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社畜の郵便配達員は異世界でも休まない  作者: 太幽


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第十六話「完治、そして最初の依頼」

第十六話「完治、そして最初の依頼」


真が目を覚ましたのは、熱に倒れてから三日目の朝だった。


寝台の上でゆっくりと上体を起こす。頭の奥にこびりついていた鈍い重みは消え、手足のだるさもない。窓から差し込む朝日が、床の上にきれいな長方形を描いている。空気は冷たく、どこか遠くで鳥が鳴いていた。


(……三日、か)


手帳を開く。最後の記録は、倒れる前の夜のものだ。ペンを握る指に力が入る。字は乱れていない。問題ない。


真は手帳を閉じ、両手をじっと見つめた。

軽く拳を握り、開く。指の動きに問題はない。

(——熱で寝込むなど、前の職場ならありえなかった)

もっとも、前の職場ならば倒れる前に誰かが代わりを立てただろう。

ここには代わりがいない。それが彼にとってはむしろ心地よかった。


真は立ち上がり、枕元にきれいに畳まれていた着替えに袖を通した。誰が用意したかは明白だった。布の折り目は几帳面で、襟元がきちんと揃っている。その畳み方は、ギルドの在庫庫の布のそれと同じだった。リーンがギルドで覚えたのだろう。彼女の三日間が、この一枚の着替えに詰まっている。真はそれに袖を通す時、ほんの一瞬だけ手を止めた。理由は自分でもわからなかった。ただ、布がいつもより柔らかく感じられた。 隣には、乾いた布と水差し、そして小さな花が一輪。宿の裏手に咲いていた野花を、誰かが摘んできたのだろう。花の茎はまだ湿っていて、ついさっきまで誰かが手に持っていたことを示している。彼はそれらを順に手に取り、逐一「問題なし」と呟きながら、出勤の準備を整えた。


ギルドの扉を開けると、湿った木材と埃の匂いが静かに迎え入れる。


まだ誰もいない。真はいつものようにモップを手に取り、床を磨き始めた。モップの先が床を滑る音だけが、静かなギルドに響く。規則正しいリズム。磨き上げられた床に朝日が差し込み、小さな埃が金色に舞う。窓を開け放てば、焼きたてのパンの香りと、湿った石畳の匂いが流れ込んできた。何も変わらない。ただ、三日ぶりだというだけだ。


床を磨き終え、真は自分の手のひらをじっと見つめた。

モップの柄を握っていた指が、かすかに赤くなっている。

わずか三日休んだだけで、手の皮膚がわずかに柔らかくなっていた。

(すぐに元に戻る)

彼は軽く拳を握り直し、次の業務に取り掛かった。


「——って、真さん!?」


出勤してきた副長が、ギルドの床を磨く人影を見て絶句した。その後ろから顔を出した見習いも、目をまんまるに見開いている。


「おはようございます。本日より業務に復帰します」


「ちょっと待て、あんた昨日まで寝込んでたんだぞ」


「完治しました。問題ありません」


真は軽く拳を握っては開き、指の動きを確かめるように数秒見つめてから、再び視線を副長に戻した。

その動作を副長は呆然と見つめている。


「問題あるだろ!普通はもっと休むもんだ!」


副長の叫びをよそに、真は掲示板の依頼書を期限順に並べ替え始める。その手つきに無駄はなく、迷いもない。


「真さんっ!」


そこに飛び込んできたのはリーンだった。手には水差しと布。昨夜まで真の看病をしていた彼女は、今朝も真の宿に向かい、もぬけの殻の寝台を見て慌ててここまで来たのだろう。深紅に近い黒髪が乱れ、息も切れている。頬には、寝不足の隈がうっすらと残っていた。その隈の濃さは、三日間の看病がいかに大変だったかを物語っていた。だがリーンの口元は、怒りよりも安堵で緩んでいる。


