第十二話「胸のざわつき、そして業務記録」
第十二話「胸のざわつき、そして業務記録」
リーンがギルドに来なくなって、三日が過ぎた。
といっても、今回はあの時とは違う。
坑道での再会以来、リーンは基本的に毎日ギルドに顔を出していた。
ただ、今日と昨日とその前の日は、城の用事で来られないと事前に断りがあったのだ。
「魔王城の行事で三日ほど留守にします」
「そうですか。承知しました」
「……それだけ?」
「何か」
「ううん、なんでもない」
そんなやりとりがあったのを、真は思い出していた。
リーンは少しだけ言いたそうな顔をしていたが、真はそれ以上追及しなかった。
お客様の予定に立ち入るのは業務の範囲外だ。
だから、彼は普段通りに働いていた。
明朝四時半に出社し、床を磨き、依頼書を並べ替え、朝礼の準備をする。
副長が出勤してきて、見習いが欠伸を噛み殺しながら続く。
ギルドの一日が始まる。
いつもと同じ。何も変わらない。
ただ——
初日、カウンターに立つたび、真の視線は無意識にギルドの入口の扉を向いていた。
二日目、副長が「真さん、おはよう」と声をかけると、一拍遅れて返事をする。
三日目、副長は声をかけるのをやめた。
かわりに、黙って真の背中を見つめる。
副長が首をかしげる頃には、もう真は次の業務に移っているのだが。
その背中が、ほんの少しだけ、いつもより小さく見えた。
「真さん、どうかしたか」
「いえ、別に」
「そうか」
副長はそれ以上追及しなかった。
真が何かを気にしているらしいことは、そのわずかな間で察したが、それを言葉にさせようとは思わなかった。
この男は、言葉にした瞬間に「業務」にしてしまうからだ。
昼前、真は手帳を開いていた。
いつもの業務記録をつけるためだ。
『本日、依頼三件処理。在庫庫の整理完了。朝礼時の伝達事項は二点』
『特記事項:リーンさん、本日も不在。魔王城の行事につき事前連絡あり。問題なし』
——問題なし。
そう書きながら、真は手が止まった。
ペン先が紙の上でかすかに震え、インクが小さな染みを作る。
真はその染みをじっと見つめ、それから几帳面に二重線で消した。
この数日、同じ文章を書きながら、一度も手が止まったことなどなかったのに。
「真さん、ちょっとこの依頼書——」
「はい、承ります」
副長の声に、真は手帳を閉じて立ち上がった。
書くべきことは書いた。問題はない。業務に支障はない。
そう自分に言い聞かせて。
それでも、閉じた手帳のページの端から、消しきれなかったインクの染みが、次のページにまでうっすらと透けていた。
午後を少し回った頃、ギルドの扉が開いた。
その扉の音に、真は普段よりわずかに早く顔を上げた。
見開かれたその目は、次に誰が入ってくるのかを、もう知っていたかのようだった。
顔を上げた真の視線の先にいたのは——
リーンだった。
そしてその隣には、見知らぬ若い男が一人。
年の頃は二十歳前後。
長身で、肩に軽装の鎧をまとい、腰には細身の剣を差している。
整った顔立ちの、いかにも「良い家の出の冒険者」といった風情の男だった。
灰色がかった金髪が、窓からの陽の光にさらさらと揺れている。
「ただいまー」
「リーンさん!」
見習いが嬉しそうに声を上げる中、真はカウンターの前に立ち、いつものように口を開いた。
見習いはといえば、嬉しそうに声を上げてから、はたと気づいてリーンとカルロを交互に見た。
副長は無言で真の横顔を観察している。
「いらっしゃいませ。本日は——」
その声に、いつもよりほんのわずかな間があった。
ほんの一呼吸。
副長にしか気づかれない程度の、あまりに短い間。
真は一拍遅れて、いつものように続けた。
「——どのようなご用件でしょうか」
「あ、真さん!紹介するね、こっちはカルロ。隣の街のギルドで一緒になったの」
「どうも、カルロです。リーンさんには道中お世話になりまして」
カルロと名乗った男は、さわやかな笑顔で手を差し出した。
真はその手を一瞥し、静かに握手を返す。
相手の手は若く、力強く、これからの人生をまるごと肯定しているような温かさがあった。
