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社畜の郵便配達員は異世界でも休まない  作者: 太幽


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第十七話「波紋、そして顧客管理の倫理」

第十七話「波紋、そして顧客管理の倫理」


村からの帰り道、真の足取りはいつも通りだった。


夕暮れの森を抜け、街へと続く道を淡々と歩く。背負い袋は空になり、肩の荷は軽い。リーンはその隣を歩きながら、時折、真の横顔を盗み見ていた。


空気には夕暮れ特有の青みが混ざり始め、遠くの山稜が紫色に滲んでいく。

夕餉の支度をする煙が、村の方角から細く立ち上っていた。

煙の匂いが風に乗ってここまで届き、二人の鼻先をかすかにくすぐる。

それは、ついさっきまで自分たちがいた村から立ち上る煙だった。


「真さん」

「はい」

「あの誤配達、絶対わざとだよね」


真は少しだけ間を置いてから答えた。


「……配送業務において、臨機応変な対応は時に求められます」

「それ、自分で納得するための言い訳でしょ」

「言い訳ではありません。業務の一環です」


リーンは小さく笑った。この男はどこまでも「業務」で通すつもりらしい。でも、彼女にはもうわかっている。あの村で干し芋を受け取った子どもの笑顔を、真もまた目に焼きつけていることを。


