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第八話 野の薬と、しのびよる熱

一 小さな王、群れを退ける


 ユキヒコの宣戦布告が森に響いてから、どのくらいの時間が経ったのか。


 タカシには、それがほんの数秒だったのか、それとも数分に及んだのか、判別がつかなかった。


 右前腕に走るけるような痛みと、自分の血が掌を伝って地面にしたたり落ちていく音の、その二つだけが、時間の感覚を支配していた。


 ぽとっ──ぽとっ──ぽとっ──。


 一定のリズムで落ちる赤い雫の音が、異様なほど大きく耳に響いた。


 ──この音が、次の捕食者を呼び寄せるかもしれない。


 タカシの考古学徒としての頭の一部は、痛みの底でなおも冷静に稼働していた。血の匂いは半径数百メートルに渡って森の他の肉食獣の嗅覚を刺激する。狼、熊、あるいは別の猿の群れ──。


 しかし、今、最優先の脅威は、目の前の猿たちだった。



 ユキヒコは動かなかった。


 両足を肩幅に開き、黒曜石の槍を斜め上に構え、穂先を周囲の枝を順繰りに睨めつける。血と汗で前髪が額に張り付いていた。肩が上下に大きく揺れ、息がぜえぜえと荒く漏れる。


 だが、目だけは、据わっていた。


 十歳の子供の目ではなかった。


 仲間をたおされた猿たちは、キィィッ、キィィッ、と鋭い叫びを続けていた。だが最初の殺意に満ちた攻撃性は、明らかに変質していた。


 怒り。


 困惑。


 そして──。


 警戒。


【霊長類学における『攻撃の抑制』──群れの捕食者が仲間を突然失った場合、群れ全体の攻撃欲求は即座には消えない。しかしそこに『再びの損失』への恐怖が新たな変数として加わる。猿たちは数分の観察の中で、獲物の攻撃能力を正確に再評価する。一対多の状況であっても、"もう一匹失う可能性"が群れの意思決定に決定的な影響を及ぼす。これはチンパンジーの集団戦闘研究においても確認されており、『勝てる見込みが六割を切った時点で群れは撤退する』という行動閾値が知られている】