握手をしながら、真は無意識に相手の手の感触を分析していた。
湿度、握力、皮膚の硬さ。
配達時に相手から荷物を受け取る時と同じように、彼の手は自動的に情報を収集していた。
(戦闘経験は浅い。ただし握力から見て、剣の稽古は積んでいる。利き手は右。職業——冒険者。おそらく二年目といったところか)
手を離すと、真はさりげなく自分の手のひらを見下ろした。
そこには、カルロの温かさがかすかに残っていた。
「大黒真です。ギルドで働いています」
「お噂はかねがね。山を消した勇者さんだとか」
「よく言われます」
カルロは声を上げて笑った。
リーンも釣られて笑っている。
二人の笑い声が、ギルドに軽やかに響いた。
見習いが「カルロさんってカッコいいっすね」と素直に褒め、副長が「お前もそう思うか」と応じている。
その声はどこかぎこちなく、ちらりと視線を真に向けていた。
真はその様子を視界の隅に収めながら、いつも通りに業務を続けようとした。
「……真さん、その報告書、三枚目ですよ」
副長が、呆れたような声で言った。
副長の指が、机の隅に追いやられた書き損じの紙をそっと押さえていた。
一枚目は宛名の書き間違い。
二枚目は依頼内容の欄が空欄のまま提出寸前だった。
三枚目は——インクが乾く前に乱暴に丸められ、皺だらけになっている。
真は手元を見た。
依頼書の報告欄に、同じ内容を三枚も書いている。
一枚目と二枚目はインクが乾く前に丸められ、三枚目は完全に書き損じていた。
字が掠れ、二行目で詰まっている。
「……申し訳ありません。書き直します」
真は無表情のまま、三枚の報告書をきれいに畳んで机の隅に置いた。
手つきはいつも通り正確で、無駄がない。
しかし、三枚の報告書を重ねる順番を、彼は二度間違えた。
だが副長は気づいていた。
いつもの真なら、こんなミスは絶対にしない。
そもそも、依頼書の報告欄を書き損じたことなど、これまで一度もなかったはずだ。
「真さん、ちょっと休憩したらどうだ」
「さっき五分ほど——」
「その五分を後で取るから、今、十分休め。カウンターの向こうで水でも飲んでこい」
真は少しだけ考えてから、「では、お言葉に甘えて」とカウンターの方へ歩いていった。
給湯室の隅で、真は水の入ったカップを手に、壁にもたれていた。
冷たい水を一口含む。
喉を落ちていく感触を確かめながら、自分の胸の内を分析する。
(なぜ、報告書を三枚も書き損じた)
(なぜ、リーンさんの隣にあの男がいるのを見た時、いつものように「いらっしゃいませ」と言うまでに一拍の間があった)
真は手帳を取り出し、備考欄を開いた。
『本日、集中力低下。原因不明』
『報告書を三枚書き損じる。インクの消費量が通常の三倍。業務効率に影響あり』
そこまで書いて、真はさらにペンを走らせた。
『リーンさん、カルロ氏と来店。——特記事項に該当するかは不明』
書きながら、自分の字がいつもより少しだけ乱れていることに気づく。
それもまた、「原因不明」の事象の一つとして追記した。
胸のあたりに、かすかな違和感があった。
痛みではない。
熱でもない。
ただ——何かが詰まっているような、それでいて空っぽのような。
配達リストを一枚紛失した時に似ている。
あの時も、確かこんな感覚だった。
「真さん、何してるんだ」
いつの間にか、副長が隣に立っていた。
手には自分のカップを持ち、心配そうな顔をしている。
「業務記録です」
「……それ、恋って言うんだよ」
「恋、ですか」
真は首をかしげ、それから手帳に視線を戻した。
けれど、そこにはもう何も書かなかった。
代わりに、自分がさっきまで何を書こうとしていたのかを忘れてしまったことに、今さら気づく。
副長はその様子を見て、深いため息をつく。
「あのな、真さん。人間ってのはな、誰かに会いたいと思ったり、会えなくて落ち着かなかったり、他の誰かと笑ってるのを見て胸がざわついたりするもんなんだよ」
「胸が、ざわつく」
「そうだ」
「それは、業務に支障が出るので対策が必要です」
「ちげぇよ!」副長は天を仰いだ。
その声が給湯室の壁にこだまし、見習いがギルドの方から「どうしたんですか?」と顔を覗かせる。
