第十四話「過労と微熱、そして業務外の時間」
第十四話「過労と微熱、そして業務外の時間」
リーンがギルドに現れたのは、その日の午後だった。
いつもなら午前中にふらりと顔を出す彼女が、今日に限って朝から姿を見せなかった。
副長が「今日は来ないのかな」と呟き、見習いが「まあ、そういう日もあるっすよ」と肩をすくめる。
真はいつも通りカウンターに立ち、いつも通り依頼をさばき、いつも通り五分の休憩で十分だと笑顔で言い続けた。
ただ、入口の扉をちらりと見る回数だけは、誰にも気づかれないまま、少しだけ増えていた。
そうして午後。
ギルドの扉が勢いよく開き、リーンが飛び込んできた。
「真さん!」
その声に、ギルド中の視線が集まる。
リーンは息を切らし、手には羊皮紙の束を握りしめていた。
深紅に近い黒髪が乱れ、旅慣れたマントの裾がまだ揺れている。
走ってきたのだと、誰の目にも明らかだった。
「リーンさん、本日はどのような——」
「登録!私、ギルドに登録する!」
リーンはカウンターに羊皮紙を叩きつけるように置いた。
副長が目を丸くし、見習いがぽかんと口を開ける。
掲示板の前にいた冒険者たちも、何事かと振り返った。
「これ、冒険者登録の申請書類!全部書いた!父上の許可ももらった!」
「リーンさん、あんた——」
「私も、ギルドで働きたい。真さんと、一緒に」
真はその羊皮紙を手に取り、一枚一枚、丁寧に確認し始めた。
記載漏れはない。
字は丁寧で、所定の欄はすべて埋まっている。
彼は書類を机の上でトントンと揃え、顔を上げた。
「不備はありません。登録手続きを進めます」
「……それだけ?」
「はい。では、こちらが冒険者登録証になります」
差し出された木札には、リーンの名前が刻まれている。
リーンはそれを両手で受け取り、しばらくじっと見つめた。
木札はまだ新しく、表面はつるつると滑らかだ。
自分の名前が刻まれたそれが、不思議ととても温かく感じられた。
「やった……」
「リーンさん、おめでとう!」
「これからは同僚っすね!」
見習いが嬉しそうに拍手し、副長が「よかったな」と笑う。
ギルドの中が、温かな祝福の空気に包まれていた。
その中で、真は一つだけ付け加えた。
「なお、本日付でリーンさんとのパーティ登録も受理されました」
「え?」
「さきほどの書類に、パーティ登録希望の欄がありましたので」
リーンは一瞬きょとんとしてから、また声を上げて笑った。
「そっか、私、真さんとパーティなんだ」
「はい。業務上のパートナーという扱いになります」
「業務上の——うん、それでいい!」
リーンは木札を胸に抱え、もう一度だけ笑った。
十二話でカルロに感じた、あのちくりとした胸の痛み。
もう一度、ここに来たいと思ったあの日のこと。
これからは胸を張って、ここにいていいのだと思えた。
その笑顔が、今日は一段と輝いているように見えたのは、リーン自身だけが知っている。
それから三日間、リーンは驚くほど真面目にギルドに通った。
朝は真より遅く到着し、副長に「おはようございます」と声をかけ、見習いと一緒に掲示板の依頼書を眺める。
まだ一人で依頼を受ける資格はないが、見習いの指導役として、薬草の仕分けや在庫庫の整理など、ギルドの細かな業務を手伝い始めていた。
真とパーティを組んでからは、簡単な採取依頼に同行することも増えた。
といっても、彼女が本格的に戦闘に参加したのは、先日の水源地が最初で最後。
今はまだ、真の仕事ぶりを隣で見て覚える段階だった。
「真さん、この薬草、図鑑とちょっと色が違う気がする」
「どれですか」
「これ。先端がほんの少し赤くなってる」
「……おそらく変異種です。通常より薬効成分が高い可能性があります。後で調べておきます」
「わあ、私、役に立った?」
「はい。非常に」
そんなやりとりが増えるたび、リーンの胸はかすかに温かくなった。
ただ——真の様子が、少しおかしいと気づき始めたのも、ちょうどその頃だった。
「真さん、今朝も四時半に来たんですか」
「はい」
