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社畜の郵便配達員は異世界でも休まない  作者: 太幽


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第十三話「森の異変、そして隣の距離」

第十三話「森の異変、そして隣の距離」


リーンがギルドに到着したのは、いつもより少しだけ遅い時間だった。


午前の中ほど。

すでに陽は高く昇り、街は一日で一番賑わう刻限を迎えている。

パン屋の籠からは焼きたての香りが流れ、市場の商人たちが威勢の良い掛け声を響かせていた。


開け放たれたギルドの窓からは、そうした街の喧騒が遠くの波のように流れ込んでくる。

金槌が鉄を叩く音、子どもたちのはしゃぐ声、誰かを呼ぶ市場の怒鳴り声。

それらがすべて、ここだけは安全だと告げているようだった。


ギルドの扉を開けると、湿った木材と使い込まれた革の匂い。

それに混じって、かすかにインクと紙の香りが漂っている。

真がいつもの席で報告書を書いている証拠だ。

リーンはその匂いを嗅ぐだけで、なぜかほっとする自分に気づいている。


扉を閉めると、蝶番が小さく軋んだ。

真が毎朝油を差しているのに、それでも軋む。

この蝶番のきしみも、もうすっかりギルドの日常の音だった。


「おはよう」

「いらっしゃいませ」


真はいつも通り、背筋を伸ばしてリーンを迎えた。

目はまっすぐで、声は穏やかで、手には筆記板。

昨日、三枚も報告書を書き損じた男と同一人物とは、どうしても思えない。


リーンはつい、じっと真の顔を見つめてしまった。

昨日の、あの「そうですか」の声がまだ耳に残っている。


無意識に、彼女の手が自分の胸の前にいった。

心臓の音を確かめるような、その仕草を、真は見逃さなかった。

しかし彼は何も言わず、ただ静かに次の言葉を待っている。


「リーンさん、どうかなさいましたか」

「え、なんでもない!」

「そうですか。本日はどのようなご用件で」

「えっと、その——」


リーンが言葉を探していると、掲示板の前から副長の声が飛んできた。


「真さん、ちょうどいいところに!緊急じゃないが、ちょっと厄介な依頼が入っててな」


副長が広げた依頼書には、こう書かれていた。


『南の水源地にて異変。水の流れが細り、付近の村で井戸が枯れ始めている。原因調査および対応を求む』


字は乱雑で、墨が何度も掠れている。

村人が夜中に飛んで帰って、慌てて書いたのだろうと想像できた。


副長の指が、依頼書の端をかすかに震えながら押さえている。

こういう依頼ほど、報酬は少なく、被害は大きく、そして誰もやりたがらない。

それを見越した上で、副長は真に声をかけたのだ。


「水源地って、森の奥にあるあの泉のことか」

「ああ。最近、魔獣の動きも活発だって聞く。何かしらの異常が起きてる可能性が高い。できれば誰かと二人で行かせたいんだが——」


「私が行きます」


真の返事は即座だった。

副長が大きく頷く。


「助かる。真さん、それじゃあ——」

「あの!」


リーンの声が、ギルドに響いた。

普段はカウンターの横で小さくなっている彼女が、今は一歩前に出ている。


「私も行っていい?」


副長が少しだけ目を見開き、それからちらりと真を見た。

真は。


「——お客様がご一緒されるのは、少々」


副長がまた天を仰いだ。

「真さんよ、たまには空気読め」と小声で呟いてから、リーンに向き直る。

その声は呆れを含みつつも、どこか温かかった。


「あー、そうだな。リーンさん、魔族の視点で何かわかるかもしれん。頼めるか」

「うん、任せて」


リーンが笑顔で頷く。

真はそれ以上何も言わなかった。

ただ、持っていた筆記板を静かに机に置き、「準備をしてまいります」と言って備品庫へ向かった。

その歩調はいつもより少しだけ——ほんの少しだけ——遅い。


副長は真の背中を見送り、それからリーンに視線を戻した。

何か言いたそうに口を開きかけて、結局やめた。

かわりに、小さく肩をすくめてカウンターへ戻る。

その肩が、二人分の未来を背負い込んだように少しだけ下がっていた。


その様子を、女神は控え室の窓から静かに見つめていた。


机の上には、今日も白紙の報告書が広げられている。

インク壺の蓋は開いたままだが、彼女はまだ一文字も書けていなかった。

窓から差し込む午前の陽が、紙の端を白く照らしている。


(真が、書き損じをした)