真の指先が、背負い袋の紐を無意識に弄っている。

空になった袋の口を、何度も閉めたり開けたり。

それは彼が何かを考えている時の癖だった。

きっと、次の「誤配達」の算段でも立てているのだろう。

リーンはその指先を見つめながら、口元が緩むのを止められなかった。


街に戻ると、いつもと変わらない夕暮れの賑わいが広がっていた。

パン屋が最後の焼き上がりを店先に並べ、鍛冶屋が炉の火を落とし始める。

市場の商人たちは露店を片付けながら、明日の仕入れについて声を掛け合っている。その中を、真とリーンは並んで歩く。


パン屋の籠からは、焼きたての香りが最後のひと息を吐き出すように流れてくる。

その香りに、リーンの腹がかすかに鳴った。

真は何も言わなかったが、ほんの少しだけ歩く速度を緩める。

パン屋の前を通り過ぎる時間が、ほんの半呼吸分だけ長くなった。


「そういえば、さっきの村長さん、何て言ってたかわかる?」


「魔族の言葉が混ざっていましたね。『ありがとう』を二度、言っていたかと」


「……真さん、魔族の言葉、わかるの?」


「単語をいくつか。前の職場で、配達先に外国の方が多かったものですから」


「郵便局って、そんなとこなの……?」


リーンは呆れつつも、胸の奥がかすかに温かくなるのを感じていた。この男は、いつだって相手を選ばない。人間も魔族も、言葉すらも。


真の横顔はいつも通り無表情だったが、その口元がほんの少しだけ緩んでいるのを、リーンは見逃さなかった。

「ありがとう」の言葉を正しく聞き取れたことが、嬉しかったのだろうか。

それとも——「ありがとう」と言われたことが、嬉しかったのだろうか。


翌朝、ギルドの朝礼で副長が難しい顔をしていた。


「真さん、例の村への物資支援だが」

「はい」

「領主から苦情が来た。『なぜ事前に相談がない』『勝手に物資を動かすな』とな」


「必要だったから届けました。事前相談をしている余裕はありませんでした」


副長は深いため息をつき、手に持った苦情の手紙を机に置いた。


その手紙の紙質はやけに上等で、封蝋には領主の家紋がくっきりと刻まれている。

苦情というより、ほとんど恫喝に近い文面だった。

副長はその紙を、まるで汚物でも扱うかのようにつまみ上げ、机の隅に追いやった。


「まあ、俺も気持ちはわかる。だがな、真さん。あんたのやり方は正しいが、正しいだけじゃ通らないこともある。上の人間は、手続きだの根回しだのが大好きでな」


「では、次回からは事前に申請書を提出します」


「……いや、そういう問題でもないんだが」

「現地の状況報告書と、物資の使用明細も添えます」


「話を聞け!」


副長が天を仰ぐ。見習いがそれを見て苦笑する。


「真さん、副長は『やり方が強引すぎる』って言いたいんですよ」

「強引……そうでしょうか」

「そうですよ。でもまあ、助かった村もあるわけですし」


見習いの言葉に、副長はもう一度ため息をついてから、口元をわずかに緩めた。


そのため息は深かったが、怒りではなかった。

むしろ、手のかかる子どもたちを見守るような、呆れ混じりの愛情だった。


「ま、死ぬほど怒られるのは俺の役目だ。真さんはこれからも仕事を続けてくれ」


「……感謝します」


真は深く頭を下げた。その声はいつも通り淡々としているが、副長にはそれが精一杯の感謝だとわかっていた。


頭を下げた拍子に、真の襟元がわずかに乱れる。

それはリーンが畳んだ着替えだった。

副長はそれを見て、何か言いかけて——やめた。

代わりに、小さく肩をすくめてカウンターへ戻っていく。


同じ頃、誤配達の噂は街の酒場にも広がっていた。


「聞いたか、勇者様が魔族領の村に物資を届けたらしい」

「魔族にか?」

「正確には境界の村らしいがな。人間も魔族も住んでるんだと」

「ふーん……でもよ、なんでまた魔族なんかに」


テーブルを囲む男たちの声が、酒場の喧騒に混ざって消える。その中で、奥の席に座っていた男が静かにグラスを置いた。


グラスがカウンターに触れる音が、やけに硬質で、一瞬だけ酒場の喧騒を切り裂いた。

男の手は節くれ立ち、指の関節には古い傷跡が無数に刻まれている。

冒険者崩れの傭兵だろう。


年の頃は三十代後半、無精髭を生やした顔に、深い皺が刻まれている。手には幾多の戦いで傷ついた剣が立てかけられていた。男はグラスを見つめたまま、低く呟く。


「正義の味方気取りか。気に入らねぇな」


「やめとけよ、相手は勇者だぞ」


「勇者がなんだ。魔族に肩入れするような奴は、人間の敵だ」


男はそれ以上何も言わず、グラスをあおった。周囲の者たちもそれ以上は深入りせず、話題は別のものに移っていく。ただ、その男の目だけは、暗い炎を宿したままだった。


酒場の隅では、ネズミが一匹、こぼれた酒のしみを舐めている。

そのネズミを、男は無造作に足で追い払った。

蹴り飛ばされたネズミが壁にぶつかり、かすかな悲鳴を上げて消える。

それを見ていた者は、誰もいなかった。


その夜、女神はギルドの控え室で一人、机に向かっていた。


窓の外には三日月。街は静かに眠りにつき、聞こえるのは遠くの犬の遠吠えだけ。机の上には、今日も白紙の報告書が一枚。彼女の嘘は、もう五度目になる。


(大黒が、また動いた。今回は誤配達という形で物資を届けた)


インク壺の蓋を開け、羽根ペンを手に取る。書きかけて——やめる。


ペン先が紙の上でかすかに震え、インクが小さな染みを作った。

女神はその染みをじっと見つめ、それから几帳面に二重線で消そうとして——やめた。

染みはそのまま残った。

彼女の嘘が、こうして形になっていく。

紙の上の染みは、彼女の迷いの跡であり、同時に決意の跡でもあった。


(報告すべきか?いいえ、報告できない。報告すれば、神界は間違いなく大黒の行動を問題視する。そして——)


魔族に物資を流した勇者。神界の掟に背いた存在。

最悪の場合、真の勇者資格剥奪もあり得る。それを防ぐためには、書かないしかない。

彼女の嘘はもう習慣になっていた。いや、習慣というより——彼女の意志だった。


(私は、私の正しいと思うことをしている)


女神はペンを置き、封筒に宛名を書いた。神界行き。中身は白紙のまま。


「……今日も、特記事項なし」


誰に言うでもなく呟いて、彼女は封蝋を押す。その手は、もう震えていなかった。


封蝋が固まるまでの数秒間、女神はただじっと窓の外を見つめていた。

三日月が、雲の切れ間から顔を出す。

その光は、遠くの村も、このギルドも、等しく照らしている。

それでいい、と彼女は思った。

それだけでいい。


ギルドの在庫庫では、ランタンの灯りの下で、真が一人、棚の整理を続けていた。


手には在庫リスト。物資の残量。消費ペース。今後の必要量。それらを淡々と数字に落とし込み、明日以降の補充計画を立てている。


在庫庫の片隅には、リーンが分類した薬草の束がきれいに並んでいる。

真はその束を手に取り、ラベルを確認し、少しだけ目を細めた。

変異種のラベルには、リーンの字で「薬効成分高いかも?」と添え書きがしてある。

その文字の横に、真は小さく「確認済。通常の約一・三倍」と書き足した。


(今回の誤配達で、在庫は予定より二割減少した。補充が必要だが、通常の発注では領主の承認が必要になる)