「昨日も、確か書類整理で夜遅くまで——」
「業務ですので」
「……休んでます?」
「さっき五分ほど」
リーンは、真の顔をじっと見つめた。
肌の色は悪くない。声もいつも通りだ。
でも、目の下にうっすらと隈が浮かび、ペンを取る手がいつもより少しだけ遅い。
報告書に走らせるペンが一瞬止まる。
リーンが水を持ってくるのを忘れて、カウンターにぼんやり立っている。
「真さん、今日はもう上がった方が——」
「問題ありません。まだ勤務時間内ですので」
その日、真は依頼を四件処理した。
内訳は、魔獣討伐一、薬草採取一、行商護衛一、迷子のペット探し一。
どれも滞りなく完了。報告書も完璧。
副長すら「今日は完璧だな」と漏らしたほどだった。
でも——完璧だからこそ、リーンにはそれが怖かった。
自分の体が限界だということを、この人は数字でしか理解できないのだ。
「完璧な仕事」が、実はSOSの代わりなのだと、リーンはこの三日間で初めて知った。
人間は、壊れる前にはもっと不調を訴えるものだと思っていた。
でも真は違う。壊れるその瞬間まで、同じクオリティで仕事を続けようとする。
それが、何よりも怖かった。
そして四日目の朝。
ギルドの扉を開けたリーンは、違和感に足を止めた。
いつもなら朝一番に磨き上げられている床が、まだ埃をかぶったままだ。
掲示板の依頼書は昨日の順序のまま。カウンターの上には、使いかけのインク壺が出しっぱなしになっている。
そして何より——真の姿が、なかった。
ギルドの空気が、今日はいつもと違う。
冷え切った灰の匂い。誰もいない静けさ。
いつもは真が一番最初に窓を開けて空気を入れ替えているのに、今日はそれもない。
その小さな違和感の積み重ねが、リーンの胸をざわつかせた。
「副長、真さんは?」
「あれ?まだ来てないのか。おかしいな、真さんに限って——」
「私、ちょっと見てきます!」
リーンが真の宿に駆け込むと、真は寝台の上にうずくまっていた。
額に汗が浮き、息は浅く、顔は青白い。
枕元には、開きっぱなしの手帳と、乾いたインクの染みがついたペン。
昨夜遅くまで報告書の清書をしていたのだろう。
薄い掛け布が床に落ち、かろうじて肩にかかっているだけだった。
部屋の中はしんと静まり、通りを歩く人々の足音だけが遠くから聞こえる。
宿の部屋には、ギルドと同じインクの甘い匂いが漂っていた。
でもギルドのそれとは違う。もっと濃くて、閉じ込められたような匂い。
窓は閉め切られ、空気は澱み、紙とインクと汗が混ざった、真の「限界」そのもののような匂いだった。
壁には一枚の汚れもなく、机の上には報告書の草稿がきちんと端を揃えて積まれている。
倒れるその瞬間まで、彼はこの部屋で仕事をしていたのだ。
「真さん!真さん!」
「……リーン、さん……?」
「熱、すごい。いつから——」
「今朝から……いや、昨夜からか……自分でも、よく……」
「もう喋らないで!」
リーンは真の額に手を当てた。
手のひらに感じる熱は、人の体温をはるかに超えている。
その熱の高さに、彼女は思わず息を呑んだ。
回復魔法は使えない。
先日のように、攻撃の魔力ではなく、癒やしの力が自分にあれば——今ほどそれを悔いたことはない。
(私の魔力は、何かを壊すことしかできない)
水源地で魔獣を吹き飛ばした時の光が、頭の片隅でちらつく。
あんな力、今は一ミリも要らないのに。
今必要なのは、額を冷やすほんの少しの冷たさだけなのに。
「……少し休めば、問題ありません。業務に——」
「業務とかどうでもいいから!」
「どうでも、よくは……」
真はそこで言葉を失い、ただ荒い息を繰り返した。
リーンは真の手を握る。熱い。
こんなに熱いのに、指先だけは冷たい。
その冷たい指先を、リーンは両手で包み込んだ。
自分の手の温度を分け与えるように、ゆっくりと、何度も擦る。
真の指が、かすかに応えるように動いた。
「待ってて。すぐ戻るから」
リーンは走り出した。
向かう先は、ギルドではない。
魔王城だった。
「父上!」