(それも三枚も)


女神は手に持っていた羽根ペンを置き、窓辺に歩み寄った。

真が備品庫へ消える背中を見送りながら、彼女の胸の奥で、何かがかすかに引っかかる。


先日、真に「なぜぶれないのか」と尋ねた時、彼は「配達先を選べませんでした」と答えた。

あれは、真の本質を突いた言葉だった。

相手を選ばない。それが彼の強さであり、そして——彼の異様さでもある。


(その真が、書き損じを三枚。リーンが来なかった三日間、ずっと落ち着かなかった)


女神はリーンの方に目を向けた。

リーンは今、副長と話しながら笑っている。

その笑顔は、坑道で出会った時よりもずっと柔らかく、そして自信に満ちていた。

魔族の姫としての警戒心が薄れたわけではない。

それでも、ここにいる時だけは——あの笑顔を見せている。


(あの子は、ここに来ることで何かを得ている)


女神はその事実を、静かに喜んでいる自分に気づいた。

同時に、胸の奥に小さな棘が刺さっているような感覚もあった。

喜びと、かすかな痛み。

その二つは、彼女の中で矛盾なく共存していた。


(私は、あの二人の何を見ているの)


手にした紅茶のカップが、すっかり冷めている。

リーンが先日、見習いと一緒に買ってきた茶葉の香り。

もう何度も飲んでいるのに、まだ慣れない。

でも、慣れたくないとも思う。

この香りを嗅ぐたびに、自分が変わりつつあることを思い出せるから。


真が備品庫から戻ってきた。

手には背負い袋。準備はもうできている。

リーンが真に近づき、何か話しかける。真がいつものように首をかしげながら答える。

その二人の間に流れる空気が、以前よりもずっと自然なものになっていることに、女神は気づいていた。


彼女は窓から離れ、机に戻った。

白紙の報告書が、まだそこにある。

今日も、特記事項は書かない。

書けないのではなく、書かないと決めた。


(あの二人が、これからどこへ向かうのか——もう少し、見守りたい)


女神はインク壺の蓋を静かに閉め、報告書を机の引き出しにしまい込んだ。

彼女は自分が「観察」している理由を、まだ言葉にできずにいる。


南の森は、街から徒歩で一時間ほどの距離にある。


木々が生い茂り、地面には苔が厚く敷き詰められ、空気はひんやりと澄んでいる。

葉の隙間から漏れる陽の光が、足元に細かな網目模様を描いていた。

足を踏み出すたび、湿った土の匂いがふわりと立ち上り、すぐに森の冷気に溶けていく。


真は先を歩き、リーンがそれに続く。

その距離は、以前よりわずかに近い。

以前ならば、真は必ず半歩先を歩いていた。お客様の安全を確保するために。

でも今日は、その半歩が、いつもよりずっと狭い。

道すがら、二人の間に会話は少なかった。だが、沈黙が苦にならない関係に、いつの間にか変わっている。


「真さん、ちょっと待って」

「どうされましたか」


リーンが足を止め、森の奥を見つめる。


彼女の耳が、かすかに動いた。

人間の耳には聞こえない、もっと微かな空気の震え。

森の奥の、何かが呼吸しているような、そんな気配。


「何か、変じゃない?空気がさっきからざわついてる感じがする」

「ざわつき、ですか」

「うん。言葉にできないんだけど——魔族の感覚なのかな」

「了解しました。警戒して進みます」


真は左手の拳を軽く握り、出力の目安を確認した。

最近、ようやく自分の力の加減が掴めてきたところだ。前回の坑道での戦いで、出力一割程度なら周囲に大きな被害を出さないこともわかっている。


(この程度の違和感なら——出力は五分、いざとなれば即座に二割まで引き上げる)