 ユキヒコの槍の穂先の、生々しく黒光りする仲間の血を、猿たちは確実に見ていた。


 あれが、"もう一匹分の未来"だと理解していた。



 先頭格の──多分アルファオスだろう──最大の体躯たいくの一匹が、ぎゃっ、と短く鋭い声を上げた。


 それは威嚇ではなかった。


 仲間に対する命令だった。


 次の瞬間、周囲の枝の上の個体が、一斉に、身を翻した。


 ざざっ、ざざっ、ざざっ──。


 枝から枝へ跳び移る乾いた音が連続し、群れは瞬く間に森の奥へと消えていった。


 アルファオスは最後まで残っていた。タカシの血まみれの腕と、ユキヒコの黒曜石の穂先の間を、もう一度だけ視線で行き来させた。


 そして──低く、うなった。


 それは恐らく、彼らの流儀の"覚えておけ"だった。


 最後に一度、ぎゃっ、と鋭い声を残して、アルファオスも木々の向こうに姿を消した。


 森に、静寂が戻った。



 ユキヒコは、それでも槍を下ろさなかった。


 五秒。


 十秒。


 三十秒。


 十歳の子供が、射程を外れた獲物の最後の影を見送るその姿勢で、じっと森の奥を睨み続けた。──完全に気配が消えるまで、息子は警戒を解かなかった。


「──ユキヒコ」


 タカシが血まみれの左手で、そっと息子の腰の帯に触れた。


「もう、いい。……行った。行ってくれた」


 ユキヒコの全身から、一気に力が抜けた。


「──!」


 ぱたん、と槍が地面に落ちた。


 ユキヒコはその場にくずおれた。


「お父さん……お父さん……!」


 息子が父の胸にしがみついてきた。


 タカシは痛みを堪えて、左腕だけで我が子の小さな背中をぎゅっと抱きしめた。


「よくやった。──ユキヒコ、本当に、よくやった」


「う、うええぇ……」


 十歳のよろいが、ようやく、溶けた。


 さっきまで完璧な狩人の顔をしていた少年が、今は父の血にまみれた胸で、子供らしくしゃくりあげて泣いていた。


 タカシは泣き続ける息子の頭の頂点に、自分の顎をそっと乗せた。


 ──すまない。


 ──こんな顔を、お前にさせてしまって、本当にすまない。


 声には、出さなかった。


二 野の薬を摘む


 タカシはユキヒコがある程度泣き止むのを待って、それからゆっくりと口を開いた。


「ユキヒコ、お父さん、急がないとまずいんだ。この傷、放っておけない」


「うん……」


「ペットボトルの水、持ってるよな。あれをお父さんに貸してくれるか」


 ユキヒコはずびっと鼻をすすって、震える手で腰の湧水のペットボトルをタカシに差し出した。


 タカシは血まみれの右腕をそっと前に伸ばし、左手でペットボトルのキャップをひねり開け、噛まれた傷口にその透明な水を直接ざーっと注いだ。


 ──みる。


 傷の中に冷水が流れ込み、激痛が全身を貫いた。タカシは歯を食いしばったが、それでも声が漏れた。


「ぐっ……うっ……!」


「お父さん、大丈夫!?」


「だ、大丈夫……いや、全然大丈夫じゃないけど……痛くても今やらないといけない」


【創傷処置の基本原則──感染予防において最重要なのは『最初の物理的洗浄』である。動物咬傷の場合、傷口には細菌・ウイルス・唾液タンパク・異物が大量に付着しており、これを機械的に除去することが予後を決定的に左右する。現代医療でも『十五分以上の流水洗浄』が推奨される。湧水のような無菌に近い水を用いた直接洗浄は、三世紀の日向山地における最善の応急処置であった。──しかし、それだけではBウイルスや嫌気性菌の体内増殖は止められない】


 タカシはペットボトルの水を、傷の中にじゃぶじゃぶと、惜しむことなく使い切った。


 五百ミリリットルを全部、たった一つの傷口にぶちまけた。


 ──湧水の残りは、もう一リットル分しかない。


 今日の父子二人の飲料水のすべてを、これから一本でまかなわなければならない。それでも、この処置は必要だった。


 タカシの左手が震えていた。


 傷の奥、肉の裂け目の中に、まだ茶褐色の体毛の一房がこびりついているのが見えた。


「ユキヒコ、キッチンナイフを貸してくれ」


 タカシは左手でナイフを受け取り、その刃先で、しかし刃ではなくみねの方で、毛を一本一本、慎重にまみ取っていった。


 刃の側を使えば傷を広げる。峰を使えば痛みはあるが傷は増えない。──これもまた、考古学徒としての発掘道具の扱いの感覚が、不思議な形で活きた場面だった。


「毛まで取るの?」


「残ってると化膿する。──異物は、全部、出し切らないと」


 タカシは声を絞り出しながら、汗を滲ませて作業を続けた。



「ユキヒコ、周りを見てくれ。──ヨモギとドクダミを探してほしい」


「ヨモギとドクダミ?」


「両方とも、傷に効く薬草だ。多分、この辺に生えている」


【ヨモギ(Artemisia indica var. maximowiczii)──キク科ヨモギ属の多年草。日本列島全土に自生し、春先に若葉を草餅の材料とすることで知られる。含有成分シネオール、クマリン、タンニン、カロチン、ビタミンK1およびクロロフィルを豊富に含み、強力な殺菌・止血・消炎作用を持つ。古代日本では『山薬やまぐすり』の代表格として、傷口への塗布、腹痛時の煎じ薬、月経不順の治療薬として多用された。『古事記』にも蛭児ひるこの生まれた後のはらいの描写にヨモギらしき野草が登場する。戦国時代の『雑兵物語ぞうひょうものがたり』には、足軽が出陣時にヨモギの葉を常備し、野戦での傷の応急処置に用いた記録がある。──千年、二千年にわたり日本人の命を繋いできた"野の医者"である】