魔王城の広間で、魔王は軍議の真っ最中だった。
長机には幹部たちが並び、地図を広げて何やら難しい話をしている。
そんな中に、リーンが扉を勢いよく開けて飛び込んできたのだ。
「リーン、今は軍議中だぞ」
「真さんが倒れたんです!」
「……勇者が?」
「はい。過労と熱で。看病したいんです、数日、城を空けます!」
「待て、リーン——」
「許可、もらってもいいですか!」
「もらってもいいですか、と聞きながら、お前はもう行く気でいるな」
魔王は深いため息をつき、それからゆっくりと立ち上がった。
手に持っていた指揮棒を机に置き、リーンの前に歩み寄る。
魔王のため息は、しかし怒りではなかった。
娘の必死な形相を見て、彼はすべてを察したのだ。
その証拠に、彼の口元はほんの少しだけ緩んでいた。
「……わかった」
「え、いいの?」
「その代わり、必ず自分も休め。看病する方が倒れては話にならん」
「父上……」
「それと、その勇者に伝えておけ。娘を泣かせたら、山の一つや二つでは済まさないと」
リーンは目を見開き、それから破顔した。
「ありがとう、父上!」
「返事を聞く前に、もう身支度を始めてるな」
「だって、急がないと!」
リーンは広間を飛び出していく。
その背中を見送りながら、魔王はもう一度だけため息をついた。
机の上には、リーンが書いた冒険者登録の申請書の写しが置かれている。
字は丁寧で、所定の欄はすべて埋まっていた。
「パーティ希望:大黒真」の文字を見つめ、魔王は誰にも聞こえない声で呟く。
「……妻よ。あの子は、これでいいんだそうだ」
広間の窓から差し込む午後の陽が、彼の横顔を静かに照らしていた。
魔王の指が、「大黒真」の文字をそっとなぞる。
娘を泣かせたら山の一つや二つでは済まさない——そう言い放った口元が、すぐに柔らかく緩んだ。
彼は自分が「娘の父」と呼べる相手ができたことを、どうやら少しだけ嬉しく思っているらしい。
リーンが真の宿に戻ると、真はうつらうつらと眠りかけていた。
額の汗はさらに増えている。
リーンは手早く水差しと布を用意し、額に冷たい布を当てた。
布が肌に触れた瞬間、真の眉がかすかに動く。
井戸から汲んできたばかりの水は、手を刺すほど冷たい。
リーンはその冷たさに指を震わせながらも、丁寧に布を折り畳み、真の額にそっと置いた。
布が熱を吸い取るたび、すぐに生温かくなる。
彼女は何度もそれを冷たい水で洗い直し、何度も額に置き直した。
回復魔法の光はなくても、彼女の手は確かに真の熱と戦っていた。
「……リーン、さん……?」
「うん、戻ったよ。今日から数日、ここにいるから」
「業務が——」
「副長に伝えてある。緊急の時以外は、全部誰かに振り分けるって」
「そう、ですか……」
真はしばらく黙り込み、それから掠れた声で呟いた。
「……迷惑を、かけます」
「真さん。迷惑とか、そういうのじゃないから」
リーンは真の手をもう一度握った。
熱い。
でも今度は、さっきより少しだけ温かい。
真の指が、かすかにリーンの手を握り返した。
その力は本当に弱々しくて、今にも離れてしまいそうだった。
でも、確かにそこには意思があった。
迷惑をかけている自分をそれでも認めたくない気持ちと、それでもこの手を離したくない気持ち。
その両方が、震える指先に込められているようだった。
「真さんが今までずっと、それでやってきたのは知ってる。私、水しか飲まなかったけど、真さんが毎回、同じように水を用意してくれて、それがすごく嬉しかった」
「リーン、さん……」
「だから、今度は私の番。真さんがよくなるまで、ここにいる」
真は何か言おうとして、けれどそのまま目を閉じた。
荒かった息が、少しだけ深くなる。
握り返す力はまだ弱いが、それでも確かに、リーンに応えていた。
リーンはその様子を見て、小さく笑った。
「……あ、これが看護かぁ」
「何が、ですか……」
「私、看病ってしたことなかったから。けど、これならできる」
しばらくして、真の寝息が規則正しくなった。
