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社畜の郵便配達員は異世界でも休まない  作者: 太幽


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第十一話「報告書の白紙」

第十一話「報告書の白紙」


ギルドの朝は、今日も変わらず巡ってくる。


真は明朝四時半、誰よりも早くギルドに到着した。

扉を開けると、古い木材と埃の匂いが静かに迎え入れる。

窓を開け放てば、朝露に濡れた街の匂いが室内に流れ込んでくる。

焼きたてのパンの香り、湿った石畳、遠くの鍛冶屋から届くかすかな炭の匂い。

それらが混ざり合った朝の空気を、真はいつものように大きく吸い込んだ。


モップを手に取り、床を磨き始める。

規則正しいモップの動きに合わせて、床板がかすかに軋む音だけが、誰もいないギルドに響いていた。

磨き上げられた床に、朝日が差し込んで、小さな埃が金色に舞っている。


掲示板の依頼書を期限順に並べ替え、カウンターの上を布で拭き、観葉植物の葉に水をやる。

その一連の動作に、無駄はない。

迷いもない。

まるで機械のように正確で、しかし機械よりずっと優しい手つきで。


やがて、副長が出勤してくる。

見習いが欠伸を噛み殺しながら続く。

リーンがふらりと顔を出し、女神が控え室の窓からその様子を見つめる。

昨日までと変わらない、ギルドの朝。

けれど、昨日までとは少しだけ違う空気が、そこにはあった。


リーンが席に着くと、真はいつものように水差しとカップを用意する。

水差しの持ち手を必ずリーンの方に向け、カップの底に小さな布を敷いて水滴が机を濡らさないようにする。

その手際は相変わらず淀みがなく、美しいとすら言える流れだった。


「リーンさん、今日はどのようなご用件で」

「休憩」

「そうですか。どうぞごゆっくり」


リーンはカップを両手で包み込み、一口含む。

冷たい水が喉を落ちていく感触を、彼女はこの数日ですっかり覚えてしまった。


「そういえば真さん」

「はい」

「女神様って、最近ずっと控え室にいるよね」

「はい。報告書の作成があるとかで」

「報告書……」

「神界への定期報告だそうです」


リーンは少しだけカップを見つめ、それから顔を上げた。

その目が、ちらりと控え室の扉に向けられる。


控え室の中で、女神は机に向かっていた。


窓から差し込む朝日が、机の上の書類を橙色に染めている。

部屋の中は静かで、聞こえるのは通りを歩く人々の足音と、遠くの市場の喧騒だけ。

その静けさが、今はかえって彼女の心を責め苛んでいた。


神界への定期報告。

その書式は決まっている。

召喚した勇者の行動記録、任務達成率、脅威への対処状況。

そして——魔族との接触に関する特記事項。


(今回こそ、書かなければ)


女神は深く息を吸い、羽根ペンを手に取った。

インク壺の蓋を開け、ペン先を静かに浸す。

黒いインクが、ペン先をゆっくりと這い上がってくる。


(魔族の姫、リーン・ヴァルデマール。勇者と頻繁に接触中。先日の坑道崩落では、自ら瓦礫を掘り起こし作業員を救助。勇者および当女神と合流後——)


そこまで書こうとして、手が止まる。

違う。書けない。書くわけがない。

リーンのあの笑顔を、行動を、「利用価値のある捕虜」として報告するのか。

彼女は机の引き出しを開け、白紙の報告書をもう一枚取り出した。


(今回も、特記事項はなし——)


そう書こうとして、また手が止まる。

机の上には白紙の報告書が一枚。

インク壺の蓋を開けてしばらく経つが、彼女はまだ一文字も書けていなかった。

窓から流れ込む風が、紙の端をかすかに揺らす。


——カツン。


インク壺の縁に、細い金属音が響いた。

女神は手が震えていることに気づき、ゆっくりと手を膝に戻した。

指先が冷たい。

神様でも、震える時は震えるのだと、彼女は初めて知った。


窓の外を見る。

街は朝の光に包まれ、人々が行き交っている。

あの灯りの下には、人間も、魔族も関係なく、ただ今日を生き、明日を願う者たちがいる。


(私が守るべきは、この灯りそのものではなかったのか)


