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社畜の郵便配達員は異世界でも休まない  作者: 太幽


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第十話「ただいま」

第十話「ただいま」


坑道を抜けた瞬間、真っ先に感じたのは、匂いだった。


雨上がりの土。濡れた草。どこか遠くで焚かれている煙の、かすかに焦げたような匂い。それらが混ざり合った風が、三人の頬を撫でていく。

リーンは無意識に、大きく息を吸い込んでいた。

坑道の中の澱んだ空気とはまるで違う、生きている世界の匂い。


肺の奥まで満たすその空気は、冷たくて、ほんの少しだけ甘い。

七日間、城の自室で深呼吸を繰り返しても決して得られなかった、外の世界の味がした。


「……あったかい」


リーンの呟きに、女神が隣で小さく笑う気配がした。

その笑う気配は、声ではなく、かすかな息の抜ける音と、肩の力がふっと緩む気配で伝わってきた。


西の空が、茜色に染まり始めている。

雲の切れ間から差し込む陽の光が、濡れた石畳を金色に輝かせていた。


雨はあがったばかりなのだろう。

水たまりの表面を、風が小さく揺らしている。

そのきらめきが、妙に目にしみた。

光が揺れるたびに、小さな虹が水面に浮かんでは消えていく。

それを目で追いながら、リーンはしばらく立ち尽くしていた。


真は無言で先を歩いている。

背中には負傷した作業員。

その歩調はいつもよりほんの少しだけ遅く、そして静かだった。

女神とリーンが並んで歩くのを、決して急かさない速度。


ぴちゃん、と水たまりを踏む音がした。

リーンの靴が、濡れた石畳に小さな波紋を広げる。

波紋はすぐに消えて、また元の静かな水面に戻る。

そんな小さなことが、なぜだか無性に嬉しかった。


リーンの靴の先が、すっかり濡れている。

雨の日でも配達をやめなかった、あの四十二年間の癖が、彼の足を自然と水たまりの少ないルートへと導いていた。


ギルドの扉を開けた瞬間、嗅ぎ慣れた木の匂いが三人を包み込んだ。


古い木材と、ほんの少しの埃。

そして、どこからか漂ってくるコーヒーもどきの焦げたような香り。

換気は悪くないはずなのに、なぜかこの匂いだけはギルドに染みついている。

それが今は、どうしようもなく懐かしい。


扉を開けた時の蝶番のきしみも、いつものままだ。

真が毎朝油を差しているのに、それでも軋む。

その軋みさえもが、彼女を迎える声のように感じられた。


「リーンさん!」


見習いの声が、ギルドに響き渡った。

カウンターから身を乗り出し、目をまん丸に見開いている。

その手には磨きかけのカップ。布巾が床に落ちたことにも気づいていない。

副長はといえば、椅子から腰を浮かせたまま固まっていた。

片手にペンを持ったまま、インクが机に落ちて小さな染みを作っている。

その染みがゆっくりと広がっていくのを、誰も拭おうとしなかった。


「た、ただいま」


リーンは俯きがちに呟き、それからおずおずと顔を上げた。

煤だらけの頬。乱れた髪。破れたマント。

でもその目は、まっすぐにギルドの面々を見据えている。

声はかすれていたが、その響きは、いつもの彼女だった。


副長がゆっくりと立ち上がった。

その手が、無意識に机の引き出しを開ける。

中から取り出したのは、まだ誰も使っていない小ぶりなカップだった。


手に馴染む大きさに焼き上げられた、ほんのり温かみのある白い陶器。

箱から出して、そっとカウンターに置く。

その一連の動作が、妙にぎこちない。


カップの底がカウンターに触れた時、澄んだ小さな音がした。

