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社畜の郵便配達員は異世界でも休まない  作者: 太幽


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第十五話「熱の夜、ふたりの秘密」

第十五話「熱の夜、ふたりの秘密」


真が眠りについた夜、部屋の隅では小さなランタンが揺れていた。


その灯りのそばで、リーンは膝を抱えて座っている。壁に背を預け、時折、寝台の上の真を見つめ、またランタンに目を戻す。額に当てた布が乾いてきたら水に浸し、絞って、また乗せる。その繰り返しをもう何度したかわからない。


布を絞る指先が、井戸水の冷たさでかじかんでいる。

それでも彼女は手を休めなかった。

休める理由がなかった。

真が休んでいる間、自分が休むわけにはいかない——そう思っているうちに、彼女は真と同じ「休めない人」になりつつあった。

もっとも、その理由は真とはまったく別のところにあったのだが。


真の寝息は規則正しく、熱はまだ下がりきっていないが、少なくとも悪化はしていないようだった。


そんなリーンのもとに、静かに扉を開けて入ってきたのは女神だった。


手には小さな包み。湯気を立てるカップが二つ。コーヒーもどきの、かすかに焦げたような苦い香りが部屋に広がる。見習いが「リーンさん、夜は冷えますから」と持たせてくれたものだ。


カップを受け取ったリーンの指先に、じんわりと熱が広がる。

井戸水で冷え切っていた手が、ゆっくりと解凍されていくようだった。

彼女は両手でカップを包み込み、立ち上る湯気にそっと鼻を近づけた。

苦い香りの奥に、ほんの少しだけ甘さが隠れている。このコーヒーもどきは、見習いがわざわざ蜂蜜を足してくれたものだった。


「ありがとう、女神様。でも、こんな夜中に」


「私も、少し話したくて」


女神はリーンの隣に腰を下ろした。床に直に座るには少し冷えるが、今は気にならなかった。ランタンの小さな火が、二人の影を壁に揺らしている。


女神のローブの裾が、床の埃をかすかに掃く。

彼女がこの部屋に来るのは初めてだった。

真の倒れた宿——その窓からはギルドの看板が見える。

その看板を目印に、彼女は夜の街を一人で歩いてきたのだ。

月明かりだけを頼りに。


しばらくの沈黙。真の寝息だけが、規則正しく響く。


「……大黒のこと、好きなの?」


女神の唐突な問いに、リーンは危うく手に持ったカップを落としそうになった。

熱いコーヒーもどきが波打ち、かろうじてこぼれずに済む。


「な、ななな、何言ってるんですか!」


「違うの?」


「違わない、ですけど……急に言われると心の準備が」


「あら、準備が必要なことだったの」


「ちょっ…女神様、そういう言い方ずるい」


リーンは頬を膨らませ、カップを両手で握りしめた。

湯気が顔にかかり、もともと熱かった頬がさらに火照る。


心臓がうるさい。

女神様に聞こえているんじゃないかと思うほど、胸の奥で暴れている。

この鼓動は真さんに手を握られた時よりも、もしかしたらうるさいかもしれない。

だって、誰かに「好きなの?」と面と向かって言われたのは初めてだった。


「……好きだよ。だって、いつも変わらないんだもん。私が魔族の姫でも、勇者でも、敵でも味方でも、真さんはただの一度も態度を変えなかった、そんな人間見たことない」


「ええ」


「私、嬉しかった。——気づいたら、もっと一緒にいたいって思ってて」


その言葉を声に出した瞬間、胸の奥がすとんと軽くなった。

言葉にすることで、自分の気持ちが初めて自分の中で確定したような、そんな感覚。

好きだ。そうか、私はそうだったのか。


真が寝返りを打つ。二人の視線が一斉にそちらへ向いた。

布団がずり落ち、肩がはだけている。