真は手帳を開き、新たな項目を書き加えた。


『領主への事前申請書、雛形を作成。次回の緊急支援に備える』

『なお、緊急時に事前申請が間に合わないケースを想定し、事後承認のフローも検討すべき』


「真さん、まだ仕事してるんですか」


声がして振り返ると、リーンが在庫庫の入り口に立っていた。手には水差しとカップ。


その水差しは、いつも真がリーンに水を注いでいるものと同じだった。

今日はリーンがその役を買って出たのだ。

水差しの持ち手を相手の方に向けて差し出す仕草は、まだぎこちないが、確かに真の癖を真似ていた。


「リーンさんこそ、こんな時間に」

「真さんがまだ帰ってないから。それに、そろそろ休まないと」


リーンはカップを真に差し出した。真はそれを受け取り、小さく頷く。


水を一口含み、真の喉が静かに上下する。

その喉の動きを、リーンはじっと見つめていた。

いつもは自分が水を飲まれている側なのに、今は逆だ。

その不思議な感覚が、少しだけ胸を温かくする。


「……そういえば、今日、ギルドで面白い話を聞きました」

「面白い話、ですか」

「真さんが魔族まで助けるのを見て、次は何を届けるんだろうって」


「何を届けるかは、依頼次第です」

「じゃあ、依頼があれば、魔王城にだって?」


真は少しだけ考えてから、淡々と答えた。


「ええ。配達先を選びませんので」


リーンは目を丸くし、それから声を上げて笑った。笑い声が在庫庫に響き、ランタンの灯りがそれに合わせて揺れる。


在庫庫の棚の上で、ほこりが一つ、ふわりと舞った。

リーンの笑い声に驚いたのか、それとも真の言葉に驚いたのか。

どちらでもいい。ただ、この場所が今日はいつもよりずっと温かく感じられた。


「……じゃあ、その時は私が案内する。魔王城、結構迷いやすいから」


「それは助かります」


「でも、父が驚くかもね。勇者が荷物持ってくるって」


「事前に連絡を入れれば問題ないかと」

「そういう問題じゃないんだけどなあ」


リーンはなおも笑い続けた。真はその様子を静かに見つめ、それから手帳にこう書き足した。


『今後の業務拡大に備え、魔王城までの地図を入手すること。案内役はリーンさんに依頼予定』


その文字を見て、リーンの笑い声がさらに大きくなった。在庫庫の外では、その笑い声を聞きつけた副長が「また真さんがなんかやったな」と呟きながら、自分の引き出しの中の小ぶりなカップをそっと撫でていた。


そのカップは、最近ではリーンが来るたびに副長自ら取り出して茶を淹れるようになっていた。

今ではもう、箱に入れられてはいない。

カップは副長の机の上で、いつでも使えるように控えている。


酒場の奥、薄暗がりの中に集う五つの影があった。


かつて真に敗れ、誓約書にサインした傭兵たちである。


今はギルドの清掃係として、朝から晩まで床を磨き、窓を拭き、時には真から「仕事の選び方」について講義まで受けている。そんな五人を、酒場の常連たちは「床磨き隊」と呼んでからかっていた。


「おい、聞いたか。勇者様が魔族に物資を流したってよ」

「ああ。おかげで俺たち、また睨まれてる」

「『元賞金首が床磨きなんて、魔族に魂を売ったから』だってよ」


リーダー格の男は、カップをぐいと呷る。その目は、どこか達観していた。


カップの中身は、やはり水だった。

酒はもう、随分前にやめている。

金がないからではない。

明日も朝から床を磨くために、二日酔いで仕事に穴を開けるわけにはいかないからだ。


「まあ、いいじゃねえか」

「なにがだよ」

「俺たちが綺麗にした床を、魔族の誰かが踏むかもしれねえ。そしたら、ちょっとは世の中変わるかもしれねえ」

「お前、前よりずっと丸くなったな」

「そうか?そうかもな」


男は自嘲気味に笑い、それから静かに言った。


「——『仕事は誰かを幸せにするためにある』。今になって、ちょっとわかってきた気がする」


残る四人は一斉に黙り込み、それからそれぞれが小さく笑った。


誰かがカップをそっと持ち上げ、水を一口含む。

その仕草は、以前のようにがぶ飲みするのではなく、ゆっくりと味わうように優しかった。

水の味を、こんなにちゃんと感じたのはいつぶりだろうか。


誰も否定しなかった。夜が更け、酒場は少しずつ客が減っていく。それでも五人は、しばらくそこに座り続けていた。


かつて賞金首だった彼らが、今はギルドの縁の下の力持ちとして、確かに誰かの役に立っている。


その事実が、言葉よりも雄弁に彼らの変化を物語っていた。


酒場の親父が、無言でカップに水を継ぎ足した。

水はタダだった。

だが今夜は、その水がやけにうまかった。

五人は互いに何も言わず、ただじっと水を見つめている。

その水に映る自分たちの顔は、もう賞金首のそれではなかった。

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