【ドクダミ(Houttuynia cordata)──ドクダミ科ドクダミ属の多年草。独特の強い匂いのため嫌われがちだが、『十薬じゅうやく』の異名を持つほど多様な薬効を持つ。抗菌成分デカノイルアセトアルデヒド、利尿成分クエルシトリンを含み、切り傷、打ち身、化膿性皮膚疾患、中耳炎、蓄膿症にまで効くとされてきた。名の由来には諸説あるが、『毒をめる(=正す)』が語源とする説が有力である。縄文時代以来、半野生的に集落近辺で管理栽培されていた可能性が民俗学的に指摘されており、日本列島における『家庭薬草』の最古参の一つである】


 ユキヒコは涙と鼻水を手の甲で拭い、そして槍を杖代わりに立ち上がった。


「どれがヨモギ?」


「葉っぱの裏が白いやつだ。切れ込みがあって、揉むといい匂いがする。──葉の裏を親指でこすってみれば分かる」


「ドクダミは?」


「ハート型の葉で、白い花が咲く。これはすごく独特な匂いがするから、鼻で分かる」


「うん、分かった」


 ユキヒコが慎重に、湿った林床りんしょうの下草を見分けながら歩き始めた。


 タカシは血の出続ける右腕を押さえたまま、ユキヒコの小さな背中を目で追った。


 ──この子の成長速度は、あまりに、速すぎる。


 つい数時間前までは、湧水を飲んで「甘い!」とはしゃいでいた十歳だったのに。


 今はもう、猿を一人で仕留め、父の傷の処置に必要な薬草を自分で探しに行っている。


 まるで、一時間ごとに、この子の中の何かのふたが、次々と外れていくかのように。



「お父さん、これでいい?」


 ユキヒコが両手いっぱいのヨモギを抱えて戻ってきた。葉の裏が銀白色に光っている、間違いなくヨモギだった。


「もう一束だけ、ほしい。──それとドクダミも」


「うん!」


 ユキヒコが再び駆け出す。


 十五分後、ユキヒコは約束通り、ヨモギの二束目とドクダミの群落からんだ一束、さらに父に命じられてもいない"白い花の咲いているドクダミの根っこ"まで、律儀りちぎに一緒に抜いてきた。


 タカシはそれを見て、かすかに目を細めた。


 ──根にも薬効があることは、俺は教えていなかったはずだ。


 それでも直感的に、"より強い部分を"と選んだのだ。


 この子は、本当に。


 "観察する目"と"考える頭"を、ちゃんと持っている。



 タカシはユキヒコに小鍋に焚き火の灰を一掴み入れさせ、そこに少量の湧水を注いで即席の"灰水あくみず"を作らせた。


 アルカリ性の灰水で薬草の葉をまず軽くすすぐと、殺菌効果が増す。


 これは祖父が昔、蜂に刺された夏の日に、孫のタカシの腕にほどこしてくれた処置と、同じ手順だった。


木灰もっかいの成分──広葉樹の灰は主成分として炭酸カリウム(K₂CO₃)を多く含み、水溶液はpH十〜十二の強アルカリ性を示す。このアルカリ性が蛋白質の変性を通じて殺菌効果を発揮する。縄文時代以来、木灰は『アク抜き』『洗浄』『染色媒染ばいせん』など多様な用途に活用されてきた。福岡県・板付遺跡、三重県・粥見井尻かゆみいじり遺跡などからは木灰を意図的に貯蔵したとみられるピット遺構が検出されている。"火を扱う生物"である人類にとって、灰は副産物ではなく積極的な資源だった】


 灰水で洗ったヨモギとドクダミを、タカシは石の上に置き、石ころの縁でごりごりと押しつぶした。


 緑の汁がじわりと滲み、独特の、強い、しかし決して不快ではない香気が空気を満たしていく。ドクダミの"あの匂い"と、ヨモギの"草餅の匂い"が混ざり合った、生命力そのもののような香りだった。