水源地に到着した二人の前に広がっていたのは、変わり果てた光景だった。


泉の水が半分近くまで干上がり、岸辺だった場所が茶色い泥を剥き出しにしている。

湿った泥の表面から、気泡がぷつりぷつりと浮かんでは割れ、そのたびに硫黄のような異臭が立ち上る。

本来なら清冽な水を湛えているはずの泉の底には、黒い筋が幾筋も走り、まるで何かが水脈そのものを侵しているかのようだった。

周囲の草木は葉を落とし、立ち枯れ始めている。


リーンは無意識に口元を押さえ、異臭から顔を背けた。

その仕草を見て、真は風向きを確認し、自分が風上に立つように位置を変える。

業務の一環だ。誰に対してもそうする。

でも、その動きはいつもよりずっと素早かった。


「……ひどい」

「はい。これは——」


と、その時。

泉の対岸、岩陰から何かが動いた。


現れたのは、真が今まで見たことのない異形の魔獣だった。

体長は二メートルほど。

泥に塗れた甲殻はぬらぬらと光り、六本の脚の先には獲物を切り裂く鉤爪が並んでいる。

頭部には複数の目——いや、目のようなものが不気味に蠢き、獲物を探している。

背中からは無数の触手が伸び、泉の水に浸しながら何かを吸い上げているようだった。


(甲殻種の類似種か。ただ、あの触手で水脈を詰まらせている可能性が——)


真の頭の中ではすでに、魔獣の分類、弱点、素材としての価値、討伐後の水源復旧手順までもが一覧になっている。

彼は背負い袋から手帳を取り出すと、魔獣を見据えながら「甲殻種変異体、推定全長二メートル、触手で水質汚染の疑い」と走り書きした。


「真さん、あれ——」

「はい。水源地の異変の原因はおそらくあの魔獣です。至急排除します」


魔獣が動いた。

六本の脚が泥を蹴り、ぬかるんだ地面を滑るように突進してくる。巨体の割に動きは速く、何より触手だけが別の生き物のように独立して動き、真の左右を塞ぐように展開する。


「出力、一割」


真は半歩も引かず、正面の触手を右手で薙ぎ払った。

触手は千切れ飛び、地面に落ちてしばらく蠢いていたが、やがて動かなくなる。

魔獣が咆哮を上げ、さらに触手を増やして真に絡みつこうとした。


——二歩目を踏み出しかけた瞬間。


足元の泥が、ぐにゃりと歪んだ。


昨日までの雨で地盤が緩んでいたのだ。

真の体重を受け止めきれず、岸辺の地面が崩れ始める。

泥の中に足を取られた真が、はじめて表情を変えた。

それは痛みでも焦りでもない。

(——迂闊)