副長は手をひらひらと振って見習いを追い払い、それから深く息を吐いた。
「対策じゃねぇ。そういうのはな、対策するもんじゃなくて、受け入れるもんなんだよ」
「受け入れる……」
「そうだ。まあ、そのうちわかるさ」
副長はぽんと真の肩を叩き、カウンターへ戻っていった。
真は、叩かれた肩のあたりを、しばらくじっと見つめていた。
そこにはまだ、副長の手のひらの温かさがうっすらと残っている。
人に肩を叩かれたのは、この世界に来て初めてだった。
残された真は、手帳を見つめながら、しばらくその場に立ち尽くしていた。
受け入れるべきもの。
業務に支障をきたす未知の要因。
それを「恋」と副長は言った。
(恋——)
真の視線が、ちらりとカウンターの方へ向いた。
リーンがカルロと何やら楽しそうに話している。
笑顔だ。
いつもの、ギルドで見せる笑顔。
その笑顔が、今日はなぜか、まぶしく感じられた。
リーンの笑い声が、ギルドの天井にこだまする。
カルロのさわやかな声。
それに応える副長と見習い。
一人だけ壁にもたれたままの真は、手にしたカップの水を一口含み、そのまま静かに目を閉じた。
瞼の裏に、さっきのリーンの笑顔が焼きついている。
その笑顔の隣には、カルロが立っていた。
真は手帳を閉じ、カップの水を一気に飲み干した。
冷たい水が喉を勢いよく落ちていく。
それで少しだけ、胸の奥のざわつきが薄れた気がした。
「……業務に支障が出ない程度に対応を検討します」
誰に言うでもなく呟いて、真はカウンターへと歩き出した。
その手帳の備考欄には、今もこう書かれている。
『特記事項:リーンさん、本日も不在。魔王城の行事につき事前連絡あり。問題なし』
『——本当に、問題はないのか。要検討』
カルロが去り、リーンがいつもの席に座る頃には、夕暮れが近づいていた。
ギルドの窓から茜色の光が差し込み、客足もまばらになっている。
見習いがランタンに火を灯し始め、ギルドの中が少しずつ橙の灯りに包まれていく。
真は先ほど書き損じた報告書の代わりに、魔獣素材の買取リストを黙々と清書していた。
ペンの進みはいつもより遅いが、乱れはもうない。
「真さん、今日、なんか変だったね」
リーンがすぐそばに立っていた。
いつの間にか席を立ち、カウンターの前に来ている。
両手には飲み干したカップを抱え、首をかしげて真を見上げていた。
「変、ですか」
「うん。報告書何枚も書き直してたし、なんかぼんやりしてたし。珍しいなと思って。私がいない間に何かあった?」
「何もありません。業務上の些細なミスです」
「ほんとに?」
「はい。ご心配には及びません」
真は顔を上げずに答えた。
リーンは少しだけ不満そうな顔をしたが、それ以上追及はしなかった。
代わりに、カップをカウンターに置き、ふと笑う。
「カルロ、いい人だったな。隣の街でも結構有名な冒険者らしいよ」
「……そうですか」
「今度、一緒に依頼を受ける約束しちゃった」
「そうですか」
二度目の「そうですか」は、自分でも驚くほど平坦な声だった。
その声を、リーンは聞き逃さなかった。
真はペンを置き、ようやく顔を上げる。
リーンは、そんな真の顔をじっと見て、もう一度だけ笑った。
今度は、何かを確かめるような、少しだけ意地の悪い笑みだった。
それは、今までのリーンからは想像もつかないような、余裕のある、大人びた表情だった。
「真さん、もしかして——」
「本日はもう閉店時間です。リーンさん、お気をつけてお帰りください」
真はそう言って、いつもより丁寧に頭を下げた。
リーンは一瞬きょとんとしてから、声を上げて笑った。
「うん、じゃあまた明日」
「はい。お待ちしています」
リーンが去った後のギルドで、真は一人、机の上の書類を片付け始めた。
部屋の中には、ランタンの灯りが揺れている。
その灯りを見つめながら、真はもう一度だけ手帳を開いた。
『本日、集中力低下。報告書の書き損じ三枚。原因不明』
『特記事項:リーンさん、カルロ氏と来店。笑顔を確認。——問題は、なかったはずである』
ペンを置き、真はその文字を見下ろした。