朝礼で何度も聞いた、あの陶器の音。

その音が、今日だけは違って聞こえる。

まるで、ずっと待っていた誰かを迎える、最初の挨拶のように。


「……水、飲むか」

「うん」


リーンはカップを両手で包み込んだ。

指先に、じんわりと冷たさが広がる。

その冷たさが、割れた爪の痛みを少しだけ和らげてくれた。

一口含むと、硬い水が喉を落ちていく。


ギルドの水。真がいつも用意してくれるのと同じ、少しだけ鉱物の味がする水。

何でもない味のはずなのに、今はそれが、この上なく美味しく感じられた。


水を飲むリーンの喉が、こくりと小さく動く。

その動きを、副長と見習いはただ黙って見守っていた。

見習いの手から、いまだに布巾が落ちたまま、床にぺたりと張りついている。

カウンターの向こうでは、在庫庫の整理を終えた真が一枚の依頼書を手に取った。

紙の端を指でなぞり、記載内容を確認するその仕草が、いつもよりほんの少しだけ遅い。

彼もまた、耳だけはリーンの方を向けていた。

ギルドの静けさが、いつもよりずっと優しい。


「リーンさん、その手」


見習いが声を上げた。

リーンの指先を見て、息を呑む。

割れた爪。血のにじんだ皮膚。煤と土で真っ黒になった両手。

研ぎ澄まされた感性が、その手が何をしていたのかを一瞬で察した。


「ちょっと待っててください、今、薬と包帯を——」


見習いが慌てて駆け出そうとしたその時、女神が静かに手を上げた。


「……私がやるわ」


ギルドの隅の椅子に腰掛けたリーンの前に、女神がひざまずいた。


手をかざすと、淡い光の膜がリーンの両手を包み込む。

光が触れたところから、ぷつりぷつりと傷が塞がっていく。

割れた爪も、かすかに輝きながら再生を始めた。

くすぐったいような、温かいような不思議な感覚に、リーンは思わず指をぴくりと動かす。

女神は黙って、一本一本、丁寧に指を包み込んでいく。


女神の指が動くたび、空気がかすかにふるえ、光がきらめく。

まるで星のかけらを、傷口にひとつずつ埋め込んでいるかのようだった。


「……痒い」


「我慢なさい」


「はい」


リーンは素直に返事をして、女神の手元を見つめ続けた。

傷が塞がるたび、女神の指先がかすかに震えているのが見える。

神様でも、こんなふうに震えるんだ。


その時、リーンの鼻をくすぐったのは、かすかな柑橘の香りだった。

回復魔法の光には、いつもこの香りが混ざっているのか。

それとも、これは女神自身の匂いなのか。

雨の日にどこかで嗅いだことのある、懐かしいような切ないような、優しい香り。


リーンは無意識に、匂いのする方へとわずかに鼻を近づけていた。

その動きに気づいた女神が、ぴくりと指を止める。

そしてまた、何も言わずに治療を続けた。


「……いい匂い」

「え?」

「女神様って、いい匂いがするんだなって」


女神は返事をしなかった。

ただ、俯いたまま、さらに一本一本丁寧に指を包み続けた。

その頬が、少しだけ赤くなっていることに、リーンは気づいていた。

けれど何も言わずに、ただじっと、女神の手の動きを見つめ続ける。


傷を塞ぐ光が、ゆっくりとリーンの手の甲までを撫でていく。

女神は治療と称して、リーンの手の汚れを拭うように、何度も何度も同じ場所を優しくこすった。

それは治療ではなく、ほとんど手を握りしめるのに近かった。

リーンは何も言わず、女神のされるままになっていた。


カウンターの向こうでは、真が報告書を書くペンの音が、規則正しく響いている。

紙の上をインクが滑る、かすかな抵抗音。

その音を聞きながら、リーンはもう一度だけ、大きく息を吸い込んだ。

肺を満たすのはギルドの空気だ。木と埃とコーヒー。