「よかった、もう動いてる……」


「おはようございます、リーンさん。ご心配をおかけしました」


「心配なんてもんじゃないよ。あんなに熱出して、三日も寝込んで——」


「ですが、もう完治しました。ご覧の通りです」


真は両手を広げて見せた。身振りはいつも通り、声もいつも通り、視線の据え方もいつも通りだ。リーンはしばらく真の顔をじっと見つめ、それから深く息を吐いた。


「……副長」


「なんだ」


「真さんに、今日は軽い依頼だけにしてください」


「わかってる。というか、そうする」


「私は軽いも重いも——」


「真さんは黙ってて」


リーンの口調は有無を言わさず、副長もまた深く頷く。真は何か言いたげだったが、二人の剣幕に押されてか、そのまま受付カウンターへと向かっていった。


カウンターに座る時、真の腰がほんの少しだけ軋んだ。

三日間寝ていたせいで、体の節々がまだ固まっている。

彼は無意識に腰をさすり、それからすぐに手を止めた。

そんな仕草を誰かに見られるのは、業務に支障があると判断したのだろう。


その様子を、控え室の窓から静かに見つめる女神がいた。彼女は手にしたカップを口元に運びながら、三日前の夜のことを思い出していた。リーンが真の手を握り、自分が壁に頭をぶつけた夜。あの後、真の熱は朝にはすっかり下がっていたという。


(よかった。本当に。あの夜、リーンが真の手を握っていた姿を思い出す。廊下で壁に頭をぶつけた自分の間抜けさも。それらすべてを、今は愛しく思えた)


女神はカップを机に置き、白紙の報告書をそっと引き出しにしまい込んだ。今日も「特記事項なし」。もう慣れたものだ。窓の外では、リーンが真に何やら詰め寄っている。見習いがそれに加わり、副長が呆れたように仲裁に入る。ギルドのいつもの朝が、今日も始まろうとしていた。


午前の半ば。ギルドに一通の依頼書が届いた。


差出人は、魔族領にほど近い小さな村の村長。字は震え、墨が何度も掠れている。


『食料が底をつきました。このままでは冬を越せません。どなたか、どうか——』


副長が眉をひそめる。


「この村、確かここ数年ずっと不作続きでな。領主も見放して、誰も助けに行かないんだ。ギルドの在庫から少し回せないこともないが、量が量だし、報酬も期待できん。緊急性は高いが、採算は合わん——」


「私が届けます」


真の返事は即座だった。副長が顔を上げる。


「真さん、あんた病み上がりだぞ」


「完治しました。問題ありません」


「それに、この村への道中は最近魔獣の目撃情報も——」


「であれば、なおさら早急に届けるべきかと」


黙って話を聞いていたリーンが、一歩前に出た。


「副長、私も行きます」


「リーンさん——」


「真さんのパートナーですから」


見習いが何か言いかけて、副長に肘で小突かれた。口をへの字に曲げている。その仕草に、リーンは思わず笑いそうになった。副長はしばらく二人の顔を交互に見つめ、それから深いため息をついた。


「……わかった。ただし真さん、無理はするなよ。リーンさん、何かあったらすぐに引き返せ」


「了解です」


「任せて!」


真は在庫庫へ向かい、保存食の袋を次々と背負い袋に詰めていく。乾燥肉、麦、干し芋。それらを手早く検品し、リストにチェックを入れながら、最後に袋の口を固く縛った。


真の手は、まだ完全には戻っていない。

袋の口を縛る時、普段なら一瞬で終わる作業に、ほんの少しだけ時間がかかった。

三日間のブランクが、指先の感覚にわずかな鈍さを残している。

(問題ない。業務に支障はない)

彼はそう自分に言い聞かせ、次の袋に手を伸ばした。


リーンも自分の背負い袋を手に取り、水筒と包帯を詰め込む。そして何より——真が無理をしないか、監視する役目も忘れずに。


街を出て、しばらく歩いたところで、リーンが口を開いた。


「真さん、今日の夜ごはん、私が作るね」


「リーンさんが、ですか」


「うん。魔獣避けの薬草も採ってきたし。ギルドのみんなに教わったんだ。食べられるかはわからないけど」


「……わかりました」


道中、真が地図を確認しながら先を歩き、リーンはその後ろをついていく。時折、リーンが地面にしゃがみ込み、草の葉を摘む。魔獣避けの薬草を探しているのだ。その手つきは慣れたもので、真はそれを見て少しだけ目を見開いたが、何も言わなかった。