ただ一言、心の中でそう呟いた。

咄嗟に体勢を立て直そうとした真の耳に、リーンの声が届いた。


「真さん!」


リーンが叫び、一歩前に出る。

その手のひらに、小さな光が宿った。

魔族の姫が持つ、わずかな魔力。

戦闘には足りないが、今は——


「……え」


自分の手を見つめるリーン。

光が、徐々に大きくなる。

彼女の意思に呼応するように。


その光は、最初はろうそくの灯りのようにか細く、しかしリーンの戸惑いが恐怖に変わり、恐怖が覚悟に変わるにつれて、徐々にその輝きを増していった。


「これ——私が、やってる?」

「落ち着いて、相手の動きを止めるだけで十分です。それで、私が——」


泥に足を取られた真が、体勢を整える前に。


「い、いやあああ!」


リーンは叫び、両手を前に突き出した。

光が一気に膨れ上がり、魔獣を包み込む。

次の瞬間、光の奔流は魔獣の甲殻を粉々に打ち砕き、触手を根元から焼き切り、その巨体ごと泉の向こう岸まで吹き飛ばした。

轟音。

水飛沫。

泥の雨。


魔獣は岩壁に叩きつけられ、そのまま動かなくなる。

戦闘終了まで、わずか数秒だった。


耳を劈く轟音のあと、訪れた静寂の中で、リーンはただ自分の手を見つめていた。

その両手はかすかに震え、指先にはまだ光の残滓がちらちらと揺れている。

魔獣は完全に沈黙し、あたりには硫黄の臭いと、焼け焦げた甲殻の不快な甘さが混ざり合って立ちこめていた。

その臭いを、リーンは初めて嗅いだ。

戦場の臭い。自分が起こした戦いの、残り香だった。


「…………やっちゃった」

「やっちゃいましたね」


リーンは真っ青になって自分の手を見つめている。

その両手はかすかに震え、指先にはまだ光の残滓がちらちらと揺れていた。


自分の手を、まるで他人のものを見るように、彼女は裏返したり握ったりを繰り返した。

さっきまで泥を掘っていたのと同じ手だ。

副長に包帯を巻いてもらった、あの手だ。

この手が、一瞬で魔獣を消し去った。


「ご、ごめんなさい!加減、わかんなくて!私こんな力——」

「リーンさん」

「は、はい!」

「よくやりました」


真の声はいつも通りだった。

それどころか、自分の失敗を報告するたびに書く報告書より、ずっと優しい。


その声に、リーンははっと顔を上げた。

真の目は相変わらずまっすぐで、何の圧力もない。

叱られると思っていた。

呆れられると思っていた。

なのに彼は、「よくやりました」と言った。


「あなたは、私の補助をするつもりだった。それは業務として適切な判断です。結果として出力が過剰になったのは——まあ」

「まあ?」

「次回、加減すればよろしいかと」


リーンは呆気にとられて真の顔を見つめ、それから声を上げて笑った。

それはもう、お腹を抱えて、目の端に涙まで浮かべて。


笑い声が森に響く。

ついさっきまで戦場だった場所に、少女の笑い声。

鳥たちが驚いて飛び立ち、木の葉がはらはらと落ちる。

その笑い声を、真はただ黙って聞いていた。


「——次回は加減します!うん、そう言うことにする!」

「はい。その方が良いと思います」


そこまで言って、真は少しだけ間を置き、付け加えた。


「それと」

「え?」

「初めての戦闘、お見事でした」


リーンはぽかんと口を開け、それから急に恥ずかしくなって俯いた。

俯いたまま、何度も瞬きを繰り返す。

まつげの先が、かすかに震えていた。

戦闘の熱で火照った頬が、さらに熱を帯びていく。


——今、真さん、私のこと、「お客様」じゃなくて、名前で。

そんな小さな発見が、彼女の胸の奥にじんわりと広がっていく。

ついさっきまで、初めて魔獣を倒した興奮でいっぱいだった心が、今はもっと別の感情で占められていた。


「もう……」

「何か」

「なんでもない!」


残心を確かめるように、真は空を見上げた。

木々が途切れた隙間から、昼下がりの陽の光が降り注いでいる。その光が、泉の泥だらけの水面にきらめいていた。


先ほどまであれほど異臭を放っていた泉から、再びかすかに清冽な水の匂いが立ち始めている。

水は、まだ戻りつつある。

黒い筋は消え、泥の下から新しい流れが湧き出していた。


魔獣の死骸を確認し、素材として使える部位を手早くリストアップする真を横目に、リーンは泉のほとりに座り込んでいた。指先にはまだ、さっきの魔力の残滓がかすかに温かい。それを見つめながら、心臓はまだバクバクと跳ねている。


「……なんか、変な感じ」

「何がですか」

「ううん。ただ、ちょっとだけ、自分が自分じゃないみたいで」


真は手帳を閉じ、リーンの隣に立った。

泥に汚れた彼女の手をちらりと見て、それから静かに言う。


「先ほどの魔力、いつから使えるようになったのですか」

「今日、初めて。今まで全然、こんな力があるなんて知らなくて」

「そうですか」


真は少しだけ考えてから、こう言った。


「それは、業務の幅が広がりますね」

「……真さんらしい」


リーンは小さく笑い、それから真の顔を見上げた。

逆光で、真の顔がよく見えない。

でも、その目だけはやっぱりまっすぐで、何の圧力もなかった。


逆光を背にした真のシルエットが、泉の泥だらけの水面に映っている。

リーンはその水面の真をじっと見つめながら、自分でも気づかないうちに泥だらけの手を胸の前でぎゅっと握りしめていた。


夕暮れが迫る頃、二人はギルドへの帰路についた。


水源地の応急処置を終え、水脈に異常がないことを確認し、魔獣の素材を背負って森を抜ける。真は持ち帰る素材の重さを計算しながら歩き、リーンはその後ろ姿をなんとなく見つめながら歩いていた。


日が傾き、森全体がオレンジ色の光に包まれている。

木々の影が長く伸び、小鳥たちがねぐらへと急ぐ声が聞こえる。

真の背中が、夕日に染まって、やけにはっきりと見えた。


「真さん」

「はい」

「私、もしかしたらできるかもしれない。こんな感じで、少しずつだけど、役に立てるかも」

「もちろんです。お客様にも様々な形がありますので」


リーンは苦笑した。相変わらず「お客様」で通すつもりらしい。

でも——。


その「お客様」という言葉に、今は胸が痛まない。

なぜなら、ついさっき真は「よくやりました、リーンさん」と言った。

「お客様」の前に、「リーンさん」がついた。

それは確かな変化だった。


森を抜ける手前で、リーンはもう一度だけ振り返った。

泉はまだ泥で濁っているが、水は確かに戻り始めている。

月明かりが、水面に細かな光の粒を散らしていた。


(私が、新しい何かになれるかもしれない)


