第8話 父親の強がり
ユキヒコから水を受け取り、私は腕にかけた。
血が流れ落ちる。水が傷に触れるたび、肩までびくりと跳ねた。息子がこちらを見ているので、なるべく声を出さないようにしたが、あまりうまくいかなかった。
「痛い?」
「……そりゃ、少しはな」
破れた袖が邪魔だった。捲ろうとすると、肌に貼りついたところが引かれる。
ユキヒコが空いている手で、布の端を持ってくれた。
「ここ、押さえてる」
「助かる」
水で見えるようになった傷は、思っていたより深かった。
猿の歯が入ったのだ。転んで擦った傷とは違う。医者に診てもらわなければならない。そんなことくらいは、私にも分かる。
だが、どこへ行けばいい。
道路すらない森の中で、私はペットボトルを傾けていた。
血の流れが弱くなるのを待って、立ち上がった。膝から下は動く。めまいもない。まずは車へ帰れる。
弓を取ろうとすると、ユキヒコが先に拾った。
「それも持つよ」
「槍があるだろ。歩きにくいぞ」
「持てる」
息子は弓を肩にかけ、空いた手で荷物を掴んだ。少しよろけたが、持ち直した。
私は何も言えず、軽くなった籠を背負った。
八匹の魚は、まだそこにあった。
歩き出しかけて、地面に横たわる猿が目に入った。息子の視線も、一度だけそこへ向いた。
私は、何か言わなければならない気がした。
怖かったな。よくやったな。それとも、もう見なくていいとでも言うべきか。
迷っているうちに、ユキヒコがこちらを見上げた。
「歩ける?」
「ああ」
「じゃあ、帰ろう」
息子は前へ向き直った。
私はその後ろを歩いた。枝をまたぐたび、腕の中で脈が打った。
*
帰り道で、ヨモギとドクダミを見つけた。
薬に使う草だ。そう記憶していた。それ以上を聞かれたら、怪しいものだった。
どこかで読んだ。昔の人が使っていた。傷にもよいと、何かに書いてあった気がする。
普段なら、その程度の知識で息子の体をどうにかしようとは思わない。
しかし今、傷ついているのは私で、ほかに頼るものがなかった。
「それ、薬になるの?」
「……使うことは、あるらしい」
ユキヒコはしゃがんで、私が指した草を集めた。
あまり森の奥へ行くなよ、と言う。息子は頷き、すぐ手の届くところだけを探した。
さっきまで一緒に狩りをしていた手が、今度は私のために草を摘んでいる。
車に戻ってから、二人で葉を潰した。
青臭い匂いが、鍋の中から立ち上がる。ユキヒコが鼻を皺にした。
「すごい匂い」
「ああ」
「効きそうだね」
私は返事をせず、潰した葉を見ていた。
匂いが強いことと、治ることは違う。分かっている。それでも何もしないでいることには、もっと耐えられなかった。
私は傷に葉を当てた。
冷たさのあとから、痛みが戻ってきた。
「お父さん。これで治る?」
顔を上げると、ユキヒコの指先が緑色に染まっていた。
私は笑った。
「ああ。……ありがとう」
治るぞ、と、もう少しで言い切るところだった。
私が欲しいのは、こんな曖昧な記憶ではない。医者と、きちんとした薬だ。抗生物質という言葉が頭に浮かぶ。だが、どう選び、どう使うかまで、私は知らない。
ポケットのスマホを一度握り、それから離した。
調べようにも、外へはつながらなかった。
ユキヒコは私の顔を見て、少し安心したようだった。
私はその顔に救われてしまい、訂正できなかった。
*
魚を火のそばに並べると、ようやく腹が鳴った。
痛みで忘れていたらしい。
ユキヒコが枝を運び、私の膝の前へ置いた。昨日は言われてから動いていたのに、今日は必要なものを自分で探してくる。
「もうそれくらいでいいぞ。座ってろ」