「これでよしっと」


満足そうに呟くリーン。その横顔は、ギルドで水を飲んでいる時よりずっと生き生きとしていた。


日が傾き始めた頃、二人は森のほとりで野営の準備を始めた。


リーンが簡易的な鍋を火にかけ、摘んできた薬草を湯に放つ。かすかに柑橘のような香りが立ち上り、周囲の空気が少しだけ和らいだ。


「魔獣避けになるって言われてたんですけど、効果あるんですかね」


「わかりません。ただ、少なくとも悪くはない香りです」


「……真さんの感想、いつもこれだね」


リーンが苦笑しながら、乾燥肉を細かく裂いて鍋に入れる。


「俺は客観的に評価してるだけだけど…」


「それが、本当に食べられるかどうかの方が大事なんだけど——そこはスルー?」


リーンは一つため息をついたが、どこか楽しげだった。


「…ん?……あーーー!今、俺って言った?言ったよね?」


リーンは普段聞きなれない一人称を聞けて興奮した。


「い…いえ、気のせいですよ!さぁ食べましょう!」


食事を終え、辺りが暗くなり始めた頃、リーンが口を開いた。


「真さん、一つだけ聞いていい?」


「はい」


「前の仕事、配達員だった時の話。覚えてる?」


真は少しだけ間を置き、それから静かに答えた。


「ええ。毎日、決められたルートを、決められた時間に、決められた荷物を届ける。それが仕事でした」


「楽しそうだった?」


「……楽しい、という感覚はあまりありませんでした。ただ、荷物を待っている人がいる。それを届けるのが自分の役割だと、それだけでした」


リーンはその言葉を聞き、小さく笑った。


「それ、今も一緒じゃん」

「そうですね」


テントの中は、意外と広かった。二人が並んで横になっても、少し余裕がある。


夜の冷気が、テントの布地を通してじんわりと沁みてくる。

地面の下からは土の冷たさが背中に伝わり、時折、遠くでフクロウが鳴く声が聞こえた。

火の粉がはじける小さな音だけが、二人の沈黙を優しく埋めている。

テントの入り口から差し込む月明かりが、リーンの横顔を青白く照らしていた。


「……真さん、寝る?」


「もう少ししたら。今日の記録をつけたいので」

「そっか」

リーンは目を閉じた。


真は手帳に今日の道中と積荷の状態を記録していたが、ふと顔を上げてリーンの方を見た。彼女は横向きに寝転がり、規則正しい寝息を立てているように見える。だが、そのまつ毛が微かに震えていることには、気づかなかった。


リーンもまた、寝たふりをしていた。


心臓がうるさい。真が手帳を閉じる音。革袋にしまう音。そっと横たわる気配。それだけで、鼓動が早くなる。こちらを向いているのかどうか、それすら気になって仕方ない。瞼の裏に、月明かりがぼんやりと赤く透けている。今、目を開けたら何が起きるだろう。そんなことを考えながら、彼女は指一本動かせずにいた。


(落ち着け、私は魔族の姫だ。戦場でも動じなかったのに、なんで——)


そこまで考えて、リーンは思い直す。それが戦場と同じではないからだ、と。


どれだけ時間が経っただろう。真の寝息が聞こえ始めた。規則正しく、穏やかな呼吸。


テントの中を満たしていた夜の冷気が、二人の体温で少しだけ和らいでいく。

狭い空間が、かえってその温かさを逃がさずにいた。


リーンはそっと目を開け、真の寝顔を見つめた。目を閉じたその顔は、仕事をしている時よりずっと穏やかで、少しだけ幼く見えた。


彼女はそっと手を伸ばした。触れるか触れないかの距離で、指先が止まる。

真の寝息が、彼女の手のひらをかすかにくすぐった。

それだけで十分だった。今はまだ、これだけで。


「……おやすみ」


呟いて、そっと目を閉じる。心臓はまだうるさいけれど、それでも彼の隣は何故か落ち着いた。


朝。リーンはぼんやりと目を覚ました。


寝袋の中で体を動かすと、隣にあったはずの体温がない。彼女は一瞬息を呑み、それから小さく笑った。何を期待していたんだろう。でも——その「何か」に名前をつけることは、もう怖くなかった。 テントの出入り口が開け放たれ、外の冷たい空気が流れ込んでいる。彼女は少しだけ残念に思い、すぐにそんな自分に苦笑した。


(……あれ?)