リーンは静かに立ち上がり、窓を少しだけ開けて空気を入れ替える。
宿の窓からは、遠くにギルドの看板が見えた。
副長と見習いが、心配そうにこちらの様子を窺っているのが、かすかに見える。
窓を開けた途端、街の匂いが流れ込んできた。
焼きたてのパン、濡れた石畳、遠くの鍛冶屋の炭。
部屋にこもっていたインクと汗の匂いを、外の空気がゆっくりと薄めていく。
真の寝顔が、新鮮な空気に触れて、少しだけ穏やかになったように見えた。
その日の夕刻、リーンは井戸から汲んできた冷たい水で布を湿らせながら、真の寝顔を見つめていた。
熱はまだ高いが、さっきよりは呼吸が落ち着いている。
時折、真がうなされるように何かを呟く。その言葉を、リーンは聞き取ろうとして——思わず笑ってしまった。
「……すみません、その依頼は……明日の……朝一で……」
「真さん、寝てるのに仕事の夢みてる……」
「……五分……あれば……十分……」
こんな時まで仕事の夢。
なのに、なぜか涙が出そうになった。
涙は出なかったけれど、代わりに笑いがこみ上げてきた。
こんな時まで仕事の夢を見るなんて、本当にこの人はどこまでも真さんだ。
それが可笑しくて、でも可笑しいだけじゃなくて——胸の奥がぎゅっとなった。
「真さんは、いつもそうやって、誰かのために働いてるんだね」
返事はない。代わりに、真の寝息だけが静かに部屋に響く。
それだけで十分だと、リーンは思った。
彼女は布を絞り直し、そっと真の額に置く。
窓の外では、夕日が街を茜色に染め始めている。
遠くで鐘が鳴り、一日の終わりを告げていた。
部屋の中には、水の冷たさと、かすかなインクの匂いと、そして——穏やかな時間だけが流れている。
(よくなってね、真さん。また一緒に依頼に行こう。今度は私が、真さんの背中を守るから)
彼女はそっと、真の手に自分の手を重ねた。
その夜。
女神はギルドの控え室で一人、窓の外を見つめていた。
真が倒れたことは副長から聞いている。リーンが看病に駆けつけたことも。
過労。微熱。数日の安静が必要——。
報告を受けた時、女神は静かに目を閉じた。
(真が、倒れた)
神界から与えられたチートスキルは、彼の身体能力を飛躍的に向上させた。
だが、それはあくまで「戦闘力」だ。
疲労への耐性や、睡眠不足を補う力はない。
何より、当の本人が休むことを知らない。
(あの男は、自分の限界を数字でしか測れない。依頼の達成率。報告書の枚数。休憩時間の五分)
それが真の強さであり、そして——最大の弱点だった。
女神は机の上を見る。
今日も、白紙の報告書が一枚。
神界への嘘は、もうこれで何度目になるだろう。
もう数えるのをやめた。
数えなくなったことに、自分でも少しだけ驚いている。
嘘をつくことに慣れてしまったのか、それとも——これが神の責務だと、本気で思い始めているのか。
そのどちらでもあり、どちらでもなかった。
彼女はただ、リーンと真を見守ることを、「当然のこと」として受け入れ始めていたのだ。
(リーンがついている。それなら——大丈夫)
窓の外、街の灯りが一つ、また一つとともる。
あの灯りの一つが、真の宿のものだ。
今頃、リーンは真の手を握っているだろうか。
あの子なら、真を「休ませる」ことができるかもしれない。
少なくとも、休むことを拒むあの男に、真正面から「休んで」と言える者は、これまでいなかったのだから。
女神は封筒を取り出し、白紙の報告書をしまい込む。
そして、今日も特記事項は書かないと決めた。
(私が報告すべきことは、何もない。彼らはただ——今日も、この世界で生きているだけだ)
彼女は立ち上がり、窓を閉める。
夜風が止み、部屋の中が静寂に包まれた。
その静けさの中で、女神は祈るような気持ちで、遠くの灯りを見つめ続けていた。
窓を閉める指先に、かすかな夜風の冷たさが残った。
その冷たさが消えるまで、女神は窓辺を離れられなかった。
まるで、遠くの宿で必死に誰かを看病している少女の指先の温度を、自分もほんの少しだけ分けてもらっているような——そんな気がして。