 ──ペースト状になったそれを、タカシは左手の指ですくい取り、自分の右腕の傷口へ、ゆっくりと、押し付けるように塗り込んでいった。


「ぐっ……」


 沁みた。


 だが、一分もすると不思議なことに、ずきずきと脈打っていた疼痛とうつうが、わずかに和らいでいくのが感じられた。


 ヨモギの消炎作用と、ドクダミの抗菌作用。


 ──千年、二千年にわたり日本人の命を繋いできた、野の医者の仕事だった。



「お父さん、これで治る?」


 ユキヒコが真剣な目で聞いてきた。


 タカシは強がりの笑顔を浮かべた。


「ああ、治るぞ! ありがとう、ユキヒコ」


 ──本当なら、抗生物質が欲しい。


 ──それもセファロスポリン系か、広域スペクトラムのアモキシシリンあたりがあればなお良い。


 そう、タカシは心の中で呟いた。


 だがそんなものは、この世界のどこにも存在しない。


 野の薬草だけが、今の唯一の頼りだった。



 タカシはペットボトルのラベルをがし、それを細く裂いて薬草ペーストの塗られた傷口の上から、ぐるぐると巻きつけた。清潔とは到底言えないが、ないよりはずっとマシだ。


 これで、当面の応急処置は、終わった。


「さあ、ユキヒコ」


 タカシは息子の頭に左手を置いて、ゆっくりと立ち上がった。


「腹が減っただろう。──夕飯にしよう」


「うん」


 いつの間にか、森のこずえの隙間から差し込む陽光は、もう西に大きく傾いていた。


三 祝勝会と、遠吠え


 車のキャンプに戻ったのは、夕陽がちょうど山際に沈む直前だった。


 タカシは燃え尽きかけた焚き火の灰を掻き起こし、新しい枯れ枝を足して火を育て直した。


 その間にユキヒコが、昨日の残りの岩魚三匹をきれいに並べ、タラの芽の生き残りを丁寧に磨いた笹の葉の上に広げた。──猿たちに半分持って行かれたが、それでも六、七個は籠に残っていた。


 小鍋に湧水を少量入れ、そこに岩魚を浸し、ヨモギの葉を一枚だけ落とす。


 タカシが発掘現場の夜に、教授から仕込まれた"野営の塩焼きもどき"だった。灰水と違い、ヨモギの葉を煮汁に加えることで、魚の生臭さが一気に抜ける。


 岩魚がじりじりと、夕風の中で焼けていった。


 やがて皮の下から、ぷつりぷつりと脂がはぜる音がして、香ばしい匂いが焚き火の周囲を包んだ。



「よし、ようやく岩魚も食えるな」


 タカシは串を一本握り、がぶりとかぶりついた。


 ──うまい。


 冷え切った指先まで、血の巡りが戻ってくるような、生命そのものの味がした。


「おいしいよ!」


 ユキヒコも頬いっぱいに岩魚の身を頬張ほおばった。


 親子は焚き火を挟んで、無言で、しかしむさぼるように岩魚を食べ続けた。


 タカシは、ふと顔を上げた。


「ユキヒコ」


「ん?」


「今日のは、──お前の祝勝会だな」


「祝勝会?」


「初めて獲物を仕留めた狩人の、祝いのうたげだ。古代の山の民は、若者が初めて獲物を獲った夜は、特別なご馳走を用意して部族全員で祝ったらしい」


【通過儀礼としての初猟──文化人類学における『初獲物儀礼(first kill ritual)』は、世界各地の狩猟採集民に広く見られる通過儀礼である。北米インディアンのネズ・パース族では少年が最初に仕留めた鹿の血を額に塗って成人を宣言し、アマゾンのヤノマミ族では初獲物の肉を決して本人が食べず、必ず部族の老人に献上するという規範がある。日本列島においても東北のマタギ文化に『ケボカイ』『ケオドシ』など、初獲物の少年への特別な祝福の儀礼が伝承として残されている。"獲物を獲る"ことは単なる経済活動ではなく、共同体における一人前への"生まれ直し"の瞬間であった】