リーンがそっと布団を掛け直す。その手つきは、驚くほど優しかった。


指先が、真の肩にほんの少しだけ触れる。

布団を掛けるついでの、ほんの一瞬の接触。

熱はまだ少し高い。でも、さっきよりは確実に下がっている。

その体温を指先で確かめて、リーンは安心したように小さく息を吐いた。


「……だから、真さんが倒れた時、すごく怖かった。このまま、もし何かあったらって」


「大丈夫よ。この男は、山を消すほどの人だから」


「それとこれとは別だよ」


リーンの声は少しだけ尖っていた。

冗談で受け流してほしくなかったのだろう。

それに気づいた女神が、小さくうなずく。


リーンが真の額に手を当てる。まだ熱い。

けれど、さっきよりは少しだけ下がった気がする。

彼女はほっと息をつき、それから女神に向き直った。


「……ねえ、女神様」


ランタンの灯りが、また揺れた。


窓の外で夜風が枝を揺らし、かすかに遠吠えのような音が聞こえる。

どこかの犬だろうか。それとも——

女神は窓の外に一瞬だけ目をやり、それからリーンに視線を戻した。


リーンはしばらく黙り込み、どこから話そうか迷っていた。


「私、ずっと言えなかったことがあるの」


女神はカップを床に置き、リーンの方に体を向けた。

ランタンの橙色の光が、女神の横顔に柔らかな影を落としている。


カップの底が床に触れる小さな音。

その音が、これから話されることの重みを、静かに予感させていた。


「真さんに、聞かれたらどうしようって思ってた。あなたは私の父を討つのかって、あの時、聞いたけど——答えは聞いたけど、それでもずっと怖かった」


「……魔王のこと」


「うん。私の父はね、ただ魔族の領土を守りたいだけなの。人間と同じように、畑を耕し、家を建て、子どもが笑える場所を作ろうとしてる。でも、勇者が来るたびに——」


リーンの声が、少しだけ震えた。


その震えは、恐怖ではなく、不条理への静かな怒りに近かった。

父のことを話す時、彼女の声はいつもこうだ。

誇りと、悔しさが、混ざり合っている。


「父は、昔、勇者に仲間を殺されたの。降伏した若い兵士も、父の目の前で。勇者は『正義のためだ』って言って、躊躇なく」


「……知ってるわ」


「え…」


「神界の記録に残っている。二十年前の勇者。歴代でも指折りの実力者だった。ただ、彼は人間以外を一律に敵とみなしていた…」


女神は目を伏せる。その声には、後悔にも似た響きがあった。


「神界は、そういう勇者を作り上げてきた。魔族は悪。人間は守るべき存在。それ以外の可能性を、考えようともせずに。私も、その一人だった」


「女神様……」


「でも今は違う。少なくとも、私は——」


「うん」


そこで一旦言葉を切り、リーンはカップを口に運んだ。冷めはじめたコーヒーもどきが、かすかに苦い。


苦味が舌に残る。

でも、嫌な苦さではなかった。

この苦さは、むしろ今の自分の気持ちにぴったりだと思った。


「でもね、不思議なんだ。真さんは勇者なのに、私たちを助ける。敵だとか味方だとか、そういうの全部すっ飛ばして、ただ『お客様』って。あの感じ、よく言えば合理的だけど——」


女神も少し呆れた顔をして一呼吸ついた

「悪く言えば、何も考えてないのよね」


「そう!本人、何も考えてないんですよ!」


二人は顔を見合わせ、それから声を潜めて笑った。


声を潜めたのは、真を気遣ってのことだ。

でも、笑いをこらえきれずに肩を震わせる二人の姿は、ランタンの灯りに映って、まるでいたずらを成功させた子どものようだった。


なにしろ隣には、その「何も考えてない男」が高いびきで眠っているのだ。


笑いが収まった後、リーンは続けた。


「父はね、今回の勇者のこともすごく調べてる。山を消したって聞いて、最初は本当に怖がってた。でも、傭兵を更生させて、魔族の集落に物資を届けて、娘を助けて——父も、わからなくなったみたい」