その空気が、自分の居場所をちゃんと覚えていてくれたようで、嬉しかった。


やがて、傷がすべて塞がり、女神の手がゆっくりと離れていった。

光が消えても、リーンの手にはまだ、かすかな温もりが残っている。

それは回復魔法の残滓ではなく、女神の手の体温だった。


リーンは自分の手をそっと顔に近づけた。

女神の体温と、柑橘の香りが、まだ残っている。


「……ありがとう」

「当然のことをしたまでよ」


女神はそう言って立ち上がると、くるりと背を向けた。

その耳の先が、まだ少しだけ赤い。


夕暮れが近づく頃、ギルドの扉が開く音がした。


一人の冒険者が依頼書を持って飛び込んでくる。

新しい依頼だ。

魔獣の目撃情報。

場所は南の沼地。

緊急ではないが、早めの対処が望ましい——いつも通りの日常の風景が、そこには広がっていた。

冒険者のマントからは、外の埃っぽい空気が流れ込んでくる。

村の子どもたちの笑い声をかき消すように、扉が勢いよく閉まった。


「真さん、ちょっとこれ——」

「はい、承ります」


真が即座に依頼書を受け取る。

その手際は相変わらず無駄がなく、仕分けの速さは誰も追いつけない。

依頼書と冒険者カードを照合し、完了予定日時と報酬を伝え、控えを手渡す——所要時間はわずか数十秒。

あまりの速さに、冒険者の方が何か言いかけて、やめた。

言うことがなくなったのだ。

その背中を少しだけ見つめてから、リーンは立ち上がった。


「そろそろ行くね」


「もう行くの?」見習いが残念そうな声を上げる。

「うん。でも、明日、また来る」

「絶対ですよ!」

「わかってる」


リーンはそこで言葉を切り、ギルドの入り口で振り返った。


「真さん」

「はい」


真が手を止めて振り返る。

手には依頼書を持ったまま。

その目はいつも通り静かで、何の圧力もない。


「私は、勇者を敵だとは思ってない。あなたが、私の父と戦う日が来ても——」

「リーンさん」


真が、珍しく自分から言葉を重ねた。


「依頼がなければ、戦いません」

「……え」

「私は、誰かを討つためにここにいるのではありません。依頼があるから仕事をする。ないならしない。それだけです」


「……それだけ?」

「はい。それだけです」


リーンは小さく笑った。

何度聞いても、同じ答え。

でもその変わらなさが、彼女にとって何よりも大事なものになっていた。

あの頃、ただの「お客様」と自分を呼んだ声と、今の声は、まったく同じままだ。

「じゃあ、また明日」

「お待ちしています」


ギルドを出たリーンは、しばらく歩いてから、自分の手を見つめた。


きれいに塞がった傷跡。

女神の回復魔法は完璧で、痕すら残っていない。

けれど、指先にはまだ、回復魔法の温もりがかすかに残っている気がした。

その温もりを確かめるように、リーンは指をぎゅっと握りしめる。


夕暮れの街には、あちこちから夕餉の支度をする煙が立ち上っている。

魚を焼く匂い。

どこかの家から聞こえる子どもの笑い声。

帰りを急ぐ人々の足音。

どれも、ついさっきまでは「人間の営み」でしかなかったものが、今はなぜか少しだけ、自分にも関係のあるもののように感じられた。


——帰ろう。城に。父に、話すことがある。


笑顔で。


リーンの足元で、夕日に照らされた自分の影が長く伸びている。

影さえもが、城への道を急いでいるように見えた。


ギルドの中で、女神は窓辺に立っていた。


街の灯りが一つ、また一つとともり始めるのを、ぼんやりと眺めている。

その手には、冷めきったコーヒーもどきのカップ。

リーンが最後に振り返った時の笑顔が、まだ目の裏に焼きついていた。


(私は、あの子の笑顔を守りたい)