「……ふうん」


 ユキヒコはそれを聞いて、しかし表情を動かさなかった。十歳の子供なら「やったー!」と喜ぶ場面のはずが、息子は静かに岩魚の骨を皿から外し続けるだけだった。


 タカシはそんな息子の横顔を、そっと見つめた。


 ──この子はもう、"初めて命を奪った"という意味を、少しずつ、自分の中で噛みしめているのだ。


 祝う、という単純な感情では、もう、受け取れない領域に立ってしまったのだ。



 ユキヒコが、ぽつりと呟いた。


「……じゃあ、あの猿も、食べちゃえばよかったのかな」


 タカシは、一瞬、箸を止めた。


 十歳の口から出たその言葉は、問いのようでいて、祈りにも似ていた。命を奪った相手を、無駄にしてはいけないのではないか。──そんな、原始的で、そしてある意味最も誠実な、十歳の倫理観がその奥にあった。


 タカシは、静かに首を振った。


「……いや。猿はな、やめた方がいいらしいよ」


「なんで?」


「人間に近い生き物だろ。──だから、人間に近い病気を持っているんだ。食べると、移ってしまうことがある」


【霊長類間感染症(zoonosis)の問題──ヒトとニホンザルは遺伝的距離が近く、多くの感染症が種を越えて伝播する。特に危険とされるのは前章で触れたBウイルス、およびサイトメガロウイルス、フォアミーウイルス、SIV(サル免疫不全ウイルス)系統などである。狩猟採集民の間でも『近縁種を食べない』という経験則は広く分布しており、これは数万年の淘汰の結果として人類が獲得した"進化的禁忌"の一形態と考えられる。日本列島の猿田彦神話において猿が神聖視され食用の対象から外される背景にも、この感染症リスクへの経験的回避があった可能性が指摘されている】


「──そうなんだ」


 ユキヒコは、静かに、深く、一度、頷いた。


 そして、しばらく何も言わずに、焚き火を見つめていた。


 タカシもまた、黙って焚き火を見つめた。


 二人とも、炎の中に、何かを見ていた。



 その時だった。


 ──ワオーーーーン。


 遠く、遠く、山の奥から、細く長く尾を引く遠吠えが聞こえた。


 タカシの背筋が、静かに、しかし確実に、冷えていった。


「──狼だ」


 ユキヒコの顔が、瞬時に強張った。


「ほんとに?」


「ああ。──やっぱりこの時代には、まだオオカミがいるんだな」


【ニホンオオカミ(Canis lupus hodophilax)──日本列島固有種の大型陸生捕食者。体長九十五〜一一四センチ、肩高五十五センチ前後。ユーラシア大陸のタイリクオオカミより小型だが、日本列島の森林生態系の頂点に君臨した。縄文時代から弥生時代を通じて、日本列島の食物連鎖の最上位はニホンオオカミであった。『大神おおかみ』の語は本来"偉大なる神"の意であり、秩父・三峯神社、奥多摩・武蔵御嶽神社、紀伊・玉置神社などは現代に至るまでオオカミを神使として祀る。日本列島最後のニホンオオカミは明治三十八年(一九〇五年)に奈良県東吉野村で捕獲・射殺された個体で、現在は英国・ロンドン自然史博物館に毛皮が保管されている。──三世紀の日向山地において、オオカミは森の真の支配者だった。人間は、決して頂点などではなかった】


