書き留めるんだ」

「提案は業務改善の基本です」

「……真さん、私のこと、少しは戦力として認めてくれてる?」

「もちろんです。すでに戦力として計算に入れています」


その言葉に、リーンの指先がぴくりと動いた。

胸の前で組んだ指を、無意識にぎゅっと握りしめる。

「戦力」——それは、ただの「お客様」ではないということだ。

彼女の喉の奥がかすかに熱くなった。


リーンは一瞬きょとんとして、それから耳の先をほんの少し赤らめた。真に「戦力」と言われることが、こんなに嬉しいとは思わなかった。


「じゃあ、もっと役に立たないとね」

「期待しています」


二人がそんなやりとりをする横で、見習いが副長に耳打ちする。


「副長、あれって」

「見るな。俺たちは仕事をしろ」

「でも、なんかいい感じじゃないっすか」

「だから見るなっつってんだ。お前、空気読めるようになったんじゃなかったのか」

「あれはリーンさんがいない時の話っす」

「そうかよ」


副長は天を仰ぎつつ、引き出しの中の小さなカップをそっと撫でた。もうこの引き出しのカップを使う日も、そう遠くないかもしれない。


リーンの背後で、誰にも見えないように、女神が親指を立てていた。

その親指はすぐに引っ込められ、何事もなかったかのように彼女はカップを口に運ぶ。

コーヒーもどきの苦さが、今日はなぜか甘く感じられた。


「あの、ちょっとよろしいでしょうか」


ギルドの扉から、か細い声が聞こえた。振り返ると、痩せた老人が立っている。手には擦り切れた布袋。中には数枚の銅貨と、わずかな干し野菜が入っているだけだった。


老人の手は節くれ立ち、指の関節は長年の農作業で黒ずんでいる。

その手が差し出した布袋は擦り切れ、つぎはぎだらけだった。

だが、そのつぎはぎの一つ一つが、精一杯の感謝の形だった。


「村から参りました。先日は、本当にありがとうございました。これ、ほんのお礼です。村中で集めました」


真は袋を受け取り、中を検めた。銅貨の枚数を数え、干し野菜の状態を確認し、それから静かに首を振った。


「規定の報酬額に達していません。しかし——」

「しかし?」

「手数料と相殺すれば、依頼は成立します。ご依頼ありがとうございました」


老人の目から涙がこぼれた。乾いた土の上に染み込んでいく涙を、真はただ静かに見つめ、それからいつもより丁寧に領収書を手渡した。


領収書を受け取る老人の手が、真の指にほんの少し触れた。

冷たく、骨ばった、しかし確かな温かさのある手だった。

真はその手を離さず、もう一度だけ老人の目を見つめた。

何も言わなかった。言葉は必要なかった。


夕刻。ギルドの在庫庫で、真は一人、明日の朝礼の準備をしていた。


手帳には今日の業務記録。依頼の達成率、物資の在庫、明日の予定。それらを淡々と数字に落とし込んでいる。ペンの走る音だけが、静かな在庫庫に響いていた。


在庫庫の棚には、リーンが持ち込んだ薬草の束が、ラベル付きで整理されている。

そのラベルには、真の字で「リーンさん提案、新規在庫候補。傷薬として応用可能」と書き添えられていた。

誰に頼まれたわけでもない。彼が自主的に追記したのだ。


「真さん」


扉のところに、リーンが立っている。手には水差しとカップ。湯気は立っていない。今日は冷たい水のようだ。


「そろそろ休まないと。まだ病み上がりなんだから」

「完治しました」

「そういうことにしておくけど」


リーンは真の隣に腰を下ろした。距離は近い。膝が触れそうで触れない。


その微妙な距離に、彼女の心臓は今日も静かに跳ねている。

でも、その鼓動を隠すのはもうやめようと思っていた。

だって、この距離を許しているのは、真さんの方でもあるのだから。


「ねえ、真さん。あの村、これからどうなると思う?」


真はペンを置き、少しだけ考えてから答えた。


「わかりません。ただ」

「ただ?」

「物資を届けたことで、冬を越せる可能性は高まった。それだけで十分だと思います」

「……十分?」

「はい。次の冬は、またその時に考えればいい。今はこれで十分です」


リーンはその言葉を聞き、小さく笑った。いつもの真だった。先のことを考えないわけじゃない。でも、今できることを、今やるだけ。それが彼の生き方だった。


「じゃあ、次の冬もまた誤配達だね」

「……そうなるかもしれません」


真の口元がほんの少しだけ緩む。リーンはそれを見逃さず、自分の胸が大きく跳ねるのを感じた。


その笑みは、これまでで一番わかりやすかった。

リーンはそれが嬉しくて、でも口にすると消えてしまいそうで、ただじっと真の横顔を見つめ続けた。

在庫庫のランタンが、二人の影を一つに重ねて壁に映している。


その夜、酒場の隅に集まった五つの影があった。


かつて真に敗れ、誓約書にサインした傭兵たち。今はギルドの清掃係として、誇りを持って床を磨く日々を送っている。今日も仕事を終え、汗を流した後の一杯を楽しんでいた。


「おい、聞いたか。勇者様の噂、あんまり良くねえ方向に」

「ああ。魔族に肩入れしてるって、陰で言う奴がいるらしい」

「ふざけんなよな。俺たちが一番よく知ってる。あの人は、誰が何であろうと助けるんだ」


リーダー格の男が、カップを静かに置く。酒の表面に映る自分の顔を、じっと見つめながら。


「なあ、俺たちにできることはねえか」

「できること?」

「ああ。勇者様に恩返しするって言っただろ。今がその時かもしれねえぞ」


残る四人は顔を見合わせ、誰からともなく笑い始めた。


「お前、賞金首だった頃よりずっと目が真面目だな」

「うるせえ。それでどうする?」

「街で変な噂が流れてないか、俺たちの耳で探ってみよう。俺たちみたいな元悪党の方が、そういう闇の噂は入ってきやすい」


リーダーが立ち上がり、残りの四人もそれに続く。五人は静かに酒場を出ていった。その背中は、かつて誰かを追い詰めていた頃とは全く違う静かな決意に満ちていた。


酒場の扉が閉まる時、蝶番がきしんだ。

その音は、真が毎朝油を差すギルドの扉のきしみとは違う。

もっと重く、もっと軋んだ、この街の闇を物語るような音だった。

テーブルの上には、五つのグラスが残されている。

中身はすべて、水だった。


夜も更けたギルドで、一人の男が扉を開けた。


その手には、擦り切れた革の手袋。腰には使い込まれた剣。酒場で「勇者がなんだ」と吐き捨てていた傭兵崩れが、薄暗がりの中に立っている。掲示板をねめつけ、それからゆっくりと中へと足を踏み入れた。壁には、先日の誤配達についての報告書が貼られている。村人の感謝の言葉と共に。


「……魔族に肩入れする勇者、か」


男は報告書をじっと見つめ、それから無言でギルドを出ていった。その足音が遠ざかる頃、街は深い眠りに落ちている。誰も、その男の目に何が宿っているかを知らなかった。


男が去った後の扉の前で、清掃隊の一人が息を潜めていた。

彼は酒場での話し合いの後、一人でギルドの見回りをしていたのだ。

暗がりの中で、彼は傭兵崩れの男の顔をしっかりと目に焼き付けた。

その目に宿っていたのは、怒りか、憎しみか、それとも——。

いずれにせよ、見過ごせるものではなかった。


ただ、ランタンの灯りだけが、誰もいないギルドの床を静かに照らし続けていた。

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