リーンは自分の手を見つめ、それから歩き出した。

隣を歩く男は、相変わらず無言で次の依頼のことを考えているに違いない。


それでも、今はその隣が、少しだけいつもより近く感じられた。

夕暮れの森を抜ける二人の影が、伸びては重なり、また離れてを繰り返している。


ギルドに戻ると、副長が待ち構えていた。


「おかえり、真さん、リーンさん。どうだった」

「魔獣を排除し、水源の異常も解消。詳細は報告書にまとめます」

「さすがだな——って、リーンさん、その手、泥だらけじゃないか」

「え?あ、ほんとだ」


リーンが自分の手を見下ろす。

魔獣を吹き飛ばした時についた泥が、乾いて白く固まっている。

指の股まで泥が入り込み、爪の間には黒い土が詰まっていた。


副長は無言で給湯室から濡れ布巾を持ってくると、それをリーンに差し出した。

「ほら、これで手を拭きな」

その口調は、魔族の姫に向けるものとは思えないほど、気安く、優しかった。


「ちょっと洗ってくる」

「給湯室、使っていいぞ」


リーンが給湯室へ向かうのを見送りながら、副長は真に近づいて声を潜めた。


「真さん、リーンさんに何かあったのか」

「何か、とは」

「いや、なんか雰囲気が変わったというか——」

「魔力に目覚めたようです。本日、初めての戦闘で魔獣を一撃で仕留めました」

「は?リーンさんが?」


副長が目を丸くする。

いつもカウンターの隅で水を飲んでいるだけの魔族の姫が、である。


「彼女は、思っていたよりずっと強い。いずれ戦力として十分に——」


そこで、真は口を閉ざした。

「戦力」という言葉が、妙に舌に残る。

眉が、ほんの少しだけひそめられた。

書類の誤字を見つけた時と同じ表情。だが、その「誤字」は手帳の上ではなく、自分の言葉の中にあった。


「どうした」

「……いえ、なんでもありません。報告書を書きます」


真はいつもの席に着き、いつものように筆記板を取り出す。

ペンの進みは、いつもより少しだけ遅い。

副長はそれを見て、何か言いたそうに口を開き、結局何も言わずにカウンターへ戻った。


副長の背中が、ため息と一緒に小さく上下する。

真の隣の席——リーンがいつも座る窓際の席が、空っぽのまま夕日に照らされていた。


夜。控え室の窓辺で、女神は一人、月明かりを浴びていた。


ギルドはもう閉まり、誰もいない。

あるのは、ランタンの消えた静かな闇と、窓の外に広がる街の灯りだけ。

夜風がカーテンを揺らし、どこか遠くで犬が吠えている。


(リーンが魔力に目覚めた)


真の報告書に書かれた一文を思い出す。

『同行者リーン、魔力を発現。魔獣を一撃で撃破。今後の依頼における戦力として期待できる』


淡々とした字だった。

でも女神には、その文字の端に、かすかな迷いが見えた気がした。


「戦力」という言葉を、ためらった跡。

ペン先が紙の上で一瞬止まり、それでも書き進められた、その一瞬の間。

それは、今までの真にはなかったものだ。


(真が「戦力」と書いた。あの娘を、もう単なる「お客様」とは書けなかった)


女神は静かに目を閉じる。


真の中で、何かが変わり始めている。

リーンもまた、自分の中に眠る力に気づき始めた。

二人の関係が、これまでとは違うものになろうとしている。


(私は、それを見守りたい)


神の使命でも、任務でもなく——ただ、そう願っている自分がいる。


(あの娘の成長を、隣で見ていたい。笑顔を見続けたい)


彼女は胸の奥に手を当てた。

そこには、神である自分とは別の、一人の個人としての温かな感情が息づいていた。

この感情は、もはや「観察」などではない。


でも、それを何と呼ぶべきか——女神はまだ、知らなかった。


夜の静けさの中で、遠くの教会の鐘が零時を告げた。

鐘の音はゆっくりと空気を震わせ、窓ガラスをかすかに鳴らす。

その振動が、彼女の手にしたカップの水面にも、小さな波紋を広げていた。

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