 遠吠えが、もう一度。


 今度は、別の方角から、呼応こおうする声。


 さらに、また別の方角から、三番目の声が重なった。


 ──複数頭。


 ──群れだ。


「ユキヒコ」


 タカシは立ち上がった。


「車の中に入ろう。今夜は、車から、絶対に、一歩も出るな」


「う、うん」


 タカシは焚き火に大量の枯れ枝を追加投入した。夜通し、火を絶やさないためだ。オオカミは、火を恐れる。


 それだけが、今夜のふたりを守る盾だった。


 焚き火の周りに石を円形に並べ直し、ふたりは車の中に滑り込んだ。


 ──タカシの腕が、ずきずきと、脈打っていた。


 薬草を塗った時には和らいだはずの疼痛が、日没とともに、むくりと別の顔を見せ始めていた。


四 忍び寄る熱


 夜が更けた。


 車の外では、焚き火の火が暗闇の中でちろちろと踊り続けている。


 タカシは助手席のシートを倒して横になっていた。ユキヒコは後部座席で、すでに寝息を立てていた。猿との戦闘、薬草摘み、そして祝勝会と、十歳の体力の限界を遥かに超えた一日だった。


 ──この子が、隣で寝てくれていて、良かった。


 タカシは暗闇の中で、そっと息子の寝息を聞いていた。


 アカリが死んでから一年、こんなにも息子の寝息を近くで聞いたことは、一度もなかった。


 東京のマンションでも、タカシは別室で深夜まで仕事をしていた。宮崎の実家では、祖父母の横にユキヒコは寝かされ、タカシは離れの書斎で資料を広げていた。


 "父と息子が同じ空間で眠る"という、世界中のどこでも当たり前のその一夜が、タカシにとってはこの二四〇年の日向の山中で、初めて与えられた贈り物だった。



 だがその贈り物を、タカシは、素直に味わえない事情があった。


 ──熱い。


 じわりじわりと、右腕の熱が、肩から胸へ、胸から首筋へと上がってくる。


 汗が、背中を伝って、シートに染み込んでいった。


 タカシは左手で、そっと自分の額に触れた。


 ──熱がある。


 しかも、上がり続けている。


【咬傷感染による敗血症(sepsis)の進行──動物咬傷から感染が体内に広がる場合、通常は数時間から十数時間で初期症状が出現する。局所の腫脹しゅちょう発赤ほっせき、激しい疼痛、リンパ節の腫れ、そして全身性の発熱。次に悪寒おかん倦怠けんたい、意識混濁へと進む。現代医療では抗生剤の静脈内投与により制御可能だが、治療が遅れれば細菌性髄膜炎ずいまくえん、多臓器不全、死亡へと至る。三世紀の日向山中において、この進行を止める手段はほぼ、存在しない】