神界の掟は「人間を守れ」と命じる。

しかし、この灯りの下で笑うリーンの姿は、果たして「敵」だったか。


違う。

あの娘は、ただの一度も私の敵ではなかった。

私が、そう決めつけていただけだ。


女神は引き出しを開け、白紙の報告書を取り出すと、何も書かずに封筒に入れた。

「特記事項なし」——今回もまた、そう送る。

それが三度目の、神としての嘘。


(この嘘が、いつまで続けられるか——)


窓の向こうで、リーンが笑っている声がかすかに聞こえる。

女神は目を閉じ、その声を聞いた。

神としての使命と、一人の個人としての感情の間で、彼女の心は今日も揺れ続けている。


けれど——今回、彼女の中には新たな違和感が芽生えていた。


(私は今、「仕方ない」と思わなかったか?)


リーンを守るための嘘を、まるで当然の選択のように受け入れている自分。

かつてはあれほど苦しんだ嘘が、今はもう「慣れた手続き」になりつつある。


(いつから私は、こんなに簡単に嘘をつけるようになった?)


——違う。これは私の意思だ。神界の掟に背く、私自身の選択だ。

そう言い聞かせるのに、ほんの少しだけ時間がかかった。


(いつの間にか、正当化が上手くなっている)


(真の影響か。大黒の——あの男の、仕事だからと何でも割り切るあの価値観が、私の中に染み込んでいる)


女神は自分の手を見つめた。

何千年も神界で書類を書いてきた手が、今は嘘の報告書を封じることに何の躊躇も覚えなくなっている。

それが——自分でも方向が正しいのかわからない。

ただ、流されているだけではないのか。

正しいと思うから嘘をつくのか、それとも、嘘をつく自分を正しいと思い込もうとしているのか。


女神は小さく息を吐き、封蝋に印を押した。

封をした報告書を手に取り、窓辺に歩み寄る。

ギルドの外では、リーンと見習いが笑い合っている。

その笑顔を守るための嘘だと、自分に言い聞かせながら。


(前の私なら、こんな迷いすらなかった。神界の掟に従い、報告すべきことを報告する。迷うこと自体が許されなかった)

(でも今は違う。迷う。悩む。そして——自分で選ぶ。その選択の連続が、私を神から遠ざけているとしても)