「でも、お父さん、片手しか使えないでしょう」
「両手とも使える。動かすと、ちょっと痛いだけだ」
試しに動かしたところを息子に見られ、顔をしかめないようにするので精一杯だった。
ユキヒコが黙って、私の手から道具を受け取った。
私は任せた。
焼けた魚を、息子がこちらへ差し出した。
皮の一部は黒かった。それでも、昨日地面に矢で縫いとめられた一本とは違い、今度こそ手元にある。
「食べよう」
「うん」
息子がかじった。
私はその横顔を見てから、自分も口へ運んだ。皮が破れ、温かい身が舌に触れる。
塩があれば、と思いかけたが、二口目にはもう忘れていた。
「……うまいな」
「うん。すごくおいしい」
ユキヒコは骨を指で取りながら食べた。頬に煤がついていた。
私は、思っていたより長く息子の顔を見ていたらしい。
「何?」
「いや。今日は、お前の祝勝会だな」
「祝勝会?」
「初めて獲物を仕留めたんだ。お父さんまで助けた」
ユキヒコは口を動かし、飲み込んでから言った。
「じゃあ、あの猿も食べた方がよかったのかな」
私は魚を持つ手を止めた。
息子は、真面目に聞いていた。
怖かったか、と尋ねようとしていた私は、別の返事を考え直すことになった。
「……やめておこう。病気のことも、よく分からん」
「そうか」
ユキヒコは頷き、また魚を食べ始めた。
命を奪ったことに何も感じていないのか、それとも、感じたものを私が読み取れないだけなのか。
私は息子の年齢を思い出した。十歳だ。
しかし、十歳ならこういう顔をするはずだという私の考えにも、大した根拠はなかった。
「……ありがとうな、ユキヒコ」
息子が顔を上げた。
「助けてくれて」
「お父さんだからね」
それだけ言って、少し焦げたところを歯で取った。
私は残りの魚を見下ろした。片腕は痛かったが、もうしばらく、この火の前に座っていたかった。
遠くで、低い声がした。
長く伸び、山の向こうで途切れる。少し間を置いて、別の方角から同じ声が返った。
ユキヒコの手が止まった。
「……犬?」
「狼かもしれん」
私は森を見た。昼間歩いた場所が、木の形すら分からない闇になっている。
腕の痛みを確かめる必要はなかった。もう一度何かに襲われたら、今日は戦えない。
「車に入ろう」
ユキヒコはすぐ頷いた。
*
翌朝、寒さで目が覚めた。
窓には日が当たっていた。シャツは汗で濡れている。なのに、歯が鳴った。
私は起き上がろうとして、腕をかばい損ねた。
「……っ」
痛みが、昨日より深くなっていた。
袖を持ち上げる。
傷のまわりが腫れている。熱を持ち、濁ったものが滲んでいた。
駄目だった。
私は目を閉じた。
あの匂いの強い葉を塗って、息子に笑ってみせて、それで何とかなると思おうとしていた。
「お父さん?」
後部座席でユキヒコが体を起こした。
私は、何でもないと言いかけた。
「大丈夫……いや」
舌が乾いて、上顎に貼りついていた。
「よくない。あまり、よくないみたいだ」
ユキヒコが身を乗り出した。
「僕、どうすればいい?」
すぐに答えが出てこなかった。
水が要る。飲むにも、傷の汚れを流すにも。昨日持ち帰った分は、もう心細かった。
「水を、汲んできてくれ。あの、湧いていたところで」
「分かった」
「急いで転ぶなよ。槍も……」
言い終える前に、息子は槍を取っていた。
車のドアが閉まる。窓越しに、ユキヒコが一度、こちらを見た。
私は頷いた。
息子が森へ入っていく。
その姿が消えてから、私は背もたれに沈んだ。
昨日まで、一人で森に入るなと言っていた。
今日は私が、行かせたのだった。