「問題は、なかったはずである」——「はず」という言葉を、彼は業務記録で使ったことがなかった。
「はず」は報告ではない。推測だ。
そして推測は、彼の業務記録には本来不要なものだった。
そこまで書いて、真は手帳を閉じた。
窓の外はすっかり暗くなり、街の灯りが一つまた一つとともり始めている。
その口元がほんの少しだけ緩んでいなかったのは、もしかすると、彼自身が一番気づいていなかったのかもしれない。
リーンはというと、帰り道、少し浮かれ気味になっていた。
夕闇の中、彼女の足取りは自然と軽くなる。
石畳を跳ねるように歩きながら、さっきの真の顔を思い出していた。
報告書の書き損じ三枚。
副長に「休憩しろ」と言われて給湯室にこもってたこと。
カルロの話をした時の、あの二度目の「そうですか」。
(あれ、絶対いつもと違ったよね)
普段の真なら、報告書を書き損じるなんてありえない。
まして三枚も。
しかも、カルロの話をしている時のあの平坦な声——いつもの「そうですか」とは何かが違った。
いつもはもっと、本当にどうでもいいという感じなのに、今日はどこか突き放すような、それでいて無理に抑えているような。
胸の奥が、ぽかぽかと温かい。
まるで熱いお茶を飲んだ後のように、じんわりと広がるこの感覚を、彼女は覚えていた。
あの坑道から戻った日。真と一緒に歩いた帰り道。あの時感じたのと同じものだった。
道端の水たまりに、三日月が映っている。
リーンはその手前で立ち止まり、水面の月をしばらく見つめた。
ひときわ強い風が吹き抜け、水たまりの表面に細かな波紋が広がる。
月の形が崩れては戻り、崩れては戻る。
その揺らぎが、なんだか今の自分の心みたいで、リーンは小さく笑った。
「もしかして……もしかするかも……」
胸の奥が、くすぐったいような、むず痒いような感覚で満たされている。
それを言葉にしようとすると、どうしても口元が緩んでしまう。
夜の街には、どこかの家から夕餉の煙が立ち上り、魚を焼く匂いがかすかに漂っていた。
リーンは自分の頬が熱いことに気づき、両手で頬を包み込んだ。
指先は冷たいのに、頬だけがやけに熱い。
今の自分の顔を見られたら、何を言われるかわからない。
そう思うと、なんだか可笑しくて、彼女は小さく声を上げて笑った。
(でも、違ったらどうしよう)
期待しすぎて、あとでがっかりしたら。
ただの思い込みでした、なんてことになったら。
そう思うと、浮かれた気持ちが急にしぼんでしまう。
それでも——今日の真さんのあの「そうですか」は、いつもと違った。
「お客様」として見られていただけなら、報告書を三枚も書き損じる理由がない。
だって、真さんは「お客様」のためにミスをするような人じゃない。
なら、私はもう「お客様」だけじゃないのかもしれない。
その可能性に気づいた瞬間、胸の奥がきゅっとなった。
それは期待と、ほんの少しの不安と——そして、自分でも驚くほどの確信が混ざった、奇妙な感覚だった。
「……違ったら、その時はその時!」
彼女は水たまりをひょいと飛び越え、再び歩き出した。
靴の底が石畳を叩く音が、少しだけ強くなる。
夜風が彼女の髪を揺らし、三日月だけがその背中を静かに照らしていた。
魔王城に着く頃には、彼女の頬は少し赤らんでいた。
寒さのせいだけではない。
自分でも気づいていないが、彼女は先ほどからずっと、小さく鼻歌を歌っていた。
その歌は、子供の頃に母が歌ってくれた子守唄だった。
足音も弾んでいる。
廊下を跳ねるように歩く娘を、すれ違う兵士たちが不思議そうに見送っていく。
いつもは静かに、控えめに歩く姫の姿からは考えられない変わりようだった。
城の窓から差し込む月明かりが、彼女の通った後の廊下を青白く照らしていた。
その光の道を、リボンが揺れる。今日は自分で結んだのに、結び目がちゃんとまっすぐになっている。
(明日は、何を話そう)
(真さんは、どんな顔をするだろう)
そんなことを考えると、なんだか眠れそうになくて、彼女はもう一度だけ笑った。
今日はいい日だ。
明日もきっといい日になる。
そう思える自分が、何よりも嬉しかった。