 タカシは震える左手で、スマートフォンの画面をそっと点灯させた。


 画面の光がかすかに車内を照らし──。


 後部座席で眠るユキヒコの、無防備な、幼い、穏やかな寝顔を浮かび上がらせた。


 タカシは、その顔を、長いあいだ見つめた。


 ──この子を、一人に、するわけにはいかない。


 ──絶対に、俺はここで、死ぬわけにはいかない。


 タカシは唇を噛みしめた。


 鉄の味が、舌に広がった。



 外で、ふたたび、遠吠えが聞こえた。


 先ほどよりも、明らかに近い。


 タカシは、スマホを消した。


 暗闇の中で、自分の荒い呼吸の音が、不気味なほど大きく響いた。


 ──朝まで、持つだろうか。


 タカシは自分の問いに、答えを出せなかった。


 ただ、左手で息子の小さな掌を、そっと握った。


 ユキヒコの手は、十歳の子供らしく、汗ばんで、温かかった。


 その温もりだけを、タカシは、朝まで、何度も、何度も、確かめ続けた。


五 夜明けの絶句


 どれだけの時間が経ったのか、タカシには分からない。


 気がつくと、車の窓の外が、うっすらと白みはじめていた。


 朝霧の向こうで、鳥たちがさえずり始める音がする。


 ──朝が、来た。


 タカシはまず、そのことに安堵した。


 次の瞬間、彼はもう一つの事実に気づいた。


 ──服が、びっしょりと濡れている。


 ──汗、だった。


 一晩中、全身の毛穴から、とてつもない量の汗が吹き出し続けていた。助手席のシートが、タカシの形の通りに湿って変色している。


 体が、異様に重い。


 頭の芯が、ぼうっとしびれている。


「……う……ぐ……」


 タカシは左手で、恐る恐る、ヨモギとドクダミの葉のペーストを塗り、ペットボトルのラベルで巻き付けた右腕を撫でた。


 包帯代わりの即席の布が、ぬるりとした感触を返してきた。


 ──これは、まずい。


 タカシは震える左手で、即席の包帯をそっとめくり上げた。


 そして──。


 絶句、した。



 腕が、パンパンに腫れ上がっていた。


 二倍近くに膨張した右前腕は、通常の皮膚色を完全に失い、赤黒いまだらの中に、黄緑色のうみが皮膚の下から滲み出している。


 噛まれた傷口の縁は、灰色に変色していた。


 ヨモギとドクダミのペーストは、ほんの少しは効いたのかもしれない。


 しかし──完全に、負けていた。


 傷の中で増殖する細菌たちの勢いには、野の薬草では、到底、太刀打ちできなかった。


「くそっ……」


 タカシは掠れた声で呟いた。


「やはり、化膿したか……」



 その時、後部座席のユキヒコが、むくりと身を起こした。


「お父さん?」


 ユキヒコはタカシの声に、すぐに気づいたのだ。


 そして、父の腕を見て、顔色を変えた。


「お父さん!? その腕、なんで!? ものすごく腫れてるよ!?」


「ああ……大丈夫だ。いや、──あまり、良くは、ないかもな……」


「な、なんで!? 昨日、薬草塗ったのに!?」


「猿の牙には、俺たちの想像より、強い菌が──あったんだ……このままじゃ、熱がもっと上がって……」


 タカシは一度、言葉を切った。


 ──意識を失うかもしれない。


 ──そう言おうとして、言えなかった。


 十歳の息子に、これ以上の重荷を背負わせることが、躊躇われた。


 だが、言わなければならない。


 隠し通せば、この子はもっと傷つく。



「ユキヒコ」


 タカシは、震える声で、しかしまっすぐに、息子の目を見た。


「お父さん、多分、このまま熱が上がると、意識を失う」


「──!」


 ユキヒコの目が、大きく見開かれた。


「その前に、お前にひとつだけ、頼みたいんだ」


「なに?」


「昨日の、湧水。──あれを、もう一度、汲んできてくれるか」


 タカシは唇が震えるのを、必死に抑えた。


「水だ。──できるだけ、たくさん。ペットボトル、両方、いっぱいにして来てほしい。湧水なら、煮沸しなくても、すぐに飲める。俺はここから、動けない」


 ユキヒコは、一瞬の迷いもなく、頷いた。


「分かった!」


 少年はすぐにペットボトルを二本とも掴み、車のドアを押し開けて地面に飛び降りた。


 黒曜石の槍を、左手に。


 ペットボトルを、両腕に抱えて。


 振り返ることなく──。


「お父さん、待ってて! すぐ戻る!」


 ユキヒコはそう叫び、朝霧の森の中へ、一直線に駆け出していった。



 タカシは助手席にもたれかかって、遠ざかっていく息子の背中を目で追った。


 小さな背中が、霧の向こうに、だんだんと溶けていく。


 ──まいったな。


 タカシは、心の中で、小さく呟いた。


 ──まったく、ユキヒコに助けられてばかりだ。


 体を支える力が、すっと抜けた。


 タカシは助手席のシートに、深く、深く、身を預けた。


 目を閉じた。


 まぶたの裏で、亡き妻アカリの笑顔が、ちらりと、揺れた気がした。


 ──アカリ。


 ──俺はまだ、ここでは、逝けないよ。


 ──あの子を一人には、絶対に、できない。


 夢とうつつの境界で、タカシの意識は、ゆっくりと、ゆっくりと、沈んでいった。


 外では、息子の小さな走る足音が、朝の森の下草をかき分けて、ずっと、ずっと、遠ざかっていった。


(第八話 了)


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