そう思った時、女神はようやく気づいた。

この感情は、神としての使命でも、任務でもない。

ただ——あの笑顔が、好きなのだ。

困っている人を放っておけず、傷だらけの手で瓦礫を掘り、それでも「ありがとう」と笑う。

あのどうしようもなく真っ直ぐな心が。


女神はカップをそっと窓枠に置き、一つだけ、小さく息を吐いた。

この感情に名前をつけるとしたら、それはきっと「友情」か、あるいは「母性」に近いものなのだろう。

でも、今はまだ、名前をつけたくなかった。

名前をつけた瞬間に、何かが決まってしまう気がして。


吐いた息が、ほんの少しだけ白く濁った。

夜はまだ冷えるらしい。


「女神様」


声がして振り返ると、いつの間にか真が背後に立っていた。


「大黒……」

「お疲れのようでしたので。今日の業務はもう終了しています。どうぞお休みください」

「……あなたがそれを言うの」

「私はこれから在庫庫の整理をします」


真はそう言って、備品庫へと消えていった。


その背中に、女神は小さく呟く。

「……あなたも、少しは休んだらどうなの」

返事はなかった。聞こえているはずなのに。

それが、今の大黒真という男の全てだった。

その背中を見送りながら、女神はもう一度だけ窓の外を見る。

街の灯りは、少しずつ増えている。その一つ一つに、誰かの生活がある。

人間も、魔族も、関係なく。

今日を生き、明日を願う者たちの灯りが、そこには広がっていた。


備品庫で、真は一人、棚の埃を落としていた。


誰もいないのを確認してから、そっと手帳を取り出す。

お得意様管理台帳。

リーンのページを開き、ずっと空欄だった備考欄に、静かにペンを走らせる。


『本日、再来店。笑顔を確認。問題なし』


真はそれを読み返し、それからゆっくりと手帳を閉じた。


閉じる間際、彼はもう一度だけそのページを開き、「問題なし」の文字を指でそっとなぞった。

インクはすでに乾いていたが、その文字の上をそっと指がなぞる。

まるで、書いたばかりの文字を確かめるかのように。

それは彼の癖だった。

配達伝票の控えに「配達完了」と書いた時、いつもそうしていた。

今日も、同じだった。

備品庫には小さな窓が一つだけある。

そこから差し込む夕日が、真の横顔を橙色に染めていた。


その口元が、ほんの少しだけ緩んでいた理由を、誰に問われることもなく。


その夜、魔王城では、リーンの帰りを待つ一人の男がいた。


魔王は広間の窓辺に立ち、月明かりの下で目を閉じている。

窓の外の荒野を、冷たい夜風が吹き抜けていく。

リーンがまだ幼かった頃、この時間になると決まって寝室に来ては「眠れない」とぐずった。

そのたびに、この窓から一緒に星を眺めたものだ。

そこへ、静かに扉が開く音がした。


振り返ると、リボンを結び直した娘が立っている。

煤の汚れは落とし、新しいマントに着替えていた。

リボンの結び目は、まだ少しだけ歪んでいる。

一人で結んだのだろう。


二人は無言のまま、しばらく見つめ合う。

先に口を開いたのは、魔王だった。


「……笑顔だな」

「うん」


「そうか」


魔王はそれだけ言うと、再び窓の外に目をやった。

その横顔には、軍議の時に見せる厳しい表情はない。

ただの父親の顔があった。


魔王は背を向けたまま、それ以上は何も尋ねなかった。

傷ついたのか、誰に助けられたのか、なぜ笑顔なのか——聞く必要はなかった。

ただ、娘の笑顔がそこにある。それだけで十分だった。

城に戻った娘の足音が、かつてないほど静かで、そして真っ直ぐだった。


「父上」

「なんだ」

「ありがとう」


魔王は答えなかった。

ただ、月を見上げたまま、少しだけ目を細める。

その口元が、かすかに緩んでいた。


リーンが退室した後、魔王は静かに妻の手紙をもう一度だけ手に取った。

あの荒涼とした大地を見つめながら、彼は誰に言うでもなく、小さく呟いた。

「——笑顔だ、と言ったら、そうか、と言っていた。出会った頃のお前に、ようやく似てきたかもしれんな」


リーンは自室へと戻り、窓を開け放った。

夜風がカーテンを揺らし、遠くから虫の音が聞こえる。

空には、くっきりとした三日月。


(明日は、何を話そう。真さんは、どんな依頼を受けるんだろう。女神様は、また控え室にいるのかな)


彼女は自分の手を見つめ、それからゆっくりと指を握りしめた。


今日、ギルドで感じた水の冷たさ。カップを伝わる陶器のひんやりとした感触。女神の回復魔法の、くすぐったいような温かさ。あの柑橘の香り。


それらすべてが、彼女の胸の中で、静かな灯りになっていた。


(明日も、ギルドに行こう。いつもの席に座って、水を飲んで、真さんの仕事ぶりを眺めるんだ。そして、それでいいんだ)


リーンはそう思うと、小さく笑った。

その笑顔は、もう迷いのない、まっすぐなものだった。


いつものように、寝台の上で膝を抱える。

でも今夜は、窓から差し込む月明かりが、いつもより優しく感じられた。

それは、冷たい荒野の月明かりではなく、街の灯りと同じ温かさを持っている気がした。


ギルドの朝は、今日も変わらず巡ってくる。


真は明朝四時半、誰よりも早くギルドに到着した。

扉を開けると、古い木材と埃の匂い。

窓を開け放ち、新しい空気を入れる。

朝露に濡れた街の匂いが、室内に流れ込んでくる。


彼は手にしたモップで床を磨き始める。

規則正しいモップの動きに合わせて、床板がかすかに軋む音だけが、誰もいないギルドに響いていた。

磨き上げられた床に、朝日が差し込んで、小さな埃が金色に舞っている。


真はモップを置き、カウンターの上を整理し始める。

その指が、リーンがいつも座る窓際の机の上をそっと拭う。

彼にとっては業務の一環だ。

ただの清掃だ。

机の上には何もない。埃ひとつない。

それでも、もう一度だけ布巾をかける。

誰も見ていない。

見習いも、副長も、まだ来ていない。

だから、それは業務だった。


今日も一日が始まる。

依頼を受け、現場に向かい、報告書を書き、明日の準備をする。

変わらない一日。変わらない業務。

だが今、その変わらなさが、新しい何かの土台になろうとしていることに、彼だけは気づいていなかった。


第二章「勇者だと知る日」完

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