「……魔王が、そんなことを」


「うん。それに、私が真さんと一緒にいることが、父にとっては唯一の希望なんだって。勇者とわかり合えるかもしれない、そう思わせてくれる存在だって」


「だから、あの時、城を出る許可をくれたのね」


リーンは頷く。


ランタンの灯りが、また揺れた。


「そういえば、カルロのこと、覚えてる?」


「あの、冒険者の」


「はい。カルロが来たあの日、真さん、めちゃくちゃ報告書を書き損じてたんですよ」


「三枚もね」


「知ってたんですか」


「控え室から見ていたわ」


女神はカップを手に取り、一口含んだ。

すっかり冷めたコーヒーもどきは、苦味だけが舌に残る。


冷めたコーヒーもどきは、淹れたてよりずっと苦い。

でも今は、その苦さがちょうどよかった。

嫉妬の話をするのに、甘い飲み物は似合わない。


「あれはね、嫉妬よ」


「え」


「恋愛経験がなくても、それくらいはわかるわ」


「嫉妬って……真さんが、私に?」


リーンはその言葉を飲み込むのに時間がかかった。

嬉しさと、照れくささと、ちょっとした困惑。全部が混ざり合って、彼女はカップを握りしめたまま動けなくなる。


カップを持つ指に、ぎゅっと力がこもる。

陶器の縁が、唇に触れるかつてないほどの冷たさで彼女の興奮を静めようとしていた。

でも無理だった。

顔が熱い。耳まで熱い。絶対に今、自分の頬は真さんの熱より赤いに違いない。


「あんな真さんでも、そういうことあるんだ……」


「あんな真さん、だからよ。感情を全部『業務』で蓋をするから」


「あー……」


「あなたも大変ね」


女神が笑い、リーンもつられて笑った。


ひとしきり笑った後、女神は窓の外を見つめた。夜空に浮かぶ月が、雲の切れ間から顔を出す。その横顔は、いつもの女神の顔ではなかった。


月明かりに照らされた女神の横顔を、リーンは横からじっと見つめた。

何かを言いかけて、言い淀んでいる——そんな顔だ。

彼女の膝の上で、組まれた指がほどけ、また組み直される。


「……リーン」


「はい」


「あなたに、話しておきたいことがあるの」


女神は膝の上で指を組み、しばらく言葉を探してから、ゆっくりと口を開いた。


「私はね、神として、あなたをずっと見てきた。勇者があなたを助けたあの日から。人間だけを守れと命じられた神が、敵であるはずの魔族の娘を——」


「うん」


「…気に入ってしまった」


リーンは目を丸くする。


「気に入るって…?」


「その——…あなたのこと…」


女神はここで急に歯切れが悪くなり、カップを握りしめた。


カップの中のコーヒーもどきが、女神の手の震えに合わせて小さく波打つ。

神がこれから何かを告白しようとしている。

それは、彼女がこれまで何千年も経験したことのない種類の言葉だった。


「あなたが副長に水を勧められて嬉しそうに『うん』と頷くところとか。見習いに『角って重くないんですか』と聞かれて笑い出すところとか。真に『休憩は』『さっき五分』『十分すぎます』ってやられて呆れてるところとか。そういうのを、ずっと見ていて——」


「女神様、早口すぎて少し聞き取れない!落ち着いて!…って、私のこと、どれだけ観察してるんですか」


「……ほとんど毎日」


「そこは即答するんですね」


リーンは照れつつも、なぜか胸が温かくなるのを感じていた。嫌な感じは一切しない。むしろ、嬉しい。


「最初は理由がわからなかったの。神が、なぜ魔族の娘を気にかけるのかと。でも、坑道であなたを助けた時——心臓が止まるかと思った」


「……そんな大袈裟な」


「無事でよかったと、心の底から思った。それでわかったの。私はあなたを、敵だと思ったことなど一度もなかった。違う——娘のように、思っているのだと」


女神は顔を上げた。その両目が、ランタンの灯りを反射して潤んでいるのが見える。


その瞳の潤みは、悲しみではなく、解放の色だった。

ずっと言えなかったことを、ようやく言葉にできた。

ただそれだけで、彼女の目には涙が浮かんでいた。


「私はリーン、あなたの笑顔が好き。あなたが困っている人を助ける姿が好き。あなたが、ただ人として優しく生きている、そのすべてが——好き」

「……それ、まるで」

「ええ。友情とも母性ともつかない感情。神には不相応かもしれない。でも、私は」


女神は言葉を切り、小さく笑った。それが女神の今の素直な気持ちであり、きっと一番伝えたいことだった。


「あなたに、幸せになってほしい。真と——うまくいってほしいと、そう思ってる」


リーンは言葉を失った。

心臓が早鐘を打ち、指先が熱い。

カップを持つ手が震える。


(女神様が、私のことを——)