どこか遠くで、鳥が鳴いた気がした。

それが神界からの叱責のように聞こえて、女神はほんの少しだけ、唇を噛んだ。


扉がノックされたのは、それから間もなくのことだった。


控えめなノック音に、女神は顔を上げる。

「どうぞ」


扉を開けて入ってきたのは、真だった。

手に持った盆の上には、湯気を立てるカップが一つ。

コーヒーもどきの、かすかに焦げたような香りが部屋に広がる。


「女神様、お疲れのご様子でしたので」

「大黒……」

「朝からずっと籠もりきりです。少し休まれてはいかがでしょう」

「あなたがそれを言うの」

「私は先ほど五分ほど休みましたので」


真は相変わらずの口調で言い、カップを女神の前に置いた。

カップの底には小さな布が敷かれ、机が濡れないようになっている。

湯気が細く立ち上り、朝の光に透けて見えた。

その気遣いに、女神の胸の奥がかすかに温かくなる。


「大黒、少し聞いてもいいかしら」

「はい」

「あなたは、なぜそんなにぶれないの。相手が誰であれ、あなたは態度を変えない。魔族の姫でも、神でも、同じ『お客様』として扱う」


真はしばらく考え込み、それからぽつりと答えた。


「前の職場では、配達先を選べませんでした」

「配達先……」

「はい。どんな相手でも、同じように荷物を届ける。雨の日も風の日も、日曜も祝日も、相手が誰であれ関係なく。それが仕事でした」


真の声はいつも通りだった。

淡々としていて、事実を事実として述べるだけの口調。

けれど女神には、その声の奥に、彼がこれまで積み重ねてきた無数の日々が感じられた。


「ここでも同じです。依頼があれば応じる。困っている人がいれば助ける。それだけです」

「……それだけ?」

「はい。それだけです」


女神は少しだけ間を置き、窓の外に目をやった。


「大黒、もし——」

「もし?」

「……いいえ、なんでもないわ」


女神は言いかけた言葉を、カップを口に運ぶことで打ち消した。

聞けなかったのだ。

(あなたのために嘘をつくことを、業務だと思えるか)

そんなことを聞いてしまったら、自分の嘘が「業務」になってしまう。

それだけは避けたかった。


「ところで女神様」

「なに」

「報告書は進んでいますか」

「……ええ、ついさっき終わったわ」

「そうですか。では、紅茶のお代わりをお持ちします」

「コーヒーだったわ」

「これは紅茶です」

「……え?」


女神はカップの中を覗き込んだ。

確かに今、口に含んだのはコーヒーだった気がするのだが——香りを確かめると、ほのかに柑橘が混じった、見知らぬ紅茶の香りがした。


「先日、リーンさんが『女神様、コーヒーばかり飲んでるけど紅茶は飲まないの』とおっしゃっていて」

「あの娘が……」

「それで見習いが街で買い付けてきました」

「あなたが仕入れたんじゃないのね」

「私は発注と品質管理を担当しました」


女神はもう一度、カップの中をじっと見つめ、それからゆっくりと口をつけた。

さっきまでコーヒーを飲んでいた舌が、別の世界に慣れようとするように、紅茶の味を探っている。

渋みと、かすかな柑橘の香り。

コーヒーよりずっと優しい味だった。


「……不味くはないわ」

「最高の褒め言葉です」


真はわずかに口の端を持ち上げ、いつものように言った。

それが笑顔だと理解するまでに、女神はもう迷わなかった。


扉が閉まり、部屋に一人になった女神は、そっとカップを手に取った。

両手で包み込むと、陶器の温もりが指先からじんわりと広がる。

紅茶の優しい香りを吸い込み、一口含む。

熱い液体が喉を落ちていく感触が、不思議と心地よかった。


神界で飲んでいた神酒よりも、ずっと不味いはずなのに。

それでも、今の彼女には、これが誰かのために用意されたものであることの方が、何より尊く感じられた。


窓の外では、リーンと真が何やら話している。

リーンが笑い、真がいつものように「十分すぎます」と答えている。

見習いがそれに加わり、副長が呆れたように天を仰いでいる。

ギルドの日常。

いつもと変わらない、けれどいつもより少しだけ温かい朝。


女神は封筒に宛名を書いた。

神界行き。

中身は、白紙の特記事項。


(あと何度、この嘘を続けられるかわからない)


(それでも——)


彼女は封蝋にそっと印を押し、立ち上がった。

控え室を出て、ギルドの光の中へと歩いていく。

その手には、まだ封をしたばかりの報告書。


今日もまた、嘘の報告書を送る。

この嘘が正しいのかどうか、今の彼女にはまだわからない。

けれど、少なくとも——この嘘を後悔していない自分がいることだけは、確かだった。


そして同時に、その「後悔していない自分」に、かすかな違和感を覚えていることも。


ギルドのカウンターでは、真が依頼書を整理している。

女神はその背中を見つめながら、心の中で呟いた。


(大黒、あなたのその「業務」の哲学は、きっと人を救う。でも——それに甘えて、自分の選択を「業務」で正当化する人間も、いつか現れるかもしれない)


(今の私のように)


女神はカップをもう一度口に運び、紅茶の最後の一滴を飲み干した。

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