起き上がると、テントの外で火を起こす真の姿が見えた。彼女が寝ている間に、彼はもう動き出していたのだ。


「あ、おはよう」


「おはようございます。よく眠れましたか」

「うん。真さんは?」


「……ええ」


彼の答えは少し間があった。だが、リーンはその微妙な間の意味を気にせず、柔らかな朝の光を浴びながら伸びをした。道中はもうすぐ終わる。今日中に村に着く予定だ。


「真さん、朝ごはんは?」


「昨日の残りがあります。温めましょう」


彼が手際よく鍋を火にかける。リーンはその背中を見つめながら、頬を緩ませた。


村へと続く道の最後の難所、岩場の登り口で、リーンが足を滑らせた。


「っ——」

「大丈夫ですか」


真が振り返り、手を差し伸べる。その手を掴んでよじ登りながら、リーンは自分の耳が熱いのを自覚する。


リーンの手を握った真の指が、彼女の指をずらさないように、一度だけ位置を確かめる。

効率的で、無駄のない、いかにも真らしい動作だった。

でも、彼女の指を握った時に、ほんの少しだけ力が強まったような気がした。


「だ、大丈夫」


「気をつけてください。この辺りは岩が脆い」

「……わかってる」


その後も、真が先に立って安全を確かめ、リーンが続く。


その距離は、昨日よりずっと近く感じられた。


森を抜けると、小さな谷間にその村はあった。


家々は傾き、煙を上げる煙突はわずかばかり。痩せた犬が一匹、二人を見てかすかに尾を振ったが、すぐに地面に伏せてしまう。村人たちの頬はこけ、子どもの笑い声はどこからも聞こえない。


廃村一歩手前だった。

鶏の鳴き声も、畑を耕す音もない。

あるのは、風に揺れる傾いた戸板のきしみと、かすかに聞こえる赤ん坊の泣き声だけ。


「……ひどい」


リーンが呟く。真は無言で、村長らしき老人のもとへ歩み寄った。


「ギルドの者です。依頼の品をお届けに参りました」


「ああ……ありがとうございます。本当に……本当にありがとうございます……」


村長の目から涙がこぼれ、乾いた土の上に染みを作る。その涙を見て、真はただ静かに頷き、背負い袋から食料を取り出し始めた。


「保存食が三袋。麦が二袋。干し芋が一袋。あと——」


「真さん、それは」


「在庫庫にあった余剰物資です。本来は別の村宛でしたが、配送の都合でこちらに」


リーンは目を丸くした。別の村宛の物資など、見た覚えがない。ギルドの在庫庫にそんな余剰があっただろうか。真はいつもの無表情で、次々と袋を村の倉庫に運び込んでいく。


「真さん、それって」


「誤配達です。本来の届け先に送ると手間なので、こちらで受け取っていただけると助かります」


真の声はいつも通りだった。だが、その目は村の子どもたちが群がる様子を静かに追っている。痩せ細った子どもが、干し芋を手に取り、母親と顔を見合わせて笑った。その笑顔を視界の隅に収めながら、真はすでに次の袋を開けていた。


視界の隅で子どもが笑うたび、真の手が一瞬止まった。

といっても、それはほんの半呼吸ほどの間だ。

本人も気づいていないだろう。

だがリーンにはわかった。

この人は今、自分が「誤配達」と呼んだこの行為を、心のどこかで噛みしめている。


(これは、ごまかしてる。でも——誰かのためになってる)


リーンにもわかった。真は最初から、ギルドの余剰物資をここに届けるつもりだったのだ。それを「誤配達」と呼ぶことで、彼はこれをただの業務として処理しようとしている。困っている人がいるから、助ける。それだけを静かに、淡々と。


リーンは真の隣にしゃがみ込み、自分も袋を開け始めた。


「私も手伝う」


「助かります」


「……真さん、次はちゃんと言ってくださいね」


「何をですか」


「——ううん、なんでもない」


彼女は小さく笑い、干し芋を一人の子どもに手渡した。子どもは恥ずかしそうに受け取り、それから破顔して母親のもとへ駆け寄った。母親の腕に抱かれた赤ん坊が、よだれを垂らしながら干し芋をじっと見つめている。その赤ん坊の手が、干し芋を掴もうと小さく開かれては、まだ届かずに閉じる。その光景を見送りながら、リーンは胸の奥がじんわり温かくなるのを感じていた。


誤配達だとか業務だとか、そんな言葉はもうどうでもよくて、ただここに笑顔があることが嬉しかった。


リーンはもう一度、真の横顔をちらりと見た。

彼はすでに次の袋を開け、村人に手渡している。

その手つきは、いつも通り正確で、無駄がない。

でも今は、それが冷たくは見えなかった。


森を抜けると、視界が開けた。かつて山があった方角には、いま低い丘があるだけだ。あの日、真が消した山。でも今はその丘に、新しい草が芽吹き始めている。リーンはその景色を指さして笑い、真はいつものように「そうですね」とだけ答えた。 二人の影が、来た時よりもずっと近く並んで、村からの道をギルドへと戻っていく。


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