そんなこと、誰にも言われたことがなかった。

父上は愛してくれた。でも、それは家族の愛だ。

女神様のこれは、違う。

血の繋がりも、義務も、何もないところから、ただ私という人間を見つけて、好きだと言ってくれている。


「私…子どもの頃に母上を亡くし…てるの」


胸の奥が込み上げてきて、リーンは何度かまばたきを繰り返し、その瞳から一筋の雫が流れ落ちた。


涙が一粒、膝の上のカップに落ちて、小さな波紋を作った。

その波紋はすぐに消え、コーヒーもどきの表面は元の静けさを取り戻す。

でもリーンの心の中の波紋は、まだ広がり続けていた。


「……ありがとう」


「いいのよ」


「私、女神様のこと、もっと早くちゃんと話せばよかった。最初は怖かったけど、もう怖くない。女神様は、私の——」


言葉にしようとしたが、うまく出てこない。


代わりにリーンはカップを床に置き、女神の手を両手で握った。リーンの手は温かく、女神の手は少し冷たい。その温度の差が、互いの存在を確かめ合っているようだった。


手と手の間で、体温が混ざり合う。

リーンの熱が女神に流れ、女神の冷たさがリーンに流れる。

それはまるで、魔族と神の間で初めて交わされる、本当の意味での対話だった。


「私もあなたのこと、何があっても守ってあげる」


守ってあげる——その言葉を聞いた瞬間、リーンの肩から、かすかに力が抜けた。

命を狙う神が、初めて「守る」という言葉を送った。


それは彼女にとって、何よりも不慣れで、何よりも温かい感覚だった。


二人の笑顔を、ランタンの小さな灯りが優しく照らしている。外では夜風が枝を揺らし、月が雲の切れ間から二人を見下ろしていた。


——その時。


「……すみません、その依頼は……明日の……朝一で……」


真が寝言を発した。二人は同時に真の方を向き、それから顔を見合わせ、声を殺して笑う。こんな時まで仕事の夢。なのに、なぜかそれが愛おしい。


声を殺した笑いが、部屋の静けさに溶けていく。

その笑い声は、真の寝息と混ざり合って、妙に心地よいハーモニーを奏でていた。


「この人、こんな時まで仕事の夢みてる」


「よほど、よほどの社畜よ」


「……しゃちく?」


「仕事のしすぎで逆に休めなくなる病みたいなものよ」


「それ、真さんじゃないですか」


「ええ、大黒真そのものね…向こうの世界ではみんな社畜と呼ばれる人間が作られてるのよ」


「真さんみたいなのが…普通の世界?魔王だとか勇者だとかの争いの前に滅んじゃいそう…」


真がもう一度寝返りを打つ。今度は掛け布が完全に床に落ちた。リーンがそっと拾い上げ、肩までかけ直す。


その動作を、女神は黙って見守っていた。

リーンの手つきは、数時間前よりもずっと慣れている。

看病する手が、これほど短期間で上達するものなのか。

いや——これは「慣れ」ではない。リーンの手が、真に対してだけ特別に優しいのだ。


「……納品……あと三件……」


「寝言まで仕事」


「しかも納品って、この世界に来る前の」


リーンが真の額に手を当てる。熱は、だいぶ下がってきた。指先に感じる体温が、さっきよりずっと穏やかになっている。


熱が下がった額は、かすかに汗ばんでいて、それがかえって健康な体温の証拠のように感じられた。


「朝までには、きっと良くなる」


「ええ」


女神は立ち上がり、カップを手に取った。扉の前で振り返り、少しだけ間を置いてから言う。


「リーン、今夜のことは二人だけの秘密よ」

「もちろんです。女神様が私のこと『娘みたい』って言ったのも、私が『真さんのこと好き』って言ったのも」


女神の顔がまた少し赤くなり、リーンは声を上げて笑った。


女神は何か言い返そうとして、やめた。

代わりに、小さく咳払いをして、ローブの襟を正す。

その仕草があまりにも人間くさくて、リーンはまた笑いそうになるのを必死でこらえた。


そうして女神が部屋を出ていき、リーンは一人、真の枕元に座る。


数分後、扉の向こうから——人が壁に頭をぶつけたような鈍い音と、「……大丈夫です、なんでもありません」という女神の声が聞こえた。リーンは慌てて言い繕う声にくすくす笑いをこらえきれず、膝を抱えて肩を震わせた。どうやら話の内容を思い出して、動揺のあまり壁にぶつかったらしい。


(女神様、ドジっ子だったんだ)


リーンは笑いを収め、真の寝顔を見つめる。

真は相変わらず規則正しい寝息を立てている。先ほどの会話など、何一つ聞いていない顔だ。それでいい、と彼女は思った。


今はまだ、聞かれなくてよかったと思う。

だって「好きだ」と自分で言った顔を、まだまともに見せられる自信がない。

でも——いつか、ちゃんと自分の口で伝えたいとも思う。

その時は、この真さんの目を、まっすぐ見て。


彼女は真の手を握り、そっと呟いた。


「……よくなってね。また一緒に依頼に行こう」


その声は、先ほどの女神の告白よりもずっと小さく、真の寝息にかき消されるほどのものだった。

でも、握った手のひらの温度だけは、確かに真に伝わっているはずだった。


その声は、ランタンの灯りに溶けて、夜の闇に消えていった。


第三章「女神の